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レンタルで、『ディーパンの闘い』。
フランス語とタミル語が半々の、フランス映画。カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞したとはいえ、スリランカの内戦をのがれた擬似家族の映画を、日本語字幕で見られる状況は素晴らしい。
近所のレンタル屋に、これが4本ぐらい置いてあるのだから、豊かな国だと言うほかない。
(国内配給は、ロングライド。ここが配給する映画は、どれも面白そう。)
原題は“Dheepan”。主人公の名前のみ。しかし、『ディーパンの闘い』という戦争映画のような邦題こそがふさわしい。寡黙で、台詞では語らないタイプの映画だが、無理やりに家族をつくって祖国を捨て、言葉の通じない国で人並みの生活を立て直そうとするディーパンは、確かに戦っている。
スローモーションで、密林の中の象の顔面をとらえたカットが二度ほど、挿入される。それは、遠いスリランカの記憶なのかも知れないし、ディーパンの内なる葛藤を暗示しているのかも知れない。いずれにせよ、言葉にしたら空しくなるような凄みをもったカットだ。
その異様なカットによって、安易な感情移入は分断される。この映画の場合、そうそう簡単に主人公たちの置かれた立場を理解してはならないからだ。
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しかし、難解な映画ではない。
ディーパンの「妻」として偽造パスポートで入国してきた女性が、フランス人のアパートで女中として働きはじめる。言葉が通じないし、治安も悪いと臆していた女性だが、アパートの若い男性に「メシがうまい」と、誉められる。
その男性はタバコを吸っていて、「あなたも吸う?」と女性にすすめる。女性は断る。……が、「食材を買って、またうまいメシをつくってくれ」と、チップを渡されると、女性は笑顔になり、彼の吸いさしのタバコを拾って、ちょっとだけ吹かす。
「誉められて嬉しい」気持ちを、「誉めてくれた相手のタバコを吸う」芝居で表現している。
こうした人懐っこいシーンを見せられると、スリランカやフランスがどういう状況なのか、いやでも興味をかきたてられる。
ディーパンの家族が暮らす地域では、発砲事件があいつぐ。怒ったディーパンは、ついに武器を手にする。ところが、映画は投げやりなほどの幸福なシーンで幕をおろす。それまでとは打って変わって構図が安定しており、いかにも付け足したような和やかな雰囲気なので、「?」と違和感をおぼえる。
映画を見ていると、「ここで終わった」と直感する瞬間がある。そっちを信用したほうがいい。
途中から見ても、面白い場合はよくある。途中で飽きてしまっても、それまでが面白ければ十分。この考えは支持されないだろうが、映画の価値は「過程」「語り口」にあると信じている。
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「ネタバレ注意」「泣いた」「号泣した」で映画が語られる社会を、僕は怖いと感じる。
NPO法人でアーティストが講演しようとしただけで脅迫電話や脅迫メールが届き、すし屋で外国人観光客相手にワサビが大量に盛りつけられれば、「韓国人同士の内ゲバ」と結論づける人がいる。
全体のために、個を殺す社会になってしまった。過重なストレスが、ネットに膿となってあふれ出ているんだと思う。
映画の感想が「泣いた」一辺倒になってしまったのは、実社会で感情を発露する場がないからだろう。
『ディーパンの闘い』は、遠い外国の話ではない。僕らは、たがいに監視しあい、たがいに目に見えない弾丸を飛ばしあっている。
(C)2015 WHY NOT PRODUCTIONS - PAGE114 - FRANCE 2 CINEMA
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