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2016年6月30日 (木)

■0630■

連日の取材・打ち合わせラッシュが始まる前に、レンタルで『ストックホルムでワルツを』。スウェーデン映画。
Sub1_large昼間は電話交換手、夜はジャズ・クラブで歌うシングル・マザーが、少しずつ有名になっていく。フィクションだろうと思って見ていると、『私は好奇心の強い女』の監督、ヴィルゴット・シェーマンが出てきて、びっくりさせられる。クライマックスには、ビル・エヴァンスやマイルス・デイヴィスまで登場する。
これは、スウェーデンの国民的ジャズ・シンガー、モニカ・ゼタールンドを主人公にした実話なのだ(原題は、シンプルに『Monica Z』)。

ステージで倒れたモニカが、病院に座っている。そのカットは、手前に大きくモニカの横顔が入っているだけだ。画面に白衣の医者がフレームインしてくるので、病院だとわかる。
医者が長期療養が必要だとつげて立ち去ると、彼はピントの外れた背景へと溶け込んでしまう。被写界深度が浅く、手前に何かボケたもの(花だとか人の頭だとか)を置いている。カメラも手持ちが多く、カットワークはラフだ。その臨場感が心地よい。


しんみりしたシーンで、ピアノ曲が流れはじめる。シーンが変わっても、その曲はつづき、実はモニカがステージで歌っている曲の前奏なのだとわかる。彼女の曲が流れたまま、また別のシーンへとつながる。
こういう映画は、信頼できる。語り口が、堅実だ。

ストーリーは追わないつもりだったが、自殺未遂までおかしたモニカが創作意欲をとりもどし、ビル・エヴァンスと競演するラストには泣かされる。実に滋味ぶかい、よく出来た映画なのだが、日本では小規模公開だった。もったいない。
主演のエッダ・マグナソンが、とにかく美しい。本業は歌手で、これが映画デビュー作だという。『コンタクト』や『エリン・ブロコビッチ』のように、女性がひとりで、ガツガツとがんばる映画が好きな人なら、必ず気に入る。


GIGAZINEのインタビュー()で、ちょっと児童ポルノ規制法について触れた。また、『セーラームーン』のミュージカルで降板されたアイドルについても、話した。
どうも、そこにかこつけて、ジュニアアイドルのDVDこそが児童ポルノだという文脈にもってきたがる人がいるようだが、「自分がエロいと思うので取り締まるべき」という主観を正当化するため「児童ポルノ」という言葉を援用するのは、いい加減におやめなさい。だから、ポルノではなく「性虐待記録物」と呼ぶべきなんです。

山田太郎議員を通して、僕が国会に提出した『実在児童への性暴力写真に関する請願書』の記事、読んでください()。
「この裁判での判決は、児童ポルノの定義を、端的に言えば局部が見えているか見えていないかでまずは判断するという、信じられない結果だけを残したことになります。この点は、国会での法の審議の際にも、私が散々指摘をしていますが、児童がどんなに虐待されたとしても、ポルノでなければ処罰の対象にはならない、というこのおかしな事実」……


この請願書が「審査未了」になってから、僕は文部科学大臣の馳浩さんの事務所あてに送りました。反応ないです。名前は書きませんが、女性なら関心をもってくれるのではないかと思い、ある女性議員にも送りました。まったく反応ないです。
考えられないですよ。顔が写ってなくて、性器が映っていたら一般人が興奮するからダメ。性器は映ってないけど、無理やり精液をかけられた顔写真は、「性的に興奮しないから、罪に問わない」なんて。

たぶん、この大人社会の根底に「性的に興奮するのは、恥ずかしいこと」「けしからんこと」という古風な道徳観が横たわってるんでしょうね。
それでいつも、「○○に興奮するヤツら、気持ち悪い」「ズリネタが大事なだけなんだろう」という話にされる。他人の性って、はかり知れないものだと思いますよ。その人の生い立ちや育った環境、倫理観に根ざしているはず。「生身の女性に相手にされないから、代わりになるもので発散している」ほど簡単ではない。

男装の麗人オスカルに憧れた小学6年生の僕は、『ベルサイユのばら』の「人の心に命令はできない」というセリフに、震えるほど感動しました。
他者への加害行為は厳しく禁ずるべきだけど、「心には命令できない」、それがすべてです。

Carlo Bosco (C) StellaNova Filmproduktion AB, AB Svensk Filmindustri, Film i Vast, Sveriges Television AB, Eyeworks Fine & Mellow ApS. All rights reserved.

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2016年6月26日 (日)

■0626■

アニメ業界ウォッチング第22回:“キャラクター”として認めてもらえるCGメカを作る、動かす! オレンジ代表・井野元英二インタビュー!
T640_708053「フィギュア王」で『創聖のアクエリオン』の連載をやっているとき、トークイベントの最後に、いつもCGの短編ギャグ・アニメを持って駆けつけていた井野元さん。
「アニメージュ」でもインタビューしたことがありましたが、今回は「どうやら丸々一本、3DCGによる新作を準備しているらしい」と聞き、取材をお願いしました。


ここのところ、ほぼ連日、取材や打ち合わせが重なっていたのだが、昨夜は小学校時代の友人に誘われて、『10 クローバーフィールド・レーン』を見にいった。
Ce04817r_large「何者かによる攻撃で、大気が汚染された」と強く主張する謎のオヤジ(ジョン・グッドマン)によって、若い男女(メアリー・エリザベス・ウィンステッドとジョン・ギャラガー・Jr.)が、シェルター内に監禁されてしまう。
まるで冷戦下に発想されたかのような終末観に貫かれた映画で、良くも悪くもクラシカルだ。劇中、いつまで続くか分からないシェルター内の生活で、ヒマをまぎらわすために大量の映画を見るシーンがあるが、確かVHSテープだったような気がする。
ゲームや雑誌も、オヤジが攻撃に備えて、以前からシェルター内に用意していたものなので、どれもこれも古い。パソコンすらない。シェルター内は圏外なので、スマホは役に立たない。
いっそ、「いま僕は、近所からレンタルしてきたVHSビデオを、友だちの家で見ているのだ」と錯覚したほうがシックリくる、のんびりと楽しめる映画。牧歌的といってもいいぐらいのぬるい湯加減のサスペンスなので、まさにヒマつぶしにピッタリ。

セルスルーのホラー映画、SF映画のビデオが、個人経営のレンタル店にあふれていた時代を知る世代なら、「★☆☆☆☆」だの「100点満点で○点」だの、愛のない評価軸を頭から追い出して、ゆったりした時間を味わえるはず。104分という短さもいい。


「我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか」著者・廣田恵介さんインタビュー(
『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』は紛れもない青春譚であるという話(
【書評】我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか(

ツイッターにも、非常に優れた、僕の書けないような高度な評価のしかたをしてくださる方が何人もいます。2本目の書評を書いてくれた高久裕輝氏は、本書の内容を知る前から「三島の『金閣寺』のような本になるのではないか」と、鋭い指摘をしていました。
アマゾンの書籍トータルの売り上げでも、総合100位以内に入ったので、もう僕の手を離れたでしょう……。

人工知能の本を読んでいたら、「他人がいなければ、自分を認識する必要はない」と書かれていて。どうやって自分を受け入れたらいいのか分からなくなった人が、苦悩し屈折するんだと思います。
加えて、学校という場は自尊心を奪うように出来ていますので、自発的に主張するのはいけない、出すぎた真似だ、おとなしく偉い人に従っておけ、「自分の考えを書きたければ、小説でも書けばいい」()という病に陥ってしまうのです。
真剣に悩んでいる人を笑ったり、何かに反応するとき、まず否定形から入るのも同じ病だと思います。「この人は何と戦ってるんだろう」というネットスラングを、僕もかなり浴びせられてきたけど、当事者意識の不在、自尊心の欠如に屈した、奴隷の言葉だと思うのですよ。

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2016年6月24日 (金)

■0624■

モデルグラフィックス 2016年 08 月号 25日発売
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●インジェクション成形の美女キットといえば、海外のゲームメーカーを忘れてはいけません。
ひさびさに、巻頭特集にページをいただきました。モノクロ見開きですけど、写真は大きく掲載しました。
これらハイレベルなキットを無視しては、それこそ「模型雑誌」の名前が泣きますからね。

●組まず語り症候群・第44夜
今回はフライホークの「1/700 オーロラ軽巡洋艦 1945」。
そして、「すずさん勝手に立体化計画」は読者からの投稿がギリギリになって届いたので、本文では触れられませんでしたが、写真は掲載できました。
記事3本分、写真撮影は一度に終わらせないといけないので、段取りを考えるのが大変でした。


3本だけでも大変なのに、思わぬ方向から、模型関係の仕事が舞い込んできました。
夜中に、編集者の前で話しているうちにコンセプトが固まってきたんですけど、もう「初心者入門」みたいなスタンスはやめて、上達を目的としない「遊び」に徹することはできないだろうかって話になりました。
「缶スプレーを卒業してエアブラシにトライ!」とか、受験勉強みたいな直線思考は捨てようぜって話です。無塗装でスミ入れだけして気に入ったんなら、もうスミ入れ用の塗料さえあれば、一生それで楽しめるんじゃない? 絶対に現物どおりに塗り分けないとダメ? 

自分の中学時代を思いかえすと、シェパード・ペインの「How to Build Dioramas」を見て、いきなり油絵の具でブレンディングをしてたんです。近所の絵画教室で油絵を習っていたから、絵の具は家にあったんです。
個人の環境によって、どこから何を始めるか、何をもって完成とするかは変化するし、年齢によっても集中力とか修練度は変わるでしょう。「初めての人は、パーツ数の少ないキットから始めるといい」なんて、傲慢で雑な発想だと思います。
僕の従兄弟なんて、大きなパーツだけ組んでシルエットさえ出来れば、残りの細かいパーツは捨ててましたからね。それをもって「完成」としてはいけないんでしょうか。

「スーパーフェスティバル」で、毎回、未塗装で普通に組んだだけのプラモデルを並べてるんですけど、成形色一色でも買ってくれる方たちがいて、いつも完売します。
その人たちは、プラモデルの面白さを知らないんでしょうか? 僕らの知らない角度から、模型の面白さを見出しているのかも知れないでしょ?


結局ね、「組み立てられない」「色も塗れない」など、相手の「ない」を指差すことでしか自尊心を保てない。相手の欠落を優越感の材料にしている――その可能性を疑ってみる必要は、ありそうです。
(僕も「組まず語り」を始めた当初は、「作れもしないくせに」とツイートされたものです。作れもしないくせに4年近くも続けちゃって、ごめんね。)

アニメや映画でも、「あんまり面白くなかった」と言っただけで、「本当は見てないんじゃないか?」と突っ込んでくる人がいる。自分と違う価値観を認めることができない。
「どうせ途中までしか見てないに違いない」「テレビ版しか見てなくて、劇場版は見てないんだろう」「見たかもしれないが、リアルタイムでは見てないんだな」と、どんどん「ない」方向へ話を落ち着けようとする。
じゃなくてね、異なる意見・感想を認めないと、とんでもないディストピアになるよ?

たとえば、ある映画を機内上映で見て、すっかり魅了されてしまった――という人がいたんです。「あの映画は音響が素晴らしいんだ。音響設備のいい映画館で見ないと、見たことにならない!」って突っ込まれてた。
いやいや、機内上映の小さな画面とイヤホンで見て、それでも魅了されるほどの映画、感性って、素晴らしいじゃないですか。どうすればみんなが楽しくなれるか、意識して楽しくなる方向を目指さないと、やっぱり生きやすい社会にならないね……。

楽しみ方の基準、条件、資格みたいなものが偏差値なみにピシーッと一律に決められている感じが、たまにするんですよ。

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2016年6月21日 (火)

■0621■

ホビー業界インサイド第12回:1/12スケール銃器のプラモが、小説やゲームに進出! トミーテック「リトルアーモリー」開発担当者、インタビュー!
T640_707802今回は、アキバ総研サイドからの提案で決まった取材でしたが、大当たりでした。開発担当者、みんなノリノリでした……というより、これは「制服を着た少女が、銃器を構えて戦う」という、ひとりの男の脳内妄想を、「プラモデル」という最も即物的・世俗的な方法を使ってこの世に示現せしめた、ひとつの物語だと言えましょう。

「表現」というレベルでは、ヘンリー・ダーガーの長大な妄想小説やイラスト群と、なんら変わるところのない、同質の価値を有していると思います。


最近、レンタルで見た映画は『クリード チャンプを継ぐ男』、『シンデレラ』(実写)、『ガガーリン 世界を変えた108分』など。
アニメでは、『くまみこ』最終話の「無理しなくていい、考えなくてもいい」という結論にモヤモヤさせられつつも、「その一言でコンプレックスから解放されるんなら、ぜんぜんアリ」と納得させられた。


昨夜は、GIGAZINEさんから、『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』()について、取材を受けました。「模型雑誌から、取材は来ないんですか?」と不思議そうな顔をされたけど、まあ来ないでしょうね。モデグラ誌の若い担当者が、表紙を見て感激していたくらいで。

その取材の場で話題に出したことですが、『15歳美少女アイドルが“過去の仕事”を告発され舞台「セーラームーン」を降板』()。
「沢山のクレームがあったと聞いて、仲間や、セーラームーンのファンの皆様に迷惑をかけてはいけないと思い自分から降板しました」……まだ15歳の、これが初めてのチャンスだという子の未来を土足で踏み潰した大人たちは、どれだけ美しく、清潔な仕事をしてるんだ? お前たちが、どれほど清く正しい仕事をしてきたんだよ? よくもまあ、そこまで他人の過去を掘りかえして、ぬくぬくした安全圏から狙撃できるものだ。そのゲスい心根の薄汚さに、ほとほと感服する。

結局、『セーラームーン』はジュニアアイドルとか水着のDVDとか、ああいう汚れた文化とは関係ないんです、もっと綺麗で清潔なんですって理屈でしょ?
作品の印象は、観客が勝手にイメージするものであって、送り手は観客の心までコントロールできない。むしろ、そこまでナーバスになっている送り手側を見ていると「何かやましいところでもあるんですか?」と勘ぐってしまう。
自ら降板したという黒木ひかりさんを「気にせず、頑張れ」とかばった関係者や『セーラームーン』ファンもいたはず、と信じたいです。
一方で、「私たちだけは健全です」というドス黒い矜持のために、15歳の努力と才能を犠牲にするクソッタレな大人社会に、無理に自分をあわせる必要もない。時間をかけて色々な価値観と出会い、自分なりの幸福と安寧をつかんでほしいとも思います。


以前にも、日本テレビが、キャバクラで働いた経験をもつ22歳女性の内定を取り消したことがあったけど、そのときの局側の言い訳は「アナウンサーには高度の清廉性が求められる」。
だけど、日本テレビの偉いおじさんたちは、役員面接で、彼女のルックスを査定したわけですよね。女性の外見を寝踏みするオヤジたちの心は、高度に清廉なんでしょうか。

いかに清廉なイメージをアピールしたつもりでも、「女子アナ」と聞いただけで下世話な妄想をする、性的な目線で見てしまう視聴者もいるだろう。だけど、それは果たして悪いことなんでしょうか。「綺麗/汚い」に二分しすぎなんですよ。人の心を。
誰の心にも、汚く見苦しい部分はあるはず。自分の醜さを自覚することは知性であり、勇気です。


そして、女子アナの内的取り消しのニュースを調べていたら、彼女が日本テレビを告訴したことを「図太い」と書いているブログがあった。不当な目に合わされた若者が、適法な経路で戦おうとする勇気を「図太い」とコキおろす卑屈な大人たちのいる日本って、どれだけディストピアなんだと思います。

大事なのは、こういう事態を見ながら、ちょっとずつ自分の考えや行動を軌道修正していくことです。
はじめから正しい人はいないし、いまの自分が絶対に正しいとは限らない。
確実なのは、自分より弱い人には、優しくしないといけない。人の痛みを想像しながら行動すれば、そうそう間違ったことにはならないはずだと、僕は信じています。
誰かが犠牲になるのではなく、誰もが幸せになることは不可能ではないし、その理想を捨てたそばから、世の中は腐ってくんですよ。

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2016年6月18日 (土)

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我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか( 21日発売
1このような表紙になりましたが、中身のカラーページも、すべてこの調子です。
カラーページだけ見たら、「美少女キャラのプラモデルにパンツがあったりなかったりするのを、単に面白がっているだけ」と、受けとられかねません。
ただ、本文は15歳の僕が、表紙になっている「ハイ・スクールラムちゃん」のキットを手にしたときの戸惑いからスタートし、当時、模型メーカーで商品をつくった方、現在、模型メーカーで美少女フィギュアを開発している方、そうした市場が広まる以前、パンツを「商品価値として必要」として自作フィギュアで再現した方、さまざまな声を載せてあります。
それらを読んでから、もう一度、この表紙を見てください。

 

「たとえパンツを作っても、人に見せるべきではない」という方もいらっしゃいます。「(商品の一部として)パンツを作っても、公に見せてはいけないキャラがいる」なんて話も出てきます。「趣味なんだから、そもそも人に意見されることではない」という立場の方も、いらっしゃいます。
思春期の性は、それだけ多様である。内向的なオタク趣味を巻きこんだ性は、自分ではどうにも出来ないほど厄介である――それを、なんとかして伝えたかった。また、自分の中でも決着をつけたかった。

 


どうしても、忘れられない一言があります。高校時代、それこそ、この写真のフィギュア(プラモデル)と出会って間もないころ、クラスの男から言われました。
「廣田って勉強もできないし、体育もダメだし、何が面白くて学校に来てるんだよ?」

修学旅行の夜、別のクラスメイトから、「廣田って、アニメの話のときだけ、よく喋る」と、抑揚のない声で言われたこともありました。
体育の時間は、となりのクラスの男子と一緒になるので、彼らからもターゲットにされて、廊下を歩いているだけで、「あの歩き方、あの顔!」と指さされました。

じゃあ、プラモデル仲間、アニメ仲間と話している時間は楽しいだろうと思うでしょ?
学校で『マクロス』のプラモデルを見せ合っていたら、「信じられない……そんなもん、いくらするの?」と、クラスメイトが、呆然としてるんです。
「700円」と答えると、「えっ、700円? そんな金があったら、俺なら……俺なら、メシ代に使うよ!」
メシを我慢してでもプラモデルを買っている僕らとしては、どうしてメシを優先する連中が、こうまで人の趣味を笑えるんだろう?と、声なき叫びをあげるしかなかった。こういう話なら、山のようにあるんです。

そして、コンプレックスのどん底に叩き落されたオタクな僕らにも、避けがたく第二次性徴はやってくるし、どこへ逃げても思春期が訪れるのです。


思春期になると、それまで氷の下をながれる濁流のようだったコンプレックスが、氷を叩き割って、鉄砲水のように襲いかかってくるんですよ。アニメ趣味、オタク趣味がなくても、そうだろうと思います。
僕の場合、性的なものとアニメやプラモデルを切りはなそうと、もがきました。だけど、当時は無駄でした。
今でこそ、「アニメなんてエッチな要素があって当たり前だろ?」と思われていそうですが、当時はそうとは言い切れなかったし、自分でそうしたくない、性的な目線でアニメを見たくはない――と、もがいていたのです。そういう高校生の悪あがきを、かつてどの本が書いてくれただろう? また、内向的で社交性ゼロの高校生の、どんよりと鬱屈した思春期を、果たして誰が振り返ってくれただろう?とも思います。
「誰とでも仲良くなって、友だちになろう」――道徳の時間、教師に無理やり見せられていたNHKの教育ドラマの主題歌です。そんな同調圧力に窒息しそうな僕らは、いったいどうすれば良かったんでしょうね? 何が正解だったんでしょうね?

「アニメ美少女のプラモデルにパンツが作ってあったなら、お前らオタクは、そのパンツを見ながら、女子から相手にされない孤独を癒してたんだろ?」――そんな単純なわけないです。
もちろん、この表紙を見て、「なんというハレンチな!」と笑ってくれてもいいんです。だけど、暗いトンネルを抜けて一周まわった笑いなんです、それは。


僕はこの本を通して、廊下を歩いているだけで嘲笑され、「何のために学校に来てるんだ?」と言われた暗黒の思春期と、それを救ってくれるはずだったアニメやプラモデル、美少女キャラと対峙しました。
いま、同じように苦しんでいる高校生がいるならば、「大丈夫!」と肩をたたいてやりたい。

「冷然として、苦汁にみちた人生第一歩の頃を想い起しながら、彼は高価な犠牲を払ってかち得た微笑をうかべるのであるが、こういう微笑をうかべる人々というものは、唯そばにいるだけでも傍らの人に《――やってみたまえ、おれがついている》と言っているような感じがするものだ。」
(ヴィリエ・ド・リラダン 『未来のイヴ』より)

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2016年6月15日 (水)

■0615■

Febri Vol.35 17日発売予定
51aemycfq4l__●Febri Art Style
今回は、『くまみこ』の背景美術です。美術監督の森川篤さんにインタビューして、美術ボードを選んでページを構成しました。

このページは、いつも「どのアニメの背景がいいでしょうね?」という担当編集との会話から始まるのですが、今回は第一志望がすんなり通りました。森川さんも喜んでくださったようなので、ぜひご覧ください。


クラウドファンディングで、僕も少しだけ出資した劇映画『月光』()が、先週末より公開されています。
あれから二度も引っ越したので「チケットを送ったのに、戻ってきてしまいます」と、監督の小澤雅人さんから、メールが来ました。なので、まだ映画は見にいけていません。
小澤監督に、僕のニコ生の番組に出ていただいたのが、2~3年前のような感覚です。でも、たしか去年だったような気がする。【ら】という映画のトークゲストで、僕も一緒に壇上にあがらせていただいたり……

ツイッターで検索したかぎり、評判は上々。
性暴力に走るのは、いたって「普通の人間」だ
「この映画を作るにあたって、性犯罪に関する本をたくさん読みましたが、そういう本を読めば読むほど、加害者は変態でも狂人でもなく、僕たちの身近にいるようなごく普通の人だと分かったんです。それをまさに映画でも描きたかった。」
「加害者の動機は、性欲よりもむしろ支配欲だと言われています。この点は、トシオを演じた古山さんにも、すごくしつこく言いました。『トシオは性欲じゃなくて支配欲だよ』と。」
以上、小澤雅人監督の発言。さすがです。これは、性犯罪の本を読まないと、分からないです。

いつも、「性犯罪=性欲が原因=性欲を喚起するものが悪い」……で、表現規制という明後日の方向へ話がねじ曲げられてしまう。いつも、いつも。


話はそれるけど、僕の新刊()が、発売前だというのに「こういうタイトルで、こういう表紙だと、また叩かれるのでは?」と言われています。
でも、それは「不快です」と叩かれることに対して、「怖い」「面倒だ」という感情でしかありませんよね。法的に問題だ、という話でもないですよね。
「不当な言いがかりをつけられているのは、自分たちだ」という意識が、主体性があるなら、何を臆する必要がありましょう。

確かに、美少女フィギュアは、「児童ポルノ」という便利な用語とゴッチャにされて、削除されたりさらし者にされてました。
僕は、二度、抗議署名を集めました(2014年と2016年)。
こうした事態を知ったベテランのフィギュア・モデラーが「別世界の出来事」と呼んだのを、僕は今でも忘れていない。それは、「誇りより保身」ってことですよね。

逆に、性犯罪に反対している女性ライターの方から、「フィギュアの中にも、児童ポルノに該当するものがありますよね?」と面と向かって言われて、懇切丁寧に法の趣旨・定義を説明したこともあります。
「フィギュアは児童ポルノ(というかワイセツで不愉快で遠くへ追いやっていましたい汚いもの)」と断じている本人たちは、条文すら読んでないから法的定義も知らない、まして、判例など調べていない。
そんな程度の相手にビビっていること自体、恥だと思います。


「カオリに対する性暴力も、トシオにとっては支配力の誇示だったのではないかと思います。女性を性的に支配することで、自分の価値観を高めたいという欲求なのだと考えています。」(前掲記事“性暴力に走るのは、いたって「普通の人間」だ”より)

さらに言うと、わが子を手にかけるのは、社会的に身分の高い人も多い。地元の名士だとか、医者だとか。『なかったことにしたくない』の東小雪さんの場合も、お父さんが演劇界の偉い人でしたね。
だから、性虐待や性暴力をバックアップするのは、「力の強い者が弱者を支配する」父権社会です。家父長制は、女性はもちろん男にとっても、しんどいはず。

「アキバ文化が」「気持ち悪いオタクたちが」と責任転嫁したがる人たちは、性虐待・性暴力を行使する、現実社会に存する「父権」との対決を避けてますよね。
それでは、性を支配ツールに使う「普通の人間」たちを擁護することになりかねない。教師の生徒に対する性犯罪を、「父兄がこぞって隠蔽しようとした」なんて話は、当たり前のようにあるんですよ。

僕らの敵は、「男でさえあれば、大人でさえあれば無条件に支配力が強まる」父権社会ではないのでしょうか? 「エロマンガやフィギュアが悪い」と見当違いなことを言っている今この瞬間にも、弱者への支配欲を満たしたい男たち・親たちが、何をしているか――。
もう一度、言います。「親だから、教師だから、子どもに何をしてもいい」「男でさえあれば、女性に何をしてもいい」……そういう理不尽な力関係こそが、男女双方の敵なのではないでしょうか。

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2016年6月13日 (月)

■0613■

レンタルで、イギリス映画『オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分』。
Sub2_largeひとりの男が、高速道路を走りながら、車内で電話をかけている。登場人物は一人だけ、ワンシーンのみ、全編リアルタイムで進む。

男は、病院へ急いでいる。彼は翌朝、ビルの建設工事に立ち会わねばならない。その仕事は、専門知識のない部下にまかせるしかないので、電話から指示を出す。市役所職員の携帯番号を聞いて、必死に暗記して、車内から電話をかけて交渉したり、綱渡りのような仕事ぶりを発揮する。
一方で、彼が病院へ急いでいる理由が、少しずつはっきりしてくる。86分を走り終えるころには、彼は仕事も家庭も失っている。だが、たったひとつだけ、思わぬかたちで希望を得る。
平凡なようでいて、一筋縄ではいかないプロットだ。人生のいちばん端っこに置いたはずの厄介事が、いきなりど真ん中に位置して、彼を絶望から救う。

主演はトム・ハーディ。高層ビルを建てる仕事を「空気ごと、空を征服する」と詩的な言い方をしたり、息子と話しているうちに涙を流したり、存在感のある人間くさい役だった。
日本では『マッドマックス 怒りのデスロード』から一週間後に、『オン・ザ・ハイウェイ』が劇場公開されている。ハーディは、この2本でいくつかの賞を獲得した。

池田小事件15年で犠牲者を追悼 児童代表「安全願う心忘れない」) 
“6年生の児童代表は「つらく悲しい事件のこと、安全を願う心を忘れず、これからも過ごしていく」と述べ、安全な学校づくりへの決意を新たにした。”
……なんで、こういうことを子どもに言わせるんだろうか。児童に、「安全な学校づくり」の義務などない。「安全な社会づくり」への決意を、大人が述べるべき場、あるいは、具体的な対策を確認しあうべき場だろう。

「児童が献花し、合唱した」……ようするに「安全を願う」イベントにすりかえて、子どもにイメージを押しつけ、プログラムどおりに言うことを聞かせて、大人の力を行使したことで達成感を充足させている。

大人が、自分の気持ちをスッキリさせたいがため、子どもに言うことを聞かせる。それが諸悪の根源。子どもは、親や教師の持ち物ではない。その意識を徹底させることで、かなりの数の悲劇はふせげる気がする。


上記の事件と関係あると思い、「独身男性はネコの里親になれない」ツイートを検索していたら、どんよりした気持ちにさせられた。
別に、独身男性が信頼されないことは、男性差別とは思わない。男は、切羽つまって破滅的な行動に走りやすい。だから、自殺者は男のほうが多い。

宮城県だったかな。震災で旦那さんが亡くなった後なのに、廃墟と化した家で元気に生きているお婆ちゃんがテレビに出ていた。「女の人は、何かとやることがあるから……」と、濡れた布団を外に干したり、お茶碗を洗ったりしていた。
日々の雑事に追われているあいだは、落ち込んだり不安になったりしているヒマはないってことだろう。これは勉強になる、と思った。

だけど、「フェミばばあ」とか口癖のように言っている男性は、「勉強になる」とさえ思えないんだろうな。「男だから」「男なのに」と、空虚な権威にとらわれていては、自分が生きづらいだけだろうに。

(C)2013 LOCKE DISTRIBUTIONS, LLC ALL RIGHTS RESERVED

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2016年6月11日 (土)

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【懐かしアニメ回顧録第19回】アニメにおける「メカ」の役割を、「ジャイアントロボ 地球が静止する日」で考えてみる
T640_7074801992年、まだ発売前の『ジャイアントロボ』を、あるCM制作の打ち上げ後、深夜のデン・フィルム・エフェクトで見せてもらいました。デン・フィルムは当時、『ゴジラvsモスラ』のエフェクト作業をやっていて、バトラの発するビームを作画していました。
その夜、スタッフの方が「ビジュアル・イメージの想像性では、アニメの方が実写を上回ってしまって……これは、ウチをやめたスタッフが参加している作品ですが」と見せてくれたのが、『ジャイアントロボ』。
当時は実写映像の周辺に身をおいていたけれど、「バシュタールの惨劇」のシーンを見て、ひさびさにアニメを見る気になったのでした。


ここ3回ほど、同じようなことが連続してあったんだけど……
以前、誰かの紹介や何かのキッカケでお会いした方に、「廣田と申します。おりいって、お願いしたいことがあります」とメールを出す。
ところが、1週間どころか、2週間も3週間も、まったく返事がない。「これは“廣田なんて、よく知らない相手だし、無視しよう”という意味なのだろうな」「仕方がない、あきらめよう」と判断し、別の方法を探しはじめる。
そこへ、「返事が遅れて、すみません」とメールがくる。しかし、3週間前とは状況が変わってしまっているので、「スケジュールを組みなおし、あらためてお願いしたいのですが」と返すと、「話が違いますね、それなら結構!」と怒られる……。

これ、僕がおかしいですか?
2週間どころか、1週間で、仕事の状況って変わるものではないんだろうか。それとも丸2週間、来るか来ないか分からない返事にそなえて、ずっとスケジュールを空けて待っていないといけない?
「すみませんが、お断りします」の即答、一言でいいんですよ。その一言さえあれば、こちらは直ちに代案に移行できる。
あきらめた頃に返事が来たら、実務的にスケジュールを切りなおさねばならない。時計の針は、元にはもどらない。それを今さら、「前とは話が違う」なんて言われても、浦島太郎じゃないんだからさ……


クリエイティブな現場で、なぜかリーダーになってしまったアイデアの何もない人、NNさんの話を、何度か書いてきた()。
彼は、「廣田さん、アンタが正しかったよ。いろいろ悪かった」と言ってくれて、2人そろって会社をクビになったので、今さら憎いわけではない(その会社改変とリストラの日々の裏切りと策謀劇が、またすごかった! あれを、30代で体験しておいて良かった。これ、小説に書くべきだよ)。

「NNさんと、仲良くやってください」と、よく言われたものだった。とくにしつこく言ってきたのは、宣伝部のちょっと若いイケメン。あとから聞いたら、NNさんの従兄弟だという。そういう縁故採用が、やけに多い会社だった。
宣伝部の彼は、マイルドヤンキー風で、特にゲーム好きって感じではなかった。
なので、彼とはウマが合わなかったんだけど……僕が、勝手に「社内ゲーム企画コンテスト」を開いたことがあったんですよ。もう、総務部であろうとグラフィッカーだろうがプログラマーだろうが、アイデアのある人は企画書をつくって、みんなの前でプレゼンしようぜ!って。

もちろん、NNさんは何も持ってこないわけです。
だけど、NNさんの従兄弟のマイルドヤンキーさんが、すごくいいゲーム企画を持ってくるんです。今でも忘れられない、あの企画は。タイトルもアイデアもカッコいいし、プレゼンも上手かった。
周囲のウケも良かった。いちばん、支持が高かったと思う。


それから僕は、マイルドヤンキーさんのデスクに、よく行くようになった。
「プランナーに近い仕事をしてみたら、どう?」と、よけいな誘いをかけるわけです。だって、こんな優れた才能を眠らせておくわけにはいかないでしょ。才能があるなら、僕は公平に見ますよ。「NNさんの従兄弟ならば、こいつも敵だ」とか、そういう考え方はしません。

ところが、「いやあ、俺には才能とか、そういうのはないっスよ」と、マイルドヤンキーさんは苦笑する。今にして思うと、彼はNNさんの顔を立てたかったんだろうな。
だって、NNさんは「シナリオ班」「演出チーム」のリーダーだもん。僕から見ると、リーダーの資格も資質も欠如していたけど、マイルドヤンキーさんにとっては「従兄弟」だから。誰の才能がどうとか関係なく、血縁や義理を優先したんだ。

それが、世間ってもんなんだろう。NNさんは、奥さんはいたし、子どもも生まれたし、何より「副社長と仲がいい」って理由だけで、リーダー職につけたわけです。会社に従兄弟もいて、味方になってくれるわけです。幸せじゃないですか。
才能なんていう、正体不明の気まぐれなモンスターに振り回されるより、人の縁や情で囲まれた人生のほうが安定しているし、温かいし、楽しいんだろうな。それらはすべて、僕の手からすり抜けていったものたち。

だからだ。だから、彼のことを小説に書きたいんだ。
僕は、挑んでは失敗し、多くのものが自分の人生から失われていくのを、両手をダラリとさげて見送ってきた。そんな自分の無力さに、酔いしれてさえいた。妻を手ばなし、母を奪われた。
だが、NNさんは違う。彼こそが日なたであり、僕は彼の影だったのだ。当時は、逆だと思っていた。

野心があること、アイデアがあることは、人生を穏やかにしてはくれない。
野心を捨てても、アイデアを捨てても、人生が穏やかになるわけではない。
取り戻せるものなんて、人生に何ひとつない。新たに獲得する以外にないんだよ。

(C)光プロ/ショウゲート/フェニックス・エンタテインメント

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2016年6月 8日 (水)

■0608-2■

レンタルで、『ドローン・オブ・ウォー』。
Main_largeラスベガスの空軍基地で、ドローンを遠隔操作する元パイロットの体験した実話。
当初は、テロリストの実行犯暗殺を担当していたチームが、CIAから特殊任務を命じられる。淡々と、いやになるほど延々と、ドローンからの空撮映像を見せられる。見ているこっちが、おかしくなりそう。


主人公が子どもたちを車で迎えにいく、その平和な駐車場のシーンが、空撮カット。見ているこっちは「空撮=攻撃」という回路が、頭の中に出来ているから、ドキッとさせられる。
だけど、シーン転換にテンポをつけるために、たまたま空撮カットにしたのかな?と思っていると、今度は、主人公が自宅の庭で芝刈りしているシーンの冒頭が空撮カット。カメラが地上に切りかわると、彼は奥さんにドローンで攻撃されるテロリストたちの心境について語る。確信犯的演出だ。
さらに後半、奥さんが出ていった自宅の映像が空撮カット。直後、主人公が自分で叩き割った鏡が映る……まるで、自分が空爆したかのような、無人の家。

あざとさギリギリの演出だけど、こうしないと、主人公の異常な心境は伝わらない。映像って、思ったより不便なんだと分かる。
空軍チームの人物造形が、無理に個性をつけようとせず、ほどほどにリアルで良い。チームのメンバーが、砂漠をこえて歓楽街まで飲みにいき、ラスベガスを「文化の果つるところ」と自虐的に呼ぶシーン、風情があってよかった。
強烈ではないけど、誠実で信頼にたる映画。100分という短さもいい。


昨夜書いた、ゲーム会社の「何もない」リーダーさんの話()。
どんどん思い出してきた。めずらしく、何の好みもこだわりもないリーダーさんが、社内BBSで若いグラフィッカーと議論したことがあった。
そのグラフィッカーは専門学校を出たばかりで、とにかくギラギラしていて、「どんなゲームになるのか分からないけど、かわいい猫耳少女を出したい!」って、BBSに書き込んだんですよ。

その発言に、「何もない」リーダー……NNさんとでも呼ぼうか、リーダーさんが噛みついたんだよ。「そういう、一部のマニアに受けるようなゲームにするつもりはない」って。
で、若いグラフィッカーは「俺がデザイン描いてもいいっすか? NNさんが萌え萌えになってしまう(当時、萌え萌えって言い方が流行っていた)ような、かわいいキャラが出来あがる知れませんよ?」って、挑発するわけ。
だったら、好きに描かせたほうがいいじゃない? 若いんだし、どんどんトライさせればいい。だけど、NNさんは「萌え萌えかあ……そう言われてしまったら、俺も引っ込みがつかないな」「はっきり言うと、美少女萌えとか、ああいう文化が昔から気に入らなかった」と、また無味乾燥としたことを言い出すんだよね。
そうやって、人のやる気にアイロンをかけて、地ならししてばかりいる人なんです。

オタクの中でも、萌えとか美少女をかたくなに否定する人は、たいてい面白くない。
「巨大ロボ」とか「ミリタリー」を硬派な男らしい趣味と定義しながら、萌えを「軟派で情けない趣味」として対置させている人は、価値観を広げられない。
「俺自身は萌えって分からないけど、アナタが好きなら好きで結構なことですよ」って余裕がない。なんでかなあ、アレは。
(今は、萌えとミリタリー両方好きな人が当たり前だけど、たまにいるよね。萌え嫌悪な人。)


もう、いっぱい書くべきことを思い出してきたんだけど……。
そのNNさんが、前にいた大会社で、面接官をやったことがあったんだって。その面接を受けた人が、こんな話をしていた。
待ち時間があったので、手持ちぶさたにしていると、NNさんが「これを読んで待っていてください」と、会社案内のパンフレットを持ってきた。そのパンフを読み終わっても、まだ時間があるから、「あの、パンフレットは読みおえてしまいました。どうしましょうか?」って聞いたら、NNさんは「もう一度、頭からパンフレットを読み返してください」。

それ、パンフの中身がどうとかじゃなくて、「読む作業」を強いているだけだよね。
NNさんにとって、「読む」という行為は「時間をつぶす作業」以上のものではなかったんだなあ……と納得して、まだまだNNさんとの日々は続くのでした。
これはルポルタージュではなく、小説にしたいです。殺伐とした非創作的な人間を描く、理解することが、この上なく創作的な行為に思えてきた。

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■0608■

先日の「自分の考えを書きたければ、小説でも書けばいい」()で、いろいろ思い出したわ。
忘れないうちに、メモ程度に書いておきます。

僕、35歳のときに結婚して、新しくできたゲーム会社に就職して、二足のわらじでライターも続けていたんだけど、そのゲーム会社のリーダーに
「アンタは、好きなことを自分の思いどおりにやりたいだけなんだ!」
と、怒鳴られた。
ゲームを作るクリエイティブな会社のはずなのに、「好きなことを自分の思いどおりに」やってはいけない……。「小説でも書けばいい」に通底する、無気力発言なので、今日はそのことを書きます。


そのゲーム会社は、パチンコ会社に何億円も出資してもらって出来た、ピカピカの新興メーカーで。大手ゲーム会社……仮に『FF』という超大作シリーズをつくった会社としておくけど、『FF』に関われなかった(関わっても中心に立てなかった)人たちが集まって、興した会社だった。
で、「俺たちの手で『FF』に負けないゲームを作って、見返してやろうぜ」って意気ごみは、いいですよね。それが、モチベーションというかパワーになるなら。
僕のような、どこの誰とも分からないフリーライターを「今の仕事は続けたままでいいから、新鮮な話題を社内に持ってきてくれよ!」って、雇ってくれたのもいいよね。

僕はゲームづくりの経験はないけど、映画学科を出て、アニメや実写映画の企画を手伝ったり(サンライズ企画室にも在籍していたし)、自主的にシナリオを持ちこんだ経験も豊富だった。
だから、「シナリオ班」だったかな。「演出チーム」と呼ばれていたような気もするけど、ゲームのお話をつくったり、キャラクターの芝居を考えるチームに配属されたんです。

僕以外のメンバーは、ゲームは初めてだけど、とにかく「アニメが大好き」とか、「演劇が好きで自分で脚本も書いてる」とか、血気盛んな20代ばかり、6人ぐらい。
そんな僕ら「シナリオ班」のリーダーが、『FF』を作っていた会社から来た、なんか実写を使ったDVDゲームで一度だけシナリオを書いた……という、同い年の人(既婚者で、在籍中に子どもも生まれた)だったんです。

でも、そのリーダーさんが、とにかく何もしないの。
朝10時ぐらいに、みんな出社してくるんだけど、ボーッとしている。机の上に、『FF』の攻略本かデザイン画集だったかな。それが一冊だけ置いてあって、後は何もない。その人が「シナリオ班」のリーダー。


そもそも、ゲームのために何十人というプログラマーやグラフィッカーを集めておいて、『FF』を倒すようなゲームにしよう……ぐらいしか、何もコンセプトがない。タイトルも決まってないし、主人公は3人パーティで、あとから3人の仲間が加わって……ぐらいまでしか、キャラクターも決まってない。
でも、象徴的な設定が、たったひとつだけあった。主人公は、謎のアイテムを手に入れるんですよ。どんな凄いアイテムなのかっていうと、真っ白な、四角い石なんだって。その石は、何にでも変形するんだって。
そんな豆腐みたいな、「真っ白で、何にでもなるアイテム」。それが出てくることだけが、決まってるの。――なんか、象徴的だよね。「何も決められない」優柔不断さを形にしたかのようで。

そんな、ほとんど白紙の状態から、僕ら「シナリオ班」が、とにかく、『FF』に匹敵するようなキャッチーでド派手な物語やキャラクターを作らないといけないわけでしょ?
リーダーさんは何も言わないし、何も決めない。僕らがあちこちの映画や漫画、お芝居や小説からアイデアを持ってきても、「いや、俺はいいとは思わない」の一点張り。
「じゃあ、何がいいんですか? あなたの好みに合わせます。どういうゲームが好きなんですか?」と聞いても、そもそも彼は好きなゲームもなければ、アニメも映画も見ない。何ひとつ基準がない。雑談でも、何の作品名も出てこない。

その彼が、他のメンバーと僕がワーッとアイデアを話しあってるときに「アンタは、好きなことを自分の思いどおりにやりたいだけなんだ!」って、怒鳴ったわけです。
空っぽな人間って、ガツガツと貪欲な人間が「わがまま」に見えるらしい。僕と若いメンバーたちは、もう毎日毎日、いろんな漫画を持ってきたり、DVDでアニメを上映したり、社内BBSにゲームの評論を書いたり、「これが好き!」「これ面白い!」「これ見ろ! 絶対に面白い!」しか言わないわけですよ。お互いに憎いどころか、「このゲームのどこが面白いんだよ?」「お前の意見、聞いてやるよ!」って、戦うのが楽しいの。

だけど、好きなものが何もないのにリーダーになっちゃった、決定権を持たされてしまった人間は、「好き勝手にやるな」としか言えないわけです。
自分の意見がないから、「お前ら、勝手に意見を言うな!」と怒鳴るしかない。自由であることの楽しさを知らない人間は、アイロンをかけるように、状況を真っ平らにしたがる。……ね? 「自分の意見があるなら、小説でも書けばいい」に似てるでしょ?
議論を避けるんだよ。切磋琢磨して互いに高めあうより、アイロンをかけて真っ白にする力を欲しがる。そういう人間は文化を殺すよね、って話。


この会社にいた3年間のお話は、小説になるよ。
最後に、もうひとつだけ忘れられないこと。その何もないリーダーさんと仲が良かったのが、ゲームのディレクターでもある副社長だったんですよ。
彼もまた、何も決められない人間で、タイトルも何もない、制作すら始まっていないゲームなのに「みんな、もっとがんばれ! ふんばれ!」と、社員へのメッセージが社内BBSに、でっかく書いてあった。

僕ら、「何も足さない、何も加えない」「手段のためには、目的を選ばない」ってキャッチフレーズを作って笑っていたんだけど、「空回り」を絵に描いたような、空白なゲームのための濃密な3年間でした。自分の意見はないけど、小説にしたいよなあ……。

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2016年6月 6日 (月)

■0606■

レンタルで、アパルトヘイト後の南アフリカを描いた『イン・マイ・カントリー』。劇場公開されず、DVDのみリリースされた作品。監督は、『未来惑星ザルドス』のジョン・ブアマンである。
326611view004アパルトヘイト時の白人の罪を明らかにする、「真実和解委員会」を二人のジャーナリストが取材する。
ひとりは、サミュエル・L・ジャクソンの演じる新聞記者で、彼は黒人だがアメリカ国籍。もうひとりは、ジュリエット・ビノシュの演じる白人の南ア人。本来なら黒人を弾圧した側だが、彼女は正義感が強く、白人の罪を告発する報道をおこなう。

この人物設定は、テーマを語るのに安易すぎる。だが、安易にしないと、見えてこないテーマもある。ケース・バイ・ケースだ。


公聴会での残虐行為の証言を聞いたあと、衝撃をうけたジュリエット・ビノシュ演じるアナは、呆然と立ち尽くす。

彼女の向こうには、バスが止まっていて、取材の仲介をしてくれた黒人が「おい、バスが出てしまうぞ」と、アナを呼びにくる。アナは無言で、彼のくわえていたタバコを手にとり、自分で吸いはじめる。
「あんた、タバコ吸うんだっけ?」と黒人は驚き、やむなく新しいタバコに火をつける。すると、彼の後ろに、サミュエル・L・ジャクソン演じるラングストンが来る。ラングストンは、彼の新しいタバコを手にとると、やはり無言で吸いはじめる。
「人のタバコを奪って吸う」アクションを重ねることで、アナとラングストン、2人の気持ちが通じていることが分かる。
単純なカットだけど、単純だからこそ「これが映画だ」と、ホッとさせられる。映画は構造だ。メカニックだ。「面白い」ことには、必ず理由がある。それを解きあかして、人生を豊かにするんだ。

また、ラストに流れる詩が、とても美しかった。
「国は、頭蓋骨のゆりかごで歌う。僕の舌に、火をつける。千の物語を語るうち、僕の肌は焼き尽くされてしまった。もう、元には戻らない」……


前回の「自分の考えを書きたければ、小説でも書けばいい」()は、多くの方に読んでいただけました。

この発言の根底には、「俺だって、自分の意見を言いたいのに、我慢してるんだぞ。お前も我慢しろよ」といった、卑屈な平等意識があるように思います。
また、「仕事というのは、嫌なことを我慢すること」「不自由なもの」「その不自由を我慢したご褒美に、給料がもらえる」といった奴隷根性も、作用しているのでしょう。

言うまでもなく、他人の役に立つ、社会に還元するから、お金をもらえるのです。
「アニメーターは好きな絵を描いているのだから、彼らの給料など上げる必要はない」と言った人がいました。アニメーターさんは、絵を描いてアニメをつくることで、僕たちの心を豊かにしてくれます。「作品をつくる」という形で、人の役に立っているんです。
また、彼らが好きな絵を自由に描いていたとして、それのどこがいけないのでしょう? 自分の好きなことを、のびのびやって、それが他人の幸福に貢献し、結果としてお金をいっぱいもらえて、自分も幸せになる。それの、どこがいけないのでしょう?

ゆっくり休みながら、じっくりと良い仕事をするのは間違っていますか? 徹夜して、食事も抜いてバリバリやるのが「がんばった証拠」なのですか?
「忙しい」「寝てない」「調子悪い」より、たっぷり寝て、友だちと遊びに行って、心を豊かにして仕事に生かしたほうがいいに決まってますよね?


理想を失った人間は、猛烈な勢いで堕落します。堕落ついでに他人を貶め、「どうせ誰も理想を実現できていない」というニヒリズムに浸ることで、安心しようとするのです。

僕は、イヤです。理想を実現したいです。
そして、僕が楽しく本をつくることで、読者さんも楽しいひとときを過ごしてくれて、つまらない、理不尽なことがあろうとも、ご自分の幸福をつかんでくれると良いな……と、僕はそう思いながら仕事をしています。

BLIDALSBIRK/FILMAFRIKA/PHOENIXPICTURES/TheKobalCollection/WireImage.com

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2016年6月 4日 (土)

■0604■

人生4冊目の単行本、『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』()の販売が、告知されています。

 

ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、「プラモデル」という商品に「美少女キャラのパンツ」が彫られるようになったのは、いつ頃なのか?については、当ブログでも7年前に語りましたし、同人誌でも特集しましたし、マチ★アソビのトークショーでも話しました。

今までは笑い話にしてきましたが、今回は関係者に取材しています。バンダイでラムちゃんシリーズのプラモを企画・開発した松本悟さん、キャラコレやラムちゃんの木型を作った、人類史上初の美少女フィギュア原型師とも呼ぶべきベテラン木型職人・諸星亮一さんにも、ご登場いただきました。何しろ金型にパンツを彫った当事者の方たちのお話ですから、いろいろと新事実が発覚しました。
また、プラモデルの登場以前に「美少女フィギュア市場」を開拓したモデラー、秋山徹郎さん、同じOFFのメンバーだった越智信善さんにも「フィギュア黎明期」について、インタビューさせていただきました。ラストには、現役でフィギュア商品をバリバリ開発していてるMAX渡辺さんも、パンツ造形の是非について、濃厚な語りを聞かせてくれています。

取材に応じてくださった方は、ほかにも何人かいらっしゃいます。おいおい、発表いたします。
また、フィギュア業界の友人・知人の協力と努力で、大量にキットを買い集めました。モデルグラフィックス編集部からの協力も得られました。
写真も綺麗ですから、カラーページは、かなり充実したカタログになっていると思います。


ただ、同じぐらいの手間とお金をかけて商品を買い集めても、別の誰かが作ったら、このような本にはならなかったと思います。これは、僕のアニメ美少女への恋慕と決別と和解の物語でもあります。
その自分語りの部分が、この本の評価を分けることになるでしょう。担当編集は、猛烈な粘り強さで、僕を、15歳のプラモとアニメが大好きだった高校生へと引き戻しました。
この本には、僕の50年分の戸惑いや苦悩や絶望、歓喜と驚きとが詰まっています。また、「書く」という行為によって救われもしたし、誇りを取り戻すことも出来ました。


しかし、性的なテーマの本だし、的外れなものも含めて、批判も覚悟しています。僕は50年分のズタズタな人生を、力をこめてひとつの形にまとめ上げました。なので、批判するなら、それなりの覚悟でいらっしゃい、とだけ言っておきます。もちろん、「アホなことにこだわる人がいるな」と、笑ってもらってもいいのです。笑いの側面も、確実に入れてあります。

発売を前にして、本の直接の関係者ではない人から、いろいろなことを言われました。
ちょっと引っかかったのは「自分の考えを書きたければ(このような市販の商品を解説せず)小説でも書けばいいんですよ」という一言。
「自分の考えを書きたければ、小説でも書けばいい」……コンテンツ (作品)を作って売って、管理している会社の人がそれを口にするのですから、人間的に幼稚で愚劣以前に、職業意識を疑います。中学生が言うならまだしも、社会人の口から出た言葉とは思えない。

小説家は、「自分の考え」を書くために執筆しているのでしょうか? ルポルタージュには、作家の考えが入っていないのでしょうか? ひょっとして、ルポルタージュには「事実」しか書いてはいけない、「書き手の考え」など入れてはいけないとでも思っているのでしょうか?
インタビューには、「しゃべったことがそのまま書いてある」のでしょうか? 違います。インタビュアーはテーマを持ってインタビューイに話を聞き、得られた言葉を解釈して、まとまりのある文章に編集しているのです。「自分の考え」がなければ、とうてい書けるものではありません。そんな初歩的なことを、コンテンツを管理する立場の人間に言わねばならないとは……。


「自分の考えを書きたければ、小説でも書けばいい」。小説を書く人は偉い人。自分の考えを書いていいのは、偉い人だけ。選ばれた者しか、自分の考えを持ってはいけない。
危険で傲慢で、自堕落な考え方です。戦うことをあきらめた、負け犬の言い草です。

作品のレビューや評論に対して、「こんなの、レビューしたやつの勝手な解釈だろ?」「作り手は、そんなこと意図してないだろ?」と、個人の解釈を「間違っている」と断ずる態度も、同種のニヒリズムです。無気力な人間ほど、「どこかに絶対確実な、即物的な答えがあるはず」と思いこみ、自らの胸に聞こうとしません。疑おうとも、考えようともしません。
無気力なので、考えるための材料集めもしません。違う考えの人の意見も聞きません。自分が無気力だから、他人が主体的に本を書くことが許せないのでしょう。

「自分の考えを書きたければ、小説でも書けばいい」、同じ会社の人間から、僕は「そんなのあなたの勝手な意見でしょう? 作品のどこでそんなこと言ってますか?」と怒られたことがあります。作品を見て、自分なりに考えを汲みとったり読みとったりしてはならない、というわけです。吐きすてるように、「(あなたは文章を書かなくていいので)公式サイトをコピペしてください」と言われたこともあります。
また、「どうせウィキペディアでも見て書いたんでしょ? ネットで楽してないで、ちゃんと資料を調べてくださいね」と、原稿の隅っこに書かれていたこともあります。(モラハラ、パワハラだよ、そこまで嫌味を言うのは……)

これは一例ですが、たとえばロボットの身長が20メートルと設定されていたとします。「20メートルの巨体とは思えないほど、敏捷に動く」と書いたら、「いえ、20メートルです」と直されてしまうのです。「そうは思えないほど」とは感じるな、考えるなということです。
あるキャラクターが15歳と設定されていたとします。「15歳とは信じられないほど、大人びた発言をする」と書いたら、「いえ、15歳ですので、15歳らしい発言としてください」と、赤が入ります。

そういう人たちが、文化を殺すんです。「さあ殺そう」と思って殺すんじゃないんです。「さて、仕事でもするか」程度の感覚だから、怖いのです。
「最近の雑誌は、なんだかマイルドすぎて、つまんないなあ」「全ページ、広告みたいな記事ばかりだなあ」と感じているとしたら、原因はそういうところにあるのです。

 

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2016年6月 2日 (木)

■0602■

単行本の追い込みで、レンタルしてきた映画すら見られなかったのだが、なにしろ映画の日である。ちょっと早起きできたので、吉祥寺で『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』。
640昨年の『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』の、CG満載のラーメン二郎的なトゥーマッチ感にげんなりしていたのだが、『シビル・ウォー』はシンプルに、キャプテン・アメリカとアイアンマンの対立が軸となっている。
この2人の誕生には、アメリカの戦争史が背景にあるので、いやおうなくリアリティが生まれる。
冒頭の戦闘シーンは、ナイジェリアの混沌とした市街を舞台にしている。活気あふれる人込みの中で、キャプテン・アメリカのコスチュームが浮くことなく、せいぜい特殊部隊の兵士が行動している程度に見える、その絶妙なビジュアル設計に舌を巻いた。「タイツを着た、やみくもに強いヒーローが常識はずれな活躍をする世界」ではない。

そもそも、キャプテンは肉弾戦メインなので、どうしても戦いは泥くさくさなる。同行しているブラック・ウィドウも人間なので、普通の銃で戦う。この地べた感、人間の体重を感じさせるアクション・シーンだけでも見る価値がある。


プロットは、いい按配に錯綜している。ヒーローの行動を国連の管理下におく「ソコヴィア協定」を、多くの国が批准する。
自分たちの行動を縛る協定を受け入れるかどうかで、キャプテン側とアイアンマン側で、意見が分かれる。……が、「ソコヴィア協定」の影響は少しずつ背景化していき、『キャプテン・アメリカ』第二作目に登場したウィンター・ソルジャーの存在がクローズアップされていく。

僕が感心させられたのは、ウィンター・ソルジャーの犯した過去の罪をヒーローたちに暴露することで、ヒーロー同士の対立を惹起させ、彼らへの復讐をとげようとする、無力な民間人の存在だ。いつものように、特殊能力をもった悪党は登場しない。
これは、ヒーローの勝手な活躍で家族を失った一市民の戦いなのだ。だから、タイトルは『シビル・ウォー』(内戦)。ヒーロー同士ではなく、人間世界の内なる戦いなのだ。
映画は、逃れようもなく重たいトーンとなる。陰鬱な雰囲気に飲み込まれたまま、映画はデッド・エンドとなる。

こういう連作映画なら大歓迎なのだが、148分の上映時間は、あまりに長すぎる。


長すぎると感じさせる原因は、飛行場でのヒーロー勢ぞろいの派手なバトル・シーンのせいだろう。
表層的には、ここがクライマックスに見える。実際、「これでもか」とアイデアを詰め込んで飽きさせないのだが、その派手なバトルが終わってからが本筋なのだ。

僕の横に座っていた女子中学生たちは、飛行場での戦闘シーンでは声を出して笑っていたけど、シリアスなシーンでは、何度もアクビをしていた。
ようするに、さまざまなテイストのフックをぶら下げておいて、「どれかひとつでも気に入ったら、それで満足してくれ」という考え方なんだろう。「シリアスなシーンが退屈な人は、ヒーロー勢ぞろいの明るいシーンを楽しんでね」という、八方美人的な構造。

それはそれで、正しいあり方とは思う。なぜなら、観客が「あのシーンが面白かったから、まあいいや」「あの俳優が出てきたから、それでいいか」と、部分評価する習慣を身につけたから。その潮流を新しい現実として受け入れた側が、勝つ。
飛行場での明るい戦闘シーンのあいだに、トイレに行っておくべきだった。前情報として「アントマンもスパイダーマンも好きじゃない人は、あのシーンは見なくていいぞ」と、知っておきたかったね。

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