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風変わりな日本映画『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』と、キリストの受難を描いたメル・ギブソン監督の『パッション』。レンタルで。
後者は、2004年の映画。もうすこし古いと思っていたが、アメリカ本国で大論争が起きたことは記憶している。
確かに、異色作だ。キリストが磔にされて絶命するまでの拷問を、ほぼリアルタイムで執拗に描いた、ただそれだけの映画。なぜそうなったのか、前後の説明はまったくない。
こんなシュールな映画なのに、ちょっと検索しただけで「ネタバレ・あらすじ・結末」などと赤字が出てきて、まったくうんざりさせられる。
僕は、キリストの生涯を描いた歴史大作だと思って、借りたの。この映画に「ネタバレ」があるとしたら、「物語を排して、描写のみに徹した点」だろう。だけど、「ラストでキリストが復活するんだぜ」と書いたら、「ネタバレすんな」と怒られてしまいかねない(笑)。
みんな、聞けば答えられる程度の知識に、重点を置きすぎる。「いかに認識するか」は、ほとんど問題にされない。「Aでなければ、アンチA」と決めつけられる。
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下手をすると、『パッション』を見ただけで、「廣田さん、キリスト教徒なんですか?」と、真顔で聞かれかねない。あまりにキリスト教に無知だから、映画で勉強できるかな?と思った程度なんですが。
結果、ほとんど勉強にはならなかったし、かなり退屈な映画ではあるんだけど、まあまあ見て良かったかな……と言える体験にはなったわけです。それとも、「傑作」か「駄作」か決めないといけないんでしょうか。「泣いた」「号泣した」は、いまや映画の感想を責めれないための、ツッコミ回避の免罪符と化している。
ひどい退屈からでも、なにかしら学べることはあるじゃないですか。泣かなくても、感心したり、興味深く感じることはあるじゃないですか。
それを認めてくれるバッファが、世の中から失われてしまわないよう、俺は自分から縁遠い映画も、しつこく見つづける。なんとも言葉にできない、曖昧な煮えきらない気持ちをこそ、大事にしたい。
「誉める」んじゃなければ「貶す」んだよな?と詰め寄られる社会は、焼け野原しか残さない。【ネタバレ注意】という赤字からは、硝煙と死臭しか漂ってこない。
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で、『パッション』なんだけど、凄惨な暴力描写がえんえんとつづく。
劇映画である以上は、劇映画のシステム、回路を使って伝達したい「何か」があるはずなんです。その「何か」が、もはや劇映画の約束事では語りきれないほど濃度が増したり、限度をこえたりすると、単なる伝達システムが「表現」へと転じるような気がする。
システムが壊れた瞬間、ようやく表現が生まれるのです。『パッション』で言えば、キリストの手を十字架に釘で打ちつけるカットは、どれだけ血が出ようとも、おとなしく「映画」というシステムに収まっている。だけど、十字架の裏側に、手の平を貫通したクギの先端が、血と一緒に突き出るカットがある。そういうカットを、わざわざ抜き撮りしている。「手の平を打ちぬいたクギが、板の裏から頭を出す」なんていう当たり前の物理現象を、あえて撮影している。「撮影した」冷徹な事実を、つきつけられる。
その瞬間、劇映画が劇映画ではなくなる。壁を超えるんです。
残虐描写は苦手なんだけど、好悪なんか超越した表現の、むき出しの強さってあるじゃないですか。好悪や趣味なんて、いちばん後回しでいいんじゃない? 感情移入なんて出来なくても、ちゃんと映画は面白いぜ?
誰も言わないから、俺が言う。ストーリーなんて理解できなくても、映画に脳天を打ちぬかれる爽快な瞬間は、ちゃんと訪れる。
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