■0410■
取材ではなく、コラムとして『ガンダム』について書くなんて、本当にひさびさです。
Twitterで補足的に書いたことですが、サイド6に停泊しているホワイトベースの艦橋で、ブライトはふわりと浮かんで入室してきます。しかし、ミライとの会話が上手く回らないと、「不器用だからな」と言い訳がましい捨てゼリフを残して、今度はコツコツと歩いて、立ち去ります。浮いて入ってきて、歩いて出ていく。
それは『ガンダム』の艦船に重力ブロックがあろうがなかろうが、そのたぐいの設定すべてに優先する「感情描写」です。人間が「自然に浮く」無重力という舞台を用意することで、『ガンダム』のテーマは、しっかり、絵として語られているはずなのです。
最初にテーマを提示した「絵」とは、宇宙に浮いているスペースコロニーが、地球に「落ちる」、あの壊滅的な絵です。「落下」「墜落」を最初に見せてしまった以上、ストーリー後半で、何かしらポジティブな新しい要素を出そうとしたら、それは「浮かんでいる」ものでなくてはならない。それが、謎の空間で浮かんだまま語り合う、ニュータイプ同士の邂逅シーンなのでしょう。
もちろん、「重力と無重力」については演出ミスもあるでしょうし、作画の簡略化といった現場の都合、苦しまぎれの思いつきもあるでしょう。しかし、「重力からの解放」というテーマを仮説として設定することで、『ガンダム』を読みとく視点が、ひとつ増えることは確かでしょう。
■
フアン・アントニオ・バヨナ監督、ギレルモ・デル・トロ総指揮のスペイン・メキシコ合作映画『永遠のこどもたち』を、レンタルで。
僕は、ギレルモ監督の『パンズ・ラビリンス』は、「エグいハッピーエンド」で終わったと解釈しているんだけど、『永遠のこどもたちも』もヘビーだけど、ハッピーエンディングだと感じた。外から見ると絶望的だけど、その内部は、まばゆいほどに祝福されている、二重構造となっている。
物ごとの「外部」と「内部」の並存を強く意識させるためには、幽霊のでてくる世界観を一度、きっちりと区画整理する必要がある。
主人公の女性が、失踪した子どもの手がかりをつかみたい一心から、霊媒師を家に招く。その怪しいシーンが、映画の「区画整理」の役割をはたす。主人公の夫は、霊など信じていないので、警察から心理捜査官を呼び、立ちあわせる。
さて、霊媒師はトランス状態に入り、彼女だけが、この家で過去に起きたことを目撃できるのだという。そのシーンは、家中にしかけられた監視カメラとマイクによって構成される。カメラとマイクを通じて記録をとっているだから、それは科学的に裏づけられた映像、「事実」のはずだ。(『REC/レック』のようなモニュメンタリーは、カメラの客観性・信憑性を利用して「事実」に揺さぶりをかける仕組みのホラー映画だ。)
■
それで、『永遠のこどもたち』の場合、カメラに幽霊は映らないんだけど、死んだはずの子どもたちの声を、マイクがキャッチする。それは音声波形として視覚化されるので、「やっぱり幽霊はいるのかも?」「いてもおかしくないよね?」という、どちらにも触れる評価軸が、映画に持ち込まれる。
映画はすべてセットだし、俳優が演じているので、観客が「本物」と信じきれたとき、はじめて存在意義が生じる。いまは信じられなくても、いつか信じられる日が来るかもしれない。いつ、どう関係が変化するかわからない……というスタンスで、映画に向き合いたい。
で、僕は「この映画の世界には、たしかに霊はいるのだ」と信じられたので、あの切なく美しいラストを、ハッピーエンディングと受けとることができました。
(C) Rodar y Rodar Cine y Televisión, S.L / Telecinco Cinema, S.A., 2006
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント