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アニメ業界ウォッチング第25回:「ガンダム」の制作進行からアニプレックス会長まで…植田益朗の目指す「アニメ100周年プロジェクト」とは何か!?(■)インタビューをしました。
植田さんは、僕が20代の後半、サンライズに勤めていたころの上司です。入社するときと辞めるとき以外も、なにかと相談していたように思います。
その後、イベントなどでお会いすると、「廣田……もう、アニメは終わりだろう」などと冗談とも本気ともとれぬ発言をしていたのですが、その雰囲気は、今回も変わりません。ただ、冗談のように聞こえる部分こそが、植田さんの本気なのだと感じました。
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レンタルで、カナダ映画『ヴィクとフロ 熊に会う』。コメディとも受けとれるタイトルだが、原題そのまま。ベルリン国際映画祭で、アルフレッド・バウアー賞を受賞。それ以外に、まったくセールスポイントのない希少な映画が、レンタル屋で86円で借りられる日本、すごい。
ヴィクという61歳の女性が、森にある小屋をたずねる。やがて、恋人のフロが合流する。レズビアンのカップルだが、そこを強調した映画ではない。見る人が見ると、同性愛にかんする記号や暗喩が入っているそうだが、あまり気にならない。
シーンの最初は、ほぼ人物の局所的アップで始まる。顔とか手とか。そうでなければ、まったく顔の見えないアングルから始まる。北野武の映画を思い浮かべてほしい。登場人物が、呆然と、あるいは憤然として何かを見つめている。次のカットで、ポンとそれが映される。詩のように、必要なことだけを、ポツポツと語るスタイルだ。
説明のための段取りを、周到にとり除いている。あるいは、説明をなるべく後回しにするよう、段取りしている。
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事態は、唐突に起きる。あるいは、すでに起きてしまったあとだ。
そういうスタイルが好きな人には、至福の時間を提供してくれる映画。アキ・カウリスマキの『マッチ工場の少女』のような、乾いたムード。しかし、『ヴィクとフロ 熊に会う』は女優の顔がいい。歳相応の色気がある。
映画が低予算になればなるほど、俳優は生の顔をあらわにしていく。洋の東西をとわず、予算と俳優は密接に関係している。俳優が演技していること。それのみが、劇映画の最後の砦だ。生命線だ。街角でゲリラ的に撮影しようとも、カメラがなくてスマホで撮影しようとも、そこに俳優の顔が映っているかぎり、「劇」は成立している。
僕はそのような、映画が映画である原理をむきだしにしている、構造をあらわにした映画が好きだ。原理や構造は、嘘をつかない。主観に左右されない。感情移入という言葉に警戒せねばならない。誰にも感情移入できずとも、その映画の構造を愛することはできるはずだ。
情に訴えねば共感を得られぬ表現は、どこかで必ず嘘をついている。
僕が誠実でありたいのは、情を排除しても、なお美しい表現を見落としたくないからだ。
ただ泣きたいだけならば、映画など見る必要はない。
感性を弄ぶのではなく、僕は「これ以上は先へ進むない」というぐらい簡素な、力強い原理、構造に出会いたい。その地の果ての美しさを裸眼で見たとき、はじめて僕はまじりけのない涙をこぼす。
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