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2016年7月31日 (日)

■0731■

昨夜は、小学校時代の旧友2人と『シン・ゴジラ』鑑賞。
640前回のエントリーで、「日本映画は感情にまかせて、怒鳴ってばかり」といったようなことを書いた。
『シン・ゴジラ』の主人公も、実は一度だけ激昂して怒鳴る。ところが直後に、「まずは君が落ち着け」と、同僚から水の入ったペットボトルを胸に押しつけられ、「すまん」と謝る。
そのペットボトルは、緊急時用に保管されていたものなのだろう、ラベルなどはない。主人公は都心でゴジラの引き起こした大火災から逃れてきたので、背広は汚れているし、怪我も負っている(医療キットが不足している、という短いセリフが入る)。
ガイガーカウンターで放射線量をはからないと、施設に入ることはできない。その時点で、総理大臣をはじめとする中心人物は消息不明となっている。それでも主人公は、仕事をしなければならない。

同じ規格のノートパソコンが、次々と机の上に並べられていく。会議室に仕事場所をつくるため、壁にかけられた絵を「せーの」と取り外す、短いカットが重なる。会話しながら、「未決」「既決」と分けられた箱に、次々とハンコを押して、書類を整理していく。
服が匂う、と指摘されたシーンの直後、ビニールに包まれた新しいワイシャツがアップになる。仕事机のうえで食事をおえて「ごちそうさまでした」と誰かが言う。その臨場感。
ゴジラを倒す最終作戦のあとですら、「ご苦労様でした」。感情に流されない地味なディテールのひとつひとつに、「実務」に対する謙虚さを感じる。

不意に、働いている誰かのスマホ画面が映りこむ。壁紙は、スマホの持ち主の妻子の写真である。その刹那、休みなく働いているプロフェッショナルたちの人生が立体化される。ほんの一瞬である。次のコマから、再び映画は事態収束に向けて疾走しはじめる。


ゴジラが鋭利なビームで高層ビルを切断し、崩れたビルが隣のビルに当たって砕け……といった、「物理的に当たり前」なミもフタもない映像に気おされて、「うわあ」と声が出そうだった。
初めて上陸したゴジラの、ウナギのような異様な姿にも、「映画的な作為」に回収不可能な唐突感、違和感をおぼえる。試写で見たときも「あれ? ひょっとしてCGが間に合わないから仮の映像を入れてるの? だって大手の商業映画に、こんな異常なデザイン出すわけないよね?」と戸惑った。
「しょせんはフィクションだから、安心して眺めていればいい」といった映画の良識、安全圏から放り出される不安は、初上陸時のゴジラの奇怪な容貌目撃時から生じはじめる。

その不安は、しかし心地いい。
大学入学前の春休み、地元のバウスシアターで寺山修司の特集上映を見た。単館上映とはいえ、商業映画のはずである。正規の料金を払って、しかるべき営業許可を得た施設で、段取りをふんで見ているはずだ。
なのに、「僕は今、映画館で映画を見ているんだ」という現状認識がゆらいでいく。怖いし、もう見たくない。だけど翌週、また足を運んでいる。映画館の暗闇に座って、ようやくナマの現実と接している感触を得られた。寺山の映画が上映されている間、狭い館内には風が吹いていた。僕は、素肌を風にさらしていた。
創造は、何かを破壊する。作品は、無作法だ。常識を押しのけて、無理やりに自分の居場所を獲得する。
そうした獰猛さを、寺山の映画からも『シン・ゴジラ』からも感じる。


だからこそ、この映画はあまりヒットしないのではないか……との不安がよぎる。
友人2人は面白がってくれ、うち一人は「もう一度見てもいい」と言ってくれた。酒を飲みながら、自分たちがいかに全年齢に優しいハリウッド大作に毒されていたか、確認しあった。
しかし、僕のように戸惑いや不安を楽しんでいた形跡はない。家庭をもつ親である彼らは、そこまで倒錯してはいない。

フィクションを介在させないと、社会に実感をもてない僕のような者は、きわめて少ないような気がする。少なくとも、映画が「映画」ではなくなる瞬間など、待っていないだろう。娯楽の規格がキチッと遵守されているのを確認し、安心して家路につきたいのではないだろうか。
僕は間違いなく、もう一度、映画館へ行く。この映画は、風にさらされている。

(C)2016 TOHO CO.,LTD.

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2016年7月28日 (木)

■0728■

明日から再び原稿、明後日は友人2人と『シン・ゴジラ』。
買い換えようかと思っていた革靴を、6千円かけてオーバーホールしてもらった。あと、何年ぶりかでスラックスを新調。


レンタルしてきた映画を、2本ほど見た。
大惨事までのタイムリミットが一時間を切って、周囲が「この状況で、そんなことやっても無駄では……」と指摘しているのに、主人公が「でも、やるんだよ!」と怒鳴る。邦画って、本当にこのパターンが多い。プランも知識もないのに力づくで押し通して、「思い」でやり遂げてしまう。
『シン・ゴジラ』の感想()は、実に多くの方に読んでいただいたけど、「その道のプロフェッショナル」が必要なシーンで、必要な仕事だけやって、さっさと退場していく。そのソリッドさが、本当に気持ちいい。カッコいい。

「でも、やるんだよ!」が受け入れられてしまう、汗だくで絶叫し、ノープランだけど必死にやったから認めてくれ!式の邦画がヒットする現状も、理解できなくもない。なぜなら、「苦労した人が、いちばん偉い」という歪んだ美意識を、義務教育で叩き込まれるから。
「得意なことを好きようにやって、いい結果を出す」。それが、誰にとっても幸福なはずですよね? なのに、「無理して、徹夜したり病気を押してやり抜いた仕事のほうが尊い」ってことになっている。そのくせ、ストレスのあまり個人がつぶれると、「なぜ周囲に相談しなかったんだ!」と、自己責任にされてしまう。

ネットの経験談で、「睡眠時間を削らざるを得なくなったとき、どう仕事を乗りきる?」という.テーマが設定されていたんだけど、そういう設問が出てくること自体、異常です。
みんなが好きなだけ寝られて、たくさんお金をもらえる社会にする。誰もが苦労せず、ストレスなく悠々自適に暮らせる社会がベストなのに、それを口にしてはいけないような不健全さが、日本社会に根づいている。


僕は大学時代から、ガレージキットの原型や見本制作で何万円かずつ稼いでいたけど、「そんなの仕事じゃない」って、周囲からさんざん言われたものだった。
「大学生のアルバイトってのは、皿洗いとか清掃とかだろ」って脅迫的に迫られて、何度かやってみた。時間より早く終わって、さっさと着替えて帰ろうとすると、先輩から「何か出来ること探せ! 楽すんな!」と怒鳴られた。

だったら、好きな模型を作って、その何倍ものお金をもらったほうが絶対いいじゃない? 大学を出てからも、しばらくは模型を作ってお金を得ていたけど、「廣田の仕事は、社会人のやることではない」と責めるように言われた。何だったんだろう、あれは。

今の僕の仕事は、本当に市役所に説明するのが難しくて、「ようするに、出版社に勤めているんでしょ?」「そんな仕事、本当にあるの?」と、何度も聞かれる。
市役所で、「税金を納められなくなったら、他の仕事についてもらいます」と言われたことがあって。「一応、職業選択の自由ってあるんだけど、でもね……」と言葉をにごらせてから、「あなたの歳だったら警備員、清掃員、介護の仕事ぐらいですかね。警備員は体力を使うし、介護ってのも特殊な仕事だから……あなたは、清掃員かな」と、リコメンドされた。
ようは「家畜になれ」ってことですよ。これ、本当に市役所で言われたことだからね。地獄に落ちないよう気をつけて歩いていても、地獄に道案内する係がいるわけです。

税金は払っているけどさ、自分の能力で得たお金は、旅行とかの娯楽に最優先で回したい。それが人間の幸福だって、僕は知っている。


『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』()を読んでくださった方たちのツイートに出てきた、上野千鶴子さん『スカートの下の劇場』、森岡正博さん『感じない男』。
Kindleで買って、読んでいる。

上野さんの「セクシュアリティは社会によって変動するもの」という見識はその通りだと思ったし、『感じない男』もすごい。男は性感が女性よりも劣っているが、それは男社会にとって都合が悪い。だから、女性の性感を男が支配しているかのようなポルノが多い。タブーに近い指摘だけど、よく書いた。
たとえば、痴漢でつかまった男が「自分が男であることを確かめたかった」と言い訳するのも「性感で劣る男性が、女性を支配しているかのように偽装したい」社会の重圧だと説明できる。性犯罪ってのは、やっぱり征服欲、支配欲なんだよ。

小学校時代、教師からも駄菓子屋のオヤジからも、「男らしくしろ」と、どれだけ言われたか。僕は無口な子どもだったから、ご飯を食べるときも黙々と食べていたんだけど、親戚のおばちゃんが「本当はおいしいんでしょ? 男の子って、おいしいとき黙ってるものだよね」と、勝手に断定されたりもした。
肩まで髪をのばしていた12歳の僕は、『11人いる!』の男女どちらにでもなれるフロルに憧れていた。今年のクラス会で、「ヒッサン(僕のあだな)は、本当に肌がきれいで、女の子みたいだったよ」と女子から言われて、なんだか報われたような気持ちになった。

僕は屈折しているけど、この屈折は武器になる。『我々は如何にして美少女の~』を書いて、よく分かったよ。たっぷりとは言わないけど、印税も入ったし。

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2016年7月26日 (火)

■0726■

月刊モデルグラフィックス 2016年9月号
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●組まず語り症候群第45夜
今回のキットは、バンダイ製『ファイティング・ドリー』キャラクラフト、ニモです。
体色のオレンジとホワイトが、ゆるくカーブを描いたボディにぴったりとフィットする美しいキット。だけど、原稿を書いたのは組み立てる前なので、晦渋で通りの悪い文章になってしまった。

だけど、キャラクターキットだからこそ「よく似ている」「イメージを再現できている」といった投げやりな言葉ではなく、「なぜ面白そうに感じるのか」言語化しておきたい。
そのために目があり、言葉があるんだと思います。


原稿と原稿の短い中休み、映画を3本レンタルしてくる。ソフィア・コッポラ監督の『ブリングリング』。
Tbr_main_large親と離れて暮らす不幸な少女たちが、ほんの遊び心からハリウッド・スターの豪邸に忍びこむようになる。高価な服やアクセサリーに魅了された彼女たちの窃盗は、やがて組織的になり、警察にマークされてニュースに取り上げられ、ついにはテレビでインタビューを受けるほどの有名人になってしまう。
誰ひとり感情移入できないのに、最後まで飽きさせないテクニックとモチーフの拾い方が見事だ。

「感情移入」という言葉は便利だけど、それゆえに警戒すべきで、「登場人物の言動がひどいので、この映画もひどい」といった平面的な感想を導きやすい。
登場人物のひとりが「セレブの生活って、誰でも憧れるもんでしょ?」と言い訳するが、もちろんそんなことはない。だが、そういう価値観の人物をどうして出したのか、なぜそういうセリフを言わせたのか、どんな効果が出るのか考えると、シナリオという「ハードウェア」に触れることができる。
セリフを聞いて、「ひどいヤツだ、最低の人間だ」と反射するのは、「ハードウェア」の存在を忘れているだけ。


どんな表現物でも、ソフトウェアとハードウェアに分離できると思う。ハードの存在に鈍感なまま、ソフトに文句を言うだけの人生を、僕は送りたいとは思わない。

映画の中盤、盗品でゴージャスなパーティを開けるまでになった少女たちのひとりが、シャンペンのボトルに、花火をさして現れる。そのまばゆい光を、カメラはハイスピードで撮影する。その動きにあわせて、ゆっくりと音楽が入る。
息をのむほど美しいカットだ。被写体を24フレームで撮り、そのスピードを調整可能な映画のメカニズムがむき出しになっている。それと同時に、薄っぺらな欲望につき動かされる少女たちの淡い人生が、そのはかなさが、残酷に浮かびあがる。ハードが、ソフトをうまく転がしている、機能させている……と、僕は感嘆する。
そういう瞬間を、いつだって探している。理屈と必然が合致して、奇跡を起こす瞬間を。

もちろん、女優めあてに映画を見ることもある。バカになりたいときだってある。
だけど、ハードの存在を軽視したくはない。

(C)2013 Somewhere Else, LLC. All Rights Reserved.

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2016年7月23日 (土)

■0723■

ホビー業界インサイド第13回:フィギュア原型師を悩ませる「好み」と「偏り」原型師 稲垣洋インタビュー!
T640_709476一年前に、「アルターの原型師」としてデコマス作成担当さん、企画担当さんと一緒にインタビューさせていただいた原型師、稲垣洋さん。前回のワンフェスでお会いしたとき、「もうちょっと深いインタビュー、やりましょうか」という話なり、単独インタビューが実現しました。
ある意味、『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』の内容をバトンタッチしていただいた気もしています。

「自分が、そうなりたい女性キャラを作る男性モデラー」という分類にもハッとさせられますし、「ロリータ趣味からショタ趣味に移行した男性を、“変態”だと笑えないはず」という指摘にも、感銘をうけました。
オタクのセクシュアリティって、茶化されるばかりで真面目に言語化されてこなかったし、まして当事者が顔と名前を出して語る機会は珍しいのではないかと思います。当事者不在のまま、「二次元キャラが好き」というだけで、一方的にボコられたりするのは、真摯な自己言及が不足しているせいでは……という気もします。


告知を忘れていましたが、都築響一さんから、取材を受けました。
Og893記事のタイトルは『短期集中連載:マニア本の著者に聞く vol.1 「我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか」――廣田恵介とセンチメンタル・プラモ・ロマンス』
都築さんの有料メルマガ【ROADSIDERS' weekly】2016/07/20号 Vol.220()で、読むことができます。本では省略した恋愛遍歴、対人恐怖症のことなど、いろいろとぶちまけてしまいました。
『我々は如何にして~』自体は、発売から一ヶ月が経過。アマゾンの「模型・プラモデル」カテゴリで、売り上げ1位と2位のあいだを行ったり来たりしています。


ちょっとずつ時間ができてきたので、レンタルで『JUNO/ジュノ』。
15歳の女の子が、ボーイフレンドとのセックスで妊娠してしまうが、中絶せずに里親さがしを始める。
329516_01_01_02シリアスになりがちなモチーフだが、ジョークのきいた小道具やセリフの散りばめられた、あっけらかんと楽観的な映画。アカデミー主演女優賞にノミネートされた、エレン・ペイジがいい。

主人公のジュノは、父親であるボーイフレンドを頼らない。また、我が子の里親になってくれる夫婦のうち、夫に言い寄られるが、彼の誘いを断固拒否する。
この映画では、男はトラブルの種になるだけで、まったくの役立たず。にも関わらず、それぞれ魅力的に描かれている……ジュノ自身の父親も、そうだ。
男たちは、メイン・プロットから次々と脱落していくのだが、それでも、彼らは魅力的に描かれている。そこが心憎いというか、頭がいいなあと、感心させられる。バカな男をバカとして描くのは簡単だからだ。


一方、ジュノは母親になってくれる予定の女性が、知り合いの子どもと楽しそうに遊んでいる姿を、目撃する。ジュノの友人は「あの人、他人の子どもを誘拐しそうな勢いだね」と白けている。しかし、いつもはおしゃべりなジュノは、無言で里親が子どもと遊ぶ様子を見つめている。
その間、かまびすしい映画のトーンは抑制され、ジュノの表情を丁寧に撮る。僕が映画という表現に心酔するのは、こういう瞬間だ。
そして、頭の悪いティーン向けコメディ映画のフリをして、ちゃっかり社会的テーマをまぎれこませるテクニックにも唸らされるのです。

(C)2007 TWENTIETH CENTURY FOX

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2016年7月19日 (火)

■0719■

シン・ゴジラWalker 22日発売
51xchbnmpul_sx352_bo1204203200_庵野秀明総監督の作品、という視点からコラムを書きました。ひさびさに『トップをねらえ!』ラスト2話、『新世紀エヴァンゲリオン』第6話、『激動の昭和史 沖縄決戦』を、参考用に見返しました。

書いてもいい刻限になったので書きますが、このコラムのためにラッシュ試写を見ました。
ラッシュ試写会は複数回おこなわれており、同行した編集者によると、「試写のたびに完成に近づいている」とのこと。
僕が見たのは、エンドクレジットまですべて入った、完成に近いバージョンでした。


ラッシュ試写のあいだ、僕は声なき声を出して泣いていました。この映画は理性と客観によって支えられているので、お涙ちょうだいのシーンはありません。
では何に泣かされたのかというと、「日本映画って、本気になってつくれば、こんなに面白いじゃないか!」という驚き。それに尽きます。

ハリウッド映画を対置させて、「日本映画」と書いたわけではありません。「日本人が、日本人に見せるためにつくった映画」という意味です。
これは敗戦、復興とバブル、何度もの震災をくぐりぬけてきた国の人たちの映画です。別にハリウッドや、その市場としての中国に歓迎される必要はない。「もっとも国内的な映画こそ、もっとも国際的」なので、なにも心配していません。

唯一の懸念は、国内で「難しい」「怖い」とか言われて集客できないことです。そこまで、この映画は妥協を禁じています。ガチです。庵野秀明の真剣勝負、葛藤と逡巡をくりかえした56歳の底力、「実力」です(実力とは「実際にある力」という意味です)。

僕は「特撮映画」「怪獣映画」に対する愛着はうすい方ですが、それで良かったと思います。郷愁をさそうような映画にはなっていません。「今日」「現在」を血まなこで見つめようとした映画です。
その真摯な姿勢に、まずは心臓を撃ち抜かれたのです。


「今回の脚本って最初、余計なものが入っていない純粋な情報だけで構成されていたんです。周囲からはあれこれつけ足せと言われていたみたいですが、それによって面白さの要素がスポイルされるのが僕も庵野さんもすごくイヤだったんです。(略)」
――ちなみに、その余計なものとはなんでしょう?
「離婚の危機に陥った夫婦とか、娘を失った父親の悲しみとかいったいわゆる“ドラマ”です。これを削ると『人間描写が足りない』とか言われるし、多くの方は『映画にはエモーショナルなものがある』という幻想をお持ちです。(略) けど、過去の名作映画と言われる『JAWS』や『エイリアン』などにそんな愁嘆場や恋愛要素はなかったのに、すごく面白いじゃないですか」
――EX大衆8月号、樋口真嗣監督のインタビューより抜粋。これを読んで、「やっぱりなあ」と納得しました。

「大人の仕事」しか映ってないんですね、二時間の間。直接的にも、間接的にも。
ここにはもう、特撮少年だった、趣味に生きるマニアだった庵野さんや樋口さんはいない。「面白い映画をつくってヒットさせる、職業意識の強いプロ」が二本の足で立っている。

そして、この映画が「面白い」のは、知性と論理がドライブ感をかもし出しているからです。
感情表現を分かりやすくするため、大声で絶叫するような人物は出てこないし、“ドラマ”の都合で際限なく時間が引き延ばされることもありません。この映画が抗しがたい迫力と説得力を持っているのは、冷然たる事実の蓄積によってのみ成立しているからです。
「気持ち」「雰囲気」だけでは、何事もなし得ないことを、この映画は教えてくれます。

『シン・ゴジラ』は、映画の外側も内側も、知力による総力戦です。
ぜひ大ヒットさせて、「僕たちは、もっとこういう映画が見たいんだ!」と、映画界に大声で訴えましょう。
 

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2016年7月17日 (日)

■0717■

アニメ業界ウォッチング第23回:下町を舞台にした小粋なショートアニメ「夕やけだん団」、その完成度の秘密とは? 二村秀樹監督、インタビュー!
T640_709087背景画一枚、キャラクターふたりだからこそ掛け合いの面白さのきわだつ、山椒のようなエンターテイメントになっています。
「少数だからこそ、精鋭にならざるを得ない」という言葉を、思い出します。なお、Wikipediaでは「にむらひでき」となっていますが、「ふたむら」監督です。


昨日昼は、舞浜アンフィシアターで、イベント『10th Anniversary ゼーガペインSBG 夏の始まり@舞浜サーバー』へ。取材でもご招待でもなくて、ちゃんと自分でS席のチケットをとりました。
10thsbgvisualいままで、僕は「スキあらば『ゼーガ』について語る、取材する」遊撃隊にすぎず、ライトユーザーのつもりでした。というか、今でも『ゼーガ』については「ぬるいファン」です。
ただ、10周年は二度とこないので、今年はファンとして遠慮なく参加するのだ……と決めています。(アルティールのプラモデルが新規成形色で発売されるのですが、どうにかして取材かレビューか出来ないものか……会場では、近くで見られなかったもので。)


イベントは、トークショウ・朗読劇・ライブの三部構成。
浅沼晋太郎さんが、本当に細かいセリフや用語までおぼえていて、なおかつ『ゼーガ』を知らないお客さんのことまで気づかってくれて、心から感心させられる。
『ゼーガ』を知らないヤツは出直してこい、みたいな空気がない。
朗読劇は、さすがに本編のどのあたりのストーリーか理解できてないと苦しかったし、舞台上の3人だけで完結する構成にしてほしかったけど(シマ司令がギャグをとばしてくれたのは嬉しかったけど)、音楽の大塚彩子さん自らピアノを弾きはじめ、ROCKY CHACK(と、編曲の保刈久明さん!)が『and you』を歌うころには、もう涙で目がうるんでいた。

新居昭乃さんが登壇されることは聞かされていたんだけど、花澤香菜さんまで歌うとは思わなかった。登壇の順番、モニターを使った演出、ライブ・パートはメリハリがあって、とても良かった。
浅沼さんの当意即妙なMCぶり、最後の最後まで素晴らしかった。いい40歳に、いい大人になれたんだなーと……、高校生だった花澤さんより、当時30歳だった浅沼さんに、「10年のプラス」を感じさせられた。加齢ってマイナスではなくて、プラスなんだよね。


北原みのり「また萌えキャラですか」()
「萌えキャラがキモイ、というよりも、萌えキャラを重宝し濫用する男社会がキモイ」「なぜ男たちは、ここにいない少女たちを、執拗に求め続けるのか」……だそうですが、萌えキャラを好きな女性も、いっぱいいます。美少女フィギュアを造形したり塗装して楽しんでいる女性も、いっぱいいます。
彼女たちが少数派だとしても、少数派だからこそ、その嗜好を大事にすべきです。

「大勢が嫌っているから」「多くの国で禁止されているから」という理由をもちだすと、それはもう抑圧、外圧になってしまう。
僕は性別をとわず、少数の「負けそうな側」「抑圧されている側」に立ちたいと思っています。

(C)Y.D.D
(C)サンライズ・プロジェクトゼーガ

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2016年7月15日 (金)

■0715■

109シネマズでのみ上映されている短編連作アニメーション、『夕やけだん団』()。
Dandan_dvdようやく、DVDを買いました。今ごろ、こんな面白いアニメの存在に気がついて、すみません。
だけど、今月あたりからポツポツと『夕やけだん団』がらみのインタビューが、掲載されはじめます。「面白い」と感じたら、まずどこかで取材できないか、考えはじめます。

なので結局、あっちのアニメ、こっちのアニメと、スタッフさんにインタビューする日々がつづいてるんだけど……結局、名前の残っている方は、「仕事のさばき方が上手い」のです。どうすれば手間を最低限にして、高い効果をあげられるのか、常に考えてらっしゃるというか。
はじめるのは簡単だけど、終わらせるには知恵がいる。計算して工夫しなくては、前へは進まない。どんな仕事でも、同じだと思います。


それでも何とかして、取材のかえりに映画館へ急いだり、レンタルしてきたりして、何本か映画を見たんだけど……どれも、ピンとこない。疲れてるのかも知れないな。

“オーランド銃乱射事件で犠牲になったゲイの親友のために!『スター・ウォーズ』に同性愛者キャラを登場させる署名が始まる / 熱い思いが大きな運動に”(
『スター・ウォーズ』は、脳腫瘍で余命いくばくもない少女のために「R2-KT」というドロイドを有志が製作したり、社会福祉的な側面を担ってきた(「R2-KT」は『フォースの覚醒』以前、アニメの『クローン・ウォーズ』から登場している。『スター・ウォーズ』がルーカスの物だった時代から出演していたことは、強調しておきたい)。

「R2-KT」の公式サイトは、とてもかわいらしくて、ちょっとファンになってしまいそう。
ただ、その誕生の裏には、ストーム・トルーパーの世界的コスプレ団体である第501部隊や、R2ビルダーズ・クラブといった、常軌を逸したファンたちの暗躍があった。
彼らの流儀はあまりに厳格で公共性も強く、ちょっと近寄りがたいものを感じる。まあ、ナードですよ。お気軽なファンというよりは。


『スター・ウォーズ』は当初、ひとりのナードの雑多な趣味から生じた手前勝手で偏屈な映画であって、僕はそこに愛着を感じている。ルーカスの私物だったわけですね、『スター・ウォーズ』は。
それがディズニーに売却されて以降は、もうナードのものではなくなった。制作者や出演者の発言からもオタク性は除外されたし、私的なこだわりも消え去った。中正公平になった。
……そうやってエンタメは民主化され、進化していくのかも知れない。

ただ、ルーカスがマチズモの権化で、旧作シリーズを封建主義にこり固まった前近代的な映画のように批判するのは、事実誤認もはなはだしい。
ルーカスは1983年に離婚してから、3人の養子をとって、ひとりで育てた。2013年にようやく再婚し、代理母出産で、4人目の子どもを授かった。
彼の複雑な家族観は、ちゃんと作品に反映されていると、僕は思う。ルークもレイアも養子だったし、アナキンには父親がいない。クローン・トルーパーのホストである賞金稼ぎは、なぜか自分そっくりの(母親のいない)息子を欲しがる。
両親のそろった、一般的な家庭がまったく出てこないことで、映画の根底に悲観的な、孤独なトーンが流れつづけている。

ルーカス6部作を見るとき、そんなことも思い出してほしい。ルーカスの人生が幸せだったとは、僕にはとても思えない。

(C)Y.D.D

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2016年7月10日 (日)

■0710■

【懐かしアニメ回顧録第20回】「勇者王ガオガイガー」の合体シーンに見る、ロボットの「人格」と「主導権」
T640_708810_2非常にくどく書いていますが、合体シーンでは、ロボットは人間とマシンの形をいったりきたりします。マシンである間は、ロボットの「人格」は停止されているのです。それを、『ガオガイガー』では「目の色が消える」「黒く塗りつぶす」ことで表しています。
ロボットの目の色が消えている間、マシンの内部メカは、目と同じ色に光っています。そこには、合体するロボットの「主導権」のやりとりが行われているのではないか?……と、面倒なことを考えてみました。


夏アニメが、いろいろと出揃った。『甘々と稲妻』は、実に“聞かせる”アニメだ。幼稚園児役に、子役を配したのがいい。別に成人した声優が演じてもいいのだろうが、業界の「外部」から異分子を放り込むことで、共演する声優たちの演技にも幅が出て、「いつも」と違って聞こえる。
2039c628038730b56286d5255e060faa中村悠一さん演じる主人公が、クライマックスで白いご飯を食べるとき、「美味しい」ことを表すため、ヒュッと息をのむ。声ではなく、息をのむ生の音を拾っている。これは多分、子役の芝居を録音するために、音響チームが何かやっているんではないだろうか。
「誰が音響監督なのだろう?」と、気になる。たなかかずやさんであった。『惡の華』で、伊瀬茉莉也さんと日笠陽子さんから、ああまで重厚な芝居を引き出した、たなかかずやさんである。『くまみこ』がたなかさんだし、『ミチコとハッチン』もたなかさん。なんとなく、たなかさんの狙っている路線が分かると思う。

キャスティングと演技指導をつかさどる音響監督からアニメを見ていくと、実に面白い。音響監督にも、作家性がある。だから僕は、打越領一さんや木村絵理子さんにインタビューをお願いした。


「この監督で、このスタッフィングで、このキャスティングで」……という座組みの部分で、すでに“勝っている”作品って、あると思う。面白いかつまらないかは、僕は二の次だと思っている。ビジネスとして失敗しようが、結果としてガッカリしようが、トライした事実は歴然と残る。
企画した、発想した時点で抜きん出ていれば、僕はそれだけで元気になれる。
バブルのころは、いろいろな分野の人が映画業界に闖入してきて、やみくもに監督デビューした。ほとんどの映画が「つまらなかった」という感情的な理由で忘れさられていくけど、「冒険した」こと自体を評価したい作品が、僕にはいっぱいある。

「見てつまらなかったから、ダメ、失敗」という評価のしかたは、本当に殺伐としている。
「○○監督だからダメに決まってる」とか、「あんなヤツに映画が撮れるわけがない」だとかは、予想外のアクシデントを排除し、自分の心に芽生えるかもしれない「新たな評価軸」「新たな価値観」の芽を摘む、不毛な発想だと思う。

だって、「あんな両親から、まともな子が産まれるわけがない」って、自分の出自に最初からダメ出しされたら、生きるのがイヤになるでしょ? 同じことですよ。
明日はどうなるか分からない、意外な方向へ好転するかも知れない……と思っていたほうが楽しいでしょ。やる気も出るでしょ。
作品をつくる、作品を見るのは「未来に希望を持つため」。傑作と駄作に分類して、採点するためじゃない。もちろん、一時しのぎのヒマつぶしで見ても構わないんだけど、僕は作品からエネルギーを補充しないと、この現実を生きていけないです。そのために、「ほめる基準」は、いっぱい持っておきたいです。

(C)雨隠ギド・講談社/「甘々と稲妻」製作委員会

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2016年7月 9日 (土)

■0709■

昨日は、『君の名は。』のマスコミ試写。
News_xlarge_kiminona_201605_poster東宝の宣伝展開は、巧みにミスリードしているので、まんまと乗せられて見にいったほうが「得」だと思う。
最初の10分ぐらいは、「ああ、いつもの新海誠さんだな」という感じ。「ひょっとして、80年代の大林作品を意識してます?」などと、浅はかな勘ぐりもしてしまう。
ところが、とんでもないことが起きはじめる。デジタル・ネイティブならではの発想とテンポ感……だけでなく、今度の新海さん、デジタルの対極にあるかのような伝統工芸を、よく勉強なさってます。
それらのシーンは力量のあるアニメーターたちの手によって入念に作画され、視覚的な見せ場となっているうえ、プロット上でも重要な役割を果たします。
また、試写会場で哄笑が起きるぐらい、ひとつひとつのギャグが冴えてます。老若男女とわず笑わせるテクニック、それにも唸らされた。


では、「放課後のコンビニの匂い」だとか「雨上がりの田舎のバス停にたたずむ制服」が消えてしまったのかというと、おそらく新海監督は「僕は、ああいう世界から抜け出せないのだ」と自覚したうえで、ポンとそこへ戻ってきます。
2002年、ろくすっぽ中身も確かめずに『ほしのこえ』のDVDを買った身としては、もがきながらも作家が崖を這いのぼっていく姿を見るようで、おこがましくも「文句を言いながら見てきて良かった」とも思うのです。

背景や撮影のフェテッシュな美しさにため息をもらしつつも、いつも人物造形やプロットのゆるさにガックリするのが新海作品であり、その「ガックリ」を覚悟するのが、僕にとっては新海作品に向き合う慣例のようになっていました。
でも、『君の名は。』は違う。堂々としている。新海作品は女性の視点を大事にするので、ジェンダー的にバランスのいいプロットになっている。それは、他にない強みだと思う。


『君の名は。』は、単に「よかった」「好きだ」「泣いた」ですませられるほどシンプルではないです。これから十分な時間をかけて、いろいろな人たちによって論じられていくんでしょう。
『君の名は。』を論ずることで、たとえば大林宣彦監督の尾道三部作も、新たな意味を与えられるでしょう。そもそも、「邦画」という80年代には死にかけていたジャンルに、アイドル・ブームの渦中にいた若者が何を期待していたのかも、2000年代に登場した新海作品を援用することで、ありありと正体を現してくる気がするのです。「映画」と「アニメ」の関係についても、新しい視点が見つかるんではないか……。

この作品単体が優れているかどうか以上に、旧来の価値観をアップデートする厚みをもっており、そこに何よりゾクゾクさせられています。

(C)2016「君の名は。」製作委員会

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2016年7月 7日 (木)

■0707■

3日連続で取材がつつぎ、明日はあるアニメ映画の試写。
どうせ有楽町に行くなら、パスポートを更新しようと思ったのだが、僕の本籍地は、結婚したときに妻の地元に変えられてしまっていた。10年前にパスポートを取得したのは、離婚の前月だったので、さほど面倒には感じなかった。
しかし、夫の本籍地を、わざわざ自分の住所にする……というのは、やはり支配欲のあらわれなのだろうな。


『メイドカフェはクールじゃない?カナダの人気チーズケーキ店に賛否』(
ほとんど注目を集めてない記事なのだが、ツイッターで「オタク文化が海外でも通じると思うなよ」と、責められるような取り上げられ方をしていたので、ちょっと気になった。
(記者は、作家・翻訳家のモーゲンスタン陽子さん。)

記事では十分に触れられていないけど、まず「てつおじさんのチーズケーキ」という日本発のケーキ屋が、世界各地に進出して成功してるんだそうです。
ところが今年、カナダのトロントに出店した「てつおじさん」系列のカフェは「メイドカフェ」形式で、ウェブ上では不評なんだそうです。

記事中に書かれている、「メイドの衣装を着た若い女性たちがステージで歌って踊る様子」はこちらの元記事(“blogTO”)に、動画も貼ってあります。
20160404uncletetsusangelcafe59010“blogTO”では、メイドの踊る姿を「可愛らしく、親しみを感じる」と好意的にとらえています。(この画像は、“blogTO”の記事中より引用しました。ちゃんと女性客もいます。)

ところが、『メイドカフェはクールじゃない?』では、どういう文脈からか、“女性を物体として扱っているように見えるこの手の商法は、「性差別」「女性蔑視」として反感を買う恐れがあるかもしれない。コメントの中には「前にもメイドを見たことがあるけど本当にぞっとする。日本ではメイドの下着が見えるように床がガラス張りのところもあるらしい」などの拒絶反応も。”と、急カーブを描きます。


正直、僕自身は「メイド」という文化を、いまひとつ理解できないでいます。
吉祥寺にメイド居酒屋があったころは、男女をとわず、よく編集者を連れて飲みにいきました。なぜなら、みんな喜んでくれるからです。だけど、ひとりでメイドキャバにも行ったときは、とても居心地が悪かった。
けれども、従業員が承知のうえでメイドの格好をして、客がその姿を見て、会話をして癒されるのであれば、それを邪魔する権利は、どこの誰にもない。
僕がそうしたいと思わないだけであって、そうすることで、心の安寧を得られる人たちもいる。だったら、外野が「性差別」「女性蔑視」などと、余計な口をはさまないこと。

カナダでは売春が合法だそうなので、モーゲンスタン陽子さんがナーバスな気持ちになるのも分かります。
だけど、一店のメイドカフェがカナダで「性差別」「女性蔑視」を惹起しているかのように書くのは、あまりにもミスリードが過ぎるのではないでしょうか。
もし何か問題があるとしたら、「てつおじさんのチーズケーキ」の店舗展開が失敗しているだけであって、論点を「メイドカフェ」「日本文化」全体に移すのは、フェアとは言えません。


また、日本の18禁アニメやゲームが、海外で「HENTAI」と呼ばれていることを嘆く人をよく見かけます。しかし、海外の人たちが「HENTAI」とジャンル分けしてまで、彼らが自由に愛好しているのであって、18禁メディアをつくっている日本人が押しつけているわけではありませんよね。
ようするに、部外者の日本人が「海外(というか欧米)に対して、恥ずかしい」ってだけではありませんか? (ヨーロッパの多くの国々では、売春は合法です。それは恥ずかしくないのでしょうか。売春は「女性を物体として扱っているように」感じないのですか?)

僕にだって、目をそむけたくなるような、吐き気をもよおすような性表現はあります。でもね、その性表現を好む人からすれば「大きなお世話」なんです。
他人の性嗜好や性欲を笑ったり、バカにするのは、「心の多様性」を軽んじた忌むべき態度だと思います。責められるべきは、実社会で起きている性暴力・性犯罪のほうでしょう? 行為を責めるよりも「心」を罪悪視する社会を、僕は恐ろしいと感じます。

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2016年7月 5日 (火)

■0705■

レンタルで、『スプリング・ブレイカーズ』。
Sub3_large4人のセクシーな女子大生が、強盗してつくった資金で、ビーチのある街へ旅行に行く。旅先で、彼女たちは水着か、あるいはトップレスのまま、男たちと体中に酒をかけ合い、コカインをやって、昼となく夜となくパーティを楽しんでいる。

警察につかまった彼女たちを、銃と金とピアノが自慢のギャングの男が釈放し、泥沼のような快楽の日々へと没入していく。
その無軌道で退廃的な日々を、映画は時系列を無視しながら撮り、前後を入れかえたり、同じセリフをリフレインしながら編集していく。映っているものは毒々しく暴力的なのだが、詩のように美しい。

まるで、カメラを経由せず、誰かと誰かの記憶を抽出して、断片的につなぎ合わせたかのような映画。
酒に酔った明け方に見る、支離滅裂な夢のような異様なセンチメンタリズムを味わった。まるで、あの世をのぞいたような気分だった。


「ここんとこ、美味しいラーメンが減ったよなあ」とつぶやけば、「はあ? ウチの近所の○○屋のラーメンは、すごく美味しいんですけど? 食べてないのか、お前。○○屋に謝れよ!」と返される理不尽な場がインターネットだとは知りつつも……
結局、「過去に自分がやられてイヤだったこと」を赤の他人にぶつけ、過去の恨みを晴らす人があちこちにいて、やるせない気持ちにさせられる。

「我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか」著者・廣田恵介さんインタビュー()には多くの反響があり、ハゲもふくめて僕の醜いルックスに対する感想もチラホラ……。

この本が発売されて2週間ほど経ちましたが、面白い仕事が意外な方向から来るようになりました。そのうちのひとつは、学生時代からの友人からの紹介で、会うのは数年ぶりです。
「俺、めちゃくちゃに太りました。たぶん、会うと驚くはず」と、事前に言われていたものの、彼の性格の温厚さ、発想の柔軟さ、場を和らげる会話術は変わっておらず、何よりそこに安心しました。

自分で醜いとわかっている顔をさらすことは、ひとつのリスクです。僕は持っている武器が少ないので、リスクをとる(顔や名前をさらす)ことで発言に説得力が出るなら、お安いものだと思っています。


学生時代、とくに体育の時間に教師やクラスメイトから嘲笑われたことで、僕は自尊心を失いました。50歳にちかい今でも、対人恐怖症が治癒しないのは、自分のルックスや能力に自信がない、自分に価値を感じられないからです。

ただ、学生時代に片想いしていた女性から、「あなたは、自分の心の欠点を、すべて顔のせいにしている」と言われたことを、たまに思い出す――。
醜い顔は変えられないけど、心は変えられる。努力や工夫によって変えられる部分が、その人の値打ちであり本質なのだろう。

20代までに自尊心を奪われた人間は、残りの数十年すべてをかけて、自尊心を獲得するために生きる。それはそれで、誇り高い生き方ではないか……と、自分に言い聞かせるのです。
そして、「自尊心」と「他人を踏み台にした優越感」を混同しないようにしなきゃ、とも思います。

(C)Spring Breakers, LLC

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