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2017年1月17日 (火)

■0117■

レンタルで、『ドッグヴィル』。14年前の映画。
264204_full広大なセットの中に、白い線で「家」の境い目を図示しただけの背景。最低限だけ作られた小道具、大道具……。
パッと見のルックスは、完全に舞台劇なので「ひょっとして、演劇を撮影しただけの映画なのか?」と不安になる、しかも、人物設定から行動・心理にいたるまで、終始ナレーションで説明される。このフォーマットで3時間はつらい……。ところが、後半になると目が離せなくなり、やがて、胸をえぐられる思いをする。

演劇的なセットで、すべてを終始させることで、映画のリアリティは抽象化され、風景や質感などのフォトジェニックな要素は、ことごとく排除される。夕陽や雪などの自然現象は、必要なところだけ舞台装置を丸出しにして、具現化される。
何が起きるかというと、「演劇みたいな映画ができあがる」のではなく、「俳優と物語だけが映画に映る」。『RWBY』でもそうなんだけど、視覚的な情報量を削れば削るほど、「劇」「演技」の骨格があらわになる。見かけに騙されなくなる、というか。
『ドラクエ』にのめり込めたのは、背景もキャラも、必要最低限……いや、物足りないぐらい単純なドット絵だったからでしょ? 見た目を記号的にすればするほど、心理を詳しく説明すればするほど、目に見えないもの、言葉で説明されないものが際立ってくる。人間の脳は、「あえて隠されているもの」を想像せずにいられないように出来ているのか知れない。


こんな奇怪な映画、いったい誰が撮ったんだ?と、調べてみて納得。ラース・フォン・トリアーではないですか。と言ったそばから、『愛人/ラマン』のジャン=ジャック・アノーと間違えていた。そうではなく、異色作『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の監督です。
こういう、容易な解釈を拒否する、いいとも悪いとも言えない、これといった答えのない作品を受け入れていかないと、自分の狭い自意識に囲い込まれてしまう。
見た映画すべてを「良かった」「悪かった」「傑作」「駄作」と裁定する必要など、どこにもない。バッサリと「100点中、48点」などと即断すると、いつか、何らかのキッカケで得られるであろう理解の萌芽を、自ら踏み潰してしまうことにならないか。

逆に「すごい傑作! 永遠の名作! 今年ナンバーワン!」と言い切ってしまうことも、同じように価値意識を凍結させてしまう。胸の中に「いずれ変わるかも知れない評価軸」を耐えずブレさせておくことが大切と思う。


前回、ひさびさに「秋葉原で児童買春が」「秋葉原で児童ポルノが」と騒ぎつづける人権活動家たちについて触れた。
彼女たちは、自分がかわいいんだと思う。ちょっとTwitterで難癖をつけられた程度で、「デマを書かれた」「誹謗中傷された」「ストーカーされてる」と被害者ぶる。挙句、「名誉毀損」で提訴したりする。たかがTwitterでボヤかれた程度でだよ?

僕は何度か署名活動をやって、国会に請願書も出したし、警察にも民間企業にも抗議に行ったし、国会議員を招いて公開討論会もやりました。そのたび、もういろいろ書かれるわけ。「廣田こそ性犯罪者だ」「廣田は、児童の画像をブログにアップして削除された」とか、もう初耳ですよ、そんな情報(笑)。さらに、もっと酷いことも書かれていたと聞いたけど、僕は活動への意欲がそがれるから、いちいちエゴサーチしません。
というか、世間に対して何か訴えたら、ネットで悪口を書かれるなんて当たり前。その覚悟ができていなかったら、そもそも、人前に顔と実名を出して主張しないって。

ただ、僕も「自分がかわいい」から、性犯罪を止めるために署名を集めて提出したのに「あいつこそが性犯罪者」と言われたので、「そんなこと言われるぐらいなら、もう二度とやらない」といじけてしまった。
だから、社会活動、こと「弱者を救う」活動の「まっさきに救われるべき弱者」に自分を入れてしまう気持ちは、分かるような気がする。そこを責めるのは、あまりに酷だ。

なので、「とにかく秋葉原に児童への性犯罪が集中してる」と苦しまぎれな主張をするよりは、「私自身が秋葉原文化を不快に感じている」「不快な思いをさせられている私こそが被害者なんだ」と、堂々と主張したほうが誠実だし、建設的な議論ができるんじゃないか。
嫌味ではなく、本気でそう思う。

(c) Lions Gate

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