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インタビューは、下田正美監督のほか、関島眞頼さん、村井さだゆきさん、久保田雅史さん、高山カツヒコさんたち脚本家チーム。
巻末掲載の最終回レイアウトでは、下田監督と山下明彦さんに、ワンカットずつ解説していただきました。
関島さんのインタビュー中には、亡くなった桶谷顕さんのお話も聞けて、作品に生かされた思い出の写真も掲載させていただきました。
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こうして一次情報を発信する立場なら、「ここから先は伏せて、別の見せ方をしましょうか」「そっちは捨てて、こっちを生かしましょう」など、建設的な話し合いができ、ストレスもありません。現場でストレートに問題解決できるので、仕事のクオリティも上がります。
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ただ、ここ最近、業界の内外の人から「商業本には、アニメの批評が書けない」「書いても、版権元が勝手に直してしまうので、もう書きたくない」といった話を聞きました。
まったくその通りで、著者名を出している記事、すなわち「著作」であっても、版権元が「このような書き方をするな」「こういう解釈はするな」と、赤を入れてきます。
「権利者なんだから、当然だろう」と思いますか? あなたがツイッターやブログに「このアニメ、つまらんかった」と書いたとします。レビューサイトなどに「こことここがダメでした」と書いたとします。それをアニメ会社が「最高だった、傑作だった」と書き直したとしても、「当然だろう」と納得できますか?
Aという作品をつくった監督と、A作品を「クソだ」と書いたあなたと、対等のはずなんです。著作物に、上も下もないと、僕は思います。どのような大きな作品も小さな発言も、等しく野に放たれ、風に吹かれているのです。
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僕が記事の著作者であるとか、その記事のモチーフとなったアニメの権利元のほうが発言権が大きいとか、実はそういう問題ではないのかも知れません。
「たかが個人の分際で、組織にたてつくな」と言われているように、感じるのです。
「お前はフリーランス、個人にすぎないのだから、われわれ会社員の命令を聞かねばならない」「みんなが言いたいことを我慢しているのだから、自分ひとりだけ権利を主張するな」――そう言われているように感じています。
NHKの貧困女子高生叩きも、「我慢しているみんな」が、テレビに取り上げられて「優遇されている個人」を、妬んだ結果ではないでしょうか。
生活保護受給者や性犯罪被害者に対する、「黙っていろ」「権利を主張するな」圧力も同様で、「不平不満に耐えているみんな」をエネルギー源にしています。
『マンガ論争』誌の取材をうけたとき、「行動できない個人は、行動している個人を敵と見なす」と聞きました。同じ理屈で、「実名で思ったことを自由に書いている個人」を、会社組織の中で「言いたいことも言えない」ことを理由に嫉妬し、攻撃する=記名原稿に赤を入れて、思うように書かせない……だとしたら、この問題は相当ややこしい。
なぜなら、世の中の誰もが「私は、私の名において発言する権利を擁する」と、自らの誇りを獲得する以外、解決する方法がないからです。他者への嫉妬や攻撃心、自由への憎悪は、「正義」などではなく、「自尊心の欠如」から生まれているからです。
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