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2016年4月28日 (木)

■0428■

レンタルで、『百円の恋』。
Sub05_koi_8450_large職なし、男なし、ゲーム三昧で太ってしまった安藤サクラ演じる32歳の女が、ボクシングをやっている男と出会い、その男に捨てられたことがキッカケで、プロボクサーになるため奮闘する。
言うまでもなく、ストーリーラインに合わせて、本当にボクシングの練習をして、どんどんスリムになっていく安藤サクラという女優の肉体を見る映画である。

ということは、「安藤サクラが、実際にトレーニングした」情報が、映画を見るうえでは不可欠だ。その前情報が、通奏低音のように流れているから、職も男も失った安藤が試合に向かっていくクライマックスに、生々しい緊迫感が生まれる。
ドキュメンタリックな、「情報と映像が渾然一体となった安藤の肉体」を記録した映像であって、カットワークがどうした、演出がどうしたといった作品ではない。逆に、映画をカットや演出だけで見てしまうことの危険性を、このフィルムは教えてくれる。


安藤が勤める百円ショップにかかわる脇役たちが、あまりに作り事めいていて鼻白むだろうが、「劇映画としてのトータルバランス」など、初めから期待する観客こそがバカなのだと、これまた痛切に教えてくれる作品でもある。
ボクシング・ジムのオーナーが、つねにカップヌードルをすすっているのはランニング・ジョークのつもりなのだろうが、もちろん笑えない。そもそも、カップヌードルから湯気が出ていない。数時間でまとめて撮ったことが、バレてしまっている。

だが、オーナーの横に立っているトレーナー役の松浦慎一郎。彼は、俳優でもあるが、プロのボクシング・トレーナーでもある。試合のシーンで、迫真のセリフ(おそらくは、ほとんどアドリブ)ばかり発するのは、そのためだ。
フレームの外で俳優が身につけた体験、フレームの外で鍛えられた肉体こそが主体性を発揮し、フレームの中だけでつくられたパートは、ことごとく弱々しい――そこに、劇映画の実相、構造が見え隠れする。


ようやく、岡本喜八版の『日本のいちばん長い日』を見た。
51a5a18e50947d9c0e412b3cbee9bb83300この映画の公開年に、僕は生まれた。終戦から22年目。ということは、出演者のほとんどが戦争を経験している。当時の観客も戦前、戦中生まれの人が大半だったと思う。つまり、作り手も受け手も証言者、当事者だったと言える。

喜八版では、クーデターを起こそうとした将校たちの無念の思いが、手に取るように伝わってくる。
また、阿南陸相は玉音放送と似た内容のことを、自決の場に居あわせた井田中佐らに語っている。そうすると、阿南が自決した意味にも、納得がいく。

原田眞人版には、昭和天皇の登場シーンが多く、阿南との親交も語られるが、喜八版では昭和天皇の顔は映らない。原田版は、あくまで「個人」として天皇や政治家を捉えているのであって、時代を振り返っているわけではない。
ここまで大きな決断を、もろく傷つきやすい「個人」の描写にとどめるしかなかった原田版からは、(喜八版公開からの)50年のあいだに、日本人がどう変質したのか読みとることが出来ると思う。中学や高校の社会科の教師は、玉音放送の内容なんて一度も教えてくれなかったよな……と、ふと思い出す。

(C)2014 東映ビデオ
(C)1967 TOHO CO.LTD

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2016年4月26日 (火)

■0426■

モデルグラフィックス 6月号 発売中
0000000032352●組まず語り症候群
今回で、第42回。童友社の「日本の名兜」シリーズ、二種類を取り上げています。

そして、「すずさん勝手に立体化計画」、第二回も掲載しました。
今回は、作画監督の松原秀典さんの作監修正を、三枚、載せています。ただ、本文については、一ヶ月のうちに状況が二転三転したため、きわめて歯切れが悪くなってしまいました。
その反省もあり、次号も次々号も「すずさん勝手に立体化計画」を連続して掲載し、ちゃんと中身のあるものにします。

アニメ業界ウォッチング第20回:「キャラ原案」から「キャラデザイン」を起こす仕事とは? アニメーター&キャラクターデザイナー、高橋裕一インタビュー!
T640_705039アキバ総研の連載記事です。
高橋さんには、8年前の『マクロスF』の放送時、二度、インタビューしました。それ以降は、自主制作アニメ『鋼鉄のヴァンデッタ』のイベントに来てもらったり、マチ☆アソビのチャリティ・オークション用に色紙を書いていただいたり、プロ同士、まともに話す機会がありませんでした。

このコーナーは、僕の人脈か、飛び入りで取材しているんですが、やはり聞きたいテーマがなければインタビューはできないので、テーマ探しに時間がかかった感じです。
その分、ほかでは決して聞けないような、貴重なお話を聞くことができました。


日曜日は「スーパーフェスティバル」に出店し、ツイッターやブログを経由してきた方たちと、3Dスキャン・フィギュアを前に、楽しく話すことができた。

フィギュアの複製というと、シリコンで型をつくるか、PVCに置き換えて製品にするぐらいしか選択肢がなかった。どちらも、コストがかかりすぎる。3Dスキャンなら、欲しい人が1人でも2人でも、必要な分だけ出力して分けることができる。くすんだ色やザラザラした質感は、データや素材の段階でクリアできる。
そもそも、スケールモデル的な発想から解放されている人たちは、質感など気にしないのではないか(気にする人が多ければ、3Dフィギュアそのものが商売になっていないだろう)。だとしたら、塗装やデータの段階で彩度を調整するだけで、「色まで細かく塗られたキャラクター・フィギュア」が、小規模なビジネスとして成立してしまう。(というか、個人で出力品を販売している人は、すでに出現している。)


スーフェスに出店する楽しみは、一緒に店を出している友人と雑談できることだ。
この日は、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』を見ていない友人に、「来月、レンタルで出回るみたいだよ」と話していて、気がついたことがある。

『フォースの覚醒』の感想を、じかに人に聞くと「懐かしかった」「昔のままで嬉しかった」「ひさびさに映画館へ行った」という話が多かった。あの映画の革新性は、観客の既視感にアクセスすることで、『スター・ウォーズ』の「ああ、昔やってたね」「小学生のころ、親父と見にいったよ」といった思い出話、「オワコン性」を商売にしたことだろう。
なので、整合性のある設定だとか新しいメカだとか、見たこともないビジュアル・イメージは必要なかった。スクリーンに映る被写体よりも、「確か、こんな感じだった」という観客の記憶が、この映画のボディ(本体)なのだ。
「小さいころに見た映画に、大人になってから、時代が変わってから、再び出会う」体験を売ったのであって、実際にスクリーンに映される映像は、その体験を毀損することなく、温存せねばならない。
繰り返すが、「観客のおぼろげな記憶」がこのビジネスの本体であって、映画は宝箱をひらくためのカギでしかない。カギは、ぴったりとカギ穴に差し込まれねばならないのだ。


なので、「30年も経過した未来の話なのに、まだレイア姫が反乱同盟を率いて戦っている」「レイア姫と結婚したはずのハン・ソロが、また密輸業者に戻っている」ことは、実は欠点ではない。
生身の俳優が、リアルに歳をとって同じ役を演じることもまた、「オワコンだった古い映画を、現代に復活させる」アトラクションには不可欠だからだ。この映画の本体は、スクリーンの外に広がっている。観客ひとりひとりの記憶を、新しいパッケージで包みなおすことが、映画を公開する目的なのだ。キャスリーン・ケネディの、「スター・ウォーズを個人の手に戻す」という発言は、そういう意味なのだろう。

この映画の感想をネットで探すと、1978年に公開された『スター・ウォーズ』がどんなに楽しかったか、誰と見にいったのか、帰りに何を話したのか、どんな時代だったのか――を語って、『フォースの覚醒』の感想に代えている人を、ちらほら見かける。他のどんな有名な映画をリメイクしても、リバイバル上映しても、こんな感想は出てこないだろう。
『スター・ウォーズ』は、ディテールが積み込み過多なうえ、DVDやブルーレイが発売されるたびに細部がリニューアルされてしまい、「昔、映画館で見たアレ」という漠然とした記憶が「いちばん正確」という倒錯した事態に陥っている。その「昔みたアレ」を記憶、所有している層は40~70代におよぶ。その層すべてを相手にするなら、(エピソード1~3の印象が薄れはじめた)2015年前後を狙うしかない。


映画館で見ようが、レンタルDVDで見ようが、違法アップロードされた映像をPCで見ようが、僕は映画を駆動させる演出が機能している以上、「その印象は同一なはずである」と信じている。スクリーンのサイズや画質によって、印象が左右されるようなら、それは映画として未熟な証である……。

だが、「スクリーンの中に“すべて”が込められているはず」という僕の信念は、「ひさびさに映画を見にいく」体験そのものを売った『フォースの覚醒』には、通用しなかった。
なので、オープニング・テーマで「なんだか、音が重厚さに欠けるな」「楽器の編成が違うんではないか」と違和感をもった瞬間、この体験からはじき出されてしまった。
それはそれで、ウソのない正しい関係を『フォースの覚醒』と結べた、と言えるのかも知れない。

では、『スター・ウォーズ』の原体験を持たない若い人たちや「初めて見る」人たちにも好感をもたれた理由は何なのだろうか? じっくり考えたり、リサーチしたりする意義はあると思う。「映画の出来」なんてものは、この際、付加価値でしかないからだ。

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2016年4月23日 (土)

■0423■

稲城長沼駅にオープンした「いなぎ発信基地ペアテラス」の開幕イベントに、行ってきました。
朝10時すぎからなので、「ちょっとキツいかな」と思ってました。しかし前日、池田秀一さんにインタビューする機会があり、「明日、行かれるんですか?」といったやりとりがあったので、行かないと池田さんを裏切るような気持ちになり、早起きしてみました。


トークショーまで時間があったので、とにかくザクに近づいて、写真を撮りまくる。ガンダムは、いろんな思惑のからんだデザインなので、僕はあまり好きではない。かといって、ザクなら何でもOKというわけでもない。が、このザクは、「アニメのキャラクター」の立体物として純化されていたから、格別な魅力を放っていた。
Cimg0098この37年間、ザクはケシゴムだったり、プラモデルだったり、可動フィギュアだったりしたけれど、商品ではない、プレーンな「立体像」としてのザクは、これが初めてだと思う。
美少女キャラクターなら、ワンオフの等身大フィギュアがたくさんあったのに、ロボット、ことガンダムの立体物は「ガンプラ」「ガンプラを手本にした商品」の文脈に包含されすぎていた。それを当たり前だと、僕らは思いすぎていた。
このザクを見て「何分の一スケールなのか」「17.5メートルにしては、ディテールがおかしくないか」と考えてしまうようでは、未来は暗い。いま、もう一度、僕たちの文化の何がすばらしくて、どうアウトプットすれば魅力を伝えられるのか、しっかり考えなくてはいけないと思う。

駅の周囲では、美少女フィギュアを露天で安く売っていたり、トークショーも含めて、とにかく気持ちのいい朝だった。サンライズのSさんにも、笑顔で挨拶できたし。


岡本喜八版を見てから、コメントしようと思っていたのだが、ずーっとレンタルされっぱなしで、見られず。
とにかく、原田眞人版の『日本のいちばん長い日』を、先に見た。
Cast5_yamazaki_large原田監督の編集マンは、息子の原田遊人さんだけど、あいかわらずカットの終わりきる寸前でバスバスと切ってテンポをつける。かと思うと、大事なシーンでは尺をたっぷり使う。たとえば、総理大臣が天皇陛下に向かって、ご聖断をあおぐシーン。丁寧に回れ右をする、その足元の動作を何カットにも割って、じっくりと見せる。

とはいえ、これは「顔の映画」であった。
ファーストカットは、中嶋しゅう演じる東条英機のバスト・ショットだ。やがて、天皇陛下にやりこめられる東条は、すでに焦りの色を見せている。東条のアップに、まずはハッとさせられる。
山崎努の総理大臣。その深いしわの刻まれた顔。困ったような、とぼけたような、腹の底のよめない表情。彼がウィンクをするカットには、色気すら漂っている。
本木雅弘の演じる昭和天皇の、おだやかだが、うっすらと、あきらめさえたたえた繊細なまなざし――俳優の、顔で語る映画なのだ。

それゆえ、若い陸軍将校たちが主役となる後半は、かなり迫力にかける。顔に力がないせいだ。平成の若者にしか見えない。昭和の物語に見えないんだよなあ……。
最後に、ひとつ良かったシーン。玉音放送の原稿を修正するかどうかで、陸軍大臣と海軍大臣がぶつかる。海軍大臣が部屋を出るとき、「修正の必要なし!」と怒鳴って、黒板を叩く。その反対側から、ゆれる黒板を手で押さえる人がいる――それが、リアリティだよね。かっこ悪いんだけど、黒板を叩けば、そりゃあ揺れるよね。その物理現象を見逃さずに描くことで、映画の世界に、説得力が生まれる。叩いたら叩きっぱなし、かっこいいところだけで切り抜ける映画が多い中、やはり原田眞人の演出ってのは、信用できると思った。


明日日曜は、スーパーフェスティバル()に出店。
いつものように、D-20“Hard Pop Cafe”で、中古プラモなどを売ります。

(C)2015「日本のいちばん長い日」製作委員会

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2016年4月19日 (火)

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バンダイの『マクロスΔ』のメカコレクション、いまひとつ関心が薄かったのだが、第3話『旋風 ドッグファイト』が面白かったので、二箱とも買ってきた。
Cgje_abuuaa4hic第3話は、4回ほど繰り返して見た。「歌をバックに可変戦闘機が戦えば、それこそがマクロスの醍醐味」なのかも知れないけど、意外と、フレイアの歌とハヤテの模擬戦が互いに支えあう構造は、味つけ程度にすぎない気がしている。

ほとんどの娯楽映画には、主系的葛藤と傍系的葛藤がある。『ダイ・ハード』でいえば、マクレーン刑事が武装グループを倒せるかどうかが、主系的葛藤。奥さんと仲直りできるかどうかが、傍系的葛藤(パウエル巡査がトラウマから抜け出すのも、傍系的葛藤のひとつだろう)。
主系的葛藤は、「勝つか負けるか」など、答えがハッキリしている。しかし傍系的葛藤は、答えが見えづらい。『ダイ・ハード』でいえば、奥さんは武装グループに殺されるかも知れないし、助かってもマクレーンと仲直りしないオチもあり得る。そのどちらかだったら、『ダイ・ハード』は、ビターな味わいのアクション映画になっていただろう。
また、傍系的葛藤には、観客にとって、身近で内面的なものが多い。「武装グループと戦う」ことは誰にでも出来ることではないが、「奥さんと仲直りする」だったら、誰でもピンとくるはず。

で、『マクロスΔ』第3話の場合、ハヤテが模擬戦に勝つことが主系的葛藤。傍系的葛藤は、「食堂を荒らしまわるウミネコを捕まえる」ことなんじゃないか?と、考える。


ウミネコについては、最初に食堂を荒らすシーン、ハヤテたちが海中で捕まえようと奮闘するシーン、「今度こそ捕まえよう」「動きは見切った」と道で会話するシーン、3回も出てくる。
そして、模擬戦でハヤテは、ウミネコの動きをトレースして可変戦闘機を変形させ、逆転勝利する。傍系的葛藤は、主系的葛藤と同時に解決される。つまり、ウミネコを捕まえることは出来なかったが、その動きを戦闘にいかすことで、ハヤテは勝利する。尾翼を折り曲げる初代バルキリーのギミックに、尻尾を曲げるウミネコの動きをインサートすることで、視覚的カタルシスが生まれた。
ハヤテの乗機を初代バルキリーにしたのは「オッサンホイホイ」でも「マクロスあるある」でもなく、ひとえに「尾翼ユニットを畳む」という、特有のギミックゆえだったのではないか……。ドラマの葛藤を、「動き」で解決したからこそ、アニメーションならではの面白さが発揮されたのではないだろうか?

もうひとつ、このエピソードに愛着をいだいてしまう理由がある。ウミネコが生活空間(ハヤテたちの寮に併設された食堂)に現れるからだ。ウミネコを捕まえようと何度もトライすることで、ハヤテは食堂で働く兄弟たちと仲良くなっていく……つまり、生活環境や交友範囲が整っていく。(面倒な言い方をすると、傍系的葛藤は主人公の内面やウェットな部分に関与するのだ。)
方言を話すヒロインといい食堂を荒らすドラ猫といい、泥臭いまでの生活感が『マクロスΔ』を「どこか憎めない作品」にしていることは、間違いないと思う。


さきに挙げた「主系的葛藤」と「傍系的葛藤」は、わりと芸術志向の映画からでも見つけることができます。だけど、「主系的」「傍系的」は、僕が好んで使うガイドラインというかプロトコルなので、すべてをこれに当てはめて考える必要はない。

ウミネコという線の少ないゆるキャラと、30年前に考えられ、3DCG化されたVF-1のギミックとの結びつき、そのアイデア、発見に、僕は驚嘆した。キャラクター文化の勝利、といってもいいと思う。「なんとなく面白い」「とにかく最高だ」「王道娯楽」ですませては、アイデアに対して失礼な気さえする。

(C)2015 ビックウエスト/マクロスデルタ製作委員会

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2016年4月17日 (日)

■0417■

レンタルで、『テラスハウス クロージング・ドア』。何かで予告を見て、ちょっと気になっていた。ドキュメンタリー仕立てのドラマというと、『四季 ユートピアノ』以来、だいたい好き。だが、『テラスハウス』は、どちらかというと『男女7人夏物語』のような、2010年代のトレンディ・ドラマなのだろう。
Sub02_large「一体どうやって作ったんだ?」と、驚かされる。2人の男女がデートの相談をしていて、もうひとり、あぶれてしまった男がギターを弾いている。その表情を、たまたま撮れてしまったかのように、しかし、カメラがあわてて追うでもなく、当たり前のようにフィックスで、きれいに撮っている。カメラ側の作為、都合を感じさせない。
登場する男女のセリフも、そっけないほどスマートだ。その場で思いついたような不自然さもない。

「男女6人をひとつの家に住まわせよう、そこで恋愛ドラマを展開させて、ちゃんとオチをつけよう」と思ったら、苦心惨憺して設定と展開をひねり出し、不自然なほどにキャラクターを際立たせるのが、90年代までのドラマ制作のセオリーだった。
『テラスハウス』は、「そういう決まりごとで撮っているドキュメンタリーだから」と、ドラマを成立させるためのややこしい物語設定を、まるっきりスキップしている。ラストで6人がバラバラになるのも、「そういう番組だから」以上の理由はない。実に、身軽だ。
6人のキャラクターも、無理して描きわけていないので、たまに誰が誰だか分からなくなる。が、その淡白さが、かえって新鮮。


かつて、ハプニング的なバラエティ番組といえば、『ねるとん紅鯨団』も『進め!電波少年』も、「予想外の事態が起きる」ことを視聴者に期待させつつ、「業界の事情」をチラ見せすることで、臨場感を狙っていたと思う。『テラスハウス』は、まず「テレビ業界」の暑苦しさを脱臭している。さらりとシズル感のある食べ物を撮り、店のテロップだけを静かに入れる。店員は「登場人物」なので、『酒場放浪記』のような商売っけ丸出しのやりとりはない。エディトリアル・デザインのような、すっきりした映像と構成――大人たちの、「さあ見てくれ、買ってくれ」というゴリ押し感は薄い。
唯一、「カメラの外」の猥雑さを感じさせるのは、スタジオにいる芸能人たちのコメントぐらいだ。

無論、車が二台も出てくるのはスポンサーの都合だというし、いまの20代前半の若者たちが、あSub09_largeあまで豪勢にクリスマスを祝えるか? ああまで時間とお金をかけたデートをできるだろうか?と言ったら、その虚構パートが、エンタメとして機能しているのだろう。
生活臭のない、セックスの匂いすら希薄な、殺伐といってもいいほどの清潔感。上から権威や価値観をおしつけてくる大人の不在。この空白にこそ、裏返しに反転された若者たちの憧れや苦しさが投影されているような気がする。


最高齢30歳そこそこの男女が、たがいに「子どもっぽい」「大人として見られない」と言い合っているのは、ほほえましく感じる。20代のころは、とにかく何者かにならねば……と焦っていた。もちろんお金もなく、クリスマスにケンタッキー・フライドチキンを買えず、ピザを買って帰ったりした。
ようやく、自分で自分がどこで何をしているのか把握して、損をしているのか得をしているのか考えられるようになったのは、結婚前後の30代半ば。「若いころは、苦しかったころ」という記憶しかない。

(C)2015 フジテレビジョン イースト・エンタテインメント

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2016年4月16日 (土)

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渋谷にある3Dフィギュア・ショップ「ドゥーブスリーディー」()さんに依頼して、自作のマージョ様フィギュア(全長16.5センチ)を、9.5センチまで縮小してもらいました。
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料金は、10センチ大だと9,800円。フィギュアは「小物」扱いなので、オプション(中)で、プラス5,000円。オプション料金は、サイズによって変わります。
それと、販売目的でなくとも、金銭のやりとりが発生してしまうので、タツノコプロさんに問い合わせて、許可をとりました。「個人の趣味なら、ご自由にどうぞ」と言っていただけましたが、3Dスキャンに関しては取り決めがないので、権利者によってはNGなのかも。
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プリントされたフィギュアは、「表面が梨地になる」「色の彩度が落ちる」。あと今回、非常にデータが重たくなったそうで、完成までに一ヶ月ほど、かかりました(通常は2週間)。そのぶん、右手のキセルや前髪の回りこみなど、かなり忠実に再現されています。


そもそも、粘土をこねて作ったフィギュアを、わざわざ3Dスキャンしたのは、「どんな感じがするのか、体験してみたい」だけなので、あまり深い意味はないです。自作フィギュアの場合、パテや粘土をこね、色を塗った本人が、制作プロセスと完成品の結びつきを知り抜いているわけで。
だけど、「スキャン」「プリント」というブラックボックスが介在したとき、それでもまだ、「これは自分の作品だ」と言い切れるのか? それは「完成品」なのか「複製品」なのか? 実物のない模型の模型は、どこまで「本物」なのか?

結果として、彩度が落ちたことをのぞけば、ブーツのしわなど、見てほしくない荒い部分は適度に省略され、ヘソなど、ポイントになる細部は、ちゃんと残してもらえた……という感じ。ようするに「印象」は、キープされている。ただ、密度がひきしまって、元のフィギュアより情報量が詰まって見えるのでは?という期待は、かないませんでした。


つまり、僕は「自分が作ったとは思えない何か」が欲しかったのです。
海外旅行したときの体験を思いかえすと、「俺みたいな臆病者が、よくあんなこと出来たな」と驚くことがあるんですけど、既知の自分から、どれだけ遠ざかることができるか――それが、自分の人生の目標、荒っぽく言えば「生きる意味」なのかも知れません。
「跳び箱を三段、自分で重ねて飛んでみたら、実は五段をこえるぐらいの高さを飛んでいた」というような経験が、過去にあったような気がする。恋愛なんて、割とそういう要素が働く気がしてます。「修羅場になったら、火事場のバカ力が出るから、意外と乗り切れるもんだよ」とアドバイスされて、実際、その通りにやれたことがあったんです。
ようするに、いまの自分を、あまり好きではない。たいして認めてない。がんばっても、がんばった分までしか出来ないことを、自分であまりに分かりすぎているというか。

よく分からない話になってしまったけど、フィギュアは「いま現在の自分」がストレートに出すぎてしまって、基本的に、ガッカリしながら作ってます。だけど、「どうせダメだから」とあきらめると、人間、底なしに堕落していくので、毎日ちょっとずつでも努力はするのです。

明日17日で終わってしまうので、青山スパライルガーデンで開催中の、かわさきみなみ展「子犬時間」()に行ってきました。
Dsc_2560Dsc_2559入場無料、写真撮影OKです。
作品は羊毛製だけど、この方には「スケールモデル的センス」があります。立体物としての落としどころが、スケールモデル的です。
たとえば、皮膚のシワのより方を「表現」にする以前に、「必然性」で処理している。「すべからく、このような形になるはずである」ところから逆算している。口元や耳の裏などの着彩にも、「実際の犬はこうなので、このサイズと材質なら、これぐらいまでアレンジできる」という、具体的な逆算がある。
ようするに、「ここは形状を省略したけど、省略した分、別の方法で補う」意識と戦略がある。
Dsc_2562(かわさきみなみさんが、模型を作っているかどうかは別として)スケールモデルを通過しているからこそ知っているロジックやセンスって、別分野に応用すると、きわめて強力な武器になると、僕は思ってます。スケールモデルの理解や解釈を「だけど、これは模型の話だから関係ない」と狭めてしまうのは、とてももったいない話です。

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2016年4月13日 (水)

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レンタルで、ティム・バートン監督『ビッグ・アイズ』。
M0000000759_large60年代、“ビッグ・アイズ”というシリーズを描いた画家のマーガレット・キーンと、彼女の作品を「自分が描いた」と偽って世界中で売りさばいた夫、ウォルターの対立劇であり、家庭の崩壊、夫婦の破滅と反比例するように、女性が権利と自尊心を獲得していく過程を描いていく。


映画冒頭、元夫のもとを逃げ出したマーガレットは、車の運転席から、後ろに座る娘へと手をのばし、2人は手を握りあう。
同じ構図が、後半でくり返される。ラジオに出演し、「“ビッグ・アイズ”を描いたのは、私です」と、初めて告白するマーガレット。その背後、スタジオのガラス窓の向こうに、誰かが座っている。ピントが合うと、すっかり成長した娘であることが分かる。
もう一度、夫との公判中、マーガレットの後ろの傍聴席に、やはり同じ構図で娘が座っている。そして、冒頭シーンと同じように、2人は手を握りあうのである。やや露骨ではあるが、「母と娘の関係だけは、ずっと変わっていない」ことが、構図で明示される。
こういう“仕掛け”を見ると、僕は「映画を見ている」とき特有の充足感を味わうことができる。

冒頭、60年代はまだ女性の社会的権利が低かったと説明されるが、そういう側面から見ても、力強く示唆に富んだ映画だし、たったひとつの戦略に固執したばかりに破滅していく男(ウォルターは実人生でも、悲惨な末路をたどった)を見ていると、身につまされるものがある。
ティム・バートンは箱庭的なファンタジーを描くより、社会を舞台にしたドラマに、ちょっとファンタジーのスパイスを振りかけるほうが、上手いような気がする。とてもスマートな映画だった。


邦画関係者「邦画をクソというな!がんばってるんだぞ!」という意見がまさかの大炎上
あいかわらず、アニメばかり見ている人たちが「実写映画より、アニメのほうが面白い!」と力説しているコメント欄はさておき、僕の体験だけを話す。

僕が大学を卒業した1989年ごろは、映画界に何のツテもコネもないのに、スタッフやキャストを地道にくどきまくって、巨額の自主制作映画を作ってしまった林海象のようなニューホープが現れ、そんなどこの誰とも分からない林監督を脚本家に迎え、『帝都物語』をつくってしまうEXEという映画会社が台頭したり、「プロよりも、俺たちのほうが面白い映画つくれるぞ!」って人たちが、異業種から現れはじめていた時代。ゲーム会社のナムコが、自社製作で『未来忍者』をつくってしまったのも、その頃だ。だから、低予算でも元気とアイデアにあふれた世界に見えた。

なので、僕はアルバイトしながら、せっせと企画書をつくっては、何十社という映画会社に持ちこんだ。そのうち、新しくできた実写映画会社・AピクチャーズのKというプロデューサーが、「すごく面白い企画だから、脚本を書いてくれ」ってオーダーしてきた。シメキリも設定された。
「いよいよ、運が向いてきたかな」と、昼間はバイト、夜はせっせと脚本を書いた……のだが、「この脚本書いて、いくらもえらるんだろう?」と疑問に思い、Kプロデューサーに聞いてみた。かえってきた答えは、「日本映画界には、契約書はありません」
シメキリをしっかり守って脚本を書いたけど、「なんかイマイチな内容だねー」で、ギャラはゼロ。さすがに怒って、Aピクチャーズの社長に電話したら、「ごめんなさい、ちゃんと払いますよ」と言ってくれたけど、あれから20数年、いまだに払ってもらってない。


そのうち、大量につくった企画書が、あちこちぐるぐる回るうち、ちゃんと契約書を用意して、ちゃんと約束どおりのギャラを払ってくれるプロデューサーとも出会えた。だけど、アイデアの盗用は当たり前、僕の描いたイメージスケッチを勝手に別の企画に使ったり(もちろん一円も払わない)、そういう人が大多数だった。90年代前半ごろは。

確実に違ったのは、アニメ業界。「あなたは実写映画をやりたいかも知れないけど、当社規定のギャラを払うので、可能なところまで企画書をつくってほしい」。そういうオーダーが舞い込んで、簡単なプロットだけで、一本15万。一ヶ月、なんとか暮らしていけるよね。
他のアニメ会社から、「企画は俺が考えるから、廣田くんは、誰がイラストレーターを探してきて、一緒にイメージボードを作ってくれ」という依頼もきた。そのときは取っ払いで、会うたびに数万円ずつ、「これで足りる?」って感じで払ってもらえた。


だから、「実写の人たちは黙ってアイデアをパクるけど、アニメの世界は、必ず金を払ってくれる」、それが理由でアニメ企画の手伝いは、何年かつづけていた。そのうち何本かは、ちゃんと映画館で公開されたし、テレビ放映もされた。
そんな噂がつたわって、「文章をシメキリどおりに書けるなら、ウチの雑誌や本を手伝ってよ」と、編プロに声をかけられたわけだけど、やっぱり、出版業界にもタダ働きはないわけ。結局、それが信頼の証なの。

僕はライターとして、双葉社の『シネマガールズ』に邦画のレビューや企画記事を、大量に書いた。
だって、出版界はギャラを払ってくれるもん。「ギャラを払ってもらえる」信頼関係の中でなら、低予算の邦画にだって魅力を発見することができる。
僕は、実写映画のプロデューサーから電話がかかってきても、絶対に出ないようにした。映画の企画書や脚本を書いてもタダだけど、映画のレビューを書くと、ちゃんとギャラが振り込まれるんだから、当然だよね。

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2016年4月10日 (日)

■0410■

【懐かしアニメ回顧録第17回】「機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編」をつらぬく、重力と無重力の対比
取材ではなく、コラムとして『ガンダム』について書くなんて、本当にひさびさです。

Twitterで補足的に書いたことですが、サイド6に停泊しているホワイトベースの艦橋で、ブライトはふわりと浮かんで入室してきます。しかし、ミライとの会話が上手く回らないと、「不器用だからな」と言い訳がましい捨てゼリフを残して、今度はコツコツと歩いて、立ち去ります。浮いて入ってきて、歩いて出ていく。
それは『ガンダム』の艦船に重力ブロックがあろうがなかろうが、そのたぐいの設定すべてに優先する「感情描写」です。人間が「自然に浮く」無重力という舞台を用意することで、『ガンダム』のテーマは、しっかり、絵として語られているはずなのです。
最初にテーマを提示した「絵」とは、宇宙に浮いているスペースコロニーが、地球に「落ちる」、あの壊滅的な絵です。「落下」「墜落」を最初に見せてしまった以上、ストーリー後半で、何かしらポジティブな新しい要素を出そうとしたら、それは「浮かんでいる」ものでなくてはならない。それが、謎の空間で浮かんだまま語り合う、ニュータイプ同士の邂逅シーンなのでしょう。

もちろん、「重力と無重力」については演出ミスもあるでしょうし、作画の簡略化といった現場の都合、苦しまぎれの思いつきもあるでしょう。しかし、「重力からの解放」というテーマを仮説として設定することで、『ガンダム』を読みとく視点が、ひとつ増えることは確かでしょう。


フアン・アントニオ・バヨナ監督、ギレルモ・デル・トロ総指揮のスペイン・メキシコ合作映画『永遠のこどもたち』を、レンタルで。
329774_01_04_02僕は、ギレルモ監督の『パンズ・ラビリンス』は、「エグいハッピーエンド」で終わったと解釈しているんだけど、『永遠のこどもたちも』もヘビーだけど、ハッピーエンディングだと感じた。外から見ると絶望的だけど、その内部は、まばゆいほどに祝福されている、二重構造となっている。

物ごとの「外部」と「内部」の並存を強く意識させるためには、幽霊のでてくる世界観を一度、きっちりと区画整理する必要がある。
主人公の女性が、失踪した子どもの手がかりをつかみたい一心から、霊媒師を家に招く。その怪しいシーンが、映画の「区画整理」の役割をはたす。主人公の夫は、霊など信じていないので、警察から心理捜査官を呼び、立ちあわせる。
さて、霊媒師はトランス状態に入り、彼女だけが、この家で過去に起きたことを目撃できるのだという。そのシーンは、家中にしかけられた監視カメラとマイクによって構成される。カメラとマイクを通じて記録をとっているだから、それは科学的に裏づけられた映像、「事実」のはずだ。(『REC/レック』のようなモニュメンタリーは、カメラの客観性・信憑性を利用して「事実」に揺さぶりをかける仕組みのホラー映画だ。)


それで、『永遠のこどもたち』の場合、カメラに幽霊は映らないんだけど、死んだはずの子どもたちの声を、マイクがキャッチする。それは音声波形として視覚化されるので、「やっぱり幽霊はいるのかも?」「いてもおかしくないよね?」という、どちらにも触れる評価軸が、映画に持ち込まれる。

映画はすべてセットだし、俳優が演じているので、観客が「本物」と信じきれたとき、はじめて存在意義が生じる。いまは信じられなくても、いつか信じられる日が来るかもしれない。いつ、どう関係が変化するかわからない……というスタンスで、映画に向き合いたい。
で、僕は「この映画の世界には、たしかに霊はいるのだ」と信じられたので、あの切なく美しいラストを、ハッピーエンディングと受けとることができました。

(C) Rodar y Rodar Cine y Televisión, S.L / Telecinco Cinema, S.A., 2006

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2016年4月 8日 (金)

■0408■

Febri Vol.34 明日発売予定
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●Febri Art Style
今回は特集にあわせて、『昭和元禄落語心中』の美術ボードを掲載し、美術設定・美術監督の黛 昌樹さんに、インタビューを行いました。
このコーナーは、いつも何作品か候補を出しあって、結局は交渉のしやすい作品に落ち着くのですが、自分で納得できないかぎり、記事にはしません。
『昭和元禄落語心中』は、なんとまあ、このご時世に風流で、しっとりしたアニメーションがあったものだなあ……と感心したので、取り上げさせていただきました。


インターネットは流れが速くて、先月の女子中学生拉致監禁事件も、もうそれほど話題にのぼらなくなりました。結局、僕が「?」と驚かされたのは、「オタク嫌いの女子中学生が、容疑者をワナにはめるため、わざと監禁されていたのでは?」という主旨のツイートだった。これでは、「痴漢=すべて冤罪」陰謀論と変わらない。

性犯罪事件の容疑者が若いと、「アニメ好き」であることをマスコミが強調したがるのは、社会全体に「純粋な楽しみ」「単なる快楽」としての性嗜好を、いましめる風潮が蔓延しているせいだろうと思う。
僕の年齢だと、たいていの人は結婚していて、子どもは小学生~中学生。たとえ僕と同年齢(アラフィフ)のアニメファンでも、「娘の好きな女児向けアニメのエロパロだけは、どうしても許せん」という人がいる。

アニメでもラノベでも、それらを原作にしたフィギュアの広告でも、「小学生は最高」「幼女は最高」と、あえてわざわざ露骨なセリフにすることで、世間の警戒心を煽ってしまっているのではないか……。


むろん、アニメやラノベで使われる「小学生」「幼女」は、現実の「小学生」「幼女」を指してはいないだろう。だけど、単純で分かりやすい言葉ほど、広く伝播してしまう。ようするに、使う側が「主人公の内的嗜好の文脈上の誇張表現であって、現実の児童に危害は加えませんよ」と思っていても、言葉が簡素すぎるため、あっさり「外部」へ伝わってしまうのだ。
よって、「小学生は最高」というセリフだけを聞いたとき、小学生を子どもに持つ親御さんが「オタクは怖い」「アニメを見ている連中は危ない」と警戒する可能性は、おおいにあり得る……というより、当たり前のリアクションではないだろうか。

僕はそう思ったので、せめてフィギュアの広告からは、その手の分かりやすい(伝わりやすい、誤解されやすい)セリフは、外していただいた。ようするに、クレームを入れたのです。
これ以上、フィギュアを「犯罪者の嗜好品」扱いさせないためには、社会と折り合いをつけなくてはいけない。「こちらが先に一歩譲ったのだから、今度は、そちらが譲る番ですよ」と言えるようになるためにも。

「表現の自由なんだから、オタク趣味だけ治外法権にしろ」では、かえって居場所が狭くなるのではないだろうか。表現は、つねに批判される危険性をもっている。その批判をかわしたり反論したり、先手を打ったり無効化したり……というやりとりも込みで、「自由」だと僕はイメージしている。

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2016年4月 6日 (水)

■0406■

スーパー戦隊Walker 発売中
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●プレックス 阿部統さん・小林大祐さんインタビュー
先月下旬に発売されたのですが、お手伝いしていたことを忘れていました。
インタビューをまとめただけですが、プラモデルとは異なる「子どもが安全に遊べるプロダクツ」の理念、もうひとつ、「40年間、シリーズを継続させるためのデザイン」の話は、面白いです。
「つねに斬新な試み」が求められているとは、限らない。長く商売するには、意識して同じモチーフを再利用しつつ、どんどん忘れていく。「なんだか、今度の○○は、以前の作品とまったく同じことを始めたぞ?」と気がついたとき、それは「何十年もシリーズをつづける」舵とりが始まった……と、読むべきでしょう。


レンタルで、『生きものの記録』。
201510141722002この頃の黒澤明は、『生きる』『七人の侍』でヒット・メーカーの立場を確立していたため、大がかりなセットとマルチカメラ方式を用い、潤沢な条件で撮影できたようだ。
だが、黒澤にしてはセリフに頼りすぎ、展開も煩雑だ。ラストで、三船敏郎演じる老人が精神病院に入れられる。彼の言動を見守ってきた志村喬は、精神科医と「果たして狂っているのは彼なのか、我々なのか?」といった会話をかわす。
その会話自体は陳腐なようだが、ラストカットへの布石となっている。ラストカットは、精神病院の階段を真正面から撮っている。真ん中から右側が、病室から下りる階段。画面の左側は、階段の下から伸びる廊下である。実に図形的、抽象的な構図だ。

そのシンメトリックな構図の中、志村喬が病室から出てきて、重たい足どりで画面右側の階段を下りて、左側の廊下へ、背を向けて去っていく。
一方、画面左側には、病んだ三船を見舞うためだろうか、小奇麗な娘が足早に歩いてきて、志村とすれ違う。彼女とすれ違った志村は、ふと、無言で立ち止まる……が、やはり歩き出す。娘は、階段を上がり、三船の病室へと急ぐ。
画面の右か左、どちらかが狂気へ通じる道なのだ。おそらくは、志村の帰っていく日常世界こそが狂っている。三船を見舞う娘は、実は正気の世界へと近づいているのではないだろうか? 狂気と正気の並存を一枚の絵であらわした、見事な構図、デザインだ。
こういう、「映画の機能」を端的に使った演出に出会うと、僕は「見てよかった」と思う。


今日は、駅前のギャラリーへ使用計画書を提出しに行ったのだが、僕の勘違いで、書き直すことになってしまった。市民優先とは言いながら、これから資金を集めるのだし、過去に展覧会を開いた実績もないし、条件は不利だ。
駅前のギャラリーは使用料金が安くて魅力的なんだけど、できれば自腹は切りたくない。作品の貸与をお願いした方の中には、「当然、私もお金を払います」と答えた方がいて、びっくり仰天した。なぜ、作家さんが資金的な負担までしなくては展覧会を開けないのか? どうにも、お金の流れ方がおかしい。

つい先日も、また同じ話題が繰り返されたらしい。
『アニメーター収入が低いのは娯楽だからなのでは?』←??
いやおい、待てよ。
好きなことや楽しいことを仕事にして、休みもいっぱいとって、好きな趣味や娯楽に、いっぱいお金を使うのが幸せなんじゃないの? 疲れたら休み、無理なく働いて、それでいっぱいお金を得るのが、どうして悪いことなの? 僕は、たまたま日本という国に生まれたが、生まれてこのかた、「嫌な仕事をして、低賃金で我慢します」なんて契約書にサインした覚えはない。

(C)1955 東宝

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2016年4月 3日 (日)

■0403■

レンタルで、『イングロリアス・バスターズ』。
Ib_05164_largeタランティーノは、「すごく冴えたアイデアを思いついたんだけど、思いついたのは僕だから、こうやって台無しにできるんだよね」と、手のうちを明かしたくてうずうずしている、ゲームマスターのようだ。
ひとつの映画館を使って、ナチス・ドイツの要人たちを丸ごと暗殺しようと企むこの映画では、あまりにもったいつけた展開に、ちょっとイライラさせられる。当時の映画フィルムが可燃性だったことを説明するシーンも、不必要に丁寧だ。そもそも、『ニュー・シネマ・パラダイス』のような「映画についての映画」には、常に、ぬぐいがたい気恥ずかしさが漂う。

だが、この映画のクライマックスには、ハッとさせられた。
ナチス・ドイツを壊滅させる荒唐無稽な作戦の頂点、家族の復讐をとげる女性の顔が、映画館のスクリーンに大写しになる。スクリーンは燃え上がる。燃えながら、彼女の笑い声が聞こえつづけている。「スクリーンが燃えているのに、なんで録音された笑い声だけ聞こえるわけ? おかしくない?」と一瞬、タランティーノの演出の失敗を疑りたくなる。
だが、言うまでもない。映画の音声は、映写室で再生されているのだ。スクリーンが燃えても、フィルムが燃えるわけではない。つまり、映画のボディ、本体は「フィルムと映写機」を使ったメカニズムであって、スクリーンに映しだされるのは「機械が運動した結果」にすぎないのだ。スクリーンが消滅しても、映画のボディは残りつづける。
「フィルムと映写機」は常に、永遠に、「見る人間がいるかも知れない」「いつか見られるかも知れない」状況に備えつづけている。スクリーンや液晶ディスプレイは、「見よう」という我々の意志を媒介する。

その構造、関係にたいして、僕は謙虚でありたいと思っている。


なので、「ツッコミどころ満載」といった傲慢な言い回しには、むかむかさせられる。映画というメカニズムへの敬虔さに欠ける。「ネタバレ」という言い方も、やはり好きになれない。映画には、タネも仕掛けも存在する。脚本には、ロジックがある。魔法を使っているわけではない。感覚ではなく、技術を駆使しているのだ。

娯楽の対極に位置するのが「芸術」なのではない。娯楽から弾きだされ、どこにもカテゴリー分けできなくなった、名づけようのない厄介ものを、仕方なく、とりあえず「芸術」という言葉で片付けているだけなんじゃないだろうか。「クソ」とか「無駄」に、もっとも近い言葉が「芸術」なんじゃないかって気がする。

少なくとも、僕が大好きな映画って、どれもこれも「こんなクズみたいな映画のどこが……?」って、誰かに呆気にとられる可能性をもっている。よく「低予算のスプラッタ映画とかが好きなんでしょ」と誤解されるけど、湯水のように大金をつかって大失敗した映画のほうが好き。欠点がむき出しになればなるほど、愛着が増す。
だから、僕は大好きな映画の欠点だけを、夜どおし、楽しく語りつづけることが出来る。逆も可能で、僕が公然と非難している『フォースの覚醒』を、素晴らしい名作として語ることもできる。自分の価値観なんて転倒可能というか、最悪と最良なら、ほとんどイコールだよ。おそろしいのは、自分の外に客観的な価値基準があり、世の中の誰かが「名作」を決めてくれると信じてしまうこと。心の自由を失った状態が、いちばん怖い。

(C)2009 Universal Studios. ALL RIGHTS RESERVED.

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2016年4月 1日 (金)

■0401■

ホビージャパンエクストラ 2016 Spring 発売中
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レビュー記事を4本、4ページのコラムを一本、書きました。
だけど、「僕の記事さえ読んでくれればいい」などとは言いません。ぜんぶ面白いです。枕元に置いて、ずーっと読んでいて、後半のページに「缶スプレー2本のみで、バイクのプラモを組む」「もちろん改造なんてしない」記事がカラーで載っているを発見し、そのフットワークの軽さにしびれます。
かと思うと、松本州平さんとMAX渡辺さんが飲みあってる渋い居酒屋の写真なんかがあって、「俺たちの未来は暗くないぞ」って気持ちにもさせられます。


そもそも、この本の構想を聞かされたのは、昨年の暖かいころでした。都内の居酒屋で、編集のT氏はテーブルいっぱいに山登り用品の雑誌やら、プラモデルとは一切関係ない資料ばかり、ドカッと広げた。ようするに、山登り用品を紹介した雑誌は、どんな素敵な優れたグッズであるか、どれだけ美しい製品であるか、それしか説明していない。「どうやったら上手に山に登れるようになるのか?」なんて説明がなくても、山が好きな人にとっては楽しいはず。それに相当するような雑誌が、プラモデルの世界にはないんじゃないの?
ようするに、「上手に作ろう」「細かく、丁寧に作ろう」って志向性しかない。「上手に作れないんだけど、プラモデルは好きなんだよね」「作る時間はないけど、買うだけで嬉しいよね」「箱を開けて、あれこれ考えるだけで楽しいよね」ってだけの、ライトな人たちのほうを向いていない。

T氏がそういうプレゼンをしたわけではないような気がするけど、僕は、そう受けとったんです。だって、スニーカーの雑誌を途中から開いても、そのスニーカーがいかに魅力的であるか、どんな価値があるのか、熱烈に書いてあるもの。で、実際にスニーカーを履かなくても「なるほど、スニーカーってのも面白いんだな」って、僕のような素人にも分かるもの。世界の彩りが、以前よりも、ずっと鮮やかに感じられるはず。
そういう、自分たちのフィールドの外へ届くような、自分たちのフィールドの外から文脈をもってくるような、オープンな、正直なことを為したい。雑誌という道具を使って。――僕は、そう受けとった。その夜から、僕の心の真ん中に「面白い/面白くない」の指標が、スラリと立ち現れたような気がする。その、まっさらな指標にしたがって仕事しよう、生きていこう。そう決めた夜だったんです。


その時点で、今回の「ホビージャパンエクストラ」と、根本的には変わらない企画案ができていた。実は、そこへたどりつくまで、何度も何度も、台割を書き直したんだそうです。「本当に面白いのか?」「本当に喜んでもらえるのか?」「ちゃんと世の中に必要なものになり得るか?」という真摯な問いかけの繰り返しであったと、僕は想像する。

ところが、いったん、この企画は白紙になるんです。出版社を変えて「ホビージャパンエクストラ」の特集として復活するのに、半年ぐらいかかったと思う。今年に入り、僕が打ち合わせのために再びT氏と会ったときには、もう写真も撮ってあって、最初の企画案そのままの誌面がデザインされていて――白紙にされて「無期延期」みたいに言われてたのに、へこたれずに構想どおりに作っていたわけですよ。ちゃんと若い、新しいスタッフも投入して。
「いやあ、これ作るの、大変……」と、T氏は苦笑した。「誰か、代わりにやってくんないかなー」。つまり、この本で初めて試みられているかに見えることは、実はプラモデルを好きな人たちはみんな「分かっていたこと」のはずなんです。誰にでも、模型はホメられます。言葉に落とし込んでいないだけで、誰もが模型屋の店頭で、自分の部屋で、当たり前のようにときめきを感じているはず。

だけど、その「当たり前」を、外部に向けて発信する人間がいなかった。
乱暴な言い方をすると、「プラモデルの魅力なんて、プラモデルを買って作っている人間さえ知っていればいい」「いちばん苦労して作った人が、いちばんプラモデルの魅力を知っている」――そんな幻想に、とらわれすぎていたのではないだろうか。
僕がモデグラ誌で『組まず語り症候群』を始めた当初も、「作れもしないくせに」と笑われたものだった。もちろん、エアブラシで色を塗って、時間をかけて工作しなければ、決して見えてこない世界も、価値もある。だけど「プラモって、色を塗らないとダメなんでしょ?」……それは、誤りだ。店にプラモデルが置いてある。高くて買えない。ただ、指をくわえて眺めている――その時間さえ、無駄ではないのだ。なぜ、その模型をほしいのか。どんな値打ちがあるのか、ちゃんと自分で分かっているでしょ? その豊かさをシェアしないなんて、えらい損失ですよ。


僕がライターになったのはなりゆきだし、何の専門家にもなれなかったので、「ライターにでもなるしかなかった」落ちこぼれ人間です。二軍というか補欠というか、そんな気分でいます。「絶対に、シメキリだけは守る」ってだけが取り柄の。

だけど、「プラモデルの、当たり前の楽しみ方を雑誌という形で伝えたい」真摯なオーダーには、まっさらな誠意をもって答えたい。「俺は優れた審美眼をもっているから、俺に学べ」なんて露ほども思ってない、「同じプラモを買っても、こいつはこう受けとったのか」って、差異を見つけてくれたら嬉しいです。
あるマンガで見つけた「多様性を失うと、外乱に対して弱くなる」という言葉が好きです。あなたと私が違うこと、差異を認め合うことが、文化の強さになるのです。

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