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2016年2月 3日 (水)

■0203■

TOHOシネマズ新宿にて、『傷物語 Ⅰ鉄血編』。いちばん狭いスクリーンだが、満席だった。
このアニメの現場に参加した方によると、もともとは3時間の映画を一挙に上映する企画だったという。それと、背景美術がテレビ・シリーズとはまったく違う……前情報は、その程度だった。
Main_large1970年代後半から、テレビアニメが総集編という形で「実写映画」のフォーマットを獲得し、それ以降、「映画的」というフレーズは、アニメを修飾する誉め言葉として使われてきた。
だが、尾石達也監督の『傷物語』は、「映画的」という決まり文句をはねのけ、「動く絵」という見世物から再出発している。キャラクターの線は、ラフ原画のように乱れるし(あれを動画としてクリンナップするのは、むしろ猛烈な手間になる)、背景の3分の1ほどは3DCGで描画されている。テレビシリーズで特徴的だった望遠レンズで撮ったような詰まった絵ではなくなり、空間は広々としている。そして、実写素材をも取り込んだ質感は、既視感を呼び起す。

その既視感は、これまで見てきた「劇映画」とは、まったく関係がない。むしろ、Tumblrで遭遇するような、前後の脈絡のない、断片的な実景写真と強く結びついている。
だから、『傷物語』は「映画的」ではない。単に「絵」、時間をもった「絵」=映像としてのみ、かろうじて形を保っている。


しかし、ここで使われている「絵」は、テレビアニメの「セル画」とも、どこか様子が違う。
Sub4_large僕は、キャラクターの色調がとても気に入ったのだが……おそらく、[pixiv]で不意に見かけるような「キャラ絵」なのだ。「動く」ために簡略化された、汎用性のある絵には見えない。ふいにネットで「ツボを押さえた、いいキャラ絵」を見かけた印象に似ていて、それはやはり「映画」を見たあとの感覚とは、ほど遠い。
「優れた作画」「枚数のかかった動画」以前に、それは「時間を含有したキャラ絵」なのだ。

少し前のブログに、アニメは映画よりも「芝居」の側面が強いと書いた。それは、ラジオドラマのように音声で物語っているからだ。セリフさえ明確なら、口が動いていなくても絵が間に合わなくても、「劇」として成立してしまうのがアニメだ。
ところが、『傷物語』終盤に登場するキャラクターたちは、明らかに日本語を話しているのに、一言も聞きとれないような効果が施されている。『傷物語』には、輪郭がない。「ここからここまで描きます」と、範囲を決めていない。不定形だ。

たまたま映画館で上映されているから「映画」と呼ばれ、線画が動くから「アニメ」と称されているにすぎない。
これは、刺激的な体験だった。僕が見たのは「アニメ映画」ではなかった。昭和40年代、まだ都心に残っていた紙芝居屋を思い出したが、もちろんそんな懐古的なエンタメでもない。
三部作を最後まで見れば、何らかの結論や満足感が得られるとは思えない。できれば、三本別々につくって、一本ごとにコンセプトを変えてほしかった。あるいは、3時間、一気に見たかった。(念のため言っておくと、第Ⅰ部は「さて、これから」という、実にきれいなタイミングで幕を閉じる。)


帰りの電車の中で、塩田明彦の『映画術』のつづきを読もうとしたが、頭に入らない。
黒澤明の『醜聞(スキャンダル)』を昨夜、レンタルで見たのだが、それについて書く気も失せた。

僕は、『化物語』放送前、西尾維新さんと尾石達也さんにインタビューしたが、もちろんそんなところに手がかりはない。
『傷物語』は、あのころとは別次元に遷移した。たぶん、尾石達也さんの頭の中で「何かが起きた」のだ。そうとしか思えない。
ともあれ、めったに味わえない緊張と開放に出くわすことが出来た。物語が途中で終わっていることなど、もちろんどうでもいい。

僕の中に新たな「尺度」ができたこと、それが嬉しい。

(C)西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト

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