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2016年8月12日 (金)

■0812■

レンタルで、三隅研次監督の『座頭市物語』。
Zatouichimonogatari_516_20080123セリフでもそのように語られるが、座頭市は鬼気のようなものを体から発散している。「気」など撮影できないので、監督はカット割を工夫するなりしないといけない。
市はヤクザの親分の家に泊まるが、その親分が子分たちの前で「しょせん、市などメクラ」と陰口をたたいている。親分は正面奥にいて、子分たちはカメラに背を向けている。安定した構図だ。
ところが「ちょっと待った」と、市の声が画面外から入った瞬間、パッとカメラがズームで引く。カットを割らずに、カメラに動きを与えている。落ち着いていた構図を不意に崩すことで、「気」を表現している。

最初のシーンでも、市から庭に咲いている梅の花に、カメラがPANする。すると、市と梅の花の間に、有機的な関係が生じる。カットを割ると、説明になってしまう気がする。
アップからアップへ、ピンポイントのPANは、天知茂演じる浪人が、市に決闘を申しいれるシーンでも使われている。市のアップから、ゆったりとしたPANが始まり、見守るヤクザたちの姿を遠くにとらえ、やがて、市と向き合っている浪人のアップまで辿りつく。
その長いPANが、決闘の場の空気を熟成していく。市と浪人の間に、切っても切れない粘つくような関係が生まれてしまったことを、カメラの動きで語らせている。

僕は、ディテールに執着しているわけではない。
緊張するシーンでの、唐突なカメラの動きこそが『座頭市物語』の見どころだと思うから、書きとめている。
借りてきたDVDは傷がついているのか、ラスト近くの市の長いセリフが切れていた。だが、そのセリフはあまりに市の心情を説明しすぎていて、ぜんぶ聞く必要はないと思った。観客を安心させるためのセリフであって、それはこの映画の本質ではない。
(※PCのプレイヤーではすべて聞くことができたが、やはり冗長なセリフであった。)


映画評論というと、ハリウッドにおいてすら、もっぱら物語について語られる。あとはせいぜい、役者の演技ぐらい。カットワークやカメラワークが創造的だ、という話は誰もしない。
目に見えないもの、耳で聞こえないものを表現する工夫は、あらゆる場所で試みられている。その工夫をとらえよう、言語化しようという意欲を感じることは、本当にまれだ。

それなのに、ネタバレという言葉だけが乱用されている。映画の「ネタ」は、カメラワークにあるかも知れない。しかし、「ネタバレ」とは「物語の結末」の言いかえでしかない。


市の顔から梅の花へカメラがPANし、目の見えない市が「おっ、梅の花が咲いていますね」と微笑む。彼が、臭覚によって世界を把握していることが分かる。
そのシーンは、僕たちがどのような方法で世界に直面しているのか、どうやって現実を構成して解釈しているのか、その秘密に触れていると思う。そして、そのような経路をたどって世界の秘密に触れることは、映画にしかできない。貴重なカメラワークを見落としてしまうのは、あまりにもったいないので、ここに書きとめておきました。

(C)KADOKAWA CORPORATION 2016

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