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2016年10月31日 (月)

■1031■

旅行へ行く前に、なにか一本見ようと思い、レンタルで『ズートピア』。
640とにかく、表現力がすごかった。デザインのひとつひとつ、芝居のひとつひとつが考え抜かれている。
『アナと雪の女王』のメイキング本で、ちょこっとデザインの一端に関わっている無名のスタッフが、作品の奥深いところまで豊かな語彙で語っていて驚かされたけど、ディズニーは少数精鋭ではなく多数精鋭なんだろうな。ディズニーというより、ハリウッド映画全体がそうだよね。創作的偏差値が高い。好悪を抜きに、認めざるを得ない。

ギャグのセンスが大人っぽくて、『ゴッドファーザー』などメルクマール的な映画をよく分析しているし、喜劇の古典的なフレームを、丁寧に応用している。スタッフ、勉強家です。
トーキング・アニマルは僕も好きじゃないけど、惜しみなく予算と才能を投入した第一級の映画を見ておくことは必要なことです。「ディズニーは嫌い」ってだけで見ない人は、絶対に損をしている。『フォースの覚醒』以降、僕のディズニーに対する信頼は薄まったけど、アニメはまだ大丈夫です。


いちいち言葉に残しておかないとダメだと思うから書くけど――『ズートピア』が好きとか、『ズートピア』で感動したって話は、完全に別なんです。作品の価値って、個人の情緒とは別のところにあるの。
見るからには、客観的に「一流」と呼ばれるものに触れておきなさい……という言葉は間違っていない。劇団四季やスーパー歌舞伎は、好悪なんて関係なしに見にいきました。それから来月、ひさびさに小演劇を見にいきます。それも、研究目的といったほうが近い角度から。そうやって新しい材料を仕入れて、自分の中の価値観を刷新しないと気がすまない。

「好み」とか、自分の嗜好ってのは、ずっと消えないから。ほっといて大丈夫。
しかし、「好み」以外の価値観は、勝手に向こうからは来てくれません。情報と刺激を整理し、行動力に転化しないと、獲得できない。
「好み」だけで生きてる人は、年老いるのも早いです。そういう人は、自分の「好み」以外の作品に攻撃的だったり侮辱的だったりするので、すぐ分かります。直情径行が許されるのは、20代までって気がします。


11/1 17:35 成田発。34時間後、イグアスの滝国際空港着。
11/2~11/6、ホテル“Residencial Los Lapachos”に4連泊。
デルタ航空とアルゼンチン航空を使用。

今回は、イグアスの滝に近いプエルト・イグアスまで飛行機を予約、面倒なのでホテルもセットで予約してしまった。移動の楽しみは、一切ない。トータル、23万円ぐらい。
だけど、今回はこういう旅なのだと割り切って、ブラジルへの国境ごえや、ステーキを楽しむことにする。

向こうはこれから夏なので、Tシャツとハーフパンツ、割といいビーチサンダルを買った。
日本では、こんな格好はしない。せっかくの休みなんだから、もうダラダラでいいのだ。

(C)2016 Disney. All Rights Reserved.

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2016年10月30日 (日)

■1030■

アニメ業界ウォッチング第26回:アニメーションの作品イメージを、ロゴやパッケージで印象づける デザイナー、内古閑智之インタビュー!
T640_714407 『ゼーガペイン』BD-BOX、『ゼーガペインADP』関連のパンフやブックレット類すべてを担当してらした内古閑さんにインタビューしました。内古閑さんはパッケージまわりだけでなく、『ADP』劇中のモバイル・ディスプレイや作戦時のモニター・グラフィックも、デザインしてらっしゃいます。
こういう立場の方も、いまのアニメ市場を支える力だと、僕は思っています。


金曜夜は、新宿ピカデリーで『ゼーガペインADP』オールナイト。
仕事としては、トークショーで使われる質問項目を、バンダイビジュアルさんからの依頼で考えさせてもらった。ステージでは、キャラクターのネーミングについて新しい説を聞けたし、トーク後に、楽屋にハタイケヒロユキさんがいらして、「いい質問ばかりだ」とおっしゃってくれたので、とりあえず良かった。
風邪っぽかったのでトークショーだけ見て帰るつもりが、関係者席として用意されていたプラチナシートの居心地があまりに快適なので、朝まで『ゼーガペインADP』+2本の総集編を見て、帰った。

葛西臨海水族園の『ゼーガペインADP』原画展も、ひとりの客として見にいったし、夏から秋にかけての趣味と仕事が混在した『ゼーガ』づくしの日々も、一段落。
個人的には、ゲンロンカフェ「ゼーガペインをSFから読み解く」が、衝撃すぎた。作品との距離感、作品の役割と応用の仕方……あまりにも学ぶべきことが多すぎた。「こんな物事の捉え方があるのか」と、思考がアップデートされた気分。


『RWBY volume2』、ちょっと高価な初回限定版を購入。世界観やキャラクターに関するデータがぎっしり掲載されたブックレットが封入されていたので、これを買って正解だった。
2年前に、公式チャンネルで本編が公開されている。とにかく、8分25秒あたりから始まる、たたみかけるようなアクション・シーンを見てほしい。

セル・シェーダーなんだけど、コマ送りで見ると、キックした足の輪郭がブレて描かれている。3Dモデルの上から、描き加えたんだろう。
しかし、唸らされるのは、それぞれのキャラクターの武器と特技を、ときには制約として使い、すべてのキャラクターの動きを、個性豊かに描き分けていること。アクション・シーンに関しては、原作・監督の故モンティ・オウム氏に一任されていたという(よって、絵コンテは存在しない)。
剣をまわして光のリングを描いたと思ったら、それが敵の攻撃を跳ねかえす半球形のシールドになっていると後で分からせたり、石で分身をつくって身代わりにして、氷の分身で敵の武器を固めてしまうとか、一秒単位のアイデアを次から次へと使い捨てていく。

決してアメリカに原画マンがいないから3DCGにしたわけではなく、アクションに関しては実写映画の影響が強いと思う。日常シーンでも、積極的にモーションキャプチャを使っていることが分かる。
キャラクターのルックスだけで、「日本アニメの影響」とは断じるのは早とちりで、北米文化と混じりあうことで、アニメでもドラマでもない独特の面白さが生まれている。
そして、キャラクターのルックスが、ややチープなローポリだからこそ、「芝居」「劇」が際立つ。人形劇と同じ効果だ。薄味のキャラクターでなければ、こんなにセリフの多い複雑なドラマは聞かせられなかっただろうし、情報密度の高いアクションも見せられなかっただろう。


セリフの翻訳は、実写ドラマや実写映画を手がける瀬尾友子さん。いまの若者の話し言葉を取り入れていて、抜群にセンスがいい。
そして、演出は打越領一さん()だ。瀬尾さんも打越さんも、アニメ畑の人ではない。しかし、出演しているのは深夜アニメでおなじみのアニメ声優さんが大半で、そこに絶妙な化学反応が生じている。これこそが、日本のアニメ声優の実質的なスペックであり、『RWBY』に出演することが実力の証になっている。

面白さの裏には、かならず専門技術を駆使する職人がいる。作品の魅力を、そのたびに発見・分析していかなくては、人間の知力は蓄積されず、進歩もありえない。
「処理流暢性」()と呼ぶらしいのだが、人は耳によく馴染んだ簡単な言葉に真実味を感じてしまう。「泣いた」が映画の感想として鉄板・安牌として乱用されているのも、ひとえに流暢性が高いからだろう。
『君の名は。』ヒット後のポスターで「涙を流した」「ハンカチが良い仕事してくれた」「もっともっと泣いて」「号泣!」などの煽り文句が並べられていたのを、忘れてはいけない。これだけ「泣いた」を並べたら、もうモラル・ハザード、誉め殺しでしょう。映画の価値をスポイルしている。


愛、想い、情熱……などと簡単に言うが、愛も情熱も、具体的・実務的な行為に分解して実行しなければ、何の役にも立たない。計画性のない愛は、むしろ人生を破滅に導く。
作品、フィクションは現実世界におけるバッファであり、際限のない憎しみと愛情を受け止めてくれる。みんなが実写版『デビルマン』『ガッチャマン』を袋叩きにしても、作品側から反撃される怖れはない。『デビルマン』も『ガッチャマン』も、ずいぶん社会の役に立ってくれている。『デビルマン』や『ガッチャマン』がなかったら、(映画を見ていない人たちも含めて)彼らの憎しみは別の何かに向けられていたはずなので、両作品には社会的価値があると本気で思っている。

しかし、「自分が見て面白かったから優秀」「退屈したから駄作」のような、快・不快で作品の価値を決めたところで、個人の認識力は広がりもしなければ、前に進みもしない。
むしろ、「今日は、人生を停滞させるのだ」という自覚をもって映画を見るならば、甘美で有意な時間をすごせると思う。

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2016年10月26日 (水)

■1026■

モデルグラフィックス 12 月号  発売中
51b5i9ynjul_sx351_bo1204203200_●組まず語り症候群 すずさん勝手に立体化計画
「フィギュアを自分で作ってみた」的なお遊び連載企画を、公式フィギュアの原型写真公開で終えることが出来て、まずは良かったです。
連載開始時の2月は、公開日も決まっておらず、音楽や声優さんも決まっておらず、ほとんど話題がない状態でした。
だからこそ、「なるべく変わった、自虐的といえるほど頭の悪いスタンスで作品をアピールしよう」と意気込めたのです。「バカだと思われたい」と狙って連載していたのは確かです。そこへフジミ模型さんのプラモデル化の話が重なり、いい効果が出せたと思います。


笑ったり笑われたりするスタンスも、『この世界の片隅に』の場合、僕は重要だと思っています。今は、「泣ける映画」としてイメージが広がりすぎています。
「とにかく号泣した」「なぜか涙が止まらない」が過剰な価値を持ちはじめたのは、2004年の『世界の中心で愛をさけぶ』以降でしょう。

「泣けた」現象を作品への評価に代えてしまうのは、思考停止でもあるけど、受動的で無責任な態度です。また、「泣いた・感動した」と言わないと不謹慎であるかのようなムードが蔓延しているとしたら、それは作品にとってマイナスになります。
僕は、作品を支えている構造や技術を、もっと誉めていいと思っています。


片渕須直監督をなぜ信頼できるかというと、『ブラックラグーン』で口汚いスラングや銃撃戦を、愛情もって描いた人だからです。
『この世界の片隅に』では、空襲時の爆音・高射砲の音が、やはり身震いするほど恐ろしく、「さすがは片渕監督」と唸らされました。それはカッコいい音でもなければ、戦争の悲惨さを訴える音でもない。ただひたすら、「冷徹な事実」の音なのです。
その容赦のない無慈悲さがあるから、信頼に値するのです。

『この世界の片隅に』は、原作もそうですが、理不尽な度し難い現実を直視する、キモの座った図太い作品だと思うのです。ふてぶてしい、と言ってもいいぐらい力強いです。
また、画材を変えたり左手で描いたりといった、不可解なほどの実験精神に溢れており、それを怖れず映画に組み込んだ度胸と野心に、僕は感心しました。
「泣けました」で切って捨てられるほど、軽い映画ではありません。


昨夜は、五反田のゲンロンカフェで、トークイベント「ゼーガペインをSFから読み解く」。詳細は、途中から登壇した三宅陽一郎さんがまとめてらっしゃいます()。
ポストヒューマン、演劇的身体性、超人スポーツ、セカイ系から社会系へ、劇団「マームとジプシー」……

とにかく、上井草から生まれたロボット・アニメから、こうまでジャンルを飛び越えた拡張的なムーブメントが生まれてきたことに、心から驚いた。
登壇者たちが、作品のアイデアを評価しながらも、「なぜ話の展開がああなってしまうのか」と、批判精神たっぷりに語っていて爽快だった。
アニメのイベントというと、「いい作品でしたね」「ファンの皆さん、ありがとうね」と腫れ物にさわるような柔らかいムードに流されがちだが、昨夜は違った。本質的な話しかしくたない、内輪ウケは最低限、といった厳格さがあり、「どうせなら未知の領域に言及し、明日の話をしよう」という開拓精神がみなぎっていた。


ガツンと来たのは、ハタイケヒロユキさんの「失われた20年は、文系の想像力に偏りすぎていた」という一言。
まさに、セカチューの惹起した「泣いた」ムーブメントが、「文系の想像力の偏り」であろう。そもそも、物語作品を情緒的に感動できるか否かで、割り切りすぎていた。

『スター・ウォーズ』が映画の様式を借りたデザインとアイデアの提示であったように、『ゼーガペイン』は世界の把握のしかた、フレームワークを、作品を使ってプレゼンテーションしたのではないだろうか。
果たして、作劇や演出だけを評価しなくてはいけないのだろうか? (そんなことは昨夜まで思いもしなかったが)考え方を提示するために物語を利用し、その理性や先駆性に「感動」してはいけないのだろうか?
僕らは、自分の感性だの感受性だのを、美化しすぎてきたように思う。

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2016年10月24日 (月)

■1024■

レンタルで、イー・ツーイェン監督の『藍色夏恋』。
ある夏、ショートヘアの女の子が、友だちの恋した相手にラブレターを手渡す。ラブレターは、誰かのいたずらで校庭の片隅に貼られ、落書きされてしまう。
1280x720xmk友だちが、主人公の女の子に「落書きしたのは、彼女だよ」と、遠くを指差す。すると、望遠レンズが、髪の長い少女が歩いている、その横顔を撮る。歩いているのをフォローしているから、カメラが追いつかない。もう、このカメラワークだけでOK。生き生きしている。
「彼女だよ」と指さすショットがあり、次に少女のアップが入れば、「主人公が少女を見ているのだな」……と、僕たちは理解する。ところが、その少女のアップをやけに長く撮っている。少女の背後に、主人公がムッとした表情でフレームインしてくる。友だちが、怒りにかられた主人公を止めようと、後ろから追いついてくる。
そのショットは、主人公の視点であると同時に、主人公の次の行動を撮っている。主観でもあり、客観でもある。その重複した構造に、主人公の急いた気持ち、いらだつ気持ちを感じとることができる。

全編に意表をつく、しかし、心情的にはしっくりくるショット、カットワークが散りばめられている。こういう映画を見たかった。字幕は、ほとんど無視してもいいぐらいだ。


僕らは、幼児のころは映画を見ていても、ドラマを見ていても、「物語」を読みとることは出来なかったはず。何度も見ているうちに、ショットとショットの間に存在する約束事をおぼえ、理解するための経路を知っていく。劇映画には、劇映画なりのプロトコルがあるのだと理解する。面白さを知っていく。

せめて、劇映画の「物語」に「感動」するには方法と経路があり、約束事があったうえでのことなのだ……と、自覚はしておいた方がいい。劇映画への理解力は、先天的に備わっているのではない。後天的に学び、慣れていったにすぎない。
「慣れ」だから、主人公が泣き叫び、カメラがクレーンで引いていって主題歌が入ると、感動すべきショットなのだと理解する。それは理解であって、感動ではない。「観客の皆さん、ここで感動してください」という、制作者の目くばせでしかないのだ。
(そうした演出がくだらないのではなく、慣れだと分かっていても、お約束だからこそ感動する場合もあるから、映画は厄介で面白い。芸術ではなく、通俗娯楽なんだろうな。)


だけど、僕は『藍色夏恋』のように、あちこちで約束事をヒョイと外し、約束事を外させねば表現できないニュアンスを散りばめた映画が好き。
被写界深度の浅い撮影で、狙った被写体はシャープに撮りつつ、遠くの緑を、ぼんやりとかすませる映像もセンス良かった。

もうひとつ、僕はこの世界を、詩のようなものだと感じている。
人生は線ではなく、点なのだ。そういう実感があるから、物語よりもショットを重視する。本当は、ショットやカッティングと、演劇から輸入された「物語」の間には、もっと緊密な関係があるのだろう。それを解きあかしたいとも思う。

この世界が詩であるからこそ、僕は「慣れ」で感動したくない。裸眼で見る世界を信じたい。

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2016年10月22日 (土)

■1022■

「ゼーガペインADP」、下田正美監督インタビュー【復習編】
T640_713928イベント上映の中盤にさしかかった『ゼーガペインADP』、今回は「見た人向け」のインタビューです。
僕の原稿では「未見の方はご注意を」だったのに、「未見の方はネタバレにご注意を」に変えられてしまいました。しかも、赤字で。
だけど、未見の方が何人か、この記事を読んでから「見たい」とツイートしてらっしゃるので、心配しすぎと思う。

『ゼーガペインADP』 PREMIUM EDITION Blu-ray 発売中
Cvhbmswaaepfwf上映劇場で先行販売されているブルーレイの、ライナーノートとブックレットを構成・執筆しました。
中には、近くで上映していない、お金はないけど、ディスクは欲しい方もいらっしゃると思います。来月発売の通常版にはライナーノートしか付属しませんが、他では読めないインタビューも入れて、しっかりと価値をもたせてあります。絶対に、ガッカリさせません。


『ゼーガペインADP』、土曜朝は新宿ピカデリーのいちばん大きなスクリーンで上映したそうで、編集者からも「パンフレットが売り切れていた」と電話がかかってくるし、まずまずの成功を収めているのでは。

しかし、「量子化艦影」「データチャフ」「量子残像デコイ」などの知的なSFワードに反応する人は、少ない。アルティールが、敵機をつかんだ時、さりげなく敵側のデータを検索したりしていて、『ゼーガペイン』のロボット戦って情報戦なんだよな……。
そこら辺につっこんだ本を出したいので、とりあえず25日の「ゼーガペインをSFから読み解く」()に期待!


レンタルで、『アルカトラズからの脱出』。小学校時代にテレビ放映されていた作品は、実はちゃんと見ていなかったりするので。
Fugadaalcatraz05絵を描くことだけが生きがいの囚人が、絵筆をとりあげられてしまう。彼は、木工の作業場で働かされることになり、「手斧を使いたい」と申し出る。
手斧を手にした彼の主観カットで、立ち去る守衛の背中を追う。すると、囚人が手斧で守衛に切りかかるのではないか? 殺意をいだいているのではないか? と、見る側は想像してしまう。これが、クレショフ効果。僕たちが、体得的に学ぶ性質のものだ。

僕らは、映画のプロトコルを勝手におぼえ、脳の中で「物語」を構築しているにすぎない。慣らされているのに「慣らされていない」「自分の感覚はプレーンだ、中立だ」と思いこんでいるから、「お話がよかった」「ラストは言わないでくれ」などと安易に言えてしまう。

何がどう生起してるのか、まずはメガネを外して視認すべきなのだ。
僕は「慣らされている」自覚がないまま一生を終えるなんて、絶対にイヤだ。


プエルト・イグアス現地の情報を聞いたり、南半球用の衣類を買い揃えているうち、だんだん、旅行への意欲が高ぶってきた。

僕は小学校のころ、美人で頭がよくて人気のある女子から「もやしっ子」と笑われた。
中学に進むと「暗い」と言われ、高校になると「何も得意なものがないのに、何のために生きてるんだ?」と真顔で聞かれ、どんどん教室の隅っこに追いやられていった。美術系の大学に進んで一息ついたつもりが、「お前ごときが、俺と対等の口きくな!」と同級生に怒鳴られ、世の中に居場所がないかのように感じた。

しかし、本当にこの世界は“彼ら”のものなのだろうか? 僕が脅えながら生きてきたことの意味は? なぜ、僕は抗わなくてはいけないのだろう?
世界を取り戻すんだ。誰の指図もうけず、世界のどこへでも行って、自由を満喫するんだ。嫌なことにはNOを叩きつけ、好きなことだけを貪欲に楽しむのだ。

(C)2014 Paramount Pictures. All Rights Reserved.

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2016年10月18日 (火)

■1018■

Febri  Vol.38 発売中
Cu4nf38usaaozul ●Febri Art Style 『この世界の片隅に』
美術監督の林孝輔さんにインタビューし、劇中で使用された美術をカラーで掲載しています。
この作品は、『マイマイ新子と千年の魔法』のころとは雲泥の差で、マスコミの露出度が高いです。試写会も、連日満席で大盛況と聞きます。
なので、僕の記事は、やや地味かも知れません。けれど、この作品の底力を形成しているのが、プロの地道な工夫や努力であることを、記さずにはいられません。


昨日、西荻窪のササユリカフェさんへ行って、複製原画展“『この世界の片隅に』ができるまで ~『マイマイ新子と千年の魔法』からの軌跡~”を見てきた。タイムシートや作監修正も入っていて、手で原画をめくることができる。

『マイマイ新子~』は、20回ほど映画館で見たので、頭の中でカットを再生しながら「ここでPAN」「ここでフレームアウト」と思い出しながら、原画を見た。
一方、『この世界の片隅に』は本編を一度しか見ていないせいか、『新子』にくらべると複雑に感じた。ひとりのキャラクターでも、パーツごとに原画を分けていたりする。原画に対する考え方が、『新子』より厳格で緻密な印象。
カットごとの原画集がまとめて置かれているだけの展示なので、自分なりに考察できて、とても過ごしやすい環境。有意義な時間をすごせた。


レンタルで、『マダム・イン・ニューヨーク』。
Englischfranfngerenglishvinglish_5e邦題で英語圏の映画と思ってしまいがちだが、インド映画。セリフの半分ぐらいはヒンディー語。歌も踊りもある。
インドに暮らす主婦が、従兄弟の結婚式のためにニューヨークに来て、言葉で苦労させられる。彼女は思いきって、英会話塾に通いはじめる。
この映画は、ヒンディー語しか話せなかった彼女が、英語でスピーチをするところで終わる。そのカタコトの長ゼリフは、実は英語塾の卒業試験も兼ねているので、長いなりの理由がある。ちゃんと文法をまちがえて話すので、英語で話す意味もある。むしろ、音楽に近いようなセリフだ。

インド映画『きっとうまくいく』は、英語に聞こえるようなセリフも多かったが、インドでは18種もの言語が使われているそうなので、僕らとは言葉に対する感覚が違うのだろう。
また、『マダム・イン・ニューヨーク』の主人公はお菓子づくりが得意で、それゆえに主婦という立場に繋ぎとめられ、英語で話すことを夫にとがめられたりする。南アジアでは、パルダといって、女性が社会とかかわることを禁ずる制度がある。
それを知ると、あまり笑ってすませられるような映画ではないと分かってくる。

中国人を「イエロー」と呼んで気まずくなったり、英会話塾の先生がゲイだったり、マイノリティに対する目くばせが、随所にちりばめられている。
2時間強のあいだ、どうしても目が離せないのは、セリフ以上の意味が映画にこめられているからだ。


『ゼーガペインADP』が、ミニシアター興行ランキングで、第一位を獲得()。
新宿ピカデリーでは、初日・2日目の全回が満席で、同館の土日興行では、『聲の形』『君の名は。』につづく、第三位の大入りとなった。

Twitterで検索すると、「ネタバレ自粛しすぎて、10年前のように新しいファンがつかずに終わるのではないか」と危惧している人を、ちらほら見かける。
しかし、興行的には「ちょっと変わった総集編」の一点張りで、内容にまったく触れてこなかったことが奏功している。僕も関係者と話すときは「これ、ネタバレになっちゃまいすね」と、普通に会話していた。何がどうネタバレなのか、その場で共有可能だし、分からなかったら聞けばいい。

なので、日常会話の中での「ネタバレ」「泣いた」は、違和感はない。
インターネットで使われた瞬間、無敵のチート兵器になってしまう点が怖ろしい。「号泣した」は「ブチきれた」と同レベルの興奮状態なので、泣いた理由を尋ねることを第三者に禁忌する。「繊細チンピラ」に、ちょっと似ている。

「神作品」といった、評価軸を自分の外部に投げ出してしまう誉め言葉(なのだろうか?)にも、横着さ・乱暴さを感じる。
とは言え、全体主義的なネット言論もまた、引き返せない道だ。「泣いた」を凌駕する価値観を提示していくしかない。

(C)Eros International Ltd

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2016年10月16日 (日)

■1016■

ホビー業界インサイド第16回:世の中をより楽しくする“最強チーム”の作り方 グッドスマイルカンパニー社長、安藝貴範インタビュー!
Cux2beeuaaayniqこの連載企画を始めたときから、「いつかは取材させていただかなくては」と決めていたグッスマの安藝社長に、ご登場ねがいました。
安藝さん自身が、面白いフィギュア、かわいいフィギュアを作るわけではありません。どうすれば「面白い」もの、「かわいい」ものとして僕らに受けとってもらえるのか。それを考えるのが安藝さんの仕事なのです。
こういう役職の人がいないと、趣味の世界は殺伐としたものになってしまいます。いまは理解者がいなくとも、将来のために記事を残しておきます。

「ゼーガペインADP」、下田正美監督インタビュー【予習編】
この記事は、以前からサンライズさんに相談していて、意外と長く時間がかかって実現した企画です。来週、『ゼーガペインADP』を見た人向けの【復習編】を掲載します。

『ADP』はファンの反応は良好だけど、ファン目線ではない、批評的な立場からの意見がほしい。
とりあえず、25日夜に開催されるトークイベント「ゼーガペインをSFから読み解く」の前売り券を確保した。


最近は、『装神少女まとい』第1話の作画がよかった。キャラデの戸田麻衣さんが作監と総作監を兼任しており、スタイルが強く押し出されている。
適当なことを言うと、胴体が箱みたいで、手足が細い(特に手首と足首が小さい)キャラデは、作画に期待していい。体のフォルムが広角レンズで出来ているようなものなので、大胆にパースをつけても不自然にならない。

『まとい』第1話でいうと、青い髪のサブ・ヒロインが巻き物を手前に突き出すとき、巻き物の上端が流れるようにちぎれ、いちばん手前では巻き物全体を斜めに「グニョ」っと引き伸ばして描いてある。そして、動きの終わりでは巻き物の後端と指が流れにあわせて流線で描かれ、最後に「ピタッ」と輪郭が元に戻る。
この作品独特の、わかめのような髪のデザインが、動きにアクセントを与えている。

変身アイテムを逃して振り返るカットは、もっと極端で、キャラ全体がうどんのように「グニャ」っと流れているので、分かりやすいと思う。
前半では、まといがカレーを指ですくって、「辛い」という顔をするカットもいい。カレーを口にした瞬間、目をつむって「辛い」という顔をするのだが、その絵だけ何枚か止めている。止まっている間、ツーンと辛さが伝わってくる。
動かすだけが能ではない。いつ、いかに止めるかも、作画の面白みだと思う。


しかし、「まといの作画がいい」というと、「ああいう美少女キャラが好きなんですか?」というリアクションをされる。ルックスの好き嫌いで見ているわけではないのに。
評価するのと、単に「好き」なのは別だと思うのだが、そこが乱暴に結びつけられてしまう。僕が勝手に「好き」でいる作品が、世間で低評価な場合もあって、それはそれで納得している。

「作画がいい」というと、バストショットで「絵が崩れていない」程度に受けとめられることがある。そういった「良さ」が重視されるのも分かるので、「80年代までは、各話ごとに絵が違って当然だったのに……」などと、オヤジの昔話はしない。新しい価値観も、噛んで含めるのがオヤジの存在意義だ。

誰でも歳はとるので、単に「懐かしい」ことは、それ自体では価値をもたない。

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2016年10月14日 (金)

■1014■

『ゼーガペインADP』劇場用 記念パンフレット 明日発売

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構成・執筆いたしました。
浅沼晋太郎さん、花澤香菜さん、川澄綾子さんにもインタビューしましたが、テキストにまとめるのはタルカスさんにお願いしました。
下田正美監督、主題歌の新居昭乃さんのインタビューは、テキストも僕です。
他に用語辞典、テレビ版のまとめ、登場人物の解説、扉の序文も書かせていただきました。

この後、Blu-rayのライナー、ブックレットと続きますが、内容がカブらないよう、注意しました。
下田監督のインタビューも、パンフ<ライナー<ブックレットの順に、どんどん内容に踏み込むように構成してあります。「インタビューの使いまわし」は、すべて買う人にとってはガッカリですから、徹底して避けました。


レンタルで、『天国の門』『ちはやふる 上の句』。
『赤ひげ』『アラビアのロレンス』と、意識して3時間映画を見てきたが、『天国の門』で息が切れてしまった。仕事がたてこむので、ちょうどいい。

劇映画は、役者をカメラの前に立たせて、ただ二時間、据えっぱなしでカメラを回すだけでも成立してしまう。カットを割る、カメラを動かすのには理由がいる。理由がなければ、割ったり動かしたりできないはずなのだ。

脚本に俳優が縛られ、俳優の動きにカメラが振り回されれば、やはりそれでも映画は成立してしまう。ただし、主体性の欠落した映画になる。


電通社員の過労を苦にした自殺について、大学教授が「残業時間が100時間を越えたくらいで過労死するのは情けない」と発言した。
ネットでは批判されたが、実社会では、誰もが沈黙してストレスに耐えている状態ではないだろうか。自殺防止キャンペーンのポスターには「ひとりで悩まないで」「誰かが受け入れてくれる」など、空疎で傲慢な言葉が並ぶ。

僕は25年間、対人恐怖で医者に通っているが、友人・知り合いに病状を話すと、たいてい返事はかえってこない。目の前で面と向かって話しても、聞こえないフリをされたり、「気のせいだ」「気のもちようだ」「私も似たようなことがあるけど、がんばっている」と、精神論で解決する方向へ誘導される。

苦しみの渦中にある僕から、たったひとつだけ、確実なアドバイスが言える。
素人に話してもムダ。心療内科に行って、精神安定剤を処方してもらおう。人は救ってくれない。救ってくれるのは、薬だけです。
(薬を出ししぶる医者は、患者の苦しみを分かっていないので、さっさと切る。気前よく処方箋を書いてくれる、これがいい医者です。)


「薬に頼るなんて間違っている」と、ありがたい精神論を展開する人がいるでしょうけど、素人の意見は無視してOK。
「心療内科に通うなんて……」と恥じる必要もありません、黙って通っている人はいっぱいいます。
僕らは、根性を試すために生まれてきたわけじゃない。幸せを感じるために生まれてきたはず。幸せにはなれなくとも、楽に生きられる道を選びましょう。それが、あなたの権利です。

学校や会社は、サボってOK。ずる休みOK、それぐらいで人生は終わりません。
あなたの人生はあなただけのもの、上司や教師のものじゃありません。

(C)サンライズ・プロジェクトゼーガADP

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2016年10月12日 (水)

■1012■

レンタルで、『アラビアのロレンス 完全版』。3時間半。
6a26676445512fb8687691262342e81f歴史には無知だが、オスマン帝国からアラブ人を解放したイギリス人将校の話だと分かっていれば、描写のひとつひとつはシンプルなので、難解ということはない。
カット割がどうとかいう映画ではない。広大な砂漠を、たった一頭のラクダが、あるいは数百頭ものラクダに乗った軍勢が横切るだけで、唖然として言葉を失う。会話シーンは「次は、いかなる壮大な光景を見せるのか」を示唆するガイドラインのように思えてくる。

あっと驚かされるのは、前半でアカバという湾岸都市を攻略するシーンだ。まず会話で、「アカバ湾は強力な砲台で守られているが、それらはすべて海からの攻撃に備えているため、陸上はガラ空きだ」と説明される。
果てることのない砂漠を必死で歩き、犠牲者を出しながらも、ロレンス率いるアラブ人のラクダ部隊はアカバ湾に到達する。カメラは、俯瞰で港町になだれこむ軍勢を追って、ゆっくりとカメラを右へ振る。やがて、画面右側に巨大な物体がフレームインしてくる。それは、軍勢とは逆側、つまり海のほうを向いた砲台なのだと分かる……。これはすごいカットだ。言葉で何が起こるのか前もって伝えてあるのだが、「つまりは、こういうことだ」と、絵で、力づくで説得される。
その役立たずの砲台に、洗濯物が干してある。それは、トルコ軍の軍服だ。その洗濯物が映るだけで、いかにトルコ軍が油断していたか分かるでしょ? ディテールが効いている。

しかも、海を向いた砲台を映したところでオーバーラップして、海に沈む夕陽へとシーンが移行する。
次のカットは、夕陽でオレンジ色に染まった海岸へ、たったひとりでラクダに乗って、悠々と歩き出すロレンス。そこへテーマ曲が静かに流れると、「ああ、彼は勝ったんだな」という安堵感があふれる。実に荘厳だよ。
ここまでで、すでに2時間近いから、あと一時間半ぐらい、最後まで見てやろうって気持ちになる。


アカバ湾を攻略したロレンスは、従者をつれて、3人だけでシナイ半島を横切り、スエズ運河に出ようとする。これがまた無謀な計画で、やはり犠牲者を出してしまう。
残った従者とロレンスは、砂漠の中の町にたどりつくが、そこは廃墟だった。砂まみれのロレンスは、もうクタクタだ。従者に手を引かれて歩き出すと、汽笛の音がする。次のカット、砂丘の向こうに、大きな船の煙突と船橋が見える。SF映画のような唐突感。
「こんな砂漠に、どうして船が?」と驚いていると、次のカットは青々とした運河を進む貨物船。ちゃんと、スエズ運河に着いていたのだ。

徹頭徹尾、「次はここへ向かいますよ」とセリフで説明した後、ミもフタもない雄大な「絵」の強さで見せる映画。これ、3時間半でレンタル代100円だからね。見ないのは損でしょう!


「虚像」と分断について思ったこと(

「一流大学に通うような“優秀”なお嬢様は被害にあわないのが普通、

という前提での話は、

“優秀”じゃない人なら被害にあっても不思議じゃない、という前提をも内包しています。」

一連のAV強要被害を声高に叫ぶ人たちに感じた違和感を、見事に言語化している。
被害の実態、被害者を救済する以前に、「AVは汚い」「出演する人は愚か」前提だよね、人権団体も弁護士さんも……。

だけど、この話題、関心をもつ男性は、ほとんど周囲にいません。
AVだって、アニメや映画と同じ表現物だと思うんですけどね。


11月1日~8日までの、旅行の計画。
1日17時、成田発。アトランタ、ブエノスアイレス経由で、2日15時にイグアス着。
6日12時、イグアス発。ブエノスアイレス、アトランタ経由で、8日15時30分に成田着。

いつもは、あまり人気のない観光地に立ち寄って「余白」を楽しむものだが、イグアスの滝を見たいだけなので、プエルト・イグアスへ直行直帰。ホテルも、同じ場所に4泊する。
そのうち一日は、どうしようもなくヒマになるのは、目に見えている。旅先で国境をこえた経験はないので、ブラジル側(フォス・ド・イグアス)へ行ってみるのもいいかも知れない。

(C) 1962,1989 COLUMBIA PICTURES INDUSTRIES, INC. ALL RIGHTS RESERVED.

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2016年10月 9日 (日)

■1009-2■

ウォルフガング・ペーターゼン監督『ザ・シークレット・サービス』を、レンタルで。
8601view004_2クリント・イーストウッド演じる引退間近のシークレット・サービスが、大統領暗殺を狙う男に翻弄される。高齢なので、走るだけで疲れてしまう。風邪をひいたり、判断ミスして部下を死なせたり、さんざんな目にあう。いいところで、犯人に逃げられたり、ナメられたりする。

映画の半分が経過し、イーストウッドが同僚の若い女性を口説きおとして、しかし仕事のせいで逃げられてしまうあたりから、猛然と、この映画に愛着が増してくる。
「終わってほしくないな」と思う。そして、あと一時間も上映時間が残っていることを、このうえない贅沢に感じる。「終わってほしくない、ずーっと見ていたい」。そう感じられる瞬間を、いつも待っている。おそらく、映画を見る前からずっと。


いくつも、緊迫したシーンがある。
犯人が、アパートの屋根の上を逃げる。イーストウッドが追う。しかし、老人なので、犯人が軽々と跳びこえた屋根と屋根のすきまを前に、躊躇してしまう。イーストウッドはギリギリで屋根の縁につかまるものの、手につかんだパイプが折れて、はるか真下の地面へ落ちていく。まず、折れたパイプを落とすことで、ヒヤリとさせる。
犯人が顔を出し、イーストウッドに手をさしのべる。罠かも知れないが、犯人が顔を下に向けたとき、顔からサングラスが外れて、イーストウッドの肩をかすめて、地面へ落ちる。すると、この犯人も落ちる覚悟をしている、本気で助けようとしているのではないか……という真実味が加わる。(サングラスが落ちるカットは、ふたつに分けているので、意図して落としたことは明らか。)

その少し前、大統領の演説会で、イーストウッドは誰かが銃で狙撃したと誤認して、騒ぎを起こしてしまう。
あぶら汗をかいたイーストウッドの周囲を、カメラをもった報道陣がなだれこみ、背景がぐるぐる回る。イーストウッドの見ている風景も、流景となって流れる。その流れる風景の中、登壇者のひとりが、指をピストルのような形にしているのが見える。同時に「パン!」と拳銃の音がする。
だが、それは風船の割れた音であった――と、後で分からせる。主人公の顔、流れる風景のカットバックは古典的ともいえるほど常套的な演出なのだが、そうした、コケおどしと呼んでも過言ではない演出の数々が、楽しい。緊迫するというよりは、楽しい。充実している。終わるのが惜しい、と思ってしまう。


「不適切な表現」「誤解をまねく表現」「諸般の事情」……不祥事、炎上のたび、これら内容空疎な言い訳が繰り返される。

誰にとって「不適切」なのか、何がどう「誤解」なのか、「諸般」の内訳は何か。無限に拡大解釈可能な言葉は、使う者の当事者意識を希釈してしまう。
「ネタバレ」という言葉は、他人を黙らせる正義の棍棒として機能しうる。少なくとも、僕らの心に巣食った事なかれ主義と、容易に結合してしまう。

映画のストーリーを重視する人もいるだろうから、僕は不必要に書きすぎないようにしている。問題があるとしたら、悪意で書く、恣意的に「バラす」場合にかぎるだろう。


『かいぶつになっちゃった』という絵本を、子供のころに読んだ。
「館に、おそろしい怪物が住んでいる」という小鳥の話を信じた森の動物たちが、怪物をやっつけるためにくっつきあって、もっと大きな怪物になる。
だが、怪物は小鳥の見間違いで、本当は怪物などいなかった。森の動物たちは、あまりに強くくっつきあったため、怪物から元に戻れなくなっている。彼らは巨大な怪物として、ずっと館で生きつづける。

ネットの「不快な思い」が固まって圧力を持つとき、僕はいつも、『かいぶつになっちゃった』を思い出す。
「不快な思い」で抗議している人たち自身が、いもしない怪物をつくり出してしまっていないだろうか。

BRUCEMCBROOM/COLUMBIA/TRI-STAR/TheKobalCollection/WireImage.com

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■1009■

【懐かしアニメ回顧録第23回】“漫符”で聞かせる、「ハチミツとクローバー」のバラエティ的音響効果
T640_713345面白いほど、リアクションの少ない記事です。
だけど、僕はまず、自分が何を見たのか、何を聞いたのか、作品を見ている間に起きた現象を記さずに、先へは進めません。
「運命の出会い」を描いた作品ならば、何がどう運命を感じさせるのか、いかにして出会ったのか、必ず解体できます。要素を積み上げずに形をつくることは出来ないから、解体できないはずがない。

アニメーションの実写より面白い点は、動画という「作品を構成する最小単位」まで可視化されている点です。分析しやすいはずです。
しかし、今は「作品にこめられた思い」「作者の訴えたいテーマ」ばかりが話され、作品の構造に目を向ける人は滅多にいません。

僕は、分かりやすく調理された結果だけを、あたりまえのような顔で甘受したくありません。なぜ分かりやすいのか、どんな材料が使われているのか、なるべく丁寧に解析しながら、調理の出際のよさを発見していきたい。


「児童ポルノ根絶」講師が児童買春で逮捕 実効性のある児ポ対策とは何か(
“日本では、国連NGOであるヒューマンライツ・ナウ(HRN)でさえ、ポルノと児童虐待製造物を混同しています。”

“児童虐待製造物を根絶するには、まずは、内閣府と警察庁などが音頭を取って、児童が出演するポルノ的な映像は「CAM(児童虐待製造物)」と呼ぶべきだとして、AVや漫画など合法的な表現物とは明確に分ける考え方を社会に広げるところから始めるべきだと思います。”

“着衣した子供に対して射精する映像などはこれまで規制の網からこぼれてきたそうですが、実際の「性虐待」に焦点をあてれば、規制することができるようになりますよね。”

ようやく、二次元表現規制とは別のフィールドから、「児童ポルノという呼称をやめよう」「性虐待があったか否かを焦点にあわせよう」という声が広がってきました。
取り締まるべきは、「児童本人が他人から見てほしくない画像」だと思います。大人が見て興奮するかどうかなど、一切関係ないはずです。


歓楽街で泥酔した大人を、面白半分に盗撮した画像アカウントが人気のようです。
あなたは、自分がマヌケな顔をして居眠りしている写真を、赤の他人から見られたいと思いますか? 酔っ払って醜態をさらしているところを撮影されたら、ひどい屈辱を味わうのではありませんか? 僕なら、盗撮した人を許しません。告訴するだろうし、この世から画像を消しさりたいです。
(性)虐待画像を取り締まってほしい気持ちは、そんなところに根ざしているような気がします。

「自分だったらイヤだな」という皮膚感覚を棚に上げて、抽象的に「子供のため」と言うから、「児童ポルノ根絶を訴えながら、児童買春をする」ような矛盾が生じるのです。
ようするに、○○を規制しろ/規制するな以前に、「筋を通してくれ」と、僕は言っています。


「事が大きければ大きいほど岩のように静かであれ」
              ――『風の谷のナウシカ』 新装版1巻より

映画を見て、大声で泣いても、すすり泣きながら帰ってもいいと思います。感情を爆発させることは大事です。僕自身、よく泣きます。
しかし、泣いた事実を作品の評価に代えるべきではない。陶酔している状況で、正確な実りある判断が下せるとは、とても思えません。

もちろん、映画にかぎった話ではありません。

(C) 羽海野チカ/集英社・ハチクロ製作委員会 (C) 羽海野チカ/集英社・ハチクロ II 製作委員会

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2016年10月 7日 (金)

■1007■

レンタルで、黒澤明監督の『赤ひげ』。3時間は長すぎるんではないかと思ったが、夜中に一気に見れてしまった。 
375x281この映画のファーストシーンは、加山雄三えんじる若い医師が、診療所を訪ねてくるところ。ラストシーンは、三船敏郎と加山が、やはり診療所に向かって歩いていく。同じようなシーンで物語の前後を挟みこむのを、ブックエンド形式と呼ぶらしい。

だが、「同じようなシーン」では不十分だ。
正確には、ファースト・カットは加山の後ろ姿。あおりで撮っているので、バックは空。彼が歩いていくのに合わせて、カメラが追うと、診療所の門がフレームインしてくる。
ラスト・カットは、診療所に向かう三船。彼を追う加山の後ろ姿。やはり、空ぬけの低いアングル。2人が話しながら歩くのを、カメラが追う。すると、診療所の門がフレームインしてくる。
冒頭の加山は、診療所で働くのを嫌がっているが、ラストでは逆に、診療所にとどまろうと三船に懇願している。異なるシチュエーションを、ほとんど同じカメラワークで撮っているのだ。

単に「同じシーンで始まり、同じシーンで終わる」だけだったら、小説でも演劇でも成り立ってしまう。「同じカメラワークで、物語全体を挟みこむ」……これは、映画にしかできない。フレームがあり、俳優とカメラの動きがある。フレームは四角いままだが、その内部の情報が変化する。映画でしか為しえないロジックを見つけ、その構造を掬い上げないかぎり、映画は語れない。


最初の一時間は、おそろしく機能的なカメラワークとカッティングで、映画は進行する。
ところが、一時間が経過し、俳優の演技に頼ったり、セリフの内容に頼ったりするたび、「こういうシーンなら、舞台でもやれてしまうな」と冷めてしまう。それらのシーンは、映画の原理に立脚していないため、頭に入ってこない。

一方、山崎努の演じる車大工の回想シーンは、どうだろう?
山崎が、死んだと思っていた恋人と、浅草の雑踏の中ですれ違う。ゆきかう人々の頭上には、たくさんの風鈴が吊り下げてある。ハッとした山崎が振り返る。恋人も振り返って、2人は見つめあう。その瞬間、2人の頭上の風鈴が風に吹かれ、一斉に音を立てる。
カメラも少しだけティルト・アップし、風鈴を大きく画面に収める。2人の再会を、その衝撃の大きさを、風鈴の音で無言のうちに語っている。


あるいは、盗人の男の子が毒を飲まされてしまい、九死に一生をえるシーン。
診療所の女中たちが、井戸に向かって、男の子の名前を呼んでいる。そうすれば、死者をあの世から呼び返すことができると、信じられているからだ。男の子は、なんとか助かりそうだと三船敏郎が言う。
女中たちは、まだ井戸に向かって叫んでいる……彼女たちの顔のアップから、カメラは井戸の中をティルト・ダウンし、水底を映す。水面には、井戸をのぞきこむ女中たちの顔が映っている……と、そこへ一滴の水が落ち、水面にきれいな波紋をつくる。ワンカットである。
このシーンは、井戸の中に生じた波紋で終わる。井戸のセットをつくってカメラを設置するなど、物理的な手間もかかっているのだが、ワンカットのうちにドラマをつくっている、そのアイデアに唸らされる。機能が、メカニズムが、文学性を生じさせている。

『赤ひげ』は、地震で倒壊した家屋や雪の降りしきる診療所など、信じがたい規模のセットを駆使した大作だ。しかし、映画の構造がもたらす知的感動に、お金も魔法も使っていない。ほんのちょっとの閃き、ものを見る角度の絶妙な傾き――。
実は、技術としては拙い部分もある。しかし、どのように俳優を動かし、どのように撮って、どのように繋ぐか。そのアイデアの秀逸さ・豊かさに、僕は心を揺さぶられる。


児童ポルノ根絶活動の講師、中学生にみだらな行為容疑(
“平川容疑者は元小学校教諭で、児童を性被害から守るために東京都が警視庁と連携して保護者や教職員向けに開いている講演会「ネット等の性被害(児童ポルノ)根絶等の啓発講演会」で昨年6月~今年3月、講師を務めていた。”

検索してみると、この容疑者は、僕の住む三鷹市でも「ネット等の性被害(児童ポルノ)根絶等の啓発講演会」を開催していた。三鷹市も東京都も、しっかりしてほしい。
「女子学生の制服画像は、性的な表現なので規制すべき」と熱くなっている男性が、実は制服フェチだった話は、しばしばネットで目にする。大声で正義を主張する人は、うしろめたいから声が大きくなってしまうんだと思う。

(c)1965 TOHO CO., LTD. ALL RIGHTS RESERVED.

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2016年10月 5日 (水)

■1005■

レンタルで、『ディーパンの闘い』。
Sub2_largeフランス語とタミル語が半々の、フランス映画。カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞したとはいえ、スリランカの内戦をのがれた擬似家族の映画を、日本語字幕で見られる状況は素晴らしい。
近所のレンタル屋に、これが4本ぐらい置いてあるのだから、豊かな国だと言うほかない。
(国内配給は、ロングライド。ここが配給する映画は、どれも面白そう。)

原題は“Dheepan”。主人公の名前のみ。しかし、『ディーパンの闘い』という戦争映画のような邦題こそがふさわしい。寡黙で、台詞では語らないタイプの映画だが、無理やりに家族をつくって祖国を捨て、言葉の通じない国で人並みの生活を立て直そうとするディーパンは、確かに戦っている。
スローモーションで、密林の中の象の顔面をとらえたカットが二度ほど、挿入される。それは、遠いスリランカの記憶なのかも知れないし、ディーパンの内なる葛藤を暗示しているのかも知れない。いずれにせよ、言葉にしたら空しくなるような凄みをもったカットだ。

その異様なカットによって、安易な感情移入は分断される。この映画の場合、そうそう簡単に主人公たちの置かれた立場を理解してはならないからだ。


しかし、難解な映画ではない。
ディーパンの「妻」として偽造パスポートで入国してきた女性が、フランス人のアパートで女中として働きはじめる。言葉が通じないし、治安も悪いと臆していた女性だが、アパートの若い男性に「メシがうまい」と、誉められる。
その男性はタバコを吸っていて、「あなたも吸う?」と女性にすすめる。女性は断る。……が、「食材を買って、またうまいメシをつくってくれ」と、チップを渡されると、女性は笑顔になり、彼の吸いさしのタバコを拾って、ちょっとだけ吹かす。
「誉められて嬉しい」気持ちを、「誉めてくれた相手のタバコを吸う」芝居で表現している。

こうした人懐っこいシーンを見せられると、スリランカやフランスがどういう状況なのか、いやでも興味をかきたてられる。
ディーパンの家族が暮らす地域では、発砲事件があいつぐ。怒ったディーパンは、ついに武器を手にする。ところが、映画は投げやりなほどの幸福なシーンで幕をおろす。それまでとは打って変わって構図が安定しており、いかにも付け足したような和やかな雰囲気なので、「?」と違和感をおぼえる。

映画を見ていると、「ここで終わった」と直感する瞬間がある。そっちを信用したほうがいい。
途中から見ても、面白い場合はよくある。途中で飽きてしまっても、それまでが面白ければ十分。この考えは支持されないだろうが、映画の価値は「過程」「語り口」にあると信じている。


「ネタバレ注意」「泣いた」「号泣した」で映画が語られる社会を、僕は怖いと感じる。
NPO法人でアーティストが講演しようとしただけで脅迫電話や脅迫メールが届き、すし屋で外国人観光客相手にワサビが大量に盛りつけられれば、「韓国人同士の内ゲバ」と結論づける人がいる。
全体のために、個を殺す社会になってしまった。過重なストレスが、ネットに膿となってあふれ出ているんだと思う。
映画の感想が「泣いた」一辺倒になってしまったのは、実社会で感情を発露する場がないからだろう。

『ディーパンの闘い』は、遠い外国の話ではない。僕らは、たがいに監視しあい、たがいに目に見えない弾丸を飛ばしあっている。

(C)2015 WHY NOT PRODUCTIONS - PAGE114 - FRANCE 2 CINEMA

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2016年10月 3日 (月)

■1003■

風変わりな日本映画『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』と、キリストの受難を描いたメル・ギブソン監督の『パッション』。レンタルで。
1_large後者は、2004年の映画。もうすこし古いと思っていたが、アメリカ本国で大論争が起きたことは記憶している。
確かに、異色作だ。キリストが磔にされて絶命するまでの拷問を、ほぼリアルタイムで執拗に描いた、ただそれだけの映画。なぜそうなったのか、前後の説明はまったくない。
こんなシュールな映画なのに、ちょっと検索しただけで「ネタバレ・あらすじ・結末」などと赤字が出てきて、まったくうんざりさせられる。

僕は、キリストの生涯を描いた歴史大作だと思って、借りたの。この映画に「ネタバレ」があるとしたら、「物語を排して、描写のみに徹した点」だろう。だけど、「ラストでキリストが復活するんだぜ」と書いたら、「ネタバレすんな」と怒られてしまいかねない(笑)。
みんな、聞けば答えられる程度の知識に、重点を置きすぎる。「いかに認識するか」は、ほとんど問題にされない。「Aでなければ、アンチA」と決めつけられる。


下手をすると、『パッション』を見ただけで、「廣田さん、キリスト教徒なんですか?」と、真顔で聞かれかねない。あまりにキリスト教に無知だから、映画で勉強できるかな?と思った程度なんですが。
結果、ほとんど勉強にはならなかったし、かなり退屈な映画ではあるんだけど、まあまあ見て良かったかな……と言える体験にはなったわけです。それとも、「傑作」か「駄作」か決めないといけないんでしょうか。「泣いた」「号泣した」は、いまや映画の感想を責めれないための、ツッコミ回避の免罪符と化している。

ひどい退屈からでも、なにかしら学べることはあるじゃないですか。泣かなくても、感心したり、興味深く感じることはあるじゃないですか。
それを認めてくれるバッファが、世の中から失われてしまわないよう、俺は自分から縁遠い映画も、しつこく見つづける。なんとも言葉にできない、曖昧な煮えきらない気持ちをこそ、大事にしたい。
「誉める」んじゃなければ「貶す」んだよな?と詰め寄られる社会は、焼け野原しか残さない。【ネタバレ注意】という赤字からは、硝煙と死臭しか漂ってこない。


で、『パッション』なんだけど、凄惨な暴力描写がえんえんとつづく。
劇映画である以上は、劇映画のシステム、回路を使って伝達したい「何か」があるはずなんです。その「何か」が、もはや劇映画の約束事では語りきれないほど濃度が増したり、限度をこえたりすると、単なる伝達システムが「表現」へと転じるような気がする。

システムが壊れた瞬間、ようやく表現が生まれるのです。『パッション』で言えば、キリストの手を十字架に釘で打ちつけるカットは、どれだけ血が出ようとも、おとなしく「映画」というシステムに収まっている。だけど、十字架の裏側に、手の平を貫通したクギの先端が、血と一緒に突き出るカットがある。そういうカットを、わざわざ抜き撮りしている。「手の平を打ちぬいたクギが、板の裏から頭を出す」なんていう当たり前の物理現象を、あえて撮影している。「撮影した」冷徹な事実を、つきつけられる。
その瞬間、劇映画が劇映画ではなくなる。壁を超えるんです。

残虐描写は苦手なんだけど、好悪なんか超越した表現の、むき出しの強さってあるじゃないですか。好悪や趣味なんて、いちばん後回しでいいんじゃない? 感情移入なんて出来なくても、ちゃんと映画は面白いぜ?
誰も言わないから、俺が言う。ストーリーなんて理解できなくても、映画に脳天を打ちぬかれる爽快な瞬間は、ちゃんと訪れる。

(C)2004 by ICON DISTRIBUTION,INC.

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2016年10月 1日 (土)

■1001■

スター・ウォーズ モデリング アーカイヴ 発売中
0000000032862●廣田恵介の「組んだ語ったSWキットレビュー症候群」
●プラモデルの充実は、僕らとスター・ウォーズの関係をどう変えるのか?


上記、二本の記事を、別冊用に大幅に加筆しました。
後者は、『スター・ウォーズ』のビークル、クリーチャー類に詳細な名前の設定されたと思われる90年代にさかのぼり、ハスブロ社のオモチャやジョージ・ルーカスによる初期シナリオにも触れています。


レンタルDVDで、ダニー・ボイル監督『トランス』、『エージェント・ウルトラ』、ゴダール率いるジガ・ヴェルトフ集団の『ウラジミールとローザ』。こんな政治色の強い実験映画が86円で借りられる日本の、どこが文化後進国なものか。


キッズステーションで、『銀河漂流バイファム ”ケイトの記憶”涙の奪回作戦!!』。

238761『バイファム』は、実は全話とおして見たことはない。番外編OVA『消えた12人』で、男言葉で話す赤毛の女の子、シャロンが「おばけを怖がる」シーンに魅了された。この『ケイトの記憶~』でも、シャロンの描き方は、際立っている。

他の子どもたちが楽しそうに肩を寄せ合っているシーンでも、シャロンだけは、ぽつんと離れたところにいる。
彼女の友人は、軍事マニアの少年、ケンツだ。ケンツはシャロンのことを「ガリペチャ」「ペチャパイ」とからかうが、彼女は「ちょっとは大きくなってきた」「見せてやろうか」と、まったく臆するところがない。そんなオープンな態度を、たまに他の女の子に注意される、その立ち位置がいい。
『ケイトの記憶~』は、大人の女性であるケイトと子どもたちの再会、ケイトの失われた記憶を、子どもたちが呼び覚まそうと奮闘する様を描いている。

その奮闘の核心をになうのは、いつも男とばかり口をきいているシャロンなのだ。
シャロンは、ケイトにもらったバンダナを、なんとタンクトップの胸元から取り出し、自分の髪に巻く。ケイトの髪型をまねることで、彼女が記憶を取り戻してくれると思ったのだ。このときのシャロンの芝居がいい。「見覚えない?」と髪にバンダナを巻き、ケイトに見せつけるように「ほり」と自分の髪を指さし、「ほりほり、おうおう」とヒジでこづく。声の原えりこさんのアドリブっぽいのだが、なんてキュートなんだろう。
(原えりこさんのシャロン、川浪葉子さんのココナ……サンライズの80年代ロボアニメは、蓮っ葉な女性キャラに恵まれていた。)


さて、シャロンが決定打となる小道具を取り出したのに、ケイトは何も思い出せず、場が白けてしまう。ケンツが「モデルが悪いんじゃねえの?」と、余計な一言をつぶやく。
シャロンはバンダナを指先でくるくる回しながら、ガッカリしている一同の後ろを歩く。去り際、そっぽを向いたまま、「聞こえたぞ」と、ケンツの頭を軽く叩く。その力の抜け加減が、気持ちいい。

結局、ケイトの記憶が蘇らないまま、子どもたちは空港で彼女と別れる。このとき、シャロンは離れた場所で、旅行カバンの上に座っている。みんなが右を向いてるとき、ひとりだけ左を向いて寂しそうにしているキャラクターなのだ。
タンクトップの上から羽織った、大人っぽいコート。その胸元には、ケイトにもらった赤いバンダナ。シャロンは、何かひらめいて、足早にケイトに駆け寄る。
「オレより、やっぱりケイトさんの方が似合うよ。さよなら!」とバンダナをケイトに押しつけて、振り向かずに立ち去るシャロン。このとき、シャロンの顔は見えないのだが、涙声になっている。

飛行機が離陸する寸前、ケイトは記憶を取りもどすのだが、シャロンの返した赤いバンダナは、何の役にも立っていない。その空回りぶりが、シャロンなりの無駄なあがきというか、彼女の不器用な誠意のあかしに見えて、よけいに寂しい。
シャロンは、自分が女らしくないことを知っている。それでもいいじゃないか、と開き直る。自分の居場所がないと知っているから、いつも一人旅をしているような、風のような人生なのだ。

(C)サンライズ

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