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レンタルで、米映画『ルーム』。本来、こういう映画を「アンチクライマックス」と呼ぶのだろう。最初にショッキングな出来事が提示され、少しずつ、あるいは唐突に解決に向かっていく。
前半一時間は「何が起きるんだろう?」「これ以上、ひどい状況に陥るんだろうか?」と、ゾクゾクさせられる。しかし、ピークを迎えた後、後半一時間は、おだやかな日々が描かれる。「いくらなんでも、こんなうまく解決するものだろうか?」と疑問も感じる。
だけど、それでいいんです。泣かせのテクニックとか巧妙な伏線だとか、あれもこれも映画に期待しすぎだよ。この映画の後半は、観客が自分の来し方、自分の幼年時代はどうだっただろう……と、じっくり考えるためにある。
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『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』のレイトショーが、今夜で終了なので、吉祥寺オデヲンまで歩いてきた。通算4回目。客はけっこう多くて、20人ぐらい。「遠い昔、はるか彼方の銀河系で……」の文字が明けるや、ダン!と不吉な音楽が始まる。第一作のスター・デストロイヤーの艦影そっくりにデザインされた惑星のリングが、鋭い角度で画面を分断する。すっかり魅了され、字幕をいっさい無視して、画面を凝視した。
『ローグ・ワン』は、前半が退屈だと言われる。“父”との再会と別れが、三度も繰り返されるせいだろう。
ジンの実の父親・ゲイレンは、まずホログラフィとしてジンの前に現れて、彼女に謝罪し、同時に彼女が次にどこへ行くべきか告げる。
つづいて、ゲイレンは生身の姿でジンの前に現れ、彼女と会話するときには瀕死の重傷を負っている。どちらも、激しい攻撃の中でジンがキャシアンに手を引っ張られる形で別れるので、同じシーンが重複しているように感じてしまう。
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さて、ジンはもうひとりの“父親”と再会する。ソウ・ゲレラは、彼女の育ての親だ。
彼もまたジンと再会するや詫びるので、ゲイレンのホログラフィのインパクトが薄れてしまっている(似たようなシーンが通算3度もつづいてしまう)。だが、ゲレラはなかなか意味深な存在だ。彼は体のあちこちを機械化していて、たびたび呼吸器を使わないと長く話していられない。『スター・ウォーズ』で呼吸器を使う人物といえば、ダース・ベイダーだ。
そして、ダース・ベイダーと同じように、ゲレラは「私を置いていけ」とジンに告げ、自らを死にまかせる。ゲレラは過激な思想ゆえに反乱同盟から離反している。組織を裏切って、不自由な体のまま戦いつづける様は、暗黒面に堕ちたベイダーそっくりだ(死を覚悟したゲレラは、呼吸器を外す。やはり、ベイダーによく似ている)。
同時に、物語のなかばで命を落とし、主人公にはげましの声をかける「善い父親」という意味では、オビ=ワン・ケノービとの共通点も持っている。
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『ローグ・ワン』は、『スター・ウォーズ』のデザインの輪郭を、丁寧に(ときに不器用に)トレースしている。旧作と同じメカニックが出てくるという意味ではない。『スター・ウォーズ』のプロット自体が、古今東西の物語の膨大な引用で成り立っているので、ひとつひとつの設定が象徴的で形式的なのだ。
「善い父親」と「悪しき父親」が共存しているのも、デザインのひとつだ。主人公に目的を告げるメッセージ、一歩まちがえば落下してしまう縦穴、ハードウェアとして人間の戦いをサポートするロボット、精神力と棒術で火器に対抗する仙人……それらの輪郭に、近代的なテクスチャを重ねて、うまくいった例が『ローグ・ワン』なのだと思う。
テクスチャが近代的であるからこそ、追加撮影されたダース・ベイダーの派手なライトセーバー戦は浮いていた。あのシーンは、商業的要請の産物だろう。
そして、テクスチャが近代的であるからこそ、1977年風のメイクをしたレイア姫は「浮いて見えて正解」なのである。1977年の時点で、『スター・ウォーズ』は十分に時代錯誤だった。その大時代的なロマンスが、ポスト9.11のテクスチャをまとった『ローグ・ワン』と直結されている――同じフィルムの上を流れている。僕は、その無作法なまでの大胆さに心打たれた。
泥と汗にまみれた近代戦が、最後の最後に、遠い昔のおとぎ話に接続して終わるから、感動するのだ。
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