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2016年12月21日 (水)

■1221■

アニメ業界ウォッチング第28回:株式会社キュー・テックに聞く、Blu-ray制作の最前線 「勇者王ガオガイガーFINAL」の場合
T640_717839サンライズさんから、漠然と聞いていた話を、記事にさせていただきました。
僕がぎりぎり知っているのは、大学時代に編集したことのある16mmフィルムまでです。サンライズに一瞬だけ籍をおいていたときに触らせてもらった、セル画の入ったカット袋までです。
古いアニメに取材するときは、そういう微かな思い出が、ちょっとだけ役に立ちます。


東京芸術劇場で、『ロミオとジュリエット』観劇。演出の藤田貴大氏は、劇団「マームとジプシー」の主宰なので、本当はそっちを見たかった。だが、とりあえずS席5,500円、最終日に間にあった。
Rj_245原作はシェイクスピアだが、セリフやシーンの前後をシャッフルしている。同じシーン、同じセリフが何度もでてくる。そのスタイルに慣れるまで、ちょっと時間がかかる。
しかし、あらすじを追うのをやめると、途端に「演劇の形を借りたデザイン」の側面が立ち上がってくる。

わけても印象的なのは、たった二枚の巨大な板を使った、舞台装置だ。この板を、3人ぐらいの黒子が、押したり引いたり折り曲げたりしながら、たえず形を変えつづける。
その板の表面には、舞台上のカメラが撮っている俳優たちの演技がアップで映写されたり、「第○章」といった具合に文字が映されもするし、木漏れ日やジュリエットの飲む毒薬(が体内に広がっていくイメージ映像)すら映される。
つまり、そのたった二枚の板は、俳優の肉体をとりまく「世界の事象すべて」なのである。


ところが、舞台のうえには、「世界の事象すべて」に含まれないものもある。
出番のない役者は、舞台の端にある椅子に座って、じっと待機している。使われていないイントレランスやハシゴなども、隠さずに舞台のうえに置いてある。それらは、世界を構成するマテリアルではない。見えてはいけないはずのものだ。
「劇」「物語」に含まれない、属さないものが、観客の目の前に、わざと投げ出されているのだ。

演劇が、物語というエネルギーを内燃させることで、「現実のフリ」をする表現だとしたら、藤田貴大の『ロミオとジュリエット』では、「現実」に含まれないものまでもが、ありありと視覚化されている……演技していない役者、使われていない舞台装置などなど。
それは僕らの認識の外、脳で知覚できない「この世の外」そのものとは言えないだろうか。もしかすると、僕らが気がついていないだけで、認識不可能な「あの世のパーツ」が、僕らの現実をひそかに支えているのかも知れない。

藤田貴大は、演劇の様式を丁寧に、スタイリッシュに破壊する。そのひび割れた隙間から、思いもしなかった、名づけようのない概念が顔を出す。
そういう瞬間を、僕はいつでも待っているような気がする。

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