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2017年1月31日 (火)

■0131■

ホビー業界インサイド第19回:MAX渡辺が語る「マックスファクトリーの30年」、そして「僕が本当に作りたかったもの」
T640_720701この連載では、二度ほどマックスファクトリーさんに取材させてもらいましたが、MAX渡辺さん単独では、これが初となります。
インタビュー中にある、ボロボロの木造アパートに社屋があった時代から、渡辺さんは真っ直ぐな方でした。当時は、僕がガキすぎて、気づきませんでした。


4月1日~8日に、オーストラリアのケアンズに旅行するので、今月はじめに家族で旅行してきた友人から、現地情報を聞く。日本人ばかりで白けると思っていたのだが、ケアンズから少し離れた場所で宿泊して過ごせば、意外とゆっくりできそう。

……にしても、オーストラリアへ旅行する人は、ジェットスターは使わない方がいいと思う。
予約番号が分からないので、問い合わせフォームから質問したところ、「このメアドでは予約されていない」という。だから、「ご都合のよろしいお時間にコールセンターまでご連絡頂けますようお願い致します」という。
それで、電話してみた。自動案内で「90秒あたり10円かかります」「メアドを広告に使わせていただきます」などの音声がえんえんと流れる。その後は「ジェットスターでは、このようなサービスも提供しております」などの宣伝がつづき、電話がつながるまで仕方ないか……と待っていると、いきなりバツンと切られてしまった。

これは凄い。すでに航空券の料金まで払った客に「電話しろ」と依頼しておいて、電話したら切る! 凄いな。不愉快どころか、ちょっと呆れてしまった。こんなもん、仕事でもなければ、サービスでもないよね。だって、連絡させといて、切るんだよ?
本当に搭乗できるんだろうか? 5度目の海外旅行だけど、ここまで不安にさせられたのは初めて。


先日、auショップでスマホの機種を換えたんだけど、接客が素晴らしかった。
まず、客を待たせすぎないよう、手の空いた店員さんが、「どういったご用件ですか?」と聞きに来て、その場で自分で出来ることは、即座に対応する(たとえば「充電できない」トラブルであれば、店内の充電器で試してみるとか)。

窓口に座ってからも、とても快適だった。
こちらが理解できない場合は、別の説明のしかたをする。印刷されたパンフに、手書きで分かりやすい解説を加えて、それを印刷して渡してくれる。
手続きのあいだ、「お時間をとらせて、申し訳ございません」「あと少しで、終わります」と、進捗状況にあわせたフォローを(こちらが気づく前に)入れてくれる。
これは素晴らしいマナーだよ。自分の仕事にも、応用できそう。世の中を、いい方向へ循環してくれる。科学技術だけでなく、人間の能力も進歩してるんだな……と、感銘をうけた。

その後、アンケートで絶賛しておいた。若い店員たちに喜んでもらいたいから。
「こっちは客なんだから、快適にしてもらって当たり前だ!」と居直る老人たちが、世の中を錆びさせていくんですよ。


ひさびさにあった友人から薦められて、レンタルで『アメリカン・ビューティー』。
ちょっと僕には意図のわからない映画だったけど、レンタル店にはブルーレイも含めて、3本も置いてあった。僕には理解できない魅力のある映画なんだろう。

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2017年1月28日 (土)

■0128■

月刊モデルグラフィックス 3月号 発売中
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●デザイナーから見た量産型モビルスーツの“統一”と“拡散”の歴史・出渕裕インタビュー
編集部から依頼されたインタビューですが、とても上手くいきました。「面白い」と評判をいただいています。
僕が『宇宙戦艦ヤマト2199』特集で出渕さんにインタビューした実績があったこと、10年以上前にも単独インタビューしていたこと。『ポケットの中の戦争』をB-CLUB誌上の情報もふくめて、リアルタイムで見聞していたこと。その『ポケ戦』を企画した内田健二さんに誘われて、サンライズに在籍していたこと――すべてが、ピタリと重なった結果だと思います。

●組まず語り症候群 第51夜
担当編集からの提案で、1/35チェコ装甲車PA-Ⅱです。
車のキットとして考えれば、カウルが一体成形なのは当たり前です。なので、「一体成形のせいでパーツ総数が少くなるのは良いことなのか、つまらないことなのか?」を問う記事になっているはずです。


最近みた映画は『戦略大作戦』、『スーサイド・スクワッド』。『戦略大作戦』は、中学時代に一度見ている。シャーマンの運転席から兵士が乗り出して、装甲を両手でペタペタ叩くシーンで思い出した。


死んだ母、その母を殺した父とで、行方不明中の兄を断罪するという最悪の夢を見た。
そもそも、僕の家庭の崩壊は、兄がヤミ金融に多額の借金をしたことが遠因だ。
去年か一昨年、ひょんなことから、どこかで死んでいるだろうと思っていた兄が、ここから遠からぬ場所に住んでいるらしいことが分かった。だけど、情報をくれた方には「僕の住所は、決して兄に教えないでください」とお願いした。今度は、僕がたかられてしまうからだ。

ようするに、「もしこのままナアナアですませたら、次にはとんでもない事態になるぞ」という危機予測ができないのが兄であり、父であった。二人も肉親が破滅するさまを見ていれば、そりゃあ学習しますよね。
たとえば、飼い犬が病気になっているのに、父は「大丈夫。いつもと変わらないよ」と、涼しい顔で無視してしまう。僕が動物病院の場所を探して、「ここから30分ほど離れたところに、獣医があるよ」と伝えても、「そんな遠くへ、誰がどうやって連れていく?」と、目を丸くする。父からすれば、僕のほうが狂って見えたのだろうな。

破滅へ向かう楽観主義。正常性バイアスが強すぎ、とんでもない事態を前にしても、「いや、たいした事じゃない。大丈夫だよ」と見て見ぬフリをする。原発事故のとき、そういう人が大勢いたよね。


すこしだけ共通する話だと思うんだが……昨夜、行きたいイベントがあったんだけど、チケット販売サービスがあまりに分かりづらく、チケットを買えなかった。
そのサービス会社に「分かりづらい」「どうすればチケットを買えるのか」と問い合わせメールを送ったのだが、一度目は無視された。イベントの日程が近づいてきたので、「どうして無視したんですか?」「チケットを買いたいのですが……」と、もう一度メールを送ってみた。

すると、「いつも○○をご利用いただき、ありがとうございます」と、返信がきた。
いや、そこはまず「お手数をおかけします」と謝るところじゃないだろうか。一度目のメールは無視したわけだから。なのに、お詫びの言葉は、ひとつも無かった。
一体、このサービスはどういう評判なのだろう?と検索してみたら、やはり「分かりづらい」「二度と使わない」の声が多数だった。だけど、そのサービス会社は「自分が怒られている」「責められている」自覚がないわけです。やはり、一種の正常性バイアス。
最悪の事態を想定しない人は、底なし沼のほとりを素足で歩いている。


ぎっくり腰から、一ヶ月が経過した。今は、地元の整骨院に通っていて、起き上がるのに悲鳴が出るほど酷くはなくなった。
4月のケアンズ旅行に向けて、友だちから現地情報を聞く。何年ぶりかで、別の友だちと飲む。2月の仕事の予定は、ほぼ埋まりつつある。

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2017年1月23日 (月)

■0123■

制作会社ルースター・ティースのメインスタッフに聞く、3DCGアニメ「RWBY」の国際的ブレイクの秘密
T640_720238『RWBY VOLUME 3』のイベント上映にあわせて来日されていたRooster Teethのケリー・ショウクロスさん、グレイ・G・ハドックさん、マイルズ・ルナさんにインタビューしました。
急に決まったインタビューで、なおかつ30分ちょっとしか時間がとれず、ややツメの甘い内容ですが、「制作会社を支えたいファンが有料会員になり、ファンのお金で新作をつくり、誰でも見られるようにする(有料会員は非会員より早く見られる)」システムは、大きなヒントだと思いました。

作品一本に付きいくら払う、ではなく、長期的にクリエーターを応援する。スポンサー企業がいないから、クリエーターは縦横無尽に作品をつくれる。「数千円もするソフトを何巻も買うのは抵抗があるけど、この制作会社、この監督の作品なら、次回作も絶対に見るよ」という感覚は、誰にでもあるのではないでしょうか。
(Rooster Teethの有料会員は、いちばん安いランクで、月に数百円です。)


僕は、新房昭之監督やシャフトの作品は今後も観たいけど、『3月のライオン』しか視聴していないNHKに受信料を払うことには、たいへんな違和感があります。 
もちろん、NHK社員のプロデューサーが尽力されていることも取材をとおして知っています。だけど、違和感がある。自分の意志で、自分の選んだ人たちになら、お金を出したい。民主的に選び、自主的に払いたい。

『リトルウィッチアカデミア』が面白いから、TRIGGERにはお金を払ってもいい、とかね。
ただ、先にお金を払った人が「本当のファン」で、完成した作品を享受する圧倒的多数の不特定の人を、フリーライダーのように言いたがる人がいる。そうした優越感や倫理観と、ずっと戦いつづける面倒さは、つきまとうと思う。
僕は、『RWBY』日本語版が好きだから、いちばん高いソフトを買う。儲かってもらって、メーカーさんに今後も製作をつづけてほしいと願っている。買ったソフトを友人に貸して、「あのシーンが面白かったよな!」と語り合えるのが、最高のベネフィットだと思っている。


西野さんという芸人の絵本が無料で公開され、ブログが炎上しているけど、僕はこの人の絵本に興味はない。参加したイラストレーターの方には申し訳ないけど、書籍に邪悪なイメージがまとわりついてしまったので、完全に見る気が失せた。
だけど、アニメ声優さんへの個人攻撃に対して、山本寛監督が「揚げ足取り」と謙遜しつつ、巧妙に反撃しているのには感心した()。声優さんから感謝されようとか、微塵も思ってない潔さが、かっこいい。


Twitterで見つけた、神戸新聞のコラムへの言及()。
まったく同意なんだけど、その下に連なるコメントが、いろいろと酷い。賛同する意見の中で、獣医さんと大学の准教授が「この投書」と言っているけど、最後の記名欄に「本社NIE顧問」と書いてあるじゃん。投書じゃないって分かるはず。簡単なこと。
反論や批判ほど、引用元には正確であらねばならないと思うんだけど、Twitterでは、よく事実確認してない感情優先の発言こそが賛意を得やすい。

先ほどの、西野さんの声優攻撃も、相手の発言を適当に改変して、自分の意見を有利に持ちこんでいる。
相手が憎いなら憎いほど、怒りが激しければ激しいほど、その相手に対しては公平であらねばならない。マスコミを批判するとき、「マスゴミ」なんて書いてしまったら、発言の強度はいっぺんに減じる。怒りや憎しみが曇るというか薄れるというか。下駄を履かせた怒りなんて、ちっとも恐ろしくないじゃん。

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2017年1月21日 (土)

■0121■

昨夜は、新宿ピカデリーで『マイマイ新子と千年の魔法』、DCP上映(「舞台挨拶付アンコール上映 IN 帰ってきた新宿ピカデリー」)。チケットの発売開始時にぼんやりしていて、最前列の右端の席しかとれなかった。
Dsc_2732ところがまあ、ビックリしたことに、隣に座った男性が「廣田さんですよね?」と話しかけてきた。7年前、吉祥寺バウスシアターに娘さんを連れて、『マイマイ新子』を観にきてくださった方だ。まったくの偶然。すっかり成長した娘さんも劇場に来ていて、別の席に座っているという。
お客さんでぎっしりの580席を見渡しながら、「なんだか、とんでもないことになっちゃいましたね」「ウソみたいですね」と笑いあう。

だって、7年前はバウスシアターのスクリーン3が105席。『マイマイ新子』復権の礎となったラピュタ阿佐ヶ谷は、たった48席でしたからね。その小さな映画館を満席にするのが、まずは大変だったの。
トークショーの片渕須直監督のコメントで知ったけど、2009年11月21日の新宿ピカデリーでの初日舞台挨拶ですら、最大ではなく中~小規模のスクリーンがあてがわれていた。初日は昼間と夜、二度観にいったら、どちらの回も満席だった……けど、スクリーンが小さかったせいか。今ごろ、気づいた。
最終的には、いちばん隅っこのスクリーンに追いやられて、エスカレーターを走って昇らないと、上映に間に合わなかった。それぐらい、新宿ピカデリーは、『新子』に冷たかったの。

だから、新宿ピカデリーにもっとも大きなスクリーンを空けさせたのは、凱旋だし、鼻をあかしてやったと思っている。ファンが身銭を切った自主上映会ではなく、これからずっと上映できる高画質・高音質のDCPを、製作サイドが作った意味は、あまりに大きい。『新子』の大逆襲って感じ。


だから、『この世界の片隅に』の“異例の”ヒットを、“異例ではなく当然でしょ?”とか言っちゃう人は、『マイマイ新子』の立たされた苦境を調べろよとは言わないけど、もうちょっと配給会社の残酷さとか興行の苦しさを知ってほしい、とは思う。
「あの監督だから、あのスタジオだから傑作に決まっている」という言い切りには、信頼よりは責任転嫁をかんじる。なぜなら、『新子』の不入りが『この世界~』への出資をさまたげていた部分もあるからです。『アリーテ姫』だって、数えるほどの映画館でしか上映できなかったわけだし。
(昨夜、ゲストとして登壇された、音楽の村井秀清さんが家族を連れて『新子』を上映している映画館へ行ったら、8人しか観客がいなかったと、涙ながらに語っておられました。)

僕は、片渕監督が「ああ、あの客の入らない監督ね」とレッテルを貼られてしまうのだけは、絶対に避けたかった。『この世界~』が、また有志による自主上映……になるぐらいなら、意に染まなくても、お金になる企画を手がけてからにしてほしいと思っていた。
石を投げられてもいいけど、僕はクラウド・ファンディングには賛成ではなかった。出資してないです。『この世界~』の企画が、そこまでジリ貧で追いつめられていた裏事情も知らなかったけど、「今度こそ、有志に支えられるのではなく、プロの配給・興行が成功して、まっとうな商業映画して大成功してほしい」、そう願っていたのも、本当のこと。

僕が署名の話を自分からしたくないのは、ファンが自主的に動いて上映の機会をつくり、いつもいつも常連が観にいくような状況は、誉められたものではないと思っていたから。
僕があちこちの映画館に上映の話を持っていって、宣伝に協力したのは、「まだ『マイマイ新子』を見たことのない人たち」に訴えるため。それがすべて。
未知の観客を視野に入れていない、内輪受けの企画は、本当にイヤだった。


また、『新子』の公開から7年たって、映画やエンタメをとりまく環境も変わった。
気軽なネット・レビューが増えて、点数が重視されるようになって、「自分と違う意見を書いているヤツは工作員」なんて言い方が、当たり前になってしまった。
『新子』のときは、ネットでの論客は「少数精鋭」だったんです。たまごまごさんのレビュー()を見なければ、署名なんて思いつかなかったし。古谷経衡さんの評論にも、おおいに励まされたし()。
2009年12月は、寒いけれど、熱い冬だったんですよ! 負けていたけど、負けてなかった。

あの冬があったから、『シン・ゴジラ』も『君の名は。』も、「ヒットして当然でしょ?」なんて、僕には思えない。中身がよければヒットするなんて甘いもんじゃないんだなと、それこそ骨身に染みて、7年前に知ったから。
だから、「いい映画だな」と思ったら「誰か宣伝してくれないかな、誉めてやってくれないかな」なんて他人事にしないで、「いい」と思った本人がやるしかないんですよ。そうでなければ、どんな映画でも埋もれてしまう。僕、『新子』のとき、「廣田がもっと頑張りさえすれば……」って、何度も言われた。「ジブリに売り込めばいい」とかさ。なんで、そう思いついたあなたがジブリに行かないの?

昨夜のアンコール上映だって、「やりましょう」と英断した関係者がいるはずなんですね。
その程度の想像すらせず、「作品がいいんだから当然」なんて、僕には口が曲がっても言えません。 

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2017年1月20日 (金)

■0120■

レンタルで、米映画『ルーム』。
Sub2_large本来、こういう映画を「アンチクライマックス」と呼ぶのだろう。最初にショッキングな出来事が提示され、少しずつ、あるいは唐突に解決に向かっていく。
前半一時間は「何が起きるんだろう?」「これ以上、ひどい状況に陥るんだろうか?」と、ゾクゾクさせられる。しかし、ピークを迎えた後、後半一時間は、おだやかな日々が描かれる。「いくらなんでも、こんなうまく解決するものだろうか?」と疑問も感じる。
だけど、それでいいんです。泣かせのテクニックとか巧妙な伏線だとか、あれもこれも映画に期待しすぎだよ。この映画の後半は、観客が自分の来し方、自分の幼年時代はどうだっただろう……と、じっくり考えるためにある。


『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』のレイトショーが、今夜で終了なので、吉祥寺オデヲンまで歩いてきた。通算4回目。客はけっこう多くて、20人ぐらい。
640「遠い昔、はるか彼方の銀河系で……」の文字が明けるや、ダン!と不吉な音楽が始まる。第一作のスター・デストロイヤーの艦影そっくりにデザインされた惑星のリングが、鋭い角度で画面を分断する。すっかり魅了され、字幕をいっさい無視して、画面を凝視した。

『ローグ・ワン』は、前半が退屈だと言われる。“父”との再会と別れが、三度も繰り返されるせいだろう。
ジンの実の父親・ゲイレンは、まずホログラフィとしてジンの前に現れて、彼女に謝罪し、同時に彼女が次にどこへ行くべきか告げる。
つづいて、ゲイレンは生身の姿でジンの前に現れ、彼女と会話するときには瀕死の重傷を負っている。どちらも、激しい攻撃の中でジンがキャシアンに手を引っ張られる形で別れるので、同じシーンが重複しているように感じてしまう。


さて、ジンはもうひとりの“父親”と再会する。ソウ・ゲレラは、彼女の育ての親だ。
彼もまたジンと再会するや詫びるので、ゲイレンのホログラフィのインパクトが薄れてしまっている(似たようなシーンが通算3度もつづいてしまう)。
2206_saw_gerrera_main_02だが、ゲレラはなかなか意味深な存在だ。彼は体のあちこちを機械化していて、たびたび呼吸器を使わないと長く話していられない。『スター・ウォーズ』で呼吸器を使う人物といえば、ダース・ベイダーだ。

そして、ダース・ベイダーと同じように、ゲレラは「私を置いていけ」とジンに告げ、自らを死にまかせる。ゲレラは過激な思想ゆえに反乱同盟から離反している。組織を裏切って、不自由な体のまま戦いつづける様は、暗黒面に堕ちたベイダーそっくりだ(死を覚悟したゲレラは、呼吸器を外す。やはり、ベイダーによく似ている)。
同時に、物語のなかばで命を落とし、主人公にはげましの声をかける「善い父親」という意味では、オビ=ワン・ケノービとの共通点も持っている。


『ローグ・ワン』は、『スター・ウォーズ』のデザインの輪郭を、丁寧に(ときに不器用に)トレースしている。旧作と同じメカニックが出てくるという意味ではない。『スター・ウォーズ』のプロット自体が、古今東西の物語の膨大な引用で成り立っているので、ひとつひとつの設定が象徴的で形式的なのだ。
「善い父親」と「悪しき父親」が共存しているのも、デザインのひとつだ。主人公に目的を告げるメッセージ、一歩まちがえば落下してしまう縦穴、ハードウェアとして人間の戦いをサポートするロボット、精神力と棒術で火器に対抗する仙人……それらの輪郭に、近代的なテクスチャを重ねて、うまくいった例が『ローグ・ワン』なのだと思う。

テクスチャが近代的であるからこそ、追加撮影されたダース・ベイダーの派手なライトセーバー戦は浮いていた。あのシーンは、商業的要請の産物だろう。
そして、テクスチャが近代的であるからこそ、1977年風のメイクをしたレイア姫は「浮いて見えて正解」なのである。1977年の時点で、『スター・ウォーズ』は十分に時代錯誤だった。その大時代的なロマンスが、ポスト9.11のテクスチャをまとった『ローグ・ワン』と直結されている――同じフィルムの上を流れている。僕は、その無作法なまでの大胆さに心打たれた。
泥と汗にまみれた近代戦が、最後の最後に、遠い昔のおとぎ話に接続して終わるから、感動するのだ。

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2017年1月18日 (水)

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「生活保護なめんな」の小田原市ジャンパー()、ギレン・ザビの演説を引用している頭の悪さ加減など、腹が立つよりバカバカしくて笑いが出る。
僕の仕事を「ようするに無職でしょ」と言い捨てた三鷹市も、納税課に行くと、いろいろ脅し文句が並んでいます。車のタイヤに仕掛けるストッパーも、窓口から見えるところに「納税しないと、こうやって車を差し押さえますよ」と言いたげに、でかでかと飾ってあります。

NHKも一緒ですね。「NHK」とは名乗らず、ケーブルテレビ局のフリをして受信料の督促に来る徴収員を追い返したら、今度は文書で「告訴しますよ」と、何度も何度も脅してくる。
税金でも受信料でも、脅し取ったらダメですよ。脅した側の負け。お金が欲しかったら、なぜ欲しいのか、どうして必要なのか、ちゃんと説明して説得しないとダメ。説得できないようなら、お金をとってはいけない。

いま、世の中ぜんぶが暴力的になっていて、駅に行くと「痴漢は犯罪です」「駅員への暴力は犯罪です」、コンビニでは「未成年の飲酒は犯罪です」、映画館では「映画の盗撮、違法ダウンロードは犯罪です」。
なぜ禁じたいのか、誰も言葉で説明しようとしていない。一方的に、脅しているだけ。


で、「痴漢」とくれば「冤罪!」と条件反射するがごとく、「生活保護」と言われたとたん「不正受給!」と即答する人たちが、例の「生活保護なめんな」ジャンパーをかばっている。
彼らも「秋葉原で児童買春が」「秋葉原で児童ポルノが」って主張する人権活動家と同じく、「自分が不愉快なのは、違法な状態が野放しになっているせい」と考えたがる。同族だよね。
だって、数少ない実例をあげて針小棒大に「実態はもっと多い」「改善が必要」と言い張るんだもん。そう言い張ることで、自分の不愉快さが軽減されるから。「溜飲が下がった」「気がせいせいした」なんてのは、あなたが一瞬、気持ちよくなるだけですよって話。

で、人権活動家が条文を離れて「児童ポルノ」を都合よく拡大解釈するように、生活保護叩きは「在日」というモンスターを群盲評象状態で、あれこれ使いまわす。
ようするに、自分が不快なのは、「児童ポルノ」や「在日特権」のせいにしたいわけ。自分の努力不足や認識不足のせいだとは考えたくないから、手近な答えを欲しがる。
自分の発言の矛盾点を突かれた人権活動家の人が、「こうやって私を責める男たちが児童ポルノで儲けていたり、児童を買春してるんだろうな」と幼稚な合理化で自分を納得させているのを見たとき、本当に哀れに思った。他人ではなく、自分を救う活動をしたほうがいいよ……。 


生活保護やベーシックインカムの話をして、「そんなの甘えだよ」って怒るのは、僕の周囲では「望んだ仕事につけなかった」「休みもなく、安い賃金で働かされている」人たちだなあ……悪いけど、嫉妬だよね。好きな仕事をして、相応の対価を得ている人は、他人がどんな生活してようと、たいして気にしないものです。

だけど、嫉妬、劣等感を起こさせるよう、義務教育が組まれてしまっているからね。誰を責めることも出来ない。誰もが救われなければ、良い社会とは言えない。ネトウヨだろうがブサヨだろうが、誰もが幸福になるべき。
他人に奪われた自尊心であっても、取り返すのは自分しかいない。いつでも、勇気だけが最後の最強の武器だ。

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2017年1月17日 (火)

■0117■

レンタルで、『ドッグヴィル』。14年前の映画。
264204_full広大なセットの中に、白い線で「家」の境い目を図示しただけの背景。最低限だけ作られた小道具、大道具……。
パッと見のルックスは、完全に舞台劇なので「ひょっとして、演劇を撮影しただけの映画なのか?」と不安になる、しかも、人物設定から行動・心理にいたるまで、終始ナレーションで説明される。このフォーマットで3時間はつらい……。ところが、後半になると目が離せなくなり、やがて、胸をえぐられる思いをする。

演劇的なセットで、すべてを終始させることで、映画のリアリティは抽象化され、風景や質感などのフォトジェニックな要素は、ことごとく排除される。夕陽や雪などの自然現象は、必要なところだけ舞台装置を丸出しにして、具現化される。
何が起きるかというと、「演劇みたいな映画ができあがる」のではなく、「俳優と物語だけが映画に映る」。『RWBY』でもそうなんだけど、視覚的な情報量を削れば削るほど、「劇」「演技」の骨格があらわになる。見かけに騙されなくなる、というか。
『ドラクエ』にのめり込めたのは、背景もキャラも、必要最低限……いや、物足りないぐらい単純なドット絵だったからでしょ? 見た目を記号的にすればするほど、心理を詳しく説明すればするほど、目に見えないもの、言葉で説明されないものが際立ってくる。人間の脳は、「あえて隠されているもの」を想像せずにいられないように出来ているのか知れない。


こんな奇怪な映画、いったい誰が撮ったんだ?と、調べてみて納得。ラース・フォン・トリアーではないですか。と言ったそばから、『愛人/ラマン』のジャン=ジャック・アノーと間違えていた。そうではなく、異色作『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の監督です。
こういう、容易な解釈を拒否する、いいとも悪いとも言えない、これといった答えのない作品を受け入れていかないと、自分の狭い自意識に囲い込まれてしまう。
見た映画すべてを「良かった」「悪かった」「傑作」「駄作」と裁定する必要など、どこにもない。バッサリと「100点中、48点」などと即断すると、いつか、何らかのキッカケで得られるであろう理解の萌芽を、自ら踏み潰してしまうことにならないか。

逆に「すごい傑作! 永遠の名作! 今年ナンバーワン!」と言い切ってしまうことも、同じように価値意識を凍結させてしまう。胸の中に「いずれ変わるかも知れない評価軸」を耐えずブレさせておくことが大切と思う。


前回、ひさびさに「秋葉原で児童買春が」「秋葉原で児童ポルノが」と騒ぎつづける人権活動家たちについて触れた。
彼女たちは、自分がかわいいんだと思う。ちょっとTwitterで難癖をつけられた程度で、「デマを書かれた」「誹謗中傷された」「ストーカーされてる」と被害者ぶる。挙句、「名誉毀損」で提訴したりする。たかがTwitterでボヤかれた程度でだよ?

僕は何度か署名活動をやって、国会に請願書も出したし、警察にも民間企業にも抗議に行ったし、国会議員を招いて公開討論会もやりました。そのたび、もういろいろ書かれるわけ。「廣田こそ性犯罪者だ」「廣田は、児童の画像をブログにアップして削除された」とか、もう初耳ですよ、そんな情報(笑)。さらに、もっと酷いことも書かれていたと聞いたけど、僕は活動への意欲がそがれるから、いちいちエゴサーチしません。
というか、世間に対して何か訴えたら、ネットで悪口を書かれるなんて当たり前。その覚悟ができていなかったら、そもそも、人前に顔と実名を出して主張しないって。

ただ、僕も「自分がかわいい」から、性犯罪を止めるために署名を集めて提出したのに「あいつこそが性犯罪者」と言われたので、「そんなこと言われるぐらいなら、もう二度とやらない」といじけてしまった。
だから、社会活動、こと「弱者を救う」活動の「まっさきに救われるべき弱者」に自分を入れてしまう気持ちは、分かるような気がする。そこを責めるのは、あまりに酷だ。

なので、「とにかく秋葉原に児童への性犯罪が集中してる」と苦しまぎれな主張をするよりは、「私自身が秋葉原文化を不快に感じている」「不快な思いをさせられている私こそが被害者なんだ」と、堂々と主張したほうが誠実だし、建設的な議論ができるんじゃないか。
嫌味ではなく、本気でそう思う。

(c) Lions Gate

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2017年1月14日 (土)

■0114■

アニメ業界ウォッチング第29回:神山健治監督が語る、「ひるね姫 ~知らないワタシの物語~」への長い道のり
T640_719649『009 RE:CYBORG』公開時に発売された「文藝別冊 神山健治」以来、5年ぶりのインタビューとなりました。
この連載で、いつか絶対にインタビューをお願いしようと機会をうかがっているうち、5年ぶりの監督作の公開される今年になりました(この連載は、ほとんどすべて、僕がインタビュー相手を決めて、僕が直接交渉しています)。


読者が200人に満たないこのブログの中で、『スポットライト 世紀のスクープ』の記事は、よく読んでいただけているようです()。
あのね、性虐待・性犯罪を生んでいるのは、「権威」なんです。神父だけでなく、警官、教師。あとは上司と部下とか、先輩と後輩とか、親と子とか、対等ではない理不尽な関係を「性」で暴力化する、一種のパワハラだと思います。

高校時代の暗黒の思い出を、ひさびさに語ります。
俺は体育ができない生徒だったので、体育の時間になると、一部のクラスメイトから背負い投げされるなど、いじめのような目に遭っていました。思い切り実名を書いてやりたいけど、國學院高校の野球部の生徒。2人組で、ひとりが暴力、もうひとりが「さあ、今日も始まりました!」とはやし立てる役。
で、なんで体育の時間だけ暴力をふるう?と考えてみたら、女子の目がないから。体育の時間は、男女別だったからじゃないかと思う。

というのは、その野球部2人組は、体育の時間、大声でクラスの女子の実名を出して「○○ちゃんとセックスしてえ!」「△△ちゃんも、いいカラダしてるよな!」と、大声で話していたんだよ。なんで大声で話せるかというと、その場に女子がいないから。
そして、國學院高校は、試合をテレビ中継されるぐらいには、野球が強かったの。だから、野球部員たちは教師から「がんばれよ!」と、無条件で肯定してもらえる、守ってもらえる立場なの。


その「○○ちゃんとヤリまくりてえ!」と猥談していた野球部のヤツらがテレビに出ると、学校の応接スペースで、みんなで試合中継を見るわけ。
男子の中で聞こえるように「ヤリまくりてえ」と言われた女子が「□□くん、がんばって!」と、声援をおくっていた。あのね。君ね、彼らは君のこと、みんなに聞こえるように猥談のネタにしてたけど? でも、「高校球児だから」ってだけで、そうやって応援しちゃうんだ?

ここでも、「権威」に「性」が介在してるよね?
集団で性的暴行を起こすのが体育会系サークルばかり……って理由、ちょっと分かるでしょ? 体力があって組織に従順な彼らは、大人社会から期待され、擁護されている。この汗と酒が腐臭をはなつ「体育会系至上主義」の社会システムを破壊しないかぎり、性虐待・性犯罪は決して無くならない。
あのさ。「秋葉原に児童ポルノが売ってる、児童買春が横行してる」と海外へ向けてスピーチする目立ちがり屋の皆さんさ。向いてる方向が間違ってるよ。社会の強者に立ち向かえよ。

警察官や教師による、度重なる強制わいせつは完全スルー。なのに、わいせつDVD検挙に対して「警視庁、お疲れ様です」なんて、分かりやすすぎるよ。権力に肩入れしすぎ。
(『スポットライト 世紀のスクープ』にも、権力側と癒着し、性虐待をもみ消す弁護士が出てきますけどね……。)


「オタクなら、抑圧される側の気持ちは分かるよな?」というのは、俺の甘ったるい思いこみかも知れない。
だけど、体育会系サークルの集団暴行はリストができるぐらい多発している、警官や教師の性犯罪も検索すれば山ほど出てくるのに、「秋葉原のメイド喫茶がいけない」……そういう主張をする人たちは、どういうわけか警察権力と仲良しだよね。
その理由を考えてみたことは、ありますか?

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2017年1月11日 (水)

■0111■

レンタルで、『帰ってきたヒトラー』。悪趣味なキワモノ、軽いブラック・ジョークの類いかと甘く見ていると、これがさにあらず。
28643598_54547近い映画を探すと、『シン・ゴジラ』かも知れない。「もし、ヒトラーが現代のドイツに復活したら?」というウソ以外、起こりうる事態を生真面目なほど慎重にシミュレートしている。シミュレートというより、実際に街行く人々のリアクションは、素人のアドリブだそうで、中には「不愉快だ。いますぐ立ち去ってもらいたい」と、真顔で怒る人もいる。そこまでは、(わざわざセミ・ドキュメンタリーで撮っているのだから)想定範囲内だろう。

ところがこの映画、いちまい上手である。フィクションの部分でも、ちゃんとユダヤ人の戦争体験者を登場させ、痛烈なヒトラー批判を行い、彼を抹殺したほうがいいのではないか?と、主人公を誘導していく。
では、ヒトラーを殺しさえすれば、右傾化していく世論は救われるのだろうか? そもそも、ナチスが台頭したのは、ヒトラーの独力なのか? 実際、(映画の撮影だと気づいていない)街の人々は、笑顔でヒトラーと並んで写真を撮りまくっていたではないか……。

ちょっと、セリフが多めで理屈っぽくなってきたかな?と思わせておいて、さらなるウソを滑り込ませる手際、鮮やかというしかない。「ヒトラーのそっくりさんを使って映画を撮る」アイデアそのものを、メタレベルで応用している。


だけど、政治に詳しい人なら、もっと面白く分析できると思う。
ヒトラーは国内のあちこちに出かけて、現代のドイツの政治をどう思うか、実際に聞いてまわる(そのパートはドキュメンタリーなので、吹き替えではなく、原語で観たほうが効果的だろう)。
1015825_xitler人々の何気ない愚痴から浮かび上がってくるのは、難民問題だ。移民排斥のデモまで、モザイクを入れて撮影しているのだから、筋金入りだ。
人々と話すヒトラーの台詞は、彼の生前の言葉をなぞったものが大半だと思うが、とても説得力がある。「現実とフィクションの区別をつけろ」などという幼稚な決まり文句は、あっさり無効化される。ヒトラーの毅然とした態度、シンプルな言葉に心酔してしまう。

それこそが、この映画のキモである。ラストシーンを指してネタバレネタバレうるさい人は、自分の心境が(映画の途中で)どう変化するのか、よく観察すべき。映画の「ネタ」は、あなたの心の中にあるんだよ。
ポリコレポリコレうるさい人にも、落ち着いて胸に手をあてて、この映画を観てみろと言いたい。右も左も関係なく、人間は脆い。「選挙は行かない派なの」「行っても票が操作されるし、何も変わらないよ」……ドキュメント・パートの人々の本音が、ずんずん重たくなっていく。


俺は政治に詳しくないけれど、ドナルド・トランプの当選なんかがダブって見えてくる。
それは、トランプ大統領がヒトラーのような独裁者になるぞ!なんていう「ノストラダムスの大予言」じみた話ではない。なぜ、あんな女性蔑視や人種差別を公言した人物が支持されたのか、それを真摯に考えなくてはならないんじゃないか。

だって、甘っちょろい綺麗事がストレスしか生まないことは、この数年でよく分かったよね?
「黒でないなら白なのか?」とつねに決断を迫られる社会より、疲れたときに「疲れた」と言えない社会のほうが閉塞してるよね、という話です。

(C)2015 MYTHOS FILMPRODUKTION GMBH & CO. KG CONSTANTIN FILM PRODUKTION GMBH

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2017年1月10日 (火)

■0110■

【懐かしアニメ回顧録第26回】生命を媒介する“液体の色”が「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」の世界観を決定する
T640_719243前回のコラムは、大地丙太郎総監督に誉めていただけたのですが、前回・今回とも「書きづらい」原稿でした。
今の時代であればこそ、「事実」を重視したレビューが必要だと、僕は固く信じています。「泣いた!」「傑作まちがいなし!」は、個人の感想としては、ぜんぜんOKなんです。
だけど、プロが後世に作品の価値を伝えていくためには、画面に何がどう映されていたのか、「事実」を材料にする必要があるはずです。

劇中でLCLがどういう溶液なのかといった設定は一切関係なく、『ヱヴァ:序』という一本のフィルムの中で、どのシーンのどのカットに位置していたのか探らねば、「色から見える物語構造」は見えてきません。


つづけてアニメの話をしておくと、『傷物語〈III冷血篇〉』を観てきました。一年前の〈鉄血篇〉は、満席の映画館で汗だくで観たものでしたが、今回は平日平間とはいえ、20人程度の入り。
Tnfigkizu001だけど、ちょっと寂しい雰囲気の中で観たほうが、映画の効果は増すと思う。なぜなら、『傷物語』はヌーヴェルヴァーグであり、ATG映画であり、ロベール・ブレッソンであり、レオス・カラックスだから。映画の歴史に対して、垂直に立っている。依拠する場所がなく、誰からも評価を保障されておらず、それゆえに今後、誰からどれほど高い価値を与えられるか分からない……そういう意味で、僕は以上の映画監督名やムーヴメントと、尾石達也監督の名を連ねたい。

『傷物語』は最初から最後まで、アクションもお色気もいっぱいの商業主義的モチーフを、誰からも望まれないテイストで作品にした。このプロットのまま、180度反対に、甘口につくることは出来たはずなのだ。しかし、自ら望んで孤立した。表現に誠実であろうとすると、孤立せざるを得ない。
たとえPG-12に指定されようと、『物語』シリーズが瓦解することはない。それだけのバッファは、まだアニメ業界にも備わっているのだ。


まず、肌の色をべた塗りにして(なるべく)影色をつけず、ハイライトとして白い点を打つ、グラフィカルな、ポップアートとしてのセル表現がある。
羽川翼が、阿良々木暦を説得しようと、彼のヒザに手を置く。最初は2本なのに、カットが変わるたび、羽川の腕は何本にも増えていく(それだけ彼女が必死なのだという説明が成り立つ……が、「演出」というより、セル部分はすべて「絵」として洗練されている。「絵」は「演出」の隷属物ではないのだ)。

カメラワーク。空撮になると、必ずヘリの音が入る。いや、ヘリの効果音さえ入らなければ、「空撮」とは認識できなかったかも知れない。そうした、僕らの「映像作品への個人的記憶」を、『傷物語』はサーチして、脳の奥から引きずり出す。その結果が、快か不快かに責任は持たない(繰り返すが、「快」に振ろうと思えば、いくらでも手段はあったはずだ)。
建物の周りを、ぐるりとサーチライトが囲んでいる。それが順番に点灯したかと思うと、シーンの終わりでは消えている。「誰がサーチライトのスイッチを入れたのか?」と考えはじめると、とたんに苛立ってしまうだろう。しかし、舞台演劇で照明効果が変わるとき、「誰がスイッチを入れた?」などとは考えない。それと同じことだ。

舞台、写真、実写映画、セルだけではないシネカリのような表現……そんなにもアニメーションの扱えるリアリティは多様なのに、僕らは既視感のある演技や描きこまれた背景を見たとき、迂闊にも「本物みたいだ!」「実写に負けていない!」などと口走ってしまう。
そうした薄っぺらな脊髄反射を無効化するかのように、『傷物語』はアニメ表現にしかない、いやアニメ表現の中にすらない“異場所”を探して、彷徨する。


つい先日、『リトルウィッチアカデミア』を見たばかりだというのに、監督の吉成曜さんが『傷物語』に、原画として参加しているのを知って、目まいを覚えた。あるいは、『傷物語』ラストのアクション・シーンでは『かぐや姫の物語』もかくや、というほどの殴り描きのようなアニメーションもある。特撮カットは、高山カツヒコさんの担当だ。
『傷物語』がどうとか言うより、僕らはもっともっと無秩序な、まるで洗練されていない混沌猥雑とした映像文化群の断面のうち、自分の見たいところを見ているだけなのではないだろうか?

「王道」という誉め言葉の無力さを、ひしひしと感じる。


ようやく米映画『ダンス・ウィズ・ウルブス』を見られたのだが、感想は後日。
(C) カラー/Project Eva. (C) カラー/EVA製作委員会 (C) カラー
(C)西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト

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2017年1月 6日 (金)

■0106■

日曜日(8日)、スーパーフェスティバル73()に【素組み屋】として出店します。
主に、キャラクター物のプラモデルを素組みした中古品を販売します。……が、ぎっくり腰がまだまだ治っておらず、座ったり立ったりが大変なので、梱包に時間がかかる点、ご了承ください。

今回から、スーパーフェスティバルには、ひとりで出店します。なので、どうしても販売に時間がかかってしまうのです。
大きなスーツケースを搬入に使うので、ツエをつく必要まではなさそうだけど……立ったりしゃがんだりが腰に響くので、ほとんど椅子に座って接客することになるでしょう。


映画.comは愛読しているし、もちろん『ローグ・ワン』は大好きなんだけど……だからこそ、こういう記事はいただけない。

SW「ローグ・ワン」監督、シリーズ伝統“セットのこだわり”明かす(

おそらく、海外のプレスリリースを翻訳して再構成した記事と思うが、いつ、どのタイミングで、いかなる経路でギャレス・エドワーズ監督がコメントしたのか、まったく記されていない。出典が書いてないので、この記事が一次情報となってしまう(せめて出典が書いてあれば合法的な「引用」なので、とてもスッキリするんだけど)。
この記事を書いた記者が監督にインタビューしたわけではなく、明らかにどこかで聞いた記事を翻訳してるか、翻訳されたものを引用しているはずなのに、引用元がどこにも書いてない。

さらには、「…と絶賛評が上がっている」「いまや“聖地”と称される」って、どこで誰が絶賛してるのか、誰が聖地と称しているのか、主語が欠落している。
「廣田が『ローグ・ワン』を好きなら、この記事が映画の悪口を書いてあるわけではないし、そんなに怒ることないじゃん?」とでも思われるだろうな。だけど、この記事の作り方なら、誹謗中傷目的のデマ記事も捏造可能なんです。引用元も発言の主体も記さないまま絶賛記事が書けるということは、同じ構造を使って「…と酷評されている」と言い換え可能なんです。

「俺にとって口当たりがいいから、この記事はOK」ではないんです。
どんなに口当たりがよくても、どんなに俺の好きな映画を誉めていようと、同じ構造で捏造記事がつくれるようなら、ちっとも嬉しくないんです。


だけど、「お前の好きな映画を誉めている記事の、どこか不満なんだよ?」と思うでしょ?
「誰得」ってネット・スラングがあるけど、あなたが得すれば、でたらめなシステムが横行していても見逃すんですか? で、あなたにとって不利なことが書いてあったら、「相手がスジを通していても認めない」ってことですか?

ネットの議論を見ていると、だいたいそうなってますよね。怖ろしいことに。
自分に不快な意見は、「工作員」とか「在日」が書いてるとかさ。
「ムカついたから、相手を人格攻撃しようが罵倒しようが、正当防衛」みたいな考え方。「溜飲が下がったから、これでいいかな」と思えたとしたら、ほぼ間違いなく、誤っています。
好き嫌いだけを基準にすると、公平さという概念が、あなたの人生から逃げていく。いざというとき、フェアに戦えなくてもいいのなら、好き嫌いだけで生きてください。


『スポットライト 世紀のスクープ』で言われていたように、子供を育てうるシステムは、子供を虐待するときにも機能する。
病人や老人を介護できるロボットは、人を殺しうるんですよ。「いやとんでもない、弱者を救うためのシステムです」と言い張る人間を、僕は信用しない。
「確かにそうですね……」と、無慈悲なルールを正々堂々と、苦渋とともに受け入れつつ、それでも努力することなしには、明るい未来などやってこない。

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2017年1月 4日 (水)

■0104■

レンタルで、『スポットライト 世紀のスクープ』。
201604140000000view僕は、映画がなぜ映画でいられるのかを問いかける、駆動原理がむき出しになった作品が好き。だけど、『スポットライト』のように題材に社会的意義を見出し、世の中に広めて歴史に残すことも商業映画の大きな機能だと思う。
この作品はアカデミー主要賞はじめ、各国で賞をとりまくった。そうでもしなければ、埋もれてしまいかねない作品だが、「カトリック教会の神父による児童性虐待と組織的隠蔽」という衝撃的なモチーフが、そうはさせなかった。映画批評家たちの良心が、この作品に光を当てた。

カッティングや構図の分析なんて後回しにして、妻と別居するほど仕事熱心な新聞記者を演じたマーク・ラファロと一緒に、激怒すべきだ。
いつも貧乏ゆすりしていて、資料の山の中で食事するマーク・ラファロはじめ、ひとりひとりの人物の描き方は念が入っており(特に飲み物や食べ物の使い方が上手い)、まったく飽きることがない。
映画の面白さはカメラワークだけではないのだと痛感させられる。奥深い人間観察眼がなければ、こういう映画は撮れない。


『スポットライト 世紀のスクープ』の中では、「性虐待を働いた神父だけを責めてもムダで、彼らを生み出し、擁護するシステムそのものを告発せねば」という言葉が、何度か繰り返される。
また、カトリック教会相手の裁判に手を焼いているベテラン弁護士が「子供を育てる者は、誰もが子供を虐待しうる」(「子育てを街に頼れば、虐待も街ぐるみ」)と、痛烈な言葉を吐く。

彼らの敵は、システムであり、権威である。
信仰がからむので日本では分かりづらく感じるかも知れないが、ようは学校教師が立場を利用して教え子を性虐待しており、その数がハンパではない……と言えば、イメージしやすいだろう。池谷孝司さんの『スクールセクハラ なぜ教師のわいせつ犯罪は繰り返されるのか 』()で、教師たちが性虐待する精神構造が、詳細にルポしてある。親たちが被害児童よりも、加害した大人を守る構図も、『スポットライト』とそっくり同じだ。

教会だとか学校だとか、「聖職」を利用した虐待を根絶すべきであって、犯人がペドフェリアとはかぎらないわけ。だけど、「秋葉原で児童買春が行われている」「児童ポルノが売られている」と声高に訴える人たちが、増加する学校教師や警察官の性犯罪に立ち向かったなんて話は、一度たりとも聞いたことがないよね?
なぜなら、彼らは権威の側に属しているから。彼らは、「力で抑圧しろ、黙らせろ、罰しろ」という権力側の思考をしている。だから、外国人記者の前でスピーチしたとか、国連に呼ばれたとかいう派手なニュースバリューが大好きなのよ。
バチカンですら音をあげた話題作『スポットライト』、欧米崇拝の彼らは、どんな感想をもったんでしょうか。「アメリカのような先進国で、そんなに性虐待が起きているはずがない」と、いまだ思いこんでいるんでしょうか。


だから、『スポットライト』が欧米で好意的に迎えられているのが、僕には痛快なの。
性虐待、性犯罪を「秋葉原のせい」「オタク文化のせい」「個人の性嗜好のせい」にしたがる連中が、こぞって無視しているから。黙るということは、権力への恭順と同じ。『スポットライト』の主人公たちは、まず黙ることをやめたんですよ。

ジャーナリストは、一方にとって気持ちよければ、もう一方からは憎まれる職業です。
好意をもたれるばかりではなく、憎まれることを堂々と受け入れる。議論を発生させて、発言に責任をもつ。それが健全な状態なんですよ。

繰り返すけど、僕らの敵は、力と立場を利用して相手をしたがわせようとする「システム」です。力関係による抑圧は、仕事の場でしょっちゅう起きているし、居酒屋で飲んでいるときにも生じうる。きわめて日常的であり、だからこそ敵なんですよ。
「いやもう、力の強い相手にはかなわないから、黙って従うよ」って情けないあきらめを、「大人の対応」とかいうクソみたいなフレーズでごまかすなって話です。

Photo by Kerry Hayes (C) 2015 SPOTLIGHT FILM, LLC

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2017年1月 2日 (月)

■0102■

元日の閑散としたTSUTAYAで、米映画『ナイトクローラー』を借りる。
Mv5bmtg3ntgzntm1mf5bml5banbnxkftztgすごくいっぱい死体が出てくるし、えげつない事件・事故映像を地方局に売り歩くカメラマンが主人公なのだが、涙が出るほど感激した。彼の行動原理に筋が通っていて、脅迫もふくめた交渉術が、あまりも見事だから。

フリーで仕事をしている人、みんな見たほうがいい。「仲間を見殺しにするシーンが、ちょっと……」などと臆する人には、見込みがない。「人の死すら被写体にする」倫理観の是非は、この映画ではどうでもいい。「使えない部下は、被写体にして売るぐらいしか使い道がない」、その判断は理にかなっている。
主人公の、情に流されない鉄壁の合理主義と、求められるものだけを相応の値段で売りつづける向上心に、ひたすら胸打たれた。


元日は、凶刃に倒れた母の命日なのだが、僕がいつまでもクヨクヨしているよりは、新しく力強い価値観を身につけて前へ進んだほうが、母も喜ぶと思う。
今年は6年目なので、犯人も出所してきてしまう。警戒しなければ。

ぎっくり腰については、何人かの友人から食料を送ってもらったり、いろいろと申し出があった。別に試したわけではないので、素直にありがたい。
腰にパッドのついた仕事用の椅子と、ツエを通販で買った。自分の体が変化したのだから、体に触れる器具も変えたほうがいい。「もとの体に戻す」より、変化に対応していったほうが、創造的に生きられるのではないだろうか。


高校時代に好きだったミュージシャンが、アニメの劇伴を手がけることになった。
そこそこ話題になっているので、僕は80年代の音楽雑誌を古本屋で買い、彼のインタビュー部分をスキャンする。同時に、そのアニメの監督にインタビューを申し込む。
そうした情報ソースを、まるでスクラップ・ブックでも作るように、液晶タブレットの中に配置して、一部は誰にでも見られるように設定して、告知用に使う(たとえばインタビューがいつ掲載されるとか)。また、気がついたことはペンタブでメモしていく。スケジュール管理もインタビューも、その液晶タブレットひとつでまかなえる。そのモバイルは、自分用の日記やアイデア帳であり、同時に、それ自体が世界に配信可能なメディアなのだ。
たとえば、僕がその日に見た映画は、ウェブ配信で誰でも見ることができる。僕が買った小説は、あちこちアイデアが書きこまれ、いつの間にか、別の表現物に変化していく――そんなパソコンのような、だけどもっと手ごろな大きさのモバイルを持ち歩く夢を見た。

それはネットだとかスマホだとかいうより、小学校時代に作っていた壁新聞の電子版といった趣きだ。
(喫茶店に、家の本棚すべて持ち込んで、いろいろ手にとりながらブレストするような感じ。)

そんな壁新聞モバイルのアイデアを、僕は友人に力説する。「これひとつあれば、残りの人生は世界中を飛び回って過ごせる。暮らしのための仕事なんて、消えてなくなるよ」。友人は「お前とは、一緒にやりたい仕事があるんだけどな……」と、残念そうに言う。「そういうのは一緒にやろう」「そういうのは、今までの“仕事”とは違うから」と、僕は身を乗りだす。

あらゆる義務からの解放。制約のない、無限の自由。アイデアの先に、別の誰かのアイデアが惜しみなく接ぎ木され、創造者と鑑賞者の区別が曖昧になった世界。すべての創造物が、人類全員による合作となりえる。人も作品も、耐えざる変化の流動のただ中にある――それが、僕の見た初夢だった。

(C)2013 BOLD FILMS PRODUCITONS, LLC. ALL RIGHTS

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