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2016年10月24日 (月)

■1024■

レンタルで、イー・ツーイェン監督の『藍色夏恋』。
ある夏、ショートヘアの女の子が、友だちの恋した相手にラブレターを手渡す。ラブレターは、誰かのいたずらで校庭の片隅に貼られ、落書きされてしまう。
1280x720xmk友だちが、主人公の女の子に「落書きしたのは、彼女だよ」と、遠くを指差す。すると、望遠レンズが、髪の長い少女が歩いている、その横顔を撮る。歩いているのをフォローしているから、カメラが追いつかない。もう、このカメラワークだけでOK。生き生きしている。
「彼女だよ」と指さすショットがあり、次に少女のアップが入れば、「主人公が少女を見ているのだな」……と、僕たちは理解する。ところが、その少女のアップをやけに長く撮っている。少女の背後に、主人公がムッとした表情でフレームインしてくる。友だちが、怒りにかられた主人公を止めようと、後ろから追いついてくる。
そのショットは、主人公の視点であると同時に、主人公の次の行動を撮っている。主観でもあり、客観でもある。その重複した構造に、主人公の急いた気持ち、いらだつ気持ちを感じとることができる。

全編に意表をつく、しかし、心情的にはしっくりくるショット、カットワークが散りばめられている。こういう映画を見たかった。字幕は、ほとんど無視してもいいぐらいだ。


僕らは、幼児のころは映画を見ていても、ドラマを見ていても、「物語」を読みとることは出来なかったはず。何度も見ているうちに、ショットとショットの間に存在する約束事をおぼえ、理解するための経路を知っていく。劇映画には、劇映画なりのプロトコルがあるのだと理解する。面白さを知っていく。

せめて、劇映画の「物語」に「感動」するには方法と経路があり、約束事があったうえでのことなのだ……と、自覚はしておいた方がいい。劇映画への理解力は、先天的に備わっているのではない。後天的に学び、慣れていったにすぎない。
「慣れ」だから、主人公が泣き叫び、カメラがクレーンで引いていって主題歌が入ると、感動すべきショットなのだと理解する。それは理解であって、感動ではない。「観客の皆さん、ここで感動してください」という、制作者の目くばせでしかないのだ。
(そうした演出がくだらないのではなく、慣れだと分かっていても、お約束だからこそ感動する場合もあるから、映画は厄介で面白い。芸術ではなく、通俗娯楽なんだろうな。)


だけど、僕は『藍色夏恋』のように、あちこちで約束事をヒョイと外し、約束事を外させねば表現できないニュアンスを散りばめた映画が好き。
被写界深度の浅い撮影で、狙った被写体はシャープに撮りつつ、遠くの緑を、ぼんやりとかすませる映像もセンス良かった。

もうひとつ、僕はこの世界を、詩のようなものだと感じている。
人生は線ではなく、点なのだ。そういう実感があるから、物語よりもショットを重視する。本当は、ショットやカッティングと、演劇から輸入された「物語」の間には、もっと緊密な関係があるのだろう。それを解きあかしたいとも思う。

この世界が詩であるからこそ、僕は「慣れ」で感動したくない。裸眼で見る世界を信じたい。

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