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EX大衆 12月号 発売中
●機動戦士ガンダム THE ORIGIN モビルスーツ・ヒストリー
記事の構成・執筆と、主題歌の森口博子さんにインタビューしました。
森口さんは同い年ですが、おおらかでキラキラしていて、本当に素敵だった。『ゼーガペインADP』の仕事でも、新居昭乃さんにインタビューできたのが嬉しかった。試写会で再会できて、なおさら嬉しかった。
やっぱり、同世代以上でステージに立っているような女性に、ドキドキします。
あと、今度の『THE ORIGIN』は月面でのモビルスーツ戦が傑出した出来ばえなので、いままで敬遠していた人も見てほしいですね。宇宙を飛ばず、月面の6分の1重力下で重々しい戦闘をしているので。
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昨夜は、横浜STスポットにて、劇団ロロの『すれちがう、渡り廊下の距離って』。こんな小さな小屋での演劇は、本当に久々だ。登場人物は、わずか4人。そのうちひとりが、映画『転校生』の話をする。男女がいれかわる、アレである。『転校生』のアイデアが、大きな伏線になっている。登場人物のひとりは映画の撮影をするために待ち合わせしているが、友だちは現れない。代わりに、通りかかった女生徒が「私が映画に出てあげる」と、代役を申しでる。
もうひとつは、男同士のストーリーだ。片方が、ケンカした彼女にメッセージを託す。その彼女は、舞台には登場しない。メッセージをあずかった男が戻ってきて、彼女の言葉をそのまま反復する。
つまり、舞台の外側に不在の男と女がいて、それぞれ実在の女と男が、性別を逆転しながら代役を演じる。演劇の中に、さらに劇を懐胎させる多層構造になっている。劇中劇より、もっとプリミティブな試みだ。
明らかにその場にいない人物を、その場にいる役者が演じる。「演じられている」とは、すなわち「存在しない」ことの証。存在しないからこそ、演じることによって「仮に存在させる」しかないのだ――その演劇の原理を強調すると、演劇それ自体が空疎化される。というより、演劇が内側から瓦解し、意味を失ってしまうのである。とてもエキサイティングな作品のはずなのだが、大量の笑えないギャグが、せっかくの試みを台無しにしている。
こういう小スケールの演劇は、観客と一緒に笑えればOKという雰囲気があり、僕はそれが苦手だ。だけど、もっと演劇に行く頻度を高めようは思っている。
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『この世界の片隅に』、立川シネマシティにて。関係者試写では細部が未完成だったそうなので、これでようやく本物を目にしたことになる。六割ぐらいの入りの客席では、大きないびきが聞こえ、それでも最後には拍手が起きた。
そして、この映画の真骨頂は、やはり悲劇が起きてからの後半なのだと確信した。僕は、原作に出てくる原爆の被災者は出さないですませるのではないか? 出すとしても表現を控えめにする(シルエットにするとか)のではないか?と、勝手に思っていた。そうではなかった。
この映画で、すずは原爆には遭わない。僕たちは原爆どころか、戦争を体験していない。そこに罪悪感が生じる。すずの生活を「普通の暮らし」と言えば言うほど、僕は後ろめたい気持ちになる。
すずは絵を描く自由を、世界にアクセスする資格を、一時的に失った。だが、同じように右手を失った母親から、晴美そっくりの子を引き継ぐことで、彼女は罪悪感から逃れたのだと思う。そして、僕らには罪悪感を背負わせたまま、映画は幕を閉じる。「まだ、あなたはツケを払っていない」と言われたような宙吊りの気持ちのまま、席を立たねばならない。僕も拍手したけど、拍手ですら、なんだか安っぽい免罪符のように感じてしまう。
「よかった」ですまそうとしている自分を、いやしいと思う。「よかった」でなければ「よくなかった」「悪かった」ではないことは、この映画を見た人なら分かると思う。
(C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会
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