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レンタルで、『百円の恋』。職なし、男なし、ゲーム三昧で太ってしまった安藤サクラ演じる32歳の女が、ボクシングをやっている男と出会い、その男に捨てられたことがキッカケで、プロボクサーになるため奮闘する。
言うまでもなく、ストーリーラインに合わせて、本当にボクシングの練習をして、どんどんスリムになっていく安藤サクラという女優の肉体を見る映画である。
ということは、「安藤サクラが、実際にトレーニングした」情報が、映画を見るうえでは不可欠だ。その前情報が、通奏低音のように流れているから、職も男も失った安藤が試合に向かっていくクライマックスに、生々しい緊迫感が生まれる。
ドキュメンタリックな、「情報と映像が渾然一体となった安藤の肉体」を記録した映像であって、カットワークがどうした、演出がどうしたといった作品ではない。逆に、映画をカットや演出だけで見てしまうことの危険性を、このフィルムは教えてくれる。
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安藤が勤める百円ショップにかかわる脇役たちが、あまりに作り事めいていて鼻白むだろうが、「劇映画としてのトータルバランス」など、初めから期待する観客こそがバカなのだと、これまた痛切に教えてくれる作品でもある。
ボクシング・ジムのオーナーが、つねにカップヌードルをすすっているのはランニング・ジョークのつもりなのだろうが、もちろん笑えない。そもそも、カップヌードルから湯気が出ていない。数時間でまとめて撮ったことが、バレてしまっている。
だが、オーナーの横に立っているトレーナー役の松浦慎一郎。彼は、俳優でもあるが、プロのボクシング・トレーナーでもある。試合のシーンで、迫真のセリフ(おそらくは、ほとんどアドリブ)ばかり発するのは、そのためだ。
フレームの外で俳優が身につけた体験、フレームの外で鍛えられた肉体こそが主体性を発揮し、フレームの中だけでつくられたパートは、ことごとく弱々しい――そこに、劇映画の実相、構造が見え隠れする。
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ようやく、岡本喜八版の『日本のいちばん長い日』を見た。この映画の公開年に、僕は生まれた。終戦から22年目。ということは、出演者のほとんどが戦争を経験している。当時の観客も戦前、戦中生まれの人が大半だったと思う。つまり、作り手も受け手も証言者、当事者だったと言える。
喜八版では、クーデターを起こそうとした将校たちの無念の思いが、手に取るように伝わってくる。
また、阿南陸相は玉音放送と似た内容のことを、自決の場に居あわせた井田中佐らに語っている。そうすると、阿南が自決した意味にも、納得がいく。
原田眞人版には、昭和天皇の登場シーンが多く、阿南との親交も語られるが、喜八版では昭和天皇の顔は映らない。原田版は、あくまで「個人」として天皇や政治家を捉えているのであって、時代を振り返っているわけではない。
ここまで大きな決断を、もろく傷つきやすい「個人」の描写にとどめるしかなかった原田版からは、(喜八版公開からの)50年のあいだに、日本人がどう変質したのか読みとることが出来ると思う。中学や高校の社会科の教師は、玉音放送の内容なんて一度も教えてくれなかったよな……と、ふと思い出す。
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