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Febri Vol.40 発売中今回も「Febri Art Style」担当で、『3月のライオン』の美術監督・田村せいきさんにインタビューし、美術ボードを構成しました。
田村さんは『おそ松さん』の美術監督でもあり、背景のディフォルメ加減には、共通したものを感じます。
『3月のライオン』は、『とんがり帽子のメモル』『メトロポリス』の名倉靖博さんが美術設定を担当してるのも、ちょっとしたポイントなんですよね……。
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レンタルで、『レヴェナント 蘇えりし者』。監督が、抽象的でよく分からなかった『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥだと知って、こんな骨太な映画を撮るのかと驚きもしたし、映画の前半を占めるワンシーン・ワンカットの長回しに納得もした。
撮影監督は、『バードマン』同様、映画一本丸々ワンカット長回しだった『ゼロ・グラビティ』のエマニュエル・ルベツキ。粘り強い、腰の座った映画である。
CGがこんなに普及する前、実写映画は、カメラの前で起きたことの記録であり、それ以下でもそれ以上でもなかった。だから、『蜘蛛巣城』で三船敏郎の首に矢が刺さった瞬間、アッと驚いた。『バリー・リンドン』で、ライアン・オニールの片足が切断されているのを見て、客席がどよめいた。
『レヴェナント』は、あの原初的な、見世物小屋感覚を蘇えらせてくれる映画だ。まず、タイトル・バックの撮影からして、驚かされる。すべるように水面ぎりぎりをカメラが移動し、最初は右から、次に左からライフルの先端がフレームインしてくる。カメラは水面からティルト・アップして、ライフルを構えた親と子の背中、そして全身をフレームにおさめる。そのまま途切れることなく、カメラは彼らの視線を追ってPANする。その向こうには、木立の中に立つヘラジカが見える。再びカメラがPANすると、銃で狙う主人公のアップになっている。仮に、ヘラジカがCGだとしても、ここまでワンカットで収めるには、徹底したリハーサルが必要なはずだ(特に、カメラマンに膨大な計算力が求められる)。
映画の前半には、「いったい、どうやって撮影したんだ?」と首をひねってしまう驚異的なカメラワーク(に付随した弾着、特殊メイク、さまざまな装置の連動)が、数え切れないほど出てくる。
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白眉が、主人公が熊に襲われるワンカットだろう。ライフルを構えて森を進む主人公のバスト・ショットから始まり、背後から突進してくる熊が、鼻息でレンズが曇るほど近接し、一度は離れ、また主人公のところへ戻ってきて、彼を振り回し、ついには組み合ったまま、窪地に転がり落ちるまで、ワンカット。
この熊が縫いぐるみなのか、それともCGなのかは、微々たる問題だ。最初に、熊に一撃をくらった瞬間、主演のレオナルド・ディカプリオは骨折していてもおかしくない。それぐらい、豪快に倒れる。
なのに、スタントではなく、本人が倒れている。後から熊を合成するにしても、183センチのディカプリオの巨体を振り回す力を、どこかから調達してこなければならない。熊を演じた俳優が、そんな怪力を持っているのだろうか?
「なーんだ、CGか」と白けている場合ではない。現場で、どれほどの計画性とプロフェッショナルたちの技量が要求されたか、想像するだけで目まいがする。
映画の後半では、ワンカット長回しは減っていくが、主人公と敵役との決闘シーンは、くどいほど念の入った長回し。「どうやって仕込んだんだろう?」と呆気にとられるばかりの血糊、切断される指など、あれこれと仕掛けが満載。
あとからデジタル的に細工したにしても、入念に段取りしていないと、あんな映像にはならない。
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これだけ見ごたえ十分な見世物映画なのに、「ストーリー性がない。40点」だとか書いている“映画好き”がいる。
3Dでなくとも、4DXでなくとも、画面が小さかろうと、音声がモノラルだろうと、カメラワークが損なわれるわけではない。CGの普及で、確かに、劇映画の武器のひとつだった信憑性は変化を迫られた。だが、『レヴェナント』は、その何割かを取り戻した。
そして、CGがどうであれ、カメラが進歩しようが退化しようが、カメラのフレームとカッティングだけが、映画を規定しつづける。IMAXで見ようがスマホで見ようが、フレーミングとカッティングは変わりようがない。カメラの動きに無関心で不感症だから、「ストーリー性がない」などという雑な批判が出来てしまうのだ。
もう一本、『ヴィクター・フランケンシュタイン』も観たが、『レヴェナント』に比べれば、かわいいCG映画だった。
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