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2016年4月26日 (火)

■0426■

モデルグラフィックス 6月号 発売中
0000000032352●組まず語り症候群
今回で、第42回。童友社の「日本の名兜」シリーズ、二種類を取り上げています。

そして、「すずさん勝手に立体化計画」、第二回も掲載しました。
今回は、作画監督の松原秀典さんの作監修正を、三枚、載せています。ただ、本文については、一ヶ月のうちに状況が二転三転したため、きわめて歯切れが悪くなってしまいました。
その反省もあり、次号も次々号も「すずさん勝手に立体化計画」を連続して掲載し、ちゃんと中身のあるものにします。

アニメ業界ウォッチング第20回:「キャラ原案」から「キャラデザイン」を起こす仕事とは? アニメーター&キャラクターデザイナー、高橋裕一インタビュー!
T640_705039アキバ総研の連載記事です。
高橋さんには、8年前の『マクロスF』の放送時、二度、インタビューしました。それ以降は、自主制作アニメ『鋼鉄のヴァンデッタ』のイベントに来てもらったり、マチ☆アソビのチャリティ・オークション用に色紙を書いていただいたり、プロ同士、まともに話す機会がありませんでした。

このコーナーは、僕の人脈か、飛び入りで取材しているんですが、やはり聞きたいテーマがなければインタビューはできないので、テーマ探しに時間がかかった感じです。
その分、ほかでは決して聞けないような、貴重なお話を聞くことができました。


日曜日は「スーパーフェスティバル」に出店し、ツイッターやブログを経由してきた方たちと、3Dスキャン・フィギュアを前に、楽しく話すことができた。

フィギュアの複製というと、シリコンで型をつくるか、PVCに置き換えて製品にするぐらいしか選択肢がなかった。どちらも、コストがかかりすぎる。3Dスキャンなら、欲しい人が1人でも2人でも、必要な分だけ出力して分けることができる。くすんだ色やザラザラした質感は、データや素材の段階でクリアできる。
そもそも、スケールモデル的な発想から解放されている人たちは、質感など気にしないのではないか(気にする人が多ければ、3Dフィギュアそのものが商売になっていないだろう)。だとしたら、塗装やデータの段階で彩度を調整するだけで、「色まで細かく塗られたキャラクター・フィギュア」が、小規模なビジネスとして成立してしまう。(というか、個人で出力品を販売している人は、すでに出現している。)


スーフェスに出店する楽しみは、一緒に店を出している友人と雑談できることだ。
この日は、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』を見ていない友人に、「来月、レンタルで出回るみたいだよ」と話していて、気がついたことがある。

『フォースの覚醒』の感想を、じかに人に聞くと「懐かしかった」「昔のままで嬉しかった」「ひさびさに映画館へ行った」という話が多かった。あの映画の革新性は、観客の既視感にアクセスすることで、『スター・ウォーズ』の「ああ、昔やってたね」「小学生のころ、親父と見にいったよ」といった思い出話、「オワコン性」を商売にしたことだろう。
なので、整合性のある設定だとか新しいメカだとか、見たこともないビジュアル・イメージは必要なかった。スクリーンに映る被写体よりも、「確か、こんな感じだった」という観客の記憶が、この映画のボディ(本体)なのだ。
「小さいころに見た映画に、大人になってから、時代が変わってから、再び出会う」体験を売ったのであって、実際にスクリーンに映される映像は、その体験を毀損することなく、温存せねばならない。
繰り返すが、「観客のおぼろげな記憶」がこのビジネスの本体であって、映画は宝箱をひらくためのカギでしかない。カギは、ぴったりとカギ穴に差し込まれねばならないのだ。


なので、「30年も経過した未来の話なのに、まだレイア姫が反乱同盟を率いて戦っている」「レイア姫と結婚したはずのハン・ソロが、また密輸業者に戻っている」ことは、実は欠点ではない。
生身の俳優が、リアルに歳をとって同じ役を演じることもまた、「オワコンだった古い映画を、現代に復活させる」アトラクションには不可欠だからだ。この映画の本体は、スクリーンの外に広がっている。観客ひとりひとりの記憶を、新しいパッケージで包みなおすことが、映画を公開する目的なのだ。キャスリーン・ケネディの、「スター・ウォーズを個人の手に戻す」という発言は、そういう意味なのだろう。

この映画の感想をネットで探すと、1978年に公開された『スター・ウォーズ』がどんなに楽しかったか、誰と見にいったのか、帰りに何を話したのか、どんな時代だったのか――を語って、『フォースの覚醒』の感想に代えている人を、ちらほら見かける。他のどんな有名な映画をリメイクしても、リバイバル上映しても、こんな感想は出てこないだろう。
『スター・ウォーズ』は、ディテールが積み込み過多なうえ、DVDやブルーレイが発売されるたびに細部がリニューアルされてしまい、「昔、映画館で見たアレ」という漠然とした記憶が「いちばん正確」という倒錯した事態に陥っている。その「昔みたアレ」を記憶、所有している層は40~70代におよぶ。その層すべてを相手にするなら、(エピソード1~3の印象が薄れはじめた)2015年前後を狙うしかない。


映画館で見ようが、レンタルDVDで見ようが、違法アップロードされた映像をPCで見ようが、僕は映画を駆動させる演出が機能している以上、「その印象は同一なはずである」と信じている。スクリーンのサイズや画質によって、印象が左右されるようなら、それは映画として未熟な証である……。

だが、「スクリーンの中に“すべて”が込められているはず」という僕の信念は、「ひさびさに映画を見にいく」体験そのものを売った『フォースの覚醒』には、通用しなかった。
なので、オープニング・テーマで「なんだか、音が重厚さに欠けるな」「楽器の編成が違うんではないか」と違和感をもった瞬間、この体験からはじき出されてしまった。
それはそれで、ウソのない正しい関係を『フォースの覚醒』と結べた、と言えるのかも知れない。

では、『スター・ウォーズ』の原体験を持たない若い人たちや「初めて見る」人たちにも好感をもたれた理由は何なのだろうか? じっくり考えたり、リサーチしたりする意義はあると思う。「映画の出来」なんてものは、この際、付加価値でしかないからだ。

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