■0526■
単行本が校了するまで、ほとんど映画を見られないのだが、レンタルで『ビッグ・フィッシュ』『俺はまだ本気出してないだけ』『はじまりのうた』。
『はじまりのうた』については、書いておかねばなるまい。
落ち目で、自暴自棄の暮らしをおくっている中年の音楽プロデューサーが、男にふられたばかりの才気あふれる女性シンガーソングライターを見出し、ニューヨークの街角でレコーディングして、アルバムを作りあげる。
その過程で、音楽プロデューサーは家族とよりを戻し、女性シンガーも元カレが自分の曲をステージで歌ってくれるのを見て、はればれとした顔で去っていく……と、撮り方によっては凡庸なヒューマン・ドラマに終わってしまいかねないプロットだ。
だが、監督のジョン・カーニーは、プロットを直線的にせず、とにかくラフに撮った。
冒頭シーンは、女性シンガーが友だちに引っ張り出されて、ライブハウスで自分の曲をギター一本で歌う。暗い歌詞だし、観客は白けているが、無精ひげまみれの音楽プロデューサーは、陶然とした表情でステージの前に立ち尽くしている。
……では、その日、彼の身には何が起きていたのか? 時間を巻き戻して、描写しはじめる。二日酔いで目覚め、会社では共同経営者からクビを宣告され、娘を車で学校から家まで送るが、奥さんとは別居状態だ。彼はスキットルを持ち歩き、つねに酒を飲んでいる。
車を運転しているとき、デモテープを聴きながら「これもダメ」「これも論外」と、彼は窓からどんどんCDを投げ捨てていく。これだけの描写で、彼が音楽プロデューサーであることが分かる。無駄をそぎ落としたソリッドな演出に、あふれ出るような豊かさを感じる。
■
さて、音楽プロデューサーは地下鉄で自殺しようとして失敗し、ライブハウスで飲んだくれる。ここで、映画は冒頭シーンへ戻る。
彼の救いがたい生活を見てきたあとだと、同じ曲がまるで違って聞こえる。というより、こういうプロットの組み方をすると、違って聞こえざるを得ないのだ。確かに、その曲は鳥肌がたつほど美しい。だけど、しかるべき構成の中で聞かせることによって、つまり人間の読解力や認識力に訴えることで、音楽プロデューサーと女性シンガーの抜きさしならない結びつきを予感させる、重要なパーツとして機能する。
「いい曲」だから「感動した」のではない。映画も音楽も、感覚だけではつくれない。
では、女性シンガーは、なぜライブハウスで歌うことになったのだろうか? 彼女の身に起きたストーリーが、またしても時間を遡って語られる。
他にも、ひとつの曲が生まれるまでのエピソードを、ちょっとだけ過去に戻って語ったりする。ラストでは、ちょっとだけ時間が先に進んで、また戻ったりする。
この映画の中で、明らかな「現在」として描かれるのは、音楽プロデューサーと女性シンガーが仲間たちを集め、ニューヨークのあちこちでレコーディングするシーケンスだけだ。その中でも、演奏中の曲が次のシーンにずれこんだりする。その自由な構成と、手持ちを主体にした実体験的なカメラ・ワークは、とても相性がいい。
物事がどのように生起するのか、ジョン・カーニーは懸命に洞察している。「思い」より先に、「事実」をどう伝えるべきなのか、慎重に考えているんだ。
「事実」を効果的に伝えられて初めて、「思い」を受けとってもらえることを、彼は知っている。
僕は、その姿勢に心打たれたし、また元気づけられもした。二日酔いで無駄につぶした日が、この慈悲深い映画にかなり救われた。
■
ジョン・カーニー監督は、映画監督になる前はロックバンドに属しており、そこでPVを撮っていた。
過去に戻りながら、別の角度から「現在」をくり返し描く構成は、音楽の応用なのかも知れない。
(C)2013 KILLIFISH PRODUCTIONS, INC. ALL RIGHTS RESERVED

落ち目で、自暴自棄の暮らしをおくっている中年の音楽プロデューサーが、男にふられたばかりの才気あふれる女性シンガーソングライターを見出し、ニューヨークの街角でレコーディングして、アルバムを作りあげる。
その過程で、音楽プロデューサーは家族とよりを戻し、女性シンガーも元カレが自分の曲をステージで歌ってくれるのを見て、はればれとした顔で去っていく……と、撮り方によっては凡庸なヒューマン・ドラマに終わってしまいかねないプロットだ。
だが、監督のジョン・カーニーは、プロットを直線的にせず、とにかくラフに撮った。
冒頭シーンは、女性シンガーが友だちに引っ張り出されて、ライブハウスで自分の曲をギター一本で歌う。暗い歌詞だし、観客は白けているが、無精ひげまみれの音楽プロデューサーは、陶然とした表情でステージの前に立ち尽くしている。
……では、その日、彼の身には何が起きていたのか? 時間を巻き戻して、描写しはじめる。二日酔いで目覚め、会社では共同経営者からクビを宣告され、娘を車で学校から家まで送るが、奥さんとは別居状態だ。彼はスキットルを持ち歩き、つねに酒を飲んでいる。
車を運転しているとき、デモテープを聴きながら「これもダメ」「これも論外」と、彼は窓からどんどんCDを投げ捨てていく。これだけの描写で、彼が音楽プロデューサーであることが分かる。無駄をそぎ落としたソリッドな演出に、あふれ出るような豊かさを感じる。
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さて、音楽プロデューサーは地下鉄で自殺しようとして失敗し、ライブハウスで飲んだくれる。ここで、映画は冒頭シーンへ戻る。
彼の救いがたい生活を見てきたあとだと、同じ曲がまるで違って聞こえる。というより、こういうプロットの組み方をすると、違って聞こえざるを得ないのだ。確かに、その曲は鳥肌がたつほど美しい。だけど、しかるべき構成の中で聞かせることによって、つまり人間の読解力や認識力に訴えることで、音楽プロデューサーと女性シンガーの抜きさしならない結びつきを予感させる、重要なパーツとして機能する。
「いい曲」だから「感動した」のではない。映画も音楽も、感覚だけではつくれない。
では、女性シンガーは、なぜライブハウスで歌うことになったのだろうか? 彼女の身に起きたストーリーが、またしても時間を遡って語られる。
他にも、ひとつの曲が生まれるまでのエピソードを、ちょっとだけ過去に戻って語ったりする。ラストでは、ちょっとだけ時間が先に進んで、また戻ったりする。
この映画の中で、明らかな「現在」として描かれるのは、音楽プロデューサーと女性シンガーが仲間たちを集め、ニューヨークのあちこちでレコーディングするシーケンスだけだ。その中でも、演奏中の曲が次のシーンにずれこんだりする。その自由な構成と、手持ちを主体にした実体験的なカメラ・ワークは、とても相性がいい。
物事がどのように生起するのか、ジョン・カーニーは懸命に洞察している。「思い」より先に、「事実」をどう伝えるべきなのか、慎重に考えているんだ。
「事実」を効果的に伝えられて初めて、「思い」を受けとってもらえることを、彼は知っている。
僕は、その姿勢に心打たれたし、また元気づけられもした。二日酔いで無駄につぶした日が、この慈悲深い映画にかなり救われた。
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ジョン・カーニー監督は、映画監督になる前はロックバンドに属しており、そこでPVを撮っていた。
過去に戻りながら、別の角度から「現在」をくり返し描く構成は、音楽の応用なのかも知れない。
(C)2013 KILLIFISH PRODUCTIONS, INC. ALL RIGHTS RESERVED
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