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2016年12月31日 (土)

■1231■

【懐かしアニメ回顧録第25回】物語の深層をすくいあげる「十兵衛ちゃん -ラブリー眼帯の秘密-」の「対決の構図」
T640_7186092016年、最後の記事となりました。
とても初歩的なことを書いていると思うんですが、「何を」「どのように」見たのか、分析することが第一歩だと思います。
ファンの映画レビューならまだしも、プロの「映画評論」が感情移入(共感)できたかできないか、泣けたか泣けないか、論者の好みで語られていることに危惧をおぼえます。


レンタルで、ジョージア・イギリス・フランス・ドイツの合作映画『独裁者と小さな孫』。
Main02_large架空の国を舞台にした、寓話的な映画。監督のモフセン・マフマルバフはイラン出身でありながら、イラン政府から何度も暗殺されかけて、生々流転の暮らしを送っている。
その監督の身のうえを顧みると、どこか童話めいた老大統領と孫との逃亡劇に、底知れぬ切実さが加わる。大統領と孫は、旅芸人のフリばかりか、カカシに化けて革命軍の追跡をかわす。
バックボーンの解説のほとんどない、単純化されたシチュエーションの中でこそ「報復の連鎖をとめろ」といったセリフが、不思議な重みをもって聞こえる。


そして、ギックリ腰の鎮痛剤が効いているうちに吉祥寺オデヲンまで歩き、レイトショーで『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』、三回目。
1482112576194興行収入は第3位に落ちたし、客は10人程度。これぐらい閑散としていたほうが、映画の雰囲気にマッチしている。
キャリー・フィッシャーの若すぎる死も、この寂しいムードに花を添えている。エピソード8は撮影済みだそうだが、『ローグ・ワン』における彼女の役割は、狙ってできるものではない。天の配剤だ。

三回目を観ていて気がついたのは、帝国軍内の会話で「デススターの存在が公になれば、数千の星系が寝返る」といったセリフがあったこと。これは、第一作のオープニング・クロールから削除された「帝国が次の戦いに敗れれば、一〇〇〇以上の太陽系が反乱同盟軍に寝返り……」を、復活させたものだ。
デススターの建造や反乱同盟の行動には、常に政治的思惑がからんでいるのだ。ギャレス・エドワーズはルーカスの目撃した銀河を、正確に観測している。

もうひとつ、ジンの回想シーンに出てきた惑星は、コルサントだろう。窓の外に高層ビルが見えている。政治体制が変わっても、元老院も首都機能もコルサントから動くわけがない。
それもまた、「ルーカスの見た銀河」の再現だ。だが、それは「原作の設定に従う」こととは違う。「原作者の感じたリアリティを共有する」「現在の目でリアリティを捉えなおす」に近い。
だから、『ローグ・ワン』はノスタルジアに甘えていない。


1977年の第一作公開以後、ソ連の崩壊があった。アメリカ同時多発テロがあった。米軍のアフガニスタン侵攻があった。
『ブラックホーク・ダウン』や『アメリカン・スナイパー』、『ハート・ロッカー』のような、自国の正義を疑う映画群があらわれた。そして、『ゼロ・ダーク・サーティ』のグリーグ・フレイザーが、『ローグ・ワン』の撮影監督を務めている。
2016年のアメリカ映画が描かなければならない苦悩を、『ローグ・ワン』は一手に引き受けた。その愚直といえるほどの誠実さゆえ、甘美なノスタルジアに酔いたい人からは嫌われるだろう。

『ローグ・ワン』は40年前にキャリー・フィッシャーによって発音された“HOPE”というセリフを、最初は皮肉として使いながら、やがてアイデンティティに高めていく。「誰かに届いただろうか?」「きっと、誰かが受けとってくれただろう」……宛てのない“HOPE”は他でもない、われわれ自身が、40年前に耳にしているはずなのだ(“You're my only hope.”)。
いま、再び“HOPE”が必要な時代になっていないだろうか? 「スター・ウォーズなんて、ご都合主義のカタマリのようなものなんだから……」「娯楽大作なのだから、難しい理屈はおいといて……」 本当にそうなのだろうか? ファンタジーは、頭のうえをフワフワと漂っている空想的なことさえ描いていればいい? その矮小化はジャンルをせばめ、自らを貶めることにつながるように思える。 

(C)2014 MAKHMALBAF FILM HOUSE PRODUCTION, 20 STEPS PRODUCTIONS, PRESIDENT FAME LTD/FILM AND MUSIC ENTERTAINMENT, BAC FILMS PRODUCTION, BRUEMMER UND HERZOG FILMPRODUKTION
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2016年12月27日 (火)

■1227■

夜中に起きたら、腰が痛くて、立ち上がるだけで悲鳴が出てしまった。

あまりの痛みに、「最悪な夢だったな」と、朝になって起きてみると、やはり立ち上がれない。ものすごく痛い。救急車を呼ぶことを考慮して、無理やりに玄関まで歩き、鍵のみ開けておいた。
寝ころんだまま湿布を貼ったが、よくなる兆しはない。これでは何も出来ないので、横になったままスマホで救急車を呼んだ。
30分ほどして、3名の救急隊員が到着。このマンションは担架が入らないので、車椅子。救急隊員の方の肩を借りて、なんとか玄関の外に出られた。
このとき、「ご両親は?」「連絡すべきご家族は?」と聞かれたが、ひとりもいない。
では、結婚していれば良かったのか? そうとも限らない。仲の悪いときは、救急車など呼んでもらえない可能性がある。僕自身が軟禁されているかのような結婚生活に耐えてきたし、両親が壊滅的な終焉を迎えたのも、この目で目の当たりにした。結婚が仇になる場合もある。


廊下にかならず手すりがあり、誰かが常に手助けしてくれる病院は、天国だった。
70歳をとうに超えていそうなご老人が、すいすい歩いている。なのに、僕は立ち上がることさえ出来ない。先月、いくらでも歩けるときに海外旅行へ行っておいて良かった……と、しみじみ思った。やりたいことがあったら、迷っているヒマはないのだ。

レントゲンを撮っても異常がない。痛み止めの坐薬を入れてもらうと、かなり楽になった。「ぎっくり腰でしょうね」と言われて、痛み止めの内服薬、どうしても辛いときの場合の坐薬を出してもらった。


さて、ここはどこなのだろう? 救急隊員からは「タクシーで帰るということで良いですね?」と言われていたが、よく考えると、今日、お金をおろすつもりでいたので、財布にはいくらも入っていない。幸い、病院の前からバスが出ている。
だが、痛み止めで何とか歩けてはいるものの、バスのステップを昇れるのか? 歩いて降りられるのか? いろいろと不安になる。ベビーカーのまま乗れる仕様のバスだったので、乗り降りは楽だった。車内で座ってしまったら、立ち上がるときが痛いので、立ったままで乗る。ツエが欲しいと、本気で思った。
駅についてからは、エスカレーターがあることに感謝した。
エスカレーターも、手をかざすだけで流れるトイレ、水道、すべては体が言うことをきかなくなった人のための設備だ。
以前、ある高齢の方のお見舞いに行ったとき、水道の蛇口をひねれずに困ってらっしゃるのを見て、ハッとした。高齢者に快適なインフラをつくることは、ふいに病気に襲われた自分を助けることになる。そのための税金だ。
国民健康保険のおかげで、診療費と薬代も、3千円以下ですんだ。


こうして、PCに文章を打てるので、仕事を断る必要はなさそうだ。
しかし、鎮痛剤の効果は限定的で、横になってから立ち上がるのが、やはり猛烈に痛い。

20代の後半、酔っぱらって階段を転げ落ちてしまったときのことを思い出した。肋骨がヒビが入っていたと思うが、近所のコンビニでカルシウムを多く含んでいそうな食品を大量に買いこみ、2日ほど痛みに耐えていると、自然に治癒した。それだけ、若かったのだ。

その時は、友だちや恋人が電話してきてくれたのが、心強かった。
しかし、結婚時に過去の交友をすべて妻に禁止された僕は、離婚後も誰かを生活に介入させることはしていない。母の死亡時、親戚たちの手痛い裏切りにあったことも忘れていない。
血縁関係の中に、僕の居場所はなかった。それを今さら、寂しいとも思えない。

そんなことよりも、社会のセーフティネットの充実に期待している。見知らぬ他人が助けあえる社会は、ひいては自分を救ってくれる。冷たく高圧的な身内より、必要なとき必要なだけ助けてくれる他人……そういう社会のほうが、みんなで幸福になれると思う。

ともあれ、悲鳴が出るほど痛い腰痛は、いまだ治っていない。

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2016年12月26日 (月)

■1226■

モデルグラフィックス 2月号 発売中
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●組まず語り症候群

第50回目となる今月は、マスターボックス社の1/35「かわいいファッションガール」「メイド喫茶」です。

●居てくれればいいんです、デスロイドは!
『マクロスΔ』の作成にあわせた、ミニコラムです。こういうお題のときは、アニメとプラモデルの両方をリアルタイムで知っていて良かった……と感じます。


レンタルで、米映画『告発』と、仏独合作の『パリよ、永遠に』。
『告発』は、アルカトラズ刑務所をモチーフにした法廷劇。『アルカトラズからの脱出』は痛快さすら感じさせるサスペンスフルな娯楽作だったが、『告発』は陰惨な刑務所内の虐待をじっとりと描き、3年間も地下牢に監禁されていた被害者にスポットを当てる。
『パリよ、永遠に』は、『ブリキの太鼓』のフォルカー・シュレンドルフ監督の近作。ドイツによる占領下のパリの、ホテルの一室での数時間のやりとりを描いている。スウェーデンの総領事が、パリの爆破を実行しようとするドイツ人将校を説得する会話劇だ。
どちらも手堅い撮影、落ち着いたカットワークで、最低限必要なことだけをサクッと語る誠実な映画。どちらも実話をベースにしているから、観ただけで小さな肥やしになってくれる。

たとえば、アルカトラズ刑務所のような恥ずべき歴史をもったアメリカが、70年代にそこを娯楽活劇の舞台に選び、当の刑務所を観光地化し、さらに90年代、刑務所の悪業をあばくような映画を撮り重ねた事実だけでも、面白い。
ついでに言うと、アカデミー外国語映画賞に輝いた『ブリキの太鼓』はカナダやアメリカの一部で、上映禁止となった。罪状は「児童ポルノ」とのことだが、気になる人は調べてみてほしい。


それにしても、映画のタイトルを検索するだけで「ネタバレ!」という文字がもれなく目に飛びこんでくる状態は、はたして幸福なことなのだろうか? お前がこの映画の価値を損ねるほど重大な「ネタ」とやらを、本当に知っているというのなら、一度じっくりとヒザをつき合わせて聞いてやろうじゃないか……と、意地悪な気持ちが起きる。

映画の価値を損ねるといえば、一部の映画で、キャラ萌え的な二次創作マンガを見かけると、たちまち見る気が萎えてしまう……という人に会ったこともあるし、僕自身、そういう気持ちになってしまうことがある。「映画には描かれなかったが、実はこの2人の関係は」と同性をカップリングさせたり、「もしこんなシーンがあったら、とても萌える」と妄想するようなマンガ。
妄想は自由なのだが、セリフや描写が元の映画に追いつくレベルではなく、とても貧しいことにガッカリさせられる。「この映画に熱中しているあなた方も、所詮この程度の人間描写に満足してるんだろ?」と、にやけ半分に肩をたたかれたような気分。
ちょうど、僕が著書()に書いた、「『うる星やつら』を好きってことは、どうせラムちゃんに欲情してるんだろ?」といった下賎な同族意識に巻き込まれたときの嫌な気持ちが、胸によみがえってしまうのだ。


ポルノ規制で、二次元コンテンツが真っ先に叩かれるのは、作者の人間性がダイレクトに露呈しやすいせいかも知れない。
「オッパイが大きい」とか「スカートが短い」といった数値化できる表現以上に、人間観だとか倫理観が、作者の意図をこえて伝播してしまうのではないだろうか。誤読の生じうる、かすかな振幅を認めないから、いつも「エッチなのはいけない」「エッチだと思うほうがいけない」といった、低レベルな言い争いに終始してしまう。

人間の高尚な部分を伝えられる表現は、人間の幼稚で汚い部分も、同様に伝えやすいのだ。そこをまず認めないと、話にならない。
自分が嫌悪されたり軽蔑される可能性を、つねに覚悟していないと、表現について語る、まして「守る」なんてことは出来ない。そして、ほとんどの人は、そこまでの勇気をもっていない。

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2016年12月24日 (土)

■1224■

【独占インタビュー】早見沙織・日笠陽子・嶋村侑・小清水亜美に聞く、アニメ「RWBY」の味わい方
T640_718207声優さんのインタビューは、いつもはお断りすることが多いのですが、他でもない『RWBY』で優れた演技を聞かせてくれた4人なので、喜んでお請けしました。
結果、主演4人による『RWBY』分析といってもいいぐらい、奥深いインタビューになりました。


インタビュー掲載が『RWBY VOLUME 3』発売日に間に合ったので、3時間、ノンストップで見直してみた。
VOLUME 3では、主人公たちが安らげる、何度でも平和な日常へリセット可能だった学園“ビーコン・アカデミー”の精神的、物理的崩壊を描いている。物語の舞台を解体する、壮大な試みだ。

その大きな転換のため、VOLUME 3では、これまでいっさい語られてこなかった「物語」がふたつも登場する。ひとつは、「四季の女神」のおとぎ話。主人公たちのチームが4人であることに呼応するように、4人の姉妹の物語が語られる。『RWBY』はお嬢さまや熱血漢、タイプの違う美少女キャラクターを楽しむ通俗性が前面に出ていたが、「四季の女神」が対置されることによって、彼女たちが「4人」であることが象徴性を帯びはじめる。


もうひとつ、主人公ルビーの瞳が銀色であることと関係する、「銀色の瞳をもつハンター」のT640_718305神話。おとぎ話や言い伝えの挿入が、主人公に避けがたい運命を付与していく。
「四季の女神」の物語が敵に利用された直後、「銀色の瞳」の言い伝えが出てくると、かなり煩雑な印象を与える。
しかし、ひとりになったルビーが、ひとりの少女を失った副チームに加わり、4人で旅立つラスト・シーンによって、ふたつの物語は役割を終え、『RWBY』という、さらに大きな物語へと回収される。「四季の女神」によって失われた少女の後継者として、「銀色の瞳」をもつルビーが代入されることで、彼女は二重三重に裏打ちされた強固な神話の中心を歩みはじめる。

ゆるやかに横に広がっていた平坦な作品世界が、縦に尖りはじめた。
口承される物語以外にも、.ルビーたちと敵対する女ボス、シンダーがいかにして2人の部下を得たのか、禍々しい回想シーンもある。


『RWBY』は、キャラクターの顔だけで「日本アニメの影響」と言われがちだが、作画を見てほしい。
VOLUME 3でいえば、飛行戦艦のうえに乗ったルビーが愛用の大鎌“クレセント・ローズ”を振り回すシーン。CGモデルを回しているだけではない。武器の輪郭を手描きで大きくブレさせていたり、複雑な形の“クレセント・ローズ”を、単なる赤い棒として描き、フレームいっぱいに何本も描いていたりする。
こうした極端なディフォルメーションは、金田伊功~今石洋之のライン上に位置しているのではないだろうか。『RWBY』のスタッフ、特に監督のKerry Shawcross氏が『天元突破グレンラガン』を「影響をうけたアニメ」として挙げていることを、無視すべきではない。


レンタルで、1995年の米映画『告発』。もう一本、なにか映画を見たいので、感想は後日。

(C) 2016 Rooster Teeth Productions, LLC

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2016年12月21日 (水)

■1221■

アニメ業界ウォッチング第28回:株式会社キュー・テックに聞く、Blu-ray制作の最前線 「勇者王ガオガイガーFINAL」の場合
T640_717839サンライズさんから、漠然と聞いていた話を、記事にさせていただきました。
僕がぎりぎり知っているのは、大学時代に編集したことのある16mmフィルムまでです。サンライズに一瞬だけ籍をおいていたときに触らせてもらった、セル画の入ったカット袋までです。
古いアニメに取材するときは、そういう微かな思い出が、ちょっとだけ役に立ちます。


東京芸術劇場で、『ロミオとジュリエット』観劇。演出の藤田貴大氏は、劇団「マームとジプシー」の主宰なので、本当はそっちを見たかった。だが、とりあえずS席5,500円、最終日に間にあった。
Rj_245原作はシェイクスピアだが、セリフやシーンの前後をシャッフルしている。同じシーン、同じセリフが何度もでてくる。そのスタイルに慣れるまで、ちょっと時間がかかる。
しかし、あらすじを追うのをやめると、途端に「演劇の形を借りたデザイン」の側面が立ち上がってくる。

わけても印象的なのは、たった二枚の巨大な板を使った、舞台装置だ。この板を、3人ぐらいの黒子が、押したり引いたり折り曲げたりしながら、たえず形を変えつづける。
その板の表面には、舞台上のカメラが撮っている俳優たちの演技がアップで映写されたり、「第○章」といった具合に文字が映されもするし、木漏れ日やジュリエットの飲む毒薬(が体内に広がっていくイメージ映像)すら映される。
つまり、そのたった二枚の板は、俳優の肉体をとりまく「世界の事象すべて」なのである。


ところが、舞台のうえには、「世界の事象すべて」に含まれないものもある。
出番のない役者は、舞台の端にある椅子に座って、じっと待機している。使われていないイントレランスやハシゴなども、隠さずに舞台のうえに置いてある。それらは、世界を構成するマテリアルではない。見えてはいけないはずのものだ。
「劇」「物語」に含まれない、属さないものが、観客の目の前に、わざと投げ出されているのだ。

演劇が、物語というエネルギーを内燃させることで、「現実のフリ」をする表現だとしたら、藤田貴大の『ロミオとジュリエット』では、「現実」に含まれないものまでもが、ありありと視覚化されている……演技していない役者、使われていない舞台装置などなど。
それは僕らの認識の外、脳で知覚できない「この世の外」そのものとは言えないだろうか。もしかすると、僕らが気がついていないだけで、認識不可能な「あの世のパーツ」が、僕らの現実をひそかに支えているのかも知れない。

藤田貴大は、演劇の様式を丁寧に、スタイリッシュに破壊する。そのひび割れた隙間から、思いもしなかった、名づけようのない概念が顔を出す。
そういう瞬間を、僕はいつでも待っているような気がする。

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2016年12月20日 (火)

■1220■

月曜の朝、新宿武蔵野館で『エルストリー1976 - 新たなる希望が生まれた街 -』を鑑賞。本日火曜、地元の吉祥寺オデヲンで『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』()3D吹き替え版を鑑賞。
Mv61279lエルストリー・スタジオは、イギリスにある巨大スタジオで、第一作『スター・ウォーズ』も、エルストリーで撮影された。そこで、ジョージ・ルーカスが苦悶のうちに撮影を終え、まったく理想に届かない大失敗作を撮ってしまった……という証言は、それこそ山のように出てくる。
『エルストリー1976』は、その当時、『スター・ウォーズ』を自主映画かテレビ・ムービーだと思っていた端役の人たちが、その後、各地のSFコンベンションで、新たな人間関係や人生観を獲得していく証言を追ったドキュメンタリーだ。

だが、ダース・ベイダーを演じたデヴィット・プラウズ、ボバ・フェットを演じたジェレミー・ブロックについては、大著『スター・ウォーズはいかにして宇宙を征服したのか』でもインタビューされており、正直にいうと、あまり新鮮味のある話は出てこない。
それでも、第一作(エピソードⅣという呼び方は、ふさわしくない気がする)に、格別の価値を授けた超大型ブースターである『ローグ・ワン』を見たあと、子ども向けのテレビ・ムービーだと当事者たちになめられていた頃の『スター・ウォーズ』に、その後の時代を知るよしもなく出演していた無名の俳優たちの声を聞くことには、特権的な魅力があるように思える。
その特権を享受したければ、『エルストリー1976』の上映が終わる前に急いで観にいけ!としか、言いようがない。この手のドキュメンタリーは、レンタル屋に入荷することも珍しいからだ。


『ローグ・ワン』と『エルストリー1976』は、いやおうなく第一作『スター・ウォーズ』をサンドイッチして、その歴史的価値を問いなおす。悪評ふんぷんだった第一作の唯一の救世主が、20世紀フォックスの重役、アラン・ラッド・Jrであったことは有名な話である。もうひとり、ルーカスフィルム社のマーチャンダイジング担当、チャーリー・リッピンコットの存在を忘れてはならない。
誰ひとり見向きもしなかった『スター・ウォーズ』のフィギュア化企画を、せっせと営業して歩いたのはリッピンコットだし、各地のコンベンションに出向いてSFファンを最初の味方につけたのも、リッピンコットである。

すなわち、『スター・ウォーズ』が他の映画にくらべて決定的に異質だったのは、登場キャラクターが「商品」として認識されたことだ。ストーム・トルーパーやXウィング・パイロット、ワンシーンしか登場しないグリード、いやダース・ベイターすらも、フィギュア化されなければ、今日ほど世界的に通用するシンボルとはなっていなかっただろう(だから、『エルストリー1976』では、俳優を紹介する前に、必ずフィギュアの写真が映る)。

マーチャンダイジングの常識はずれな成功が、端役を演じた俳優たちに商品的価値を与えてしまったのだ。『エルストリー1976』に登場した俳優たちは、「映画の出演者」というより「フィギュア化された人」としてマニアから愛されているのかも知れず、その隔靴掻痒たる思いを裏づけるセリフは、同作のあちこちに見ることができる。


もうひとつ。『スター・ウォーズ』は、ひとりひとりが細部を発見して楽しむ映画だった。
いちど見ただけでは、すべてを把握できない。誰も、Xウィングファイターの一機ずつ異なるディテールや、モス・アイズリーにいたエイリアンやドロイドの数を言い当てることはできない。何度も何度も映画館に足をはこび、たまたま「こんなキャラクターが画面の端っこにいた」と見つけた人が、子供っぽい誇らしさを感じる。
「僕だけが見つけた」快感が、いささか歪んだ経路で、愛着へと変容していく。登場人物はアクターではなくキャラクターであり、映画の些細なディテールに、過剰な価値が見出された。大失敗だったはずの「子供向けのテレビ・ムービー」「自主映画」は、マニアの偏愛(一般人のマニア的好奇心)を、一身に集めてしまった。

『ローグ・ワン』も『エルストリー1976』も、「すでに発見された後」の『スター・ウォーズ』をめぐる映画だ。
今後、果たして我々は「商品価値」以外の愛し方を、出演者たちにしてやれるのだろうか? 「これこそが『スター・ウォーズ』だ!」「こんなのは『スター・ウォーズ』ではない!」などという無責任で盲目的な、一方通行の評価軸を捨てることができるのだろうか?
考え直すなら、この冬だ、という気がする。

(C)ELSTREE 1976 LIMITED, 2015

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2016年12月17日 (土)

■1217■

片渕須直監督と僕ら観客とで探す“アニメーション映画の居場所”
T640_717819このインタビューは僕の企画ではなく、アキバ総研さんから依頼されたものです。だけど、インタビューの交渉やテーマは僕に委ねられていたので、三鷹コミュニティシネマ映画祭で監督が話したがっていた「映画と観客の関係」について、お聞きしました。


『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』。公開初日に、40年前に『スター・ウォーズ』に熱中した友人と2人で。
64012昨年の『フォースの覚醒』には、ファンタジックな要素は満載だったかも知れないが、『スター・ウォーズ』第一作の構想時から意識されていた政治や戦争の要素は、ごっそり抜け落ちていた。『ローグ・ワン』は逆である。政治と戦争だけで構成されている。反乱同盟軍は一枚岩ではなく、内部に思想的・倫理的な対立がある。最前線の兵士たちは、上層部の決定に承服しかねて苦悩する。また、仲間同士が簡単に信じあったりはしない。個人と組織のあいだに、駆け引きがある。
そうした緊張感に満ちた、きわめて現代的な戦争ドラマを、最後の最後でクラシカルで夢にあふれた第一作の世界に直結させる。その大胆さに、この企画の値打ちがある。光り輝くような美しいラスト・カットに、「あっ」と声が出そうになった。

「第一作のストーリーの裏には、実はこんな秘話が」と種明かしするような、下卑た映画ではない。「ストーリーの空白を埋める」などという、幼稚な試みでもない。
デス・スターの破壊力は言葉を失うほど絶望的で、泥や雨にまみれた戦いは、進めば進むほどに希望を奪っていく。容赦のないアンチ・クライマックスだが、それでもハッピーエンドと言わざるを得ない、卓越した構成力をもった映画だ。
まるで第一作『スター・ウォーズ』の引力を使ったスイング・バイ航法のように、作品の価値を無限のかなたに放り投げて、いさぎよく終わる。


『スター・ウォーズ』といえば、ファーストカットは宇宙船なのだが、ギャレス・エドワーズ監督は、まずその見えすいたお約束を、鮮やかに引っくり返す。画面に映りこんでいるのは宇宙船の一部……と思いきや、惑星をかこむリングなのだ。
もちろん、「聞くだけで涙する」と言われる、おなじみのオープニング・テーマもない。エドワーズ監督は、脊髄反射で客を泣かせるような安易な演出を、極力避けている。観客は、パブロフの犬ではないのだ。この映画は、ノスタルジアに隷属していない。2016年の、独立した一本の新しい映画だ。日食のように太陽をさえぎって現れるデス・スター、特殊な船を使ったスター・デストロイヤーへの打突攻撃、すべてが強烈な、見たことのないビジュアルだ。
舞台となる惑星は地味だし、リアリティのレベルが『スター・ウォーズ』の空想性からは乖離している。ストーム・トルーパーのコスチュームは泥で汚れているし、兵種ごとに細分化されているし、他シリーズとは矛盾するディテールもある。だからこそ、ラストで『スター・ウォーズ』のきらびやかなルックスが登場したとき、ハッとさせられる。

その一方で、エピソード1~3を切り離さないところに好感をもった。ダース・ベイダーが最初に登場する場所は、彼の誕生した惑星ともいえるムスタファーだ。モン・モスマとベイル・オーガナは、『シスの復讐』と同じく、ジェネヴィーヴ・オーライリーとジミー・スミッツが演じている。
歴史に敬意をはらいつつ、「そこに在る物は、惜しみなく使う」姿勢が気持ちいい。いや、すでに無いはずのものすら画面に登場させるテクニック、挑戦心にも感心させられる。


マーケティングとしては、観客のノスタルジアにうまく訴求した『フォースの覚醒』のほうが正しいのだろう。『ローグ・ワン』は、少数の観客から熱狂的に支持されるタイプの映画なのかも知れない。

いま、映画に対する評価のしかた、映画に期待されるものが、どんどん粗っぽくなっていて、「今年ナンバーワン」「邦画ではナンバーワン」「ここ10年で最高」といった極端な誉め方が目立つ。スピンオフや前日譚なら、つじつまが合っているか矛盾点がないか、答え合わせのような目にあう。挙句、「ツッコミどころ満載」などと笑われてしまう。自分の目で見た作品なのに「佳作」「良作」と、他人事のような誉め方をする感覚も、まったく雑だと思う。
『ローグ・ワン』は、一部の人にとっては血となり肉となり、生きていくうえで心強い支えとなってくれるだろう。映画の立ち位置、企画成立の過程、今後どの映画も『ローグ・ワン』のような道をたどることはない。もちろん、続編もない。後にも先にも、この一本だけだ。それだけで、この映画は愛するに値する。

(C) 2016 Lucasfilm Ltd. All Rights Reserved.

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2016年12月14日 (水)

■1214■

レンタルで、友人に薦められた『デス・プルーフ』。
Deathproof122820129年前の映画なので、「何をいまさら」と笑われそうだけど、これこそ300年後に残すべき映画でしょう。動機も根拠もないカーチェイスを、ただひたすら大真面目に撮りつづける。それを吸いつくように見ている俺は、いったい何がどう楽しいのだろう? この一瞬先、さらなる壮絶なクラッシュを、死人が出るのを期待してるんじゃないのか? たとえではなく、本当に脳から快楽物質が出つづけている。映画に巣食っている文学性や演劇性を、『デス・プルーフ』は力づくで追い出してしまう。

タランティーノが、映画の内側を清浄にするよりも、映画の外側にこびりついている垢や汚れを貪欲にフィルムになすりつけたいのは、よく分かる。映画の前編では、パーフォレーションの欠損によるコマの飛び、カットのブツ切りまで、丁寧に再現している。
その前編は、まさかと思うほどエグい、壮絶なカー・スタントによって、破滅的に幕をとじる。カー・スタントを成立させるために、シーンとセリフを全力投入しているので、ドラマ性は皆無。後編も同様。スタントマンの女性たちが登場するのは、カー・スタントを縦横に見せるための方便にすぎないので、そこを突っ込んでも意味がないし、意味がない映画に突っ込むのも野暮。意味なんてなくても面白いし、意味がないから、脳をつきぬけるほど面白いのかも知れない。

こんな衝動的で快楽至上主義で、アクションを見せるためだけに特化した、その結果、あらぬ方向へ純度の高まってしまった奇怪な映画(の形をした見世物)にまで、やっぱり「百点満点で○点」だとか「以下ネタバレです」だとか、「これまで使ってきた定規」を押し当てないと何も語れない保守的な人たちはいるんだなあ……。
作品の価値をはかる定規なんて、作品ごとに持ち替えるしかないと思うんだが、開け放たれた牢獄の扉からすら走りだしたくない臆病者が、世の中の大半なのかも知れない。

そういう臆病者ですよ。「廣田さんも映画好きなんですか? じゃあ、今年上半期のベスト10は?」とか聞いてくるヤツらは。今年の映画だけを見てるわけないだろ。50年前の映画だって今年の映画だって、レンタル屋に行けば、同じ棚に同じサイズで並んでるだろ? それなのに、ひとつひとつ意味や定義や形式、考え方や表現のしかたが違っているから、いっぱい見るわけだろ?
いままで使っていた定規を、今夜、捨てられるかも知れない。新しい定規が手に入るかも知れない。だから、映画を見ているんだけど。


いつも、そこで食い違う。
オタク的な趣味をもっていると、必ず「知らないの?」「俺のほうが知ってるよ」と、知識量のマウンティングが始まる。いくら知っていても、自分の価値観や生き方が変化する可能性を考慮しなければ、知っている意味がないんではないだろうか。

だけど、多くの人にとっては、「変わらない」ために、趣味や創作物が必要みたい。
オタクの人は、愛情に恵まれずに育ったり、つらい幼年時代をすごした末に、二次元の世界を避難所にした場合が多いように思うので、温室を確保しておきたい気持ちは分かる。
もともと足場が心もとないのに、地面から揺さぶられたくはないだろう。世界は平静で安全で、これ以上は悪くなりようがないのだ――と、信じたいだろう。

でも、それでは結局、負けてしまう。
僕は、どんな衝撃にも備えておきたい。どんなに世界が悪くなっても、同じ方向へ折れはすまい。だから、正反対のように見える価値観を身につけておきたい。ウソも本当のうち。本当もウソのうち。矛盾を受け入れ、最悪に備えたい。最悪に備えていなければ、最善も最高も迎えられないと、僕は信じている。

(C) 2007 The Weinstein Company

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2016年12月12日 (月)

■1212■

ホビー業界インサイド第18回:フィギュアショップの提案する、造形作家とファンとの幸福な出会い 豆魚雷・原田プリスキンインタビュー!
T640_717088レジンキットを手で組み立てて塗装し、それを完成品として販売する……ビジネスとしては、かなりハイリスクです。
しかし、「限定一個でもいいから販売したい」気持ちは痛いほど分かるし、作家も買い手も、誰も損をしない世界を構築できるなら、それはそれで美しい姿だと思いました。

模型関連では、以下のブログは必読。
あなたは下乳と横乳の境界をその目で見たことがあるか(あるいは、腰と尻の境目の話)。
この人はランナーフェチでも変態でもなくて、単に、プラモデルのアーキテクチュアルな魅力を伝えたいだけです。……というか、自分が何を見たのか、発見したのか検証せず、感情的に「好きだ」「ダメだ」と、みんな結論を急ぎすぎ。
完成させたあとの写真だけパカパカ撮って、「いいキットでしょ?」というレビューも、多すぎです。


レンタルで、ハインライン原作の『プリデスティネーション』。
201502260010000view1985年に発明された、ダイヤル式のタイムマシンが登場し、1960~70年代を行き来する、レトロ風味のSFサスペンス……いや、SFというよりは、物語の奇妙な循環構造に頭脳をのっとられる、迷路のような映画。
1960年代に宇宙飛行士を養成する名目で、女性ばかりが集められる。現実には、そんな組織も会社も存在しなかったはずなのだが、この映画は、お構いなしにレトロ・フューチャーなデザインの宇宙旅行シミュレーターを登場させる。物語のバックボーンに、ありきたりなリアリティを敷いていないところが、カッコいい。

何よりも、これは「顔」の映画だ。年齢や性別を超越したひとりの主人公を、ひとりの俳優が、あるいは複数の俳優が、さまざまなメイクでバトンリレーのように演じていく。
映画の最初では、複数の「顔」を、バラバラに認識している。もちろん、混乱する。俳優の「顔」を眼が識別するうちに、脳が「これはひとりの人物だ」と類推していく、その過程が面白い。


「コードギアス」イベント、公式が「ネタバレ厳禁」と念を押すも速攻でネタバレ記事が出回る 公式「オタク.comとはちま起稿には厳重注意する」(

『シン・ゴジラ』のラッシュ試写では、「コレとコレについては、公開まで触れないでください」「○日の○時になったら、試写会のことを書いても可です」と、誓約書をかわした。それぐらい定義を明確にしないかぎり、情報の漏洩をふせぐことは不可能だと思う。
「ネタバレ」という俗語に、何らかの強制力を期待しているとしたら、かえって危険な気がする。試写会で「ネタバレはご遠慮ください」などと言われた場合、僕はもう、映画のタイトルすら、ネットには書かない。後から、あれこれ注意されたくないから。すなわち、「話題にすらしない」。

「私たちが言ってほしくない情報を、なんとなくモヤッと察して、口外しないでください」という漠然とした願望を、「ネタバレ禁止」と言い換えて他人の自由を拘束できると本気で思っているとしたら、ちょっと怖い。
社会の裏側に、「他人に言うことを聞かせた側の勝ち」といった、パワハラ的な願望が渦巻いている……と、たまに感じる。仕事でパワハラ的な言動をとられたら、僕は全速力で逃げ出すようにしている。

(C)2013 Predestination Holdings Pty Ltd, Screen Australia, ScreenQueensland Pty Ltd and Cutting Edge Post Pty Ltd

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2016年12月 9日 (金)

■1209■

Febri Vol.39 明日発売
Czio4c5usaezetm●Febri Art Style
今回は『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』で、美術監督の川本亜夕さんにインタビューしました。
ロボット物の背景美術は、美術設定(デザイン)がメインで、あとは色を塗るだけだろう……などと思っていると、意外とアドリブで落書きや汚しを入れたりしていて、けっこう面白いのです。

僕は、下手をすると、キャラクターよりも美術を気にするところがあるのですが、どうすれば美術に興味をもってもらえるのか。『オルフェンズ』ファンの人が、果たして、この記事にたどりつくことがあるのか。


さて、僕がモデルグラフィックス誌で応援のための連載を始めたころは、載せられる話題がなくて、本当に困っていた『この世界の片隅に』。地元の吉祥寺でも、上映されることになった。先日、片渕須直監督とお会いしたときは、「『マイマイ新子と千年の魔法』だったら、そろそろ上映が終わりはじめる時期ですよね……」と、苦笑しあった。

本当は、ファンが自腹をきって作品の上映を継続させるなんて、やらないほうがいい。
それでも、「ラピュタ阿佐ヶ谷のレイトショーが連日満席にならなければ、今度こそ本当に『マイマイ新子』は終わってしまう」と、宣伝担当が笑いもせずに電話口で言ったとき、凍りつくような気持ちがした。
僕は毎夜、違う知り合いを誘って、ラピュタ阿佐ヶ谷に通った。『マイマイ新子』を気にいってくれた友人が、また別の知り合いを誘って、次の夜に来る……同じような連鎖反応が、あちこちで起きていたのだろう。
「そんなにお客が入る映画なら、ウチでも」と、独立系の映画館が興味を示してくれた。その後、ラピュタ阿佐ヶ谷のアンコール上映は、満席になるのが当たり前になった。
そこまで来られたら、もう僕の役割は終了だ。それから後は、好きなときに、好きな映画館へ見に行ったり、2011年の震災後、福島県で上映会をやったぐらいだ。


「もう大丈夫だな」「勝手に広がっていくな」と思えるまでは、やれることをやった。
それだからこそ、『この世界の片隅に』を地上波テレビでも宣伝すべきだ、5億円では興収が足りない、20億円ぐらい稼げ……と、勝手な願い事をインターネットという短冊に書いている星目がちな人たちを見かけると、「気楽でいいね」とため息が出る。
だったら、テレビで宣伝してもらえるよう、テレビ局にメールでもすればいい。興収を伸ばしたければ、自分で宣伝すればいい。僕らは、『マイマイ新子』のチラシを自分たちでデザインして、自分たちで刷って、手分けして街頭で配った。今は、もっと賢いやり方があるかも知れないじゃん?

あのね、「なんで世の中、こんなにつまんないんだ」って思ってるでしょ? 願い事だけネットに書いて、どうにもならないと嘆いているあなた方が、つまらなくしてるんだよ。「こうすれば、きっと好転するぞ」って動き出せば、誰かがリアクションしてくれる。反発はくらうだろうけど、反発もリアクションのうちなので。


いま、『RWBY』のことをTwitterで勝手に宣伝しているけど、「あんなもののどこが良いの?」「宣伝してるヤツは、本気で好きじゃないんだろ?」とか、いろいろ言われるわけ。
で、そういう人たちは、えんえんと「アレが気にいらない」「コレをどうにかしろ」って苛立っているばかりで、自分からは何ら建設的な発言はしない。ただひたすら、己の好奇心と行動力を鈍磨させたまま、文句をたれながら無駄死にしていくんですよ。

そういう嘆き癖のついた人たちを見かけると、僕は、ますますやる気が出てしまう。

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2016年12月 6日 (火)

■1206■

レンタルで、スペイン映画『マジカル・ガール』。
2700x393日本の魔法少女アニメが出てくる……と、話題になった映画だが、それはディテールにすぎない。ディテールにすぎないのだが、フックとしてはうまく機能している。映画には、確かに「魔法少女」が登場する。しかも、2人。
ビジュアル的に視認できる魔法少女と、文芸的な、暗喩としての魔法少女。その2人が、「魔法」を行使することによって、物語を起動させる。

宝石店を襲い、金品を奪おうと決意した男が、路上から石を拾う。その石で、夜中の宝石店のショーウィンドウを割ろうというわけだ。カメラは、ショーウィンドウの内側から、フィックスで男を撮っている。さあ、いよいよ石を振り上げてガラスを割るぞ……というタイミングで、男の頭上からオレンジ色の液体がまかれて、彼がギョッとしたところで、シーンは終わる。
そのオレンジ色の液体は、誰がまいたのか? しばらく説明がない。時系列をズラしながら、関係ないように思われたプロットが、少しずつ寄り合わされていく。離れていたカットとカットが、パズルのピースのように、ぴったりとはまる。
映画のファーストシーンで、数学教師が「たとえ言語が異なろうと、2+2は4だ。絶対の真理だ」と言う。実は、そのセリフがすべてを言い切っている。どうにも引き返せない、なるようにしかならないシチュエーションを、冷淡に見せる映画。かっちりした構成に、機能的なカメラワーク……。

きわめてニヒリスティックな映画だ。しかし、構成もカメラも、とてもよく計算されている。こういう映画は、好みとは関係なく、観ておいたほうが良い。
あと、衣装がいい。豪華というわけではなく、たとえヨレヨレの服でも、とても品のいい衣装を選んでいるので、そこも良かった。


昨夜は、『RWBY』のメインスタッフ(Kerry Shawcrossさん、Gray G. Haddockさん、Miles Lunaさん)を招いてのウェルカム・パーティ。実は今日、3人にインタビューすることになった。
なので、挨拶ぐらいすべきだと言われたのだが、すみません、途中で帰りました。日本の関係者の皆さんが原作スタッフと接するパーティなので、それに徹していただいたほうがいい。
それと、ひとつ文句がある。あれだけ大勢の「関係者」がいるのに、なぜ初日舞台挨拶の取材に来たのが、僕とアキバ総研の担当者、たった2人だけだったのだろう? 昨夜のパーティに来た人の一割でもいいから、応援にきてほしかった。
もし、パーティに来た人、ひとりと話すたびに、『RWBY』の観客がひとりずつ増えていくのだとしたら、僕は全員と話すよう、努力したと思う。とにかく、もっと『RWBY』にヒットしてほしい。僕は、興味を持ってくれそうな友だちに、公式動画のURLを教えて、見てもらえるようメールしている。

いつも思うことだけど、酒の席で、なあなあで知り合った相手のご機嫌をとりつつ、「今度、おもしろいことしましょうよ」なんて空虚な会話に加わる気は、僕にはさらさらありません。
昨夜のパーティに来た人たちの中には、キャラクター名すら知らない人がいた。悪いけど、会社に言われて、お仕事として来たんでしょ? そういう人と名刺交換して、なにか作品にプラスになること、ありますか?

僕は、日本語版声優の4人の方たちから、愛情のこもった素晴らしいお話を聞けたので、それを原稿にしました。本当は、もうこれ以上、『RWBY』のインタビューは載せられない。だけど、作品のためなら、無理をしましょう。僕のキャリアは、そのために積み上げてきたんですよ。「俺様は、○○監督にインタビューした、偉いライターです」といばるためじゃありません。
作品に、ちょっとでも貢献する。そのために、雑誌やウェブに記事を書いてきたんですよ。記事を売りこめる、取材を持ちかけられる、依頼してもらえるようにしてきたのは、作品のためでしょ?


『ゼーガペイン』もそう、『マイマイ新子と千年の魔法』もそうです。作品の質がいいのに、ヒットに恵まれない作品には、かならず理由があって、どこかでボタンをかけ違えています。
それを嘆いても仕方ないから、1ページでも、一文字でも多く、作品のことを書く。良さを伝える。書かせてもらえるよう、交渉する。そのための、僕の命でしょう。
それが、50歳にもなって、いまだアニメを好きでいつづけることの意味ですよ。

この世界に不満があるなら、不満を感じなくてすむように改善する。具体策を考える。
「良くしよう」としなければ、良くなりません。みんなが「良くしよう」と真剣に考えたら、この世界は豊かになると、僕は信じています。

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2016年12月 4日 (日)

■1204■

昨日は『RWBY VOLUME3』上映初日、新宿ピカデリーにて舞台挨拶。なんと、取材に来たのは僕ら「アキバ総研」チームのみ。せっかく最前列を空けてあったのに、もったいない。
320そして、二度の舞台挨拶後、4人の主演声優さんにインタビュー。日笠陽子さんには、『惡の華』メイキングブックで取材したことはあったが、もともと声優さんの取材を避けてきた僕にとって、他の方たちは初対面。しかしまあ、4人の皆さん、あまりにも役を深く読みこんでらしたので、びっくり仰天した。あと、音響監督さんの役割も、はじめて声優さんの口から聞けた。
日本のアフレコは、世界にも類を見ない特殊技能。しかし、よい役との出会いこそが、その能力を育むのだと思う。『RWBY』には林原めぐみさんも出演したし、この作品が、一種のステイタスを築きつつあると思う。

そして、楽屋(スクリーン1のプラチナクラブカフェ。『ゼーガペインADP』のオールナイトでも控え室に使われていた)に、来日中のKerry Shawcross(監督/脚本)さん、Gray G.Haddock(共同監督/スーパーバイジングプロデューサー)さん、Miles Luna(共同監督/脚本)さんがいた。明日の夜、ウェルカム・パーティに呼ばれているのだが、何か話せるだろうか……。


取材があいつぎ、まったく映画を見れていないのだけど……。

新潟の小学校 担任、原発避難児を「菌」 いじめ相談後に発言

これが、日本なんだと思います。もし原発事故がなくて、児童が原発被災者でなくとも、この教師は、別の子供を蔑んでいたはずです。教師ってのは、そういう職業です。
小中学校の9年の間に、大人から自尊心を奪われたら、とりもどすのに何十年もかかります。で、自尊心が欠損したまま、社会で「男は男らしく」「女子力が落ちた」だの言われるから、蔑みの対象となる他人、弱者を探しはじめる。
痴漢をした男性が「自分が男であることを確かめたかった」と言い訳するのは、社会や教育に自尊心を奪われたのに、「男」であることを強要されている証拠だろうと思う。

他人を侮蔑したい人って、侮蔑するのが最優先目標なんですよ。
例えば「あいつは生活保護を受けているから叩こう!」と言っている人は、相手が仕事を見つけて生活保護を受けなくなっても「そんなのは仕事のうちに入らん!」と、叩きつづける。その、叩きたい衝動は「自尊心の欠損」にあるので、止めることができない。
ヘイトスピーチも性犯罪も、「相手を侮蔑することで、己の劣等感をうやむやにして、かりそめの全能感にひたる」ことが目的なんだと思います。


なので、ヘイトスピーチの中身や性犯罪の中身を、いくら細かく定義して罰しようとしても、根本的解決にならない。傷を見えなくしても、中身は化膿したままなので。
暴言や失言で炎上したあと、「誤解をまねく表現だった」「真意が伝わらなかった」「不適切だった」など、どうとでも受けとれる曖昧な理由で発言を削除し、差別意識や薄汚い優越感だけは温存される、あの空虚な図式と似ている。

子供の敵は、大人。味方だと思っていた子供も、いつの間にか成長して、どんどん敵になっていく。

(C)Rooster Teeth Productions, LLC.

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