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Febri Vol.38 発売中
●Febri Art Style 『この世界の片隅に』
美術監督の林孝輔さんにインタビューし、劇中で使用された美術をカラーで掲載しています。
この作品は、『マイマイ新子と千年の魔法』のころとは雲泥の差で、マスコミの露出度が高いです。試写会も、連日満席で大盛況と聞きます。
なので、僕の記事は、やや地味かも知れません。けれど、この作品の底力を形成しているのが、プロの地道な工夫や努力であることを、記さずにはいられません。
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昨日、西荻窪のササユリカフェさんへ行って、複製原画展“『この世界の片隅に』ができるまで ~『マイマイ新子と千年の魔法』からの軌跡~”を見てきた。タイムシートや作監修正も入っていて、手で原画をめくることができる。
『マイマイ新子~』は、20回ほど映画館で見たので、頭の中でカットを再生しながら「ここでPAN」「ここでフレームアウト」と思い出しながら、原画を見た。
一方、『この世界の片隅に』は本編を一度しか見ていないせいか、『新子』にくらべると複雑に感じた。ひとりのキャラクターでも、パーツごとに原画を分けていたりする。原画に対する考え方が、『新子』より厳格で緻密な印象。
カットごとの原画集がまとめて置かれているだけの展示なので、自分なりに考察できて、とても過ごしやすい環境。有意義な時間をすごせた。
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レンタルで、『マダム・イン・ニューヨーク』。
邦題で英語圏の映画と思ってしまいがちだが、インド映画。セリフの半分ぐらいはヒンディー語。歌も踊りもある。
インドに暮らす主婦が、従兄弟の結婚式のためにニューヨークに来て、言葉で苦労させられる。彼女は思いきって、英会話塾に通いはじめる。
この映画は、ヒンディー語しか話せなかった彼女が、英語でスピーチをするところで終わる。そのカタコトの長ゼリフは、実は英語塾の卒業試験も兼ねているので、長いなりの理由がある。ちゃんと文法をまちがえて話すので、英語で話す意味もある。むしろ、音楽に近いようなセリフだ。
インド映画『きっとうまくいく』は、英語に聞こえるようなセリフも多かったが、インドでは18種もの言語が使われているそうなので、僕らとは言葉に対する感覚が違うのだろう。
また、『マダム・イン・ニューヨーク』の主人公はお菓子づくりが得意で、それゆえに主婦という立場に繋ぎとめられ、英語で話すことを夫にとがめられたりする。南アジアでは、パルダといって、女性が社会とかかわることを禁ずる制度がある。
それを知ると、あまり笑ってすませられるような映画ではないと分かってくる。
中国人を「イエロー」と呼んで気まずくなったり、英会話塾の先生がゲイだったり、マイノリティに対する目くばせが、随所にちりばめられている。
2時間強のあいだ、どうしても目が離せないのは、セリフ以上の意味が映画にこめられているからだ。
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『ゼーガペインADP』が、ミニシアター興行ランキングで、第一位を獲得(■)。
新宿ピカデリーでは、初日・2日目の全回が満席で、同館の土日興行では、『聲の形』『君の名は。』につづく、第三位の大入りとなった。
Twitterで検索すると、「ネタバレ自粛しすぎて、10年前のように新しいファンがつかずに終わるのではないか」と危惧している人を、ちらほら見かける。
しかし、興行的には「ちょっと変わった総集編」の一点張りで、内容にまったく触れてこなかったことが奏功している。僕も関係者と話すときは「これ、ネタバレになっちゃまいすね」と、普通に会話していた。何がどうネタバレなのか、その場で共有可能だし、分からなかったら聞けばいい。
なので、日常会話の中での「ネタバレ」「泣いた」は、違和感はない。
インターネットで使われた瞬間、無敵のチート兵器になってしまう点が怖ろしい。「号泣した」は「ブチきれた」と同レベルの興奮状態なので、泣いた理由を尋ねることを第三者に禁忌する。「繊細チンピラ」に、ちょっと似ている。
「神作品」といった、評価軸を自分の外部に投げ出してしまう誉め言葉(なのだろうか?)にも、横着さ・乱暴さを感じる。
とは言え、全体主義的なネット言論もまた、引き返せない道だ。「泣いた」を凌駕する価値観を提示していくしかない。
(C)Eros International Ltd
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