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2016年7月10日 (日)

■0710■

【懐かしアニメ回顧録第20回】「勇者王ガオガイガー」の合体シーンに見る、ロボットの「人格」と「主導権」
T640_708810_2非常にくどく書いていますが、合体シーンでは、ロボットは人間とマシンの形をいったりきたりします。マシンである間は、ロボットの「人格」は停止されているのです。それを、『ガオガイガー』では「目の色が消える」「黒く塗りつぶす」ことで表しています。
ロボットの目の色が消えている間、マシンの内部メカは、目と同じ色に光っています。そこには、合体するロボットの「主導権」のやりとりが行われているのではないか?……と、面倒なことを考えてみました。


夏アニメが、いろいろと出揃った。『甘々と稲妻』は、実に“聞かせる”アニメだ。幼稚園児役に、子役を配したのがいい。別に成人した声優が演じてもいいのだろうが、業界の「外部」から異分子を放り込むことで、共演する声優たちの演技にも幅が出て、「いつも」と違って聞こえる。
2039c628038730b56286d5255e060faa中村悠一さん演じる主人公が、クライマックスで白いご飯を食べるとき、「美味しい」ことを表すため、ヒュッと息をのむ。声ではなく、息をのむ生の音を拾っている。これは多分、子役の芝居を録音するために、音響チームが何かやっているんではないだろうか。
「誰が音響監督なのだろう?」と、気になる。たなかかずやさんであった。『惡の華』で、伊瀬茉莉也さんと日笠陽子さんから、ああまで重厚な芝居を引き出した、たなかかずやさんである。『くまみこ』がたなかさんだし、『ミチコとハッチン』もたなかさん。なんとなく、たなかさんの狙っている路線が分かると思う。

キャスティングと演技指導をつかさどる音響監督からアニメを見ていくと、実に面白い。音響監督にも、作家性がある。だから僕は、打越領一さんや木村絵理子さんにインタビューをお願いした。


「この監督で、このスタッフィングで、このキャスティングで」……という座組みの部分で、すでに“勝っている”作品って、あると思う。面白いかつまらないかは、僕は二の次だと思っている。ビジネスとして失敗しようが、結果としてガッカリしようが、トライした事実は歴然と残る。
企画した、発想した時点で抜きん出ていれば、僕はそれだけで元気になれる。
バブルのころは、いろいろな分野の人が映画業界に闖入してきて、やみくもに監督デビューした。ほとんどの映画が「つまらなかった」という感情的な理由で忘れさられていくけど、「冒険した」こと自体を評価したい作品が、僕にはいっぱいある。

「見てつまらなかったから、ダメ、失敗」という評価のしかたは、本当に殺伐としている。
「○○監督だからダメに決まってる」とか、「あんなヤツに映画が撮れるわけがない」だとかは、予想外のアクシデントを排除し、自分の心に芽生えるかもしれない「新たな評価軸」「新たな価値観」の芽を摘む、不毛な発想だと思う。

だって、「あんな両親から、まともな子が産まれるわけがない」って、自分の出自に最初からダメ出しされたら、生きるのがイヤになるでしょ? 同じことですよ。
明日はどうなるか分からない、意外な方向へ好転するかも知れない……と思っていたほうが楽しいでしょ。やる気も出るでしょ。
作品をつくる、作品を見るのは「未来に希望を持つため」。傑作と駄作に分類して、採点するためじゃない。もちろん、一時しのぎのヒマつぶしで見ても構わないんだけど、僕は作品からエネルギーを補充しないと、この現実を生きていけないです。そのために、「ほめる基準」は、いっぱい持っておきたいです。

(C)雨隠ギド・講談社/「甘々と稲妻」製作委員会

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