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2016年5月 5日 (木)

■0505■

レンタルで、『カリフォルニア・ダウン』。
Sa04044r_large地震災害を、宇宙人の侵略程度にとらえた映画。確実に助かるのは、救難隊員の主人公と、その家族、娘に優しくしてくれた兄弟だけ。主人公と敵対していた男は、天罰のように事故死する。

この映画では「巨大地震から逃れられるのか」という主系的葛藤と、「バラバラになりかけていた家族が仲直りできるのか」という観客が感情移入しやすい傍系的葛藤とが併走する。
主食と副食のように、その両輪さえ機能していれば、たいていの映画は脱線することなく完走する。が、そのロジックは、映画の内部でしか機能しない。「なるほど、このプロットなら納得いくな」と映画の内部に没入する自分と、「そんなバカな」と映画の外部に留まりつづける自分とがいる。「ご都合主義」は、映画の合理性から生じる。いい加減に作っているからご都合主義に陥るのではなく、破綻をまぬがれようと文法を駆使した結果、「映画の外」に立ちつづけている視点から、作り手の都合を見抜かれてしまうのだ。


映画の文法は、もう何度かピークを超えてしまっている。「二時間の映画だったら、一時間こえたあたりで、決定的な何かが起きる」、この法則を習ったのは、20年以上前のことだ。90分の映画なら、45分あたりで何かが起きて、物語の方向性が変わったり、決まったりする。ためしに時間をはかりながら、見てほしい。たいてい、そういう構造になっている。

物語のロジックが定型化しているとしたら、あとは映像しか楽しむべきところはないのだろうか。『カリフォルニア・ダウン』は災害パニック映画なので、スタントとCGの合わせ技が見どころだ。津波が襲ってきたと思ったら、小型ボートでサーフィンのように爽快に乗り切ってしまうシーンなど、笑って許せてしまう完成度だ。
不謹慎な言い方をするなら、「アメリカ同時多発テロのニュース映像の、バージョンアップ版をえんえんと見ていたい」欲求をかなえてくれる映画だ。「悲惨なこと」「許されないこと」を楽しむ、それがフィクションに与えられた特権だと思う。

では、倒壊する無数のビルをヘリコプターで避けたり、水没したビルにボートで突っ込んだりする映像をよりリアルに楽しむには、3Dで見たりIMAXで見ればいいのだろうか。
だが、スクリーンを大きくしたり、立体視したりする試みも、映画史の中で何度となく繰り返されてきた。いまに始まったことではない。
なるべく大勢で、体験を共有せねばならない娯楽映画は、いま何度目かの壁に当たっているように見える。


地上波放送されるたび繰り返される、『天空の城ラピュタ』『コマンドー』『バトルシップ』のSNSでのお約束的な盛り上がり。そのような、映画の外縁に、ひょっとすると映画を楽しむ主体、メイン会場が移ってきているのかも知れない。
だけど、映画会社やテレビ局が「ハッシュタグつけて、ツイートしてくれ」「トレンド入りを目ざそう」とコントロールしようとした瞬間、それはもう映画の外縁ではなくなってしまう。

僕は、映画の奥深くで機能している、映画を映画たらしめるロジックを愛する。と同時に、監視衛星のように映画の外を周回しながら、映画の現在を見つめる視座を持ちたい。
僕がテレビをつけていなくても、「バルス!」というツイートで、『ラピュタ』が放送されていることが分かる。見ていなくても、伝わってくる。そのとき、「バルスだけじゃなくて、脚本や演出も、ちゃんと見るべき」と指摘するのは、野球を見て盛り上がっている観衆に「野球のルールや歴史を勉強しろ」と諭しているようなものだ。
「バルス祭」は食傷気味だが、映画のボディ(本体)が、映画の内部にあるとは限らない。映画館の客席にすらないような気がしてきている。

(C)2014 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC

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