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2016年6月 2日 (木)

■0602■

単行本の追い込みで、レンタルしてきた映画すら見られなかったのだが、なにしろ映画の日である。ちょっと早起きできたので、吉祥寺で『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』。
640昨年の『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』の、CG満載のラーメン二郎的なトゥーマッチ感にげんなりしていたのだが、『シビル・ウォー』はシンプルに、キャプテン・アメリカとアイアンマンの対立が軸となっている。
この2人の誕生には、アメリカの戦争史が背景にあるので、いやおうなくリアリティが生まれる。
冒頭の戦闘シーンは、ナイジェリアの混沌とした市街を舞台にしている。活気あふれる人込みの中で、キャプテン・アメリカのコスチュームが浮くことなく、せいぜい特殊部隊の兵士が行動している程度に見える、その絶妙なビジュアル設計に舌を巻いた。「タイツを着た、やみくもに強いヒーローが常識はずれな活躍をする世界」ではない。

そもそも、キャプテンは肉弾戦メインなので、どうしても戦いは泥くさくさなる。同行しているブラック・ウィドウも人間なので、普通の銃で戦う。この地べた感、人間の体重を感じさせるアクション・シーンだけでも見る価値がある。


プロットは、いい按配に錯綜している。ヒーローの行動を国連の管理下におく「ソコヴィア協定」を、多くの国が批准する。
自分たちの行動を縛る協定を受け入れるかどうかで、キャプテン側とアイアンマン側で、意見が分かれる。……が、「ソコヴィア協定」の影響は少しずつ背景化していき、『キャプテン・アメリカ』第二作目に登場したウィンター・ソルジャーの存在がクローズアップされていく。

僕が感心させられたのは、ウィンター・ソルジャーの犯した過去の罪をヒーローたちに暴露することで、ヒーロー同士の対立を惹起させ、彼らへの復讐をとげようとする、無力な民間人の存在だ。いつものように、特殊能力をもった悪党は登場しない。
これは、ヒーローの勝手な活躍で家族を失った一市民の戦いなのだ。だから、タイトルは『シビル・ウォー』(内戦)。ヒーロー同士ではなく、人間世界の内なる戦いなのだ。
映画は、逃れようもなく重たいトーンとなる。陰鬱な雰囲気に飲み込まれたまま、映画はデッド・エンドとなる。

こういう連作映画なら大歓迎なのだが、148分の上映時間は、あまりに長すぎる。


長すぎると感じさせる原因は、飛行場でのヒーロー勢ぞろいの派手なバトル・シーンのせいだろう。
表層的には、ここがクライマックスに見える。実際、「これでもか」とアイデアを詰め込んで飽きさせないのだが、その派手なバトルが終わってからが本筋なのだ。

僕の横に座っていた女子中学生たちは、飛行場での戦闘シーンでは声を出して笑っていたけど、シリアスなシーンでは、何度もアクビをしていた。
ようするに、さまざまなテイストのフックをぶら下げておいて、「どれかひとつでも気に入ったら、それで満足してくれ」という考え方なんだろう。「シリアスなシーンが退屈な人は、ヒーロー勢ぞろいの明るいシーンを楽しんでね」という、八方美人的な構造。

それはそれで、正しいあり方とは思う。なぜなら、観客が「あのシーンが面白かったから、まあいいや」「あの俳優が出てきたから、それでいいか」と、部分評価する習慣を身につけたから。その潮流を新しい現実として受け入れた側が、勝つ。
飛行場での明るい戦闘シーンのあいだに、トイレに行っておくべきだった。前情報として「アントマンもスパイダーマンも好きじゃない人は、あのシーンは見なくていいぞ」と、知っておきたかったね。

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