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元日の閑散としたTSUTAYAで、米映画『ナイトクローラー』を借りる。すごくいっぱい死体が出てくるし、えげつない事件・事故映像を地方局に売り歩くカメラマンが主人公なのだが、涙が出るほど感激した。彼の行動原理に筋が通っていて、脅迫もふくめた交渉術が、あまりも見事だから。
フリーで仕事をしている人、みんな見たほうがいい。「仲間を見殺しにするシーンが、ちょっと……」などと臆する人には、見込みがない。「人の死すら被写体にする」倫理観の是非は、この映画ではどうでもいい。「使えない部下は、被写体にして売るぐらいしか使い道がない」、その判断は理にかなっている。
主人公の、情に流されない鉄壁の合理主義と、求められるものだけを相応の値段で売りつづける向上心に、ひたすら胸打たれた。
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元日は、凶刃に倒れた母の命日なのだが、僕がいつまでもクヨクヨしているよりは、新しく力強い価値観を身につけて前へ進んだほうが、母も喜ぶと思う。
今年は6年目なので、犯人も出所してきてしまう。警戒しなければ。
ぎっくり腰については、何人かの友人から食料を送ってもらったり、いろいろと申し出があった。別に試したわけではないので、素直にありがたい。
腰にパッドのついた仕事用の椅子と、ツエを通販で買った。自分の体が変化したのだから、体に触れる器具も変えたほうがいい。「もとの体に戻す」より、変化に対応していったほうが、創造的に生きられるのではないだろうか。
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高校時代に好きだったミュージシャンが、アニメの劇伴を手がけることになった。
そこそこ話題になっているので、僕は80年代の音楽雑誌を古本屋で買い、彼のインタビュー部分をスキャンする。同時に、そのアニメの監督にインタビューを申し込む。
そうした情報ソースを、まるでスクラップ・ブックでも作るように、液晶タブレットの中に配置して、一部は誰にでも見られるように設定して、告知用に使う(たとえばインタビューがいつ掲載されるとか)。また、気がついたことはペンタブでメモしていく。スケジュール管理もインタビューも、その液晶タブレットひとつでまかなえる。そのモバイルは、自分用の日記やアイデア帳であり、同時に、それ自体が世界に配信可能なメディアなのだ。
たとえば、僕がその日に見た映画は、ウェブ配信で誰でも見ることができる。僕が買った小説は、あちこちアイデアが書きこまれ、いつの間にか、別の表現物に変化していく――そんなパソコンのような、だけどもっと手ごろな大きさのモバイルを持ち歩く夢を見た。
それはネットだとかスマホだとかいうより、小学校時代に作っていた壁新聞の電子版といった趣きだ。
(喫茶店に、家の本棚すべて持ち込んで、いろいろ手にとりながらブレストするような感じ。)
そんな壁新聞モバイルのアイデアを、僕は友人に力説する。「これひとつあれば、残りの人生は世界中を飛び回って過ごせる。暮らしのための仕事なんて、消えてなくなるよ」。友人は「お前とは、一緒にやりたい仕事があるんだけどな……」と、残念そうに言う。「そういうのは一緒にやろう」「そういうのは、今までの“仕事”とは違うから」と、僕は身を乗りだす。
あらゆる義務からの解放。制約のない、無限の自由。アイデアの先に、別の誰かのアイデアが惜しみなく接ぎ木され、創造者と鑑賞者の区別が曖昧になった世界。すべての創造物が、人類全員による合作となりえる。人も作品も、耐えざる変化の流動のただ中にある――それが、僕の見た初夢だった。
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