■1009-2■
ウォルフガング・ペーターゼン監督『ザ・シークレット・サービス』を、レンタルで。クリント・イーストウッド演じる引退間近のシークレット・サービスが、大統領暗殺を狙う男に翻弄される。高齢なので、走るだけで疲れてしまう。風邪をひいたり、判断ミスして部下を死なせたり、さんざんな目にあう。いいところで、犯人に逃げられたり、ナメられたりする。
映画の半分が経過し、イーストウッドが同僚の若い女性を口説きおとして、しかし仕事のせいで逃げられてしまうあたりから、猛然と、この映画に愛着が増してくる。
「終わってほしくないな」と思う。そして、あと一時間も上映時間が残っていることを、このうえない贅沢に感じる。「終わってほしくない、ずーっと見ていたい」。そう感じられる瞬間を、いつも待っている。おそらく、映画を見る前からずっと。
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いくつも、緊迫したシーンがある。
犯人が、アパートの屋根の上を逃げる。イーストウッドが追う。しかし、老人なので、犯人が軽々と跳びこえた屋根と屋根のすきまを前に、躊躇してしまう。イーストウッドはギリギリで屋根の縁につかまるものの、手につかんだパイプが折れて、はるか真下の地面へ落ちていく。まず、折れたパイプを落とすことで、ヒヤリとさせる。
犯人が顔を出し、イーストウッドに手をさしのべる。罠かも知れないが、犯人が顔を下に向けたとき、顔からサングラスが外れて、イーストウッドの肩をかすめて、地面へ落ちる。すると、この犯人も落ちる覚悟をしている、本気で助けようとしているのではないか……という真実味が加わる。(サングラスが落ちるカットは、ふたつに分けているので、意図して落としたことは明らか。)
その少し前、大統領の演説会で、イーストウッドは誰かが銃で狙撃したと誤認して、騒ぎを起こしてしまう。
あぶら汗をかいたイーストウッドの周囲を、カメラをもった報道陣がなだれこみ、背景がぐるぐる回る。イーストウッドの見ている風景も、流景となって流れる。その流れる風景の中、登壇者のひとりが、指をピストルのような形にしているのが見える。同時に「パン!」と拳銃の音がする。
だが、それは風船の割れた音であった――と、後で分からせる。主人公の顔、流れる風景のカットバックは古典的ともいえるほど常套的な演出なのだが、そうした、コケおどしと呼んでも過言ではない演出の数々が、楽しい。緊迫するというよりは、楽しい。充実している。終わるのが惜しい、と思ってしまう。
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「不適切な表現」「誤解をまねく表現」「諸般の事情」……不祥事、炎上のたび、これら内容空疎な言い訳が繰り返される。
誰にとって「不適切」なのか、何がどう「誤解」なのか、「諸般」の内訳は何か。無限に拡大解釈可能な言葉は、使う者の当事者意識を希釈してしまう。
「ネタバレ」という言葉は、他人を黙らせる正義の棍棒として機能しうる。少なくとも、僕らの心に巣食った事なかれ主義と、容易に結合してしまう。
映画のストーリーを重視する人もいるだろうから、僕は不必要に書きすぎないようにしている。問題があるとしたら、悪意で書く、恣意的に「バラす」場合にかぎるだろう。
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『かいぶつになっちゃった』という絵本を、子供のころに読んだ。
「館に、おそろしい怪物が住んでいる」という小鳥の話を信じた森の動物たちが、怪物をやっつけるためにくっつきあって、もっと大きな怪物になる。
だが、怪物は小鳥の見間違いで、本当は怪物などいなかった。森の動物たちは、あまりに強くくっつきあったため、怪物から元に戻れなくなっている。彼らは巨大な怪物として、ずっと館で生きつづける。
ネットの「不快な思い」が固まって圧力を持つとき、僕はいつも、『かいぶつになっちゃった』を思い出す。
「不快な思い」で抗議している人たち自身が、いもしない怪物をつくり出してしまっていないだろうか。
BRUCEMCBROOM/COLUMBIA/TRI-STAR/TheKobalCollection/WireImage.com
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