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レンタルで、『イングロリアス・バスターズ』。
タランティーノは、「すごく冴えたアイデアを思いついたんだけど、思いついたのは僕だから、こうやって台無しにできるんだよね」と、手のうちを明かしたくてうずうずしている、ゲームマスターのようだ。
ひとつの映画館を使って、ナチス・ドイツの要人たちを丸ごと暗殺しようと企むこの映画では、あまりにもったいつけた展開に、ちょっとイライラさせられる。当時の映画フィルムが可燃性だったことを説明するシーンも、不必要に丁寧だ。そもそも、『ニュー・シネマ・パラダイス』のような「映画についての映画」には、常に、ぬぐいがたい気恥ずかしさが漂う。
だが、この映画のクライマックスには、ハッとさせられた。
ナチス・ドイツを壊滅させる荒唐無稽な作戦の頂点、家族の復讐をとげる女性の顔が、映画館のスクリーンに大写しになる。スクリーンは燃え上がる。燃えながら、彼女の笑い声が聞こえつづけている。「スクリーンが燃えているのに、なんで録音された笑い声だけ聞こえるわけ? おかしくない?」と一瞬、タランティーノの演出の失敗を疑りたくなる。
だが、言うまでもない。映画の音声は、映写室で再生されているのだ。スクリーンが燃えても、フィルムが燃えるわけではない。つまり、映画のボディ、本体は「フィルムと映写機」を使ったメカニズムであって、スクリーンに映しだされるのは「機械が運動した結果」にすぎないのだ。スクリーンが消滅しても、映画のボディは残りつづける。「フィルムと映写機」は常に、永遠に、「見る人間がいるかも知れない」「いつか見られるかも知れない」状況に備えつづけている。スクリーンや液晶ディスプレイは、「見よう」という我々の意志を媒介する。
その構造、関係にたいして、僕は謙虚でありたいと思っている。
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なので、「ツッコミどころ満載」といった傲慢な言い回しには、むかむかさせられる。映画というメカニズムへの敬虔さに欠ける。「ネタバレ」という言い方も、やはり好きになれない。映画には、タネも仕掛けも存在する。脚本には、ロジックがある。魔法を使っているわけではない。感覚ではなく、技術を駆使しているのだ。
娯楽の対極に位置するのが「芸術」なのではない。娯楽から弾きだされ、どこにもカテゴリー分けできなくなった、名づけようのない厄介ものを、仕方なく、とりあえず「芸術」という言葉で片付けているだけなんじゃないだろうか。「クソ」とか「無駄」に、もっとも近い言葉が「芸術」なんじゃないかって気がする。
少なくとも、僕が大好きな映画って、どれもこれも「こんなクズみたいな映画のどこが……?」って、誰かに呆気にとられる可能性をもっている。よく「低予算のスプラッタ映画とかが好きなんでしょ」と誤解されるけど、湯水のように大金をつかって大失敗した映画のほうが好き。欠点がむき出しになればなるほど、愛着が増す。
だから、僕は大好きな映画の欠点だけを、夜どおし、楽しく語りつづけることが出来る。逆も可能で、僕が公然と非難している『フォースの覚醒』を、素晴らしい名作として語ることもできる。自分の価値観なんて転倒可能というか、最悪と最良なら、ほとんどイコールだよ。おそろしいのは、自分の外に客観的な価値基準があり、世の中の誰かが「名作」を決めてくれると信じてしまうこと。心の自由を失った状態が、いちばん怖い。
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