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2016年3月30日 (水)

■0330■

スペースネイビーヤード: 宇宙艦船電飾模型モデリングガイド 明日発売予定
Photo
●「俺の艦長2016」
数年前に、一迅社から発行した単行本『俺の艦長』と似た体裁で……というオーダーのもと、『宇宙戦艦ヤマト2199』、『ギャラクティカ』、『クラッシャージョウ』に登場する艦長たちの人生を語りました。
『俺の艦長』は、もともと『ギャラクティカ』のアダマ艦長について書きたくて提出した企画なので、この本で実現できて嬉しかったです。

他には、各艦船の説明と各作品の解説も担当していますが、『スタートレック』だけは難しいので、岸川靖さんにお願いしました。


誕生月割引が使えるので、吉祥寺オデヲンで『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』、吉祥寺プラザで『アーロと少年』、レンタルで『ゴーン・ガール』。それぞれ面白い映画だったが、『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』について書こう。
Banksy04決して人前に姿を見せない謎のアーティスト、バンクシーがニューヨークの街角に作品を発表しつづけた、短い期間を追ったドキュメンタリー映画。
彼の作品は、無断で他人の敷地内に描かれたり、展示されるため、警察が撤去する。また、「所有権は俺にある」とお金にかえる住人たちがいる。
バンクシーが作品にこめた政治的スローガンは、きわめてシンプルなものだ。だが、犯行声明のようにネットで「ここに作品を描いたぞ」とヒントを残すことで、人々は現場で作品を見ようと右往左往する。

ところが、バンクシーが自分の作品を小さなフレームに入れて、街の露店で60ドルの値をつけて委託販売しても、買う人はわずかだ。つまり、法をおかしてゲリラ的に作品を残すのでないかぎり、人々は熱狂しない。彼の違法行為に、人々は価値を見出しているわけだ。
既存のルールの範囲内で作品を発表しているかぎり、それは「趣味」なのだ。揺るがないと信じられていた常識や道徳を踏みこえようとするとき、それは「芸術」と呼ばざるを得ないものとなる。

もう言われつくされていることかも知れないが、表現は秩序を保つための枠組みを踏破しようとする。表現は、犯罪性を内包している。法律という檻の中でおとなしく暮らしている我々を解放し、共犯者にしかねない。そのギリギリの分岐点を生じさせ、眠りこけた世の中を揺さぶることにこそ、「芸術」の価値があるのだろう。


女子中学生誘拐事件にかんして、容疑者をかばうような発言がツイッターに散見されると聞いた。まったく知らなかったので検索して調べている途中、「廣田恵介は実在児童より、フィギュアが大事」といったツイートに行き当たった。

そのツイート主は、何も知らないようだが、僕はフィギュアともアニメとも関係ない、【実在児童への性暴力写真に関する請願】()を国会に提出した。審査未了(ようするに審議見送り)となったので、文部科学大臣の馳浩議員に送ったが、返事なし。「女性議員なら理解してくれるのではないか」と、福島みずほ議員に送ったが、これも無視。
とどめは、「女性のための豊かな人生の実現を応援する情報サイト」から取材を受けたとき。請願書の内容を説明したが、どういうわけか、取材記事そのものが載らなかった。

性暴力・性虐待にあった児童から相談を受けたり、一時的に保護したりするNPOの説明会・勉強会にも、何度か足を運んだ。寄付もした。性暴力被害者に取材したルポルタージュも、たくさん読んだ。
だけど、性暴力と「フィギュア」を切り離す署名を行っただけで、これまでの僕の活動は「無」にされ、「フィギュアだけが大事な男」とされる。前述した請願書がニュースになったときも、「廣田は児童をモチーフにした表現物を自分のブログに掲載、削除された過去がある」などと、事実無根のツイートが出回った。


「お前、責任とれるのかよ」「責任とれよな」「無責任!」―‐小学生の学級会で、いちばん多く耳にしたのが、「責任」という言葉だった。僕らは、いまだに小学校の教室にいる。
堂々と手をあげて発言すれば、内容がなんであれ、こそこそと陰口をたたかれる。これでは、民意も世論もクソもない。もし、性犯罪にあった児童や女性が心配ならば、他でもない、あたな自身にできることを探すしかないんですよ。「発言しろ」「行動しろ」「なぜ発言しない」「なぜ行動しない」と、安全圏からスマホをいじくってる時間があったら。

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2016年3月29日 (火)

■0329■

昨日3月28日、「フィギュア趣味は、犯罪ではありません。」()署名を、東京都港区の愛宕警察署に届けてきました。
1,215人分の名前と郵便番号を印刷した名簿、コメントを印刷したもののニ通を「愛宕警察署御中 抗議署名」と書いた封筒に入れ、受付で「こういう意図の署名を集めたので、受け取っていただきたいのですが」と説明しました。「名刺かなにかお持ちですか?」というので、名刺を渡しました。
僕は受付で追い返されると思ったのですが、「ちょっとお待ちください」とソファに座るように言われ、数分後、まだ20代ぐらいの若い署員が受付に現れました。


その署員の方に、5階にある小さな部屋へ通されました。ドアは開けっ放しなので、抑圧的な雰囲気ではありません。
その署員の方に所属を聞くと、「生活安全課」とのこと(仮にAさんと呼びます)。Aさんは、事件の担当者ではありません。というか、どういう事件なのか知らない様子でしたので、NAVERまとめ()をプリントしたものを見せながら、ザッと説明しました。このまとめの最後のほうに、山田太郎議員と警視庁生活安全課とのやりとりが、簡単に書かれています。それを読んで、僕が何を言いに来たのか、Aさんも漠然と理解できたようでした。

Aさんは先ほどから「事件の担当者」に電話したり、探しに出たりしているのですが、なかなか担当者本人は現れません。


担当者を待っている時間、Aさんの質問に答えているうち、だんだん雑談のようになってきました。僕が模型雑誌に書いていること、趣味でフィギュアを作っていること。児童への性暴力写真について、国会に請願書を提出したこと()。
「僕も自分の顔写真を勝手に撮られたら、それは見てほしくないですね」と、Aさん。彼の後ろの壁には、女の子が泣いている写真(顔は見えない)のポスターが貼ってありました。「ネットに一度掲載された児童ポルノを、完全に消し去ることは困難です。永遠に残る性的搾取・性的虐待の記録が、被害児童の心を将来に渡って、傷つけることになります」と書かれています(時間があったので、メモしてきました)。このポスターの最下部には「愛宕警察署」と印刷されていたので、愛宕署が独自に作ったものではないでしょうか。「ここまで法の趣旨を分かっているのに、なぜフィギュアなんて持ち出したんだ?」と、やはり疑問が去りません。

あまりにも担当者が遅いので、Aさんは「どういうフィギュアを作るんですか? 僕の知っているようなものはあるかな」と聞いてきました。完全に雑談です。「イベントなどでは、確かにエッチなフィギュアも売られています。だけど、18歳未満は入れないよう、ちゃんと区分けしてあるんですよ」「そういうフィギュアを職業にしている人もいるし、それを買って室内で楽しむ分には、何の犯罪性もないですよね?」と言うと、Aさんは「もちろん、個人の自由ですね。僕はガンダムが好きですけど、確かに押収品にガンプラが並べてあったら、怒ると思います」と、納得した様子です。
そんなこんなで、もう30分ほども経過しました。


やはり、担当者が姿を見せないので、Aさんは「上司にちゃんと渡しますので、廣田さんの言いたいことを、もういちど聞かせてください」と、ノートにメモをとりはじめました。
フィギュアは児童買春・ポルノ規制法の対象ではないので、仮に容疑者から押収したとしても、テレビに映すと誤解を招く。フィギュアを趣味にしている人、仕事にしている一般の人が犯罪者のように見られる可能性がある。今後、そこに留意してほしい。声に出して確認してらしたので、Aさんは誠意ある対応をしてくれたと思います。

ただ、事件の担当者が姿を見せなかったのは、正直、不満です。署外に出ていたのかとも思いましたが、面倒だから来なかっただけじゃないか?と、疑ってしまいます。
押収品については、山田太郎議員が3月4日の予算委員会で、法務大臣と警察庁生活安全局長、国家公安委員長に質問しています( ニ次元規制問題の備忘録さん)。
だけど、僕は「国会議員におまかせ」だけで、風通しのよい世の中になるとは思いません。実際にフィギュアを趣味にしている当事者が、その趣味をないがしろにした組織に抗議に行くのは、当たり前のことです。「誰かが調整してくれ、ただし、自分の要求を通すように」――という他人まかせの態度そのものが、言いたいことを自分の声でいえない、苦しいのに「苦しい」と訴えられない、息苦しい世の中をつくっているのではないでしょうか。

すじを通し、礼儀を守り、会いたい人に会う。好きなものを好きでいつづけるため、心の自由を保つため、必要なことだと思います。

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2016年3月27日 (日)

■0327■

アニメ業界ウォッチング第19回:ガンダムからジブリ作品まで、声優の演技を裏で支える音響監督、木村絵理子インタビュー!
T640_703116以前から、ずーっと気になっていた方です。とくにコネやツテもないので、東北新社さんにメールしたところ、広報の方が取材の段取りをつけてくださいました。

自分の気になっている方に、ストレートに会いにいく。駆け引きがなく、すがすがしい体験です。


署名キャンペーン、「フィギュア趣味は、犯罪ではありません。」()、受け付け終了しました。最後の最後で伸びて、目標人数をうわまわる全1,215人。

これまで表現規制に反対してきた方だけではなく、模型やドールを趣味にしている方が、たくさん加わってくれました。ザッと署名簿に目をとおすと、女性がとても多いです。「フィギュアなんか集めてるのは、モテないオタク男だけだろう」、それは時代錯誤な勘違いです。
たくさんの賛同をいただきましたが、ここから先、警察署までの道のりは一人です。


レンタルで、ホラーコメディ『ファイナル・ガールズ 惨劇のシナリオ』と、黒澤明『虎の尾を踏む男達』。
Original『虎の尾を~』は、大学の講義で見たが、誰もが「黒澤映画なのに面白くない、難解だ」と首をひねっていた。僕も当時は難しい映画だと思っていたのだが、歌舞伎をベースにしたセリフ回しに気をとられたせいだろう。今回はバッチリ、緊張感も笑いも味わえ、たいへん充実した時間をすごせた。
『一番美しく』もそうだったが、「個」対「群」とも言うべき構図が、メリハリを生む。山伏に化けた源義経たち一行が、関所を通り抜けようとする。が、あともう少し……というところで、敵に呼び止められる。その瞬間、一行を囲んでいた兵たちが、いっせいに槍をかまえる。パッ!と扇を広げたような鮮やかさ。もう、絵のように素晴らしい。荒々しく、美しい。

弁慶が、白紙の巻物をもっともらしく広げて、暗記で「勧進帳」を読みあげるフリをする。
そのシーンは非常に長いのだが、いらだって刀を抜こうとする敵、ハラハラして気が気ではない強力(エノケンが演じている)のアップだけで、丁寧にカットを重ねていく。役者の目線と細かなカットワークのみで、熾烈な「アクション」が生じる。どういうわけか、震えるぐらい感動する。涙すら浮かんでくる。

黒澤明の映画には、映画を映画たらしめる、屈強な原動力がある。エンジンがむき出し、という感じだ。だから、見ていて安心する。堂々としたつくり方を見ていると、心の芯から勇気がわいてくる。


いま、考えられないような理不尽な事態に見舞われている。
昨年の秋、僕の仕事上の盟友ともいうべき男が、やはり「そんなことあり得るのか?」というぐらい、ひどい目にあわされた。誠実さで仕事をやり抜こうとすると、組織をバックにした狡猾な連中に、必ず、間違いなく足をすくわれる。「さあどうぞ、背中から切ってください」と鷹揚に構えていると、本当に背中からバッサリやられる。「そこまで卑怯で、よく恥ずかしくないな!」と、こちらは唖然としてしまう。

昨夜は、あまりのことに酒を飲んで眠り、体を壊してしまった。
誠実なだけでは、仕事はできない。「大人の事情」というのは、ようするに「子供のわがまま」。相手は組織や肩書きをタテにして、正面衝突を避けようとする。これでは、正々堂々とふるまった側の負けではないか。

(C)1945 東宝

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2016年3月25日 (金)

■0325■

月刊モデルグラフィックス 5月号 発売中
Centiiexiaaglmp
●組まず語り症候群 第41夜
今月は、担当編集さんが入手した、「きかんしゃトーマス」のプラモデルです。といっても、大井川鉄道で実際に走っているトーマスのキットなので、スケールモデルです。

先月から始まった「すずさん勝手に立体化計画」はお休みですが、無理して「次号予告」画像を、小さく掲載させてもらいました。
ですが、驚いたことがあります。読者の方が、すずさんがガンプラを作っているイラストを、読者コーナーに投稿してくださったのです。連載をはじめた甲斐があったし、月刊誌ならでは、趣味の雑誌ならではの楽しみが、そのイラスト一枚に凝縮されている感じがしました。


フィギュア趣味は、犯罪ではありません。
今朝、賛同者が900人をこえました。1,000人を目標に続けたいと思います。まだ署名なさっていない方、よろしくお願いいたします。
(2年前のGMOメディアへの抗議署名は、4日で1,000人を集められましたが、今回は無理でした。)

日本のフィギュア文化は、評論も研究もなされていません。そのために社会的地位が低く、「なんかエッチな、一部の変わり者の趣味」と見なされ、さらしものにされてしまうのでしょう。
警察は、「人形を集めるオタクどもを犯罪者に仕立ててやろう」などとは、おそらく考えておらず、僕も警察に殴りこみに行くつもりはありません。郵送では、署名簿がゴミ箱に投げすてられる可能性が高いので、直接、手渡ししたい。そのとき初めて、先方のスタンスも分かるのではないでしょうか。

これは権利とか自由とか以前の、コミュニケーションの問題です。
面倒だけど、ひとつひとつ、レンガを積み上げるようにアピールしていかないと、いつまでたっても、フィギュアは「変わり者のオモチャ」のままでしょう。(身内のイベントで何万人あつめようと、「外部」と会話が成立しないようでは、未来は暗いと思います。)


2015年国内アニメ映像ソフト市場728億円 アニメファン向けは6.9%減、491億円
「アニメ!アニメ!ビズ」の、数土直志さんの冷静な分析。

これだから、メーカーさんがパブリシティ的に組む取材には、どこか空しいものを感じます。しかも、完成原稿をメーカーさんがチェックして修正するようでは、たんなる予定調和です。
僕はむしろ、制作現場の机の上から噴出してくるエネルギーに接していたいのです。アニメーターさんや演出家さん、プロデューサーや制作さんの内側から発せられる創作欲、これは数値には換算できません。だから、自分の目と耳を信じて、伝えられるだけ伝えたいのです。

また、僕もすべてを分かっているわけではなく、知らないことがあるから取材したいのです。はじめから「こういう感じで」とゴールを決めてしまっては、取材になりません。
取材にかぎらず、どんな文章だって「書いているうちに発見される」ものです。いま、ひさびさに単行本を書いていますが、結論は決めていません。書いてみないと、分からないからです。
この歳になったので、せめて正直でありたいと願っています。

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2016年3月22日 (火)

■0322■

ホビー業界インサイド第9回:フィギュア教室を開催して学んだ、本当に楽しい造形とは? フィギュア原型師 大西孝治、インタビュー!
T640_702690ヘビーゲイジの大西孝治さんのフィギュア教室にうかがい、インタビューしてきました。
生徒さんの大半は、女性とのこと。この連載を始めてから、いくどとなく耳にしてきたのが、「フィギュアは男性だけの趣味ではない」「男性も男性キャラクターのフィギュアを作ったり買ったりする」という現場からの声です。ガンプラを作る女性も、大勢いらっしゃいます。解放された、自由な世界だと感じます。


フィギュア趣味は、犯罪ではありません。
署名継続中です。まだ署名していない方は、ぜひお願いします。

ひさびさに署名キャンペーンを行いながら、いろいろ考えています。

“自衛隊の演習で相手を撹乱するためによく使ったテクニックに「存在しないものに名前をつける」ってのがある。名前がある=存在する。これをうまく相手に誤認識させる。草食系男子なんてのは5年前には存在しなかった”(
「存在しないものに名前をつける」ことで、誤認識させる。「児童ポルノ」という言葉は、「群盲象を評す」の状態に陥っていて、それぞれが「とにかくアウトなもの」「とにかく最悪にワイセツなもの」を、好き勝手にイメージして、互いに確認しあわず「アレは絶対に無くさないとダメ」と言い合っているだけになってやしないか。

CG児童ポルノ裁判にしたって、問題にされているのは、ようはイラストです。イラストを「CG児童ポルノ」と名づけることで、何か特殊な、今まで存在しなかったものが出現したかのようにイメージしてしまう。
特定の写真そっくりに描いたことが問題であるなら、なぜ元の写真を撮ったカメラマンは追及されないのか? 少女のヌードがいけないなら、実在の少女をモデルにして制作された、西洋の絵画や彫刻も禁ずる必要があるのでは? 「存在しないものに名前をつける」ことで、際限なく問題が増えつづけていく。非建設的な状況だと思います。
■■
レンタルで、黒澤明『いちばん美しく』、テレンス・マリック監督『ツリー・オブ・ライフ』。
1dcb4cf77284a34735f563200e401a81黒澤の映画は、あいかわらず歯車のように機能的だ。それに対して、『ツリー・オブ・ライフ』は有機的。散文詩のように茫洋としていて、ひとつの家族の物語がいくえにも瓦解し、自然や宇宙、太古や未来の地球へと融解していく(SFXスーパーバイザーは、あのダグラス・トランブルだという)。
そういえば、地球の終わりだとか、自分の生まれる前の事象に関心を持っていたのは、幼稚園ごろだった。あの頃の、幼稚であるかゆえに際限なく広がるイメージを無邪気に映像化したような作品。

『ツリー・オブ・ライフ』の根底には、「映像で見せられないものなんかない」全能感が横たわっている。だけど、映像を見るには、最低限度の電力がいる。映写機にかけられない、物体としてのフィルムは「映画」ではない。そして、電力によって駆動される映画、フィルムの流動は、「現象」でしかない。映画は「イメージ」「印象」「記憶」としてしか、語りえない。
しかし、YouTubeなど動画サイトの出現で、映像の常識は侵食されつつある。
 
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2016年3月20日 (日)

愛宕警察署への公開質問状

児童ポルノ所持容疑の会社員・書類送検のニュースで、本件と全く関係ないアニメのフィギュアをパソコンの横に並べるという悪質な印象操作が行われる
すでに一ヶ月前のニュースであり、NHKオンラインから当該記事も削除されていましたので、上記ブログ(「アニメ・漫画規制問題のことや関連する政治、憲法改正問題など」さん)のリンクを、貼らせていただきました。

私は2月16日にNHKに問い合わせを行い、本件の取材場所が愛宕警察署であることを知りました。2月18日、愛宕署に対する公開質問状を作成し、内容証明郵便で、同署に郵送しました。以下、質問状の全文です。

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平成28年2月18日
公開質問状
平成28年2月16日放送のNHKニュースで、愛知県田原市の男性が児童ポルノ規制法違反の疑いで書類送検されました。
NHKのニュース画像には、男性の所持していたと思しきフィギュア(人形)が数個、パソコンなどの押収物の隣に映っておりました。
この件に関して、質問があります。
・質問1
児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律(以下、児童ポルノ規制法と略します)の第二条二項には、「児童ポルノ」の定義が記されています。同法における「児童」はフィギュアなどの無機物ではなく、十八歳に満たない人間の子供を指すのではありませんか?
・質問2
愛知県田原市の男性が児童ポルノ規制法違反で書類送検された際、マスコミに向けてフィギュア数個を公開した意図は何ですか?
・質問3
そもそも、児童ポルノ規制法と無機物(フィギュア)とは、法的にどのような関係があるのでしょうか?
・質問4
児童ポルノ規制法違反を伝える際、同法とは無関係の無機物(フィギュアなど)を同時に公開することで「児童ポルノ規制法は(児童への性暴力画像だけでなく)フィギュア所持を禁ずる法律である」との誤解を招くことになるとは考えませんでしたか?
以上、すべて文書にて、3月18日までにお答えください。また、回答は一字一句変えずインターネット上で公開させて頂きます。
何卒よろしくお願いいたします。
〒181
東京都三鷹市(略)
               廣田恵介
東京都港区新橋6丁目18−12
愛宕警察署 御中
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期限の3月18日までに、回答は送られてきませんでした。
この質問状を内容証明で送ったことには、「一市民が怒っている」ことを示す意味がこめられていました。しかし警察は文書による回答を嫌がりますし、私ひとりの「怒り」など、無視されて当然です。

フィギュア文化、フィギュアを作る・集める趣味は、おそらく警察に、もっと言うと、社会一般にも認められていないのでしょう。だから、こうして晒しものに使われてしまうのだと思います。
本件につきましては、山田太郎国会議員が、今月4日の予算委員会で、法務大臣ならびに国家公安委員長に質問なさっています( 「二次元規制問題の備忘録」さんより)。 

しかし、フィギュアを職業にしている、フィギュアを愛好している当事者たちが抗議の声をあげていない。これは恥ずべきことだと思います。文化としての強度が弱いことの表われです。「フィギュアを作ったり買ったりすることは、犯罪行為とは関係がない」と、警察にしっかりと伝えるべきだと思います。
よって、ひさびさに抗議署名を集めることにしました。「フィギュア趣味は、犯罪ではありません。」()。何卒、ご協力のほど、よろしくお願いいたします。

ここで黙ってしまったら、これから何度も、フィギュアは犯罪とかかわりがあるかのような報道がなされ、社会的立場が脅かされるでしょう。つまり、表現規制したい団体や議員から、「フィギュアなら反発も少ないし、攻撃しやすそうだ」とマークされやすくなります。
皆様のご協力を、お願いいたします。

参考■「フィギュアは、児童ポルノではありません。」() 

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2016年3月19日 (土)

■0319■

吉祥寺オデヲンで(誕生月割引が使えるので)、まったく予備知識なしで『マネー・ショート 華麗なる大逆転』。帰宅してから、レンタルで借りてあった『セッション』。
M0000000765_large先に、『セッション』のことから書こう。この映画には、打ちのめされた。人種差別も辞さない口の悪さで、音楽教師がジャズ・ドラマー志望の青年をしごき上げていく。青年は、たったひとつの復讐として、教師の鼻を明かすように、ステージの上でドラムを叩きつづける。交通事故に遭おうが、指から血が噴きだそうが、とにかくドラムを叩くのをやめない。

家族愛や恋愛も出てくるが、この映画の主体は、シズル感あふれる映像、リズミカルなカットワークだ。画面に釘づけになる。どうやって撮影したのか、シンバルの上で跳ねる汗まで撮っている。ドラムを叩くというアクションだけが、映画を支配していく。
思わず身を乗り出す映画だが、この驚きには見覚えがある。この面白さは、「すでに知っている」。何かに似ているとか、パクリだとか言うわけではない。どうして面白いのか、最後まで息もつけないほど引きつけられるのか、自分で分かってしまっている。


そういう点では、『マネー・ショート 華麗なる大逆転』。これは、得たいの知れない映画だった。
Subsub1_largeまず、僕には、経済や金融の知識がない。リーマン・ショックの舞台裏を描いた映画だそうだが、この映画のセリフの99パーセントは、専門用語で占められている。僕には、主人公が何の仕事をしているのかさえ、最後まで分からなかった。
案の定、途中で席を立つ観客がいる。僕も、何度も帰ろうかと思った。

だが、途中から字幕を追うのをやめると、この映画独特の質感が立ち上がってくる。形勢が変わるシーンでは、セミナーに集まった聴衆が、次々と携帯電話を手にとるカットがインサートされ、少しずつ、カット割りが早くなっていく。人々が去り、閑散としたオフィスを、主人公たちが歩く。「誰もいなくなってしまった」ことを強調するシーンだが、カメラが引くと、2人ほどがデスクに座って後片づけをしている。そのリアリティ。空気感。
セリフを無視すると、やはり、最後まで席を立たせない「面白さ」が残る。ただ、何が面白いのか説明しきれない。登場人物が何者で、何を話しているのかは、やはり最後まで分からない。それは重要ではない。僕にとっては。

自分が何に魅了されているのか、何に翻弄されているのか、なぜ退屈で、なぜ戸惑っているのか。僕はつねに、未知の驚きと接していたい。分かりきった、安心できる面白さに甘えてもいい。しかし、未踏の領域があること、「自分には分からないこと」を知っていないと、人間は腐る。


「事件に関係のないフィギュアを押収物としてテレビに晒すのはいかがなものか」―山田太郎議員が予算委員会で国家公安委員長に問う

児童ポルノ規制法違反にかこつけて、なぜか市販のフィギュア商品が押収・公開された件。NHKから「ご指摘のニュース映像は愛宕警察署で取材したものです。人形を並べた意図については、愛宕警察署にお尋ねください」との回答を得ていたので、内容証明郵便にて、18日までに回答してもらうよう、愛宕署に質問状を送付していました。
ところが、昨日18日時点で、回答は届きませんでした。次の段階として、同署に抗議文を渡すことにしました。質問状と抗議文については、2~3日中に、このブログで発表します。

思えば、二年前にも、似たような抗議署名を行いました()。
しかし、フィギュアを児童ポルノ規制法とからめる厄介な人たちは「表現の自由を侵害している」のではなく、「児童の権利擁護に関心がない」のでしょう。

性暴力、性虐待を起こさせない社会を実現できれば、そもそも「児童ポルノ」「性虐待記録物」という概念すら、不要になるはずです。
やはり、人権に対して鈍感かつ実行力にとぼしい人々が、法律をつくる、法解釈を広げて、何でも取り締まり対象にする――という、だらしない状況を招いているんだと思います。
(「保育園落ちた」ブログに関して、国会でヤジを飛ばした平沢勝栄議員も、「児童ポルノ規制法でマンガを罰するべき」と主張していましたからね。元警察官僚がこんな意識で、本当にこの国、大丈夫なのかと不安になってしまいますね。)

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2016年3月14日 (月)

■0314■

【懐かしアニメ回顧録第16回】なぜ、「ゼーガペイン」は第6話からが面白いのか? ボイスオーバーによる異化効果()
アキバ総研に書いた、連載記事です。肩に力が入りすぎて、「なぜ面白いのか」説得力が出ませんでした。
「ボイスオーバー」と「異化効果」の使い方は、正確ではありません。だけど、あの演出を言語で表そうとしたら、候補にあがる用語のはずです。
最近、映像作品の評価が「泣けるか」「王道か」「見てスッキリするか」といった反射的な印象のみに陥っている気がします。「泣けるドラマだとしたら、どのような方法を用いて泣かせているのか」テキストで解析する試みを、今後も追求したいと考えています。

「運動が嫌い」と思っている人は実は「学校の体育教育が嫌い」なだけかも?共感の声が多数集まるTL(
この認識、もっと世間に広がってほしい。特に全国の体育教師たちには、自分が子供の人権を蹂躙できる立場にいることを、しっかり自覚してほしい。
僕は、人生のありとあらゆるマイナス面を、体育教師から教わったからね。小学校低学年のとき、はじめての水泳の授業に、家にあった黄色い海水パンツをはいていった。何も学校指定のものでなくとも良いはずなんだけど、体育教師に「おい、そこの黄色パンツ!」と、あざけるように呼ばれたことは忘れない(差別はいつでも、個人の名前を剥奪することから始まる)。
水泳キャップに、上達したことを示すための黒いラインを縫わせられるのも、屈辱だった。水泳のできる子は、たくさんラインを付けている。僕らは、一本か二本だけ。そのラインの数だけ見て、「お前らはこっちだ」と、教師がより分けるわけだ。僕らは、タグをつけられた家畜同然だった。水泳のできない子たちは狭いエリアに区分けされ、えんえんとバタ足の自習をさせられ、教師はできる子たちだけを直接指導する。

最悪なのは、同級生たちが「体育のできないヤツは、どれだけバカにしてもいい」という価値観を、教師から学んでしまうことだ。健全なはずの体育の授業から、陰湿なスクールカーストが形成されていく。


学校というのは、奴隷生産工場だった。いま苦しい子たちは、学校なんてサボっていい。中学になると、僕は水泳の授業はすべてサボった。水泳大会も、もちろん無断欠席した。体育教師に呼び出されて、「苦手なことから逃げてばかりでは、ダメな人間になるぞ」と説教されたが、僕は自分に正義があると分かっていたから、うわの空だった。
授業をサボったところで、明日から住む家がなくなるわけじゃない。体育の成績が「1」なのは歴然としているのだから、体育の時間こそ、自由を謳歌すべきなのだ。安心してサボっていい。

【自殺対策強化月間】サボローが『サボったらできること』を教えてくれたぞwww(
では、「本物の」内閣府の自殺対策強化月間ポスターがどれほどヒドイのかというと、基本的に「ひとりで悩んでないで、周囲に相談して」「あなたからの相談を待っている人がいます」という論調。いやだから、ひとりにさせてくれない、お前らの社会が怖いんだって。
孤独や逃避を尊重してくれるのが、「自由な社会」だろうに。

「サボってはいけない」「自分ひとりだけ、楽をしてはいけない」と追いこまれた人間ほど、他人に不寛容で、抑圧的になるような気がする。

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2016年3月12日 (土)

■0312■

レンタルで、『悪の法則』。タイトルも確かめず、なんとなく手に取ったのだが、リドリー・スコットの監督作だった。
Df04241_large見たことを後悔させられる映画。ほぼラスト近く、徹底的に追いつめられた主人公が告げられるように、僕らは常に分岐点に立たされている。僕が見ようと見まいと、この映画は以前からあったし、これからもあり続ける。僕が完全に忘れ去っても、この映画が消え去るわけではない。誰かが、かならずどこかで見ている。
明け方、悪夢にうなされるぐらい、ちょっとイヤな映画だ。

猟奇的なシーンが多いので、その手の映像がキライな人は要注意だが、本当に見たくない映像は、実はセリフで語られるだけで、実際には出てこない。が、どれほど見たくない映像なのか、いやでも想像させられる仕組みになっている。考えうるかぎりの最悪を、いやでも考えさせられる。想像力という名の筋肉をきたえるためには、こういう経験も必要なのだろう。


リドリー・スコットは、やはり境界を越えていく人なのだと思う。この映画では、麻薬カルテルに狙われた主人公が、メキシコの小さな町へ逃走する。そこでは、言葉は通じない。そもそも主人公は、そこがどこにある町なのかも知らない。
ようするに、『エイリアン』のように、人間とは違うルールで閉じられた世界へ、足を踏み入れてしまう。物理的な越境というより、異質なルールの中へ組み入れられてしまうわけだ。その怖れと恍惚を描き出そうとするとき、リドリー・スコットという人は、真骨頂を発揮する。

麻薬カルテルが、麻薬の運搬に使われるトラックを偽装するシーンが出てくる。銃撃戦で空いた弾痕をふさぎ、塗装しなおす。そのようにして別のトラックへ生まれ変わった、異世界へ踏みこんだトラックが、また別の麻薬取引に使われる。
トラックの中には、麻薬を運ぶついでに、ドラム缶に詰められた死体も積まれている。運転手が、「このまま国境をこえて、またトラックが偽装されて、えんえんと死体が世界を廻りつづけるのかも知れない」と話す。つまり、違うルールの間をぐるぐると廻りつづける。仏教の無間地獄には、何億、何兆、何京といった気の遠くなるような時間の単位が高層ビルのように積み重ねられているが、その果てしのない恍惚感に似ている。


「恍惚」と書いたが、あまりに限りない絶望と恐怖は、ある種の、美しさをまとうような気がする。いや、あまりに酷すぎるので、もはや「美しい」ぐらいしか表現のしようがない。「美しい」とでも呼ばねば救われない、そういう世界、精神の領域があるのではないだろうか。

「映画=作りごと」とは、僕は考えない。作りごとだから、人間が作ったからこそ、真実が宿ってしまう。この映画の中の最悪は、スナッフ・フィルムの制作過程に触れるシーンだ。その単語の意味を知ったら最後、もはや無関係ではいられない。
この映画を見終えたところで、この映画から想像させられたイメージだけは、僕の頭の中に残留する。何回トラックを偽装しようとも、そのトラックについた傷が消滅するわけではないのだ。国境をめぐりつづける死体のように、僕は映画を見てきた。これからも見ていく。


今夜金曜ロードSHOW「スター・ウォーズ」ってエピソード4から始まるってなにそれみんな知ってるの?(
今夜金曜ロードSHOW「スター・ウォーズ」エピソード4の次に1を観たらこんな感想になりました(

たきりょうこさんによる、イラスト入りのレビュー記事。どちらも、すばらしい考察。エピソード4とエピソード1の比較イラストにも膝を打ったが、以下は、エピソード4を見た感想からの引用。

“レイア姫が拘束された後、開き直って設計図を交渉材料にせず「盗んでない」と無理のあるシラを切り通したのは
盗みがバレたら元老院に怒られるからだと思われます。

中盤で帝国軍は惑星一つを消し飛ばす強攻策を取りますが、この時点では元老院は解散して力を失っています。
元老院を解散させたのは帝国軍側の皇帝なので、さっさとやっとけよって感じですが
帝国軍の中には「独裁したいけど国民の支持も欲しい派」と「めんどくさいから武力で恐怖政治しよう派」がいて
帝国軍内の足の引っ張り合いから、元老院解散が遅れたようです。

レイア姫は盗んだ設計図をデータとして送信しちゃえば良さそうなものですが、
通信網は全て帝国軍側に検閲されてて、相手側に届く前に握りつぶされると考えれば納得できます。”

とてもよく見ている。エピソード4を見直したら、確かにレイア姫は、元老院の中で反乱同盟支持派が増えることを期待している。デススターの建造と破壊の裏には、ちゃんと政治的駆け引きがあったのです。その工夫を「細かいことはいいから、スカッとしようぜ」と切り捨てるような人間には、僕はなりたくないです。

(C)2013 Twentieth Century Fox.

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2016年3月 8日 (火)

■0308■

レンタルで、『酔いどれ天使』。たしか、大学の授業で見たような気がするが、今回のほうが印象は強烈だった。
Drunkenangesplsh志村喬演じる町医者のもとへ、結核をわずらったヤクザ(三船敏郎)が転がり込んでくる。2人は悪態をつき合いながらも、互いに愛着を増していく。
あいかわらず、シーンの展開もカッティングも、ソリッドに組み上げられている。小道具やセットを使った象徴的な演出が無数に散りばめられ、とても野心的だ。
僕は映画のラストシーンは、わりと重要とは思っていないのだが、この映画のラストシーンには泣かされた。三船は、結核の治らぬまま志村の医院を抜けだす。そして、兄貴分のヤクザのもとへ殴りこみをかけ、無駄死にしてしまう(その取っ組み合いの最中、白いペンキをこぼし、三船は真っ白な姿となって絶命する)。

一方、志村は三船の死を知らずに、市場で玉子を買う。三船に飲ませるためである。
影になった道を、志村が歩いてくる。道が暗いのと、志村のコートが黒いせいもあり、彼の両手に握られた玉子は、まぶしいほど白く輝いている。
その「白さ」が、白いペンキにまみれた三船の亡骸と、呼応して見えなくもない。うがちすぎかも知れないが、玉子に露出をあわせて「白さ」を強調しているのは、間違いない。


では、三船が生きていると思って玉子を買って帰ってきた志村は、どこで彼の死を知るのだろう? 次のシーンで、三船に惚れていた千石規子が、しょんぼり立っている。その傍らには、三船のお骨が置いてある。そこへ志村がやってきて、悪態をつく。「みんな、あのろくでなしのお陰さ!」「先生。仏の悪口はやめてよ」。
この短いやりとりで、すでに志村は三船の死を知っていて、そのために苛立っていることが分かる。状況説明は、千石の役目だ。志村は、ひたすら憤る役で、「あの野郎が、許せないんだよ」と険しい顔で唸る。

さて、言葉をなくした2人が、ドブ沼を前に、肩を落として座っている――と、「先生!」 元気な声がして、三船と同じように結核をわずらっていた女生徒が、遠くから制服姿で走ってくる。これを、ワンカットで撮っている。ワンカットの中に、無駄死にと、かがやかしい生とが同居している。

カットが切り替わり、志村は女生徒(久我美子)に「走っちゃいかん」と注意するのだが、女生徒は全快している。「はい、卒業証書」と笑いながら、レントゲン写真を志村に差し出す。
志村がレントゲン写真を見ている間、久我は千石に微笑みかける。が、千石は笑いかえす気力もなく、気まずそうに顔をそむける。ここは、アップの切り返しだ。この切り返しが端的で、美しい。
次のカットが、またすごい。志村はレントゲン写真を見ているので、背中を向けている。千石は冴えない顔で、こちらに顔を見せている――その手前には、三船の遺骨。何の事情も知らない久我は、千石のほうを怪訝そうに見ている。志村を中心に、生と死、過去と未来がワンカット内に配置されているのだ。


でねえ、このカットは長回しなの。その三人の構図のまま、久我は「全快したら、あんみつをおごってもらう」約束を、志村に果たさせようと、また笑顔になる。志村は振り返り、「お前も来ないか」と、千石を誘う。
千石がそれを断ると、「そうか。じゃあ、達者でな」と、志村はフレームから出ていく。久我は、複雑な笑顔で、千石に頭をさげ、志村のあとを追い、フレームから出ていく。フレームに一人残された千石。立ち尽くした彼女の姿を、カメラは5秒間も撮りつづける。その5秒は、残酷なまでに長い。

次のカット。あんみつ屋へ向かうため、志村と腕をくむ久我。しかし、まだ三船の死をひきずっている志村は「人間にいちばん必要な薬は、理性なんだよ」と怒鳴る。その言葉に、ちょっとだけ脅える久我。志村は気まずさをとりつくろうため、今度は自分で久我の手をとって、歌いながら歩きだす――と、人目を気にした久我が、「先生」と困ったように注意する。「はっはっは!」と快活に笑う志村。ここまで、ワンカット。必要でないかぎり、カットを割らない。

仲良く歩き出した2人は、人ごみの中へ消えていく。そのにぎやかな雑踏に、もはや死は感じられない。だが、誰もが死を抱えて生きている。いい映画は、ハッピーエンドともバッドエンドともつかない終わり方をするものだ。
この映画がつくられたのは、1948年だ。68年も昔の映画なのだ。はたして今から68年後の未来、誰もが自由に手にとって見られる映画は、何本残っているだろうか。

幸い、近所のTSUTAYAには、黒澤明コーナーがある。だが、DVDに収録された映像は、特に音質が悪くて、ところどころセリフが聞きとれない。日本語字幕がついているので、セリフを確認することができた。
その字幕だって、誰かが「字幕のあった方が、多くの人に見てもらえる」と判断して、わざわざ入れたはずだ。当事者以外の誰かが、確実にバトンを渡していかなければ、映画も文化も、どこかで途切れてしまう。

(C)1948 - Toho

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2016年3月 6日 (日)

■0306■

映画の地上波放送は滅多に見ないのだが、昨夜は『パシフィック・リム』をフジテレビで。
Final_four_jaegersownapieceofajaege2013年の公開時には試写会で見て、「オトナアニメ」に見開きでレビュー記事を書いた。「日本のロボットアニメがどれぐらい引用されているのか、そこに着目して書いてほしい」といったオーダーがあり、ジプシー・デンジャーのソードは『機甲界ガリアン』のジャラジャラ剣そっくりであるとか、今となっては、どうでもいい話を書いたと思う。

ギレルモ・デル・トロ監督といえば、『パンズ・ラビリンス』の印象があまりに強烈で、ヨーロッパを拠点に活動する、芸術家気質の監督だと勝手に思い込んでいた。『パンズ・ラビリンス』は、ピーター・ジャクソン監督の『乙女の祈り』のように甘美で暗鬱で、湿気に満ちた深い洞穴のような映画だった。

『パシフィック・リム』の公開時、ギレルモ監督は今の僕と同じ年齢だった。
昨夜の僕は、ここ数ヶ月で、もっとも沈み込んでいた。朝まで眠れず、気分はすぐれず、一日の予定は、何ひとつ進まなかった。

数日前、三石琴乃さんのナレーションによる、『パシフィック・リム』の地上波予告映像をネットで見ていたので、録画予約だけはしてあった。番組の冒頭で日本語版キャストが紹介されたとき、僕はテレビ画面に釘づけになった。杉田智和、林原めぐみ、玄田哲章、古谷徹、三ツ矢雄二、池田秀一、浪川大輔……そのときは、今回のテレビ放映のためだけに、ロボット・アニメ経験者を揃えたものと勘違いしていたのだが、勘違いしていて良かったと思う。
「お前が小さい頃から頑張ってきたベテラン声優たちが集まってるのは、お前みたいなヤツにカツを入れるためだろ! 元気を出せ、ロボットも怪獣も大好きだったろ? 思い出せよ! 思い出させてやるよ!」 両肩をつかまれたような気分だった。


「自然の猛威と戦うことはできない。ハリケーンが向かって来たら、逃げなければならない。だが、イェーガーに乗っているときはハリケーンと戦うこともできるし、勝つこともできる」――杉田智和さんの、自信に満ちたナレーションを聞いただけで、十分だった。二時間半の間、僕はずっと涙ぐんでいた。

映画には、役割がある。見た人を元気づけるから、社会に必要なんだ。声優という仕事も、人に憩いや勇気を与える。勇気をもらった人は、社会に還元しなければならない。この世界は、助け合いで成り立っているからだ。
文化や芸術は、言葉や国家をこえて、人と人を結びつける。たとえ作品を忘れたとしても、作品に助けられたことを忘れてはならない。自分を許したように、他人を許さなくてはならない。

今日になって、この日本語吹き替えキャストが劇場公開時に組まれたこと、演出が打越領一さん()であったことを知る。

(C)2012 WARNER BROS.ENTERTAINMENT INC.AND LEGENDARY PICTURES FUNDING,LCC

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2016年3月 5日 (土)

■0305■

吉祥寺オデヲンで、『オデッセイ』。僕はケチなので、試写会で見られなかった映画に、あまりお金を払いたくないのだが、今月は誕生月なので、割引サービスで見られた。
Sub3_tif_rss_0003_fr_n_left_largeリドリー・スコットといえば、西欧文化と対極にある異文化を対置させるのが好きな監督なので、中国国家航天局が出てきた理由は、そうした嗜好から推察すべきではないかと思う。
だが、『ブラック・レイン』では好奇心旺盛に大阪までロケしに来ていたリドリー・スコットは、いまや毎年超大作を公開する大御所ヒットメーカーだ。火星まで日帰りで、さっとロケしてきたようなラフさが漂う。もっとも、その人懐っこさがヒットの要因だろう。

ノストロモ号から、「南極管制センター」に機械的に呼びかけをつづける、リプリーの冷たい声。『エイリアン』の絶望的な距離感覚は、はるかに遠くなってしまった。 


エイブラムス監督、『スター・ウォーズ』に同性愛者も(
『スター・ウォーズ』新ヒロインはなぜ男の手を振り払ったのか? フェミニズムの観点から見る最新作(

「世界一子供じみていた娯楽映画の続編を、どこまでポリティカル・コレクトネスで染め上げられるか?」という実験場の様相を呈してきた、新シリーズ。それはそれで、興味深い。
だが、どちらの記事もフェアじゃない。多くのファンに忌み嫌われている、新三部作(エピソード1~3)を、あまりにも軽視している。
どちらの記事も間違えているが、女性のジェダイ騎士は、新三部作に何人も登場している。エピソード1では、ジェダイ評議会のメンバーは人形や特殊メイクのエイリアンばかりで、俳優の顔が判別できるジェダイ騎士は、わずかに3人。そのうち一人が、サミュエル・L・ジャクソン演じるメイス・ウインドゥ。後の2人は、女性なのである。初期のジェダイ評議会には、白人男性が一人もいなかったのだ。

エピソード2のクライマックス、闘技場での戦闘シーンには、女性のジェダイ騎士がさらに多Aotc5 数、登場する。アイラ・セキュラのように人気者となり、エピソード3にも引きつづいて登場した女ジェダイもいる。ちゃんとライトセーバーを振るっているので、思い出してほしい。
公開当初は、大きなマスクをかぶったエイリアンまでもがジェダイ騎士として登場する雑多なビジュアルに、かなり白けたものだった。何か統一感がなければ、しまらない。実際、エピソード2で大勢のジェダイ騎士が現れるシーンは、ちょっとカッコわるい。
だが、どんな崩れたビジュアルになろうと、ルーカスは猥雑で多様性に満ちあふれた銀河を描きたかったのだろうな……と、今なら分かる。

というのも、『スター・ウォーズはいかにして宇宙を征服したのか』に、驚きの裏設定が記されているからだ。1978年、第一作の『スター・ウォーズ』の奇跡的ヒットの翌年、『スター・ウォーズ・ホリデー・スペシャル』なるテレビ番組が企画され、ルーカスはウーキー族の惑星を舞台にすることを思い立つ。
その際、脚本家チームのひとりに「ハン・ソロがウーキー族の雌と結婚している」設定を言い渡したのだ。異種族の間で婚姻が成り立つような、多様性ある銀河。貪欲で好戦的で、バイタリティにあふれた世界……その自由奔放なイメージは消え去ることなく、エピソード2の脇役キャラが体現することとなる。オビ=ワン・ケノービの古い友人デクスター・ジェットスター。彼は四本の腕を持つカエルのようなエイリアンだが、彼の妻は、普通の人間なのである(水色のドレスを着た女性で、ちゃんと画面で確認できる)。

アニメーション『クローン・ウォーズ』の主人公は、アソーカ・タノという14歳のジェダイ見習いの少女だ。彼女は成長して、最新のアニメ『反乱者たち』に再登場している。『クローン・ウォーズ』には女性のシス、アサージ・ヴェントレスも登場する。
『クローン・ウォーズ』の時点では、まだルーカスが総指揮をとっていたことを、忘れてもらいたくない。「男しかジェダイになれない」なんて偏狭なルールは、ルーカスは一度たりとも敷いていないんだから。

「ルーカスや新三部作を好きになれ」などと言うつもりはない。ただ、ほとんどの人々が「甘く見すぎ」、ちょっと油断しすぎなんじゃないだろうか。

(C)2015 Twentieth Century Fox Film Corporation. All Rights Reserved.
(C)Lucasfilm Ltd. & TM. All Rights Reserved.

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2016年3月 2日 (水)

■0302■

レンタルで、『アントマン』、『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』、黒澤明の『白痴』、『どん底』。
Main_large『イミテーション・ゲーム』は、第二次大戦中、ドイツ軍の使っていた暗号機“エニグマ”を解読するために奮闘した数学者、アラン・チューリングの伝記的映画。チューリングは周囲の無理解にまけず、解読器“クリストファー”を開発し、ふとしたヒントからエニグマの解読に成功する。それまでは恋あり友情ありのステロタイプだった映画は、一気に複雑さを増していく。
まず、敵にも味方にもエニグマ解読成功の事実を隠すため、民間人に犠牲が出ることもやむなしと、チューリングは判断する。その少し前、暗号解読成功で映画をハッピーエンドにすることも出来たはずなのだが、映画は、チューリングの同性愛を新たな秘密として掘り下げていく。同時に、同性愛者を罪人として処刑していたイギリスの黒い歴史が浮かび上がってくる趣向だ。


この『イミテーション・ゲーム』の直前に、『どん底』を見たのだが、娯楽色の強い欧米映3画の合間に黒澤明を挟んでいくと、ちょっと冷静になれるようだ。
『どん底』はゴーリキーの戯曲を江戸時代の日本を舞台に映画化した作品で、『イミテーション・ゲーム』のように、明快な起承転結があるわけではない。廃屋のような長屋に住む者たちが、えんえんと先の進まない話をしているばかりで、「まったく何も起きない」と言ってもいい。
にも関わらず、映画が中盤をこえた辺りには、もう目が離せなくなっている。

たとえば、長屋の奥で何人かが博打をしている。その手前では、将棋を指している者が2人。さらに手前にはお遍路さんの老人、病気で寝込んでいる老婆が並んでいる。
カメラは、将棋を指している2人を手前に、奥に博打打ちの面々を配置する。さらに両者の間に、アル中の男を置いて、彼が博打を眺めているのをやめ、将棋に興味を示す動きを、フィックスでとらえている。「博打」を撮っているのでもなければ、「将棋」を撮っているのでもない。そのどちらにも「参加してない男」にピントを合わせることで、「両方を同時に撮っている」のだ。まずは、その発想がカッコいい。

そのカットの前、博打を打っている者たちは、景気よく歌いはじめる。「テレツクテレツク」「スッテンテン」といった具合に、テンポよく歌うのだが、歌っている顔をアップで抜いて、ミュージカルのように繋いでいる。この編集が、おそろしく巧みで、つい何度も見てしまう。それほどまでに美しい。この一連のシーンだけでも、一見の価値がある。

そして、歌っている道楽者たちと、黙ったまま盤面を見つめている2人の対比が、フィックスの構図によって際立つ。
やがて、アル中男の動きを追うように、カメラは正反対に据えられ、お遍路の老人と寝ている老婆をとらえる――が、臥せっている老婆の姿は映らない。老人の顔がアップになり、あいかわらず盤面をにらんでいる2人の頭が奥に見える。「死ねば、そんなに苦しい思いをしなくてすむよ」と老婆を諭す、お遍路の老人。その奥で将棋を指していた男が「爺さん、なんてこと言うんだよ」と、ちょっとだけ顔をあげる。
その所作と構図が、あまりにもマッチしすぎて、シャープというか、息をのむほど「綺麗」なのである。何がどうしたわけでもないのに、セリフにも深い意味はないのに、戦慄する。


黒澤明の映画は、カットが切りかわり、構図が見えた瞬間、サッと何かを言い切ってしまっている場合が多い。その「何か」を、簡単には言い当てられないから、かえって世界中で研究対象になっているのだろう。「思わせぶりな構図」などではなく、確実に何かを言い切っている。セリフは、オマケのようなものだ。

僕には、黒澤の表現と『イミテーション・ゲーム』が、同じメディアとは思えない。どちらが上だという問題ではない。『イミテーション・ゲーム』でないと、2010年代の世界では通用しないことも分かる。
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』が、アカデミー賞で六冠に輝いた。あそこまで洗練された映画でも尚、「ドラマがない」=「セリフによる説明が少ない」=「主人公には過去やトラウマや葛藤がなければならない」と、文句をいう人がいる。

いや確かに、過去やトラウマや葛藤をセリフで説明して、面白い場合もある。だが、黒澤の映画を見ると、僕はたちまち真っ白な霧の中に引き戻されてしまうのである。

(C)2014 BBP IMITATION, LLC
(C)1957 - Toho

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