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片渕須直監督と僕ら観客とで探す“アニメーション映画の居場所”(■)このインタビューは僕の企画ではなく、アキバ総研さんから依頼されたものです。だけど、インタビューの交渉やテーマは僕に委ねられていたので、三鷹コミュニティシネマ映画祭で監督が話したがっていた「映画と観客の関係」について、お聞きしました。
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『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』。公開初日に、40年前に『スター・ウォーズ』に熱中した友人と2人で。昨年の『フォースの覚醒』には、ファンタジックな要素は満載だったかも知れないが、『スター・ウォーズ』第一作の構想時から意識されていた政治や戦争の要素は、ごっそり抜け落ちていた。『ローグ・ワン』は逆である。政治と戦争だけで構成されている。反乱同盟軍は一枚岩ではなく、内部に思想的・倫理的な対立がある。最前線の兵士たちは、上層部の決定に承服しかねて苦悩する。また、仲間同士が簡単に信じあったりはしない。個人と組織のあいだに、駆け引きがある。
そうした緊張感に満ちた、きわめて現代的な戦争ドラマを、最後の最後でクラシカルで夢にあふれた第一作の世界に直結させる。その大胆さに、この企画の値打ちがある。光り輝くような美しいラスト・カットに、「あっ」と声が出そうになった。
「第一作のストーリーの裏には、実はこんな秘話が」と種明かしするような、下卑た映画ではない。「ストーリーの空白を埋める」などという、幼稚な試みでもない。
デス・スターの破壊力は言葉を失うほど絶望的で、泥や雨にまみれた戦いは、進めば進むほどに希望を奪っていく。容赦のないアンチ・クライマックスだが、それでもハッピーエンドと言わざるを得ない、卓越した構成力をもった映画だ。
まるで第一作『スター・ウォーズ』の引力を使ったスイング・バイ航法のように、作品の価値を無限のかなたに放り投げて、いさぎよく終わる。
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『スター・ウォーズ』といえば、ファーストカットは宇宙船なのだが、ギャレス・エドワーズ監督は、まずその見えすいたお約束を、鮮やかに引っくり返す。画面に映りこんでいるのは宇宙船の一部……と思いきや、惑星をかこむリングなのだ。
もちろん、「聞くだけで涙する」と言われる、おなじみのオープニング・テーマもない。エドワーズ監督は、脊髄反射で客を泣かせるような安易な演出を、極力避けている。観客は、パブロフの犬ではないのだ。この映画は、ノスタルジアに隷属していない。2016年の、独立した一本の新しい映画だ。日食のように太陽をさえぎって現れるデス・スター、特殊な船を使ったスター・デストロイヤーへの打突攻撃、すべてが強烈な、見たことのないビジュアルだ。
舞台となる惑星は地味だし、リアリティのレベルが『スター・ウォーズ』の空想性からは乖離している。ストーム・トルーパーのコスチュームは泥で汚れているし、兵種ごとに細分化されているし、他シリーズとは矛盾するディテールもある。だからこそ、ラストで『スター・ウォーズ』のきらびやかなルックスが登場したとき、ハッとさせられる。
その一方で、エピソード1~3を切り離さないところに好感をもった。ダース・ベイダーが最初に登場する場所は、彼の誕生した惑星ともいえるムスタファーだ。モン・モスマとベイル・オーガナは、『シスの復讐』と同じく、ジェネヴィーヴ・オーライリーとジミー・スミッツが演じている。
歴史に敬意をはらいつつ、「そこに在る物は、惜しみなく使う」姿勢が気持ちいい。いや、すでに無いはずのものすら画面に登場させるテクニック、挑戦心にも感心させられる。
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マーケティングとしては、観客のノスタルジアにうまく訴求した『フォースの覚醒』のほうが正しいのだろう。『ローグ・ワン』は、少数の観客から熱狂的に支持されるタイプの映画なのかも知れない。
いま、映画に対する評価のしかた、映画に期待されるものが、どんどん粗っぽくなっていて、「今年ナンバーワン」「邦画ではナンバーワン」「ここ10年で最高」といった極端な誉め方が目立つ。スピンオフや前日譚なら、つじつまが合っているか矛盾点がないか、答え合わせのような目にあう。挙句、「ツッコミどころ満載」などと笑われてしまう。自分の目で見た作品なのに「佳作」「良作」と、他人事のような誉め方をする感覚も、まったく雑だと思う。
『ローグ・ワン』は、一部の人にとっては血となり肉となり、生きていくうえで心強い支えとなってくれるだろう。映画の立ち位置、企画成立の過程、今後どの映画も『ローグ・ワン』のような道をたどることはない。もちろん、続編もない。後にも先にも、この一本だけだ。それだけで、この映画は愛するに値する。
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