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2016年9月 3日 (土)

■0903■

8/31は、TOHOシネマズ新宿で『ゼーガペイン Memories in the shell』を鑑賞。
Zegarogoどんな好きな作品でも、「濃いファンが集まる場」が苦手で、できればガラガラの映画館へ応援がてら座りにいきたいタチなのだが、今年の『ゼーガ』だけは、ひとりのファンとして楽しもうと決めていたので……。
ところが、この日はスタッフの方々に取材、翌朝は声優さんたちに取材という狭間で見たので、あまり冷静には見られず……というより、『傷物語』のときは何でもなかったのに、隣に人が座ると、大量に発汗してしまい、精神安定剤を二錠も追加で飲んで、ようやく上映30分後ぐらいに汗がおさまった。この症状については、あとで書こう。


『ゼーガペイン Memories in the shell』は、『ゼーガペイン』最初の関門と呼ばれる第6話のクライマックスから始まり、リョーコのデータ消失から復元までをザックリとまとめたもの。
今こういう編集版を上映するということは、本番の『ゼーガペインADP』は絶対にこういうまとめ方はしない……という宣言に受けとれる。

最初からそうだったのかも知れないが、『ゼーガペイン』はリサイクル可能な動画、ディテールや質感を省略可能なセル画で「物語る」ことの本質に触れている。リミテッドアニメは、口パクのタイミングさえ変えれば、まったく別の声優に、まったく別のセリフを語らせることができる。実写では、アフレコで違うセリフを吹き込んでも、必ずバレる。
セル画の人物は、どれだけ写実的に描いても、人形劇の人形から離れられない。動いている被写体を撮るのではなく、カメラというメカニック、一秒間24フレームの「止まった絵」で動きをコントロールする以上、どんなキャラクターも人形だし、データ、素材なのだ。


『ポニョはこうして生まれた』で、宮崎駿さんは原画を修正しながら「これは本当に起きたことなんだ。それを僕らは、こういう絵で表現するしかないんだ」と言っていたけど、キョウたちの生きている世界は、本当に高密度な、写実的な仮想空間なのだろうか?

僕たちは、キョウの生きている世界を、セル画を中継して目撃しているのだろうか? キョウたちの見ている『ゼーガペイン』の世界は、(本当は)実写そっくりの世界なのだろうか? もしかすると解像度を落とした、それこそアニメのような世界なのかも知れない。「そんなことはない」と、作品の中で言及することは不可能だ。
そして、あの「5ヶ月間でループする」世界は徹頭徹尾、監督やスタッフが作為した時間に制御されている。その作為から逃れるかのように、『ゼーガ』は演劇という形でスピンオフが企画され、実際に朗読劇が上演された。アニメという制御された面積、制御された時間から逃れるかのように。
「実写化」という話など一言も出ないまま、『ゼーガペイン』には「劇」と「肉声」だけが残る。その理由は、何だろう? 

もちろん詳しいことは一言もいえないが、『ゼーガペインADP』は「アニメで物語る」ことに自覚的で、批評的な視点をもった作品になるだろう。だから、今までと違う角度から評価されることになると思う。


さて、映画館で発汗したこと。
横に人が座っただけで緊張して汗をかくなんて、これでは海外旅行は無理なのでは……眠ってしまうほど精神安定剤を飲めば大丈夫なんだけど、どこかで根源的なところで、僕は自信を欠いているのだろう。

たぶん、幼少期に父親が怖かったこと、心を読まれるような気がして、父親を前にすると何も考えられなかったこと。醜形恐怖があるので、服を買うときも猛烈に発汗する。「俺みたいな醜いオタク中年が、なんでオシャレしようと頑張ってるわけ?」と、場の空気に耐えられなくなる。
同じように、発汗恐怖がある人と話してみたい。半世紀も生きてきて、同じ苦しみを抱えている人と出会ったことがない。というか、真面目に話そうとしても「そんなの、人目を気にしすぎだよ~」と、うんざりした顔をされてばかりだ。

(C)サンライズ・プロジェクトゼーガ

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