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レンタルで、黒澤明監督の『赤ひげ』。3時間は長すぎるんではないかと思ったが、夜中に一気に見れてしまった。 この映画のファーストシーンは、加山雄三えんじる若い医師が、診療所を訪ねてくるところ。ラストシーンは、三船敏郎と加山が、やはり診療所に向かって歩いていく。同じようなシーンで物語の前後を挟みこむのを、ブックエンド形式と呼ぶらしい。
だが、「同じようなシーン」では不十分だ。
正確には、ファースト・カットは加山の後ろ姿。あおりで撮っているので、バックは空。彼が歩いていくのに合わせて、カメラが追うと、診療所の門がフレームインしてくる。
ラスト・カットは、診療所に向かう三船。彼を追う加山の後ろ姿。やはり、空ぬけの低いアングル。2人が話しながら歩くのを、カメラが追う。すると、診療所の門がフレームインしてくる。
冒頭の加山は、診療所で働くのを嫌がっているが、ラストでは逆に、診療所にとどまろうと三船に懇願している。異なるシチュエーションを、ほとんど同じカメラワークで撮っているのだ。
単に「同じシーンで始まり、同じシーンで終わる」だけだったら、小説でも演劇でも成り立ってしまう。「同じカメラワークで、物語全体を挟みこむ」……これは、映画にしかできない。フレームがあり、俳優とカメラの動きがある。フレームは四角いままだが、その内部の情報が変化する。映画でしか為しえないロジックを見つけ、その構造を掬い上げないかぎり、映画は語れない。
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最初の一時間は、おそろしく機能的なカメラワークとカッティングで、映画は進行する。
ところが、一時間が経過し、俳優の演技に頼ったり、セリフの内容に頼ったりするたび、「こういうシーンなら、舞台でもやれてしまうな」と冷めてしまう。それらのシーンは、映画の原理に立脚していないため、頭に入ってこない。
一方、山崎努の演じる車大工の回想シーンは、どうだろう?
山崎が、死んだと思っていた恋人と、浅草の雑踏の中ですれ違う。ゆきかう人々の頭上には、たくさんの風鈴が吊り下げてある。ハッとした山崎が振り返る。恋人も振り返って、2人は見つめあう。その瞬間、2人の頭上の風鈴が風に吹かれ、一斉に音を立てる。
カメラも少しだけティルト・アップし、風鈴を大きく画面に収める。2人の再会を、その衝撃の大きさを、風鈴の音で無言のうちに語っている。
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あるいは、盗人の男の子が毒を飲まされてしまい、九死に一生をえるシーン。
診療所の女中たちが、井戸に向かって、男の子の名前を呼んでいる。そうすれば、死者をあの世から呼び返すことができると、信じられているからだ。男の子は、なんとか助かりそうだと三船敏郎が言う。
女中たちは、まだ井戸に向かって叫んでいる……彼女たちの顔のアップから、カメラは井戸の中をティルト・ダウンし、水底を映す。水面には、井戸をのぞきこむ女中たちの顔が映っている……と、そこへ一滴の水が落ち、水面にきれいな波紋をつくる。ワンカットである。
このシーンは、井戸の中に生じた波紋で終わる。井戸のセットをつくってカメラを設置するなど、物理的な手間もかかっているのだが、ワンカットのうちにドラマをつくっている、そのアイデアに唸らされる。機能が、メカニズムが、文学性を生じさせている。
『赤ひげ』は、地震で倒壊した家屋や雪の降りしきる診療所など、信じがたい規模のセットを駆使した大作だ。しかし、映画の構造がもたらす知的感動に、お金も魔法も使っていない。ほんのちょっとの閃き、ものを見る角度の絶妙な傾き――。
実は、技術としては拙い部分もある。しかし、どのように俳優を動かし、どのように撮って、どのように繋ぐか。そのアイデアの秀逸さ・豊かさに、僕は心を揺さぶられる。
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児童ポルノ根絶活動の講師、中学生にみだらな行為容疑(■)
“平川容疑者は元小学校教諭で、児童を性被害から守るために東京都が警視庁と連携して保護者や教職員向けに開いている講演会「ネット等の性被害(児童ポルノ)根絶等の啓発講演会」で昨年6月~今年3月、講師を務めていた。”
検索してみると、この容疑者は、僕の住む三鷹市でも「ネット等の性被害(児童ポルノ)根絶等の啓発講演会」を開催していた。三鷹市も東京都も、しっかりしてほしい。
「女子学生の制服画像は、性的な表現なので規制すべき」と熱くなっている男性が、実は制服フェチだった話は、しばしばネットで目にする。大声で正義を主張する人は、うしろめたいから声が大きくなってしまうんだと思う。
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