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2016年10月26日 (水)

■1026■

モデルグラフィックス 12 月号  発売中
51b5i9ynjul_sx351_bo1204203200_●組まず語り症候群 すずさん勝手に立体化計画
「フィギュアを自分で作ってみた」的なお遊び連載企画を、公式フィギュアの原型写真公開で終えることが出来て、まずは良かったです。
連載開始時の2月は、公開日も決まっておらず、音楽や声優さんも決まっておらず、ほとんど話題がない状態でした。
だからこそ、「なるべく変わった、自虐的といえるほど頭の悪いスタンスで作品をアピールしよう」と意気込めたのです。「バカだと思われたい」と狙って連載していたのは確かです。そこへフジミ模型さんのプラモデル化の話が重なり、いい効果が出せたと思います。


笑ったり笑われたりするスタンスも、『この世界の片隅に』の場合、僕は重要だと思っています。今は、「泣ける映画」としてイメージが広がりすぎています。
「とにかく号泣した」「なぜか涙が止まらない」が過剰な価値を持ちはじめたのは、2004年の『世界の中心で愛をさけぶ』以降でしょう。

「泣けた」現象を作品への評価に代えてしまうのは、思考停止でもあるけど、受動的で無責任な態度です。また、「泣いた・感動した」と言わないと不謹慎であるかのようなムードが蔓延しているとしたら、それは作品にとってマイナスになります。
僕は、作品を支えている構造や技術を、もっと誉めていいと思っています。


片渕須直監督をなぜ信頼できるかというと、『ブラックラグーン』で口汚いスラングや銃撃戦を、愛情もって描いた人だからです。
『この世界の片隅に』では、空襲時の爆音・高射砲の音が、やはり身震いするほど恐ろしく、「さすがは片渕監督」と唸らされました。それはカッコいい音でもなければ、戦争の悲惨さを訴える音でもない。ただひたすら、「冷徹な事実」の音なのです。
その容赦のない無慈悲さがあるから、信頼に値するのです。

『この世界の片隅に』は、原作もそうですが、理不尽な度し難い現実を直視する、キモの座った図太い作品だと思うのです。ふてぶてしい、と言ってもいいぐらい力強いです。
また、画材を変えたり左手で描いたりといった、不可解なほどの実験精神に溢れており、それを怖れず映画に組み込んだ度胸と野心に、僕は感心しました。
「泣けました」で切って捨てられるほど、軽い映画ではありません。


昨夜は、五反田のゲンロンカフェで、トークイベント「ゼーガペインをSFから読み解く」。詳細は、途中から登壇した三宅陽一郎さんがまとめてらっしゃいます()。
ポストヒューマン、演劇的身体性、超人スポーツ、セカイ系から社会系へ、劇団「マームとジプシー」……

とにかく、上井草から生まれたロボット・アニメから、こうまでジャンルを飛び越えた拡張的なムーブメントが生まれてきたことに、心から驚いた。
登壇者たちが、作品のアイデアを評価しながらも、「なぜ話の展開がああなってしまうのか」と、批判精神たっぷりに語っていて爽快だった。
アニメのイベントというと、「いい作品でしたね」「ファンの皆さん、ありがとうね」と腫れ物にさわるような柔らかいムードに流されがちだが、昨夜は違った。本質的な話しかしくたない、内輪ウケは最低限、といった厳格さがあり、「どうせなら未知の領域に言及し、明日の話をしよう」という開拓精神がみなぎっていた。


ガツンと来たのは、ハタイケヒロユキさんの「失われた20年は、文系の想像力に偏りすぎていた」という一言。
まさに、セカチューの惹起した「泣いた」ムーブメントが、「文系の想像力の偏り」であろう。そもそも、物語作品を情緒的に感動できるか否かで、割り切りすぎていた。

『スター・ウォーズ』が映画の様式を借りたデザインとアイデアの提示であったように、『ゼーガペイン』は世界の把握のしかた、フレームワークを、作品を使ってプレゼンテーションしたのではないだろうか。
果たして、作劇や演出だけを評価しなくてはいけないのだろうか? (そんなことは昨夜まで思いもしなかったが)考え方を提示するために物語を利用し、その理性や先駆性に「感動」してはいけないのだろうか?
僕らは、自分の感性だの感受性だのを、美化しすぎてきたように思う。

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