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2016年2月28日 (日)

■0228■

ホビー業界インサイド第8回:日本文化と調和する3Dフィギュアの可能性 ドゥーブスリーディー社長 ジョン P.イーサム、インタビュー!
T640_700988ようやく、3Dスキャン&プリントしているフィギュア・サービス業者に取材できました。スキャナーもプリンターも、すべて見せていただけました。
国内でも、何社かの業者が同様のサービスを開始していますが、業者側は、プリントされたフィギュアをスケールモデルなどとは考えてはおらず、3Dスキャン・フィギュアと模型趣味には、いまだに距離があるように見えます。

もちろん、タミヤは自社製品のフィギュアに3Dスキャンを導入していますし、モデルカステンは実在の人物の3Dスキャン・フィギュアをレジンキット化して、販売しています。
ただ、3Dスキャン・フィギュアを個人がスケールモデル感覚で模型趣味に導入しはじめたら、どうなるでしょう。

(海外のメーカーのサイトでは、すでに見かける光景ではありますが)1/24のカーモデルの横に、1/24のフィギュアを立たせて、簡単なディオラマを作りたいとします。どこかから同スケールのフィギュアを調達してくるのが「模型趣味」の楽しさなわけですが、3Dスキャンなら、オリジナルの塗装済み完成品フィギュアが手に入ります。フィギュア塗装が苦手な人にとっては、朗報です。
さらに、メガネやカバンなどの小物だけでもスキャンできます。インタビュー中にあるように、車さえスキャンできます。個人が、スクラッチの技術を使わず、精密なスケールモデルを手に入れられるわけです。僕は、脅威を感じますが、この脅威を積極的に活用すべきと考えます。


もうひとつ、3Dプリント・フィギュアのサービスの顧客の多くは、冠婚葬祭で記念写真を撮るような感覚で使っています。
つまり、一般人の「ミニチュア」「フィギュア」に対する価値意識は「本物そっくりに出来て当たり前」になっていくでしょう。これまで、スーパーリアリズム・アートや写実的な絵画を描いていた人に「なんで写真のように描けないの?」「というか、なんで写真を撮らないの?」と疑問符をつきつけるような状況が、そろそろ生まれてくると思います。

もちろん、手作りフィギュアの意味や価値や面白さを知っている人は、聞き流せばいいでしょう。
しかし、正反対というか、相容れない価値観の両方ともを聞き入れる耳を持つ人たちが必要です。僕は作家ではないし、背負ったリスクも少ないから、思いついたところへ取材に行けます。打診するだけなら、タダです。
僕自身は文化を生み出せないけれど、文化を豊かにして、後世へ残す手伝いの、そのまた手伝いぐらいはできると思っています。


三鷹市立図書館にて、『現代美術キュレーター・ハンドブック』と『美少女の美術史』を借りる。
Dsc_2541『現代美術~』は、前日に書店で立ち読みし、ネットで検索しても安く売られていなかったので、図書館にあって助かった。展覧会をやりたい人向けに、お金の集め方から現場で使うディスプレイ・ケースの種類、展示準備の目安、目録の作り方まで、端的に詳しく書かれている。
完全な技術書で、具体性のない理念を論じた本より、よほど役に立つ。
『美少女の美術史』は、展覧会に行く気力がなかったので、これも助かった。フィギュアの中では、桜文鳥さんに見開き2ページも使われていて、驚かされた。

それにしても、老いも若きも椅子に腰掛けて、じっくりと手元の本に見入っている日曜日の図書館は、僕の心を落ち着かせる風景だ。世界は、まだまだ捨てたものではない……と、肩を叩かれたような気分になる。

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2016年2月25日 (木)

■0225■

月刊モデルグラフィックス 4月号 本日発売
Mg
●組まず語り症候群
今回は、第40夜「透明! アナ雪城」。タイトルどおり、バンダイの「キャッスルクラフトコレクション アナと雪の女王」を自費で買い、ディズニーアニメへの愛も、テキスト倍増して書きつづりました。

●すずさん勝手に立体化計画
秋公開予定の『この世界の片隅に』を応援するため、短期連載できないか?……という話を振ってみた結果、いろいろあって「廣田がフィギュアを作る」企画になってしまいました。
早くも「私も作りたい」という方が現れましたので、どんどん参加してほしいと思っています。すずさんの絵ばかり掲載しているのも、キャラクターとして定着してもらいたいからです。


山田太郎議員のウェブ番組『みんなのさんちゃんねる』、今週のテーマのひとつは「日本は児童ポルノの定義を国際的にどう表明しているのか」()。

放送前日、山田議員の秘書さんに「児童ポルノ規制違反のニュース映像で、なぜかフィギュアが映されましたが、その件は取り上げないんですか?」と、メールしました。
山田議員は、警視庁生活安全課に出向いて、「フィギュアは児童ポルノの対象なのか?」と詰問してくださったそうです。警視庁は「説明を差し控えたい」などとかわしたそうですが、最終的には「フィギュアは児童ポルノではない」と認めたそうです。

議員の小まめな活動には、本当に頭が下がる思いです。
以前にも書いたように、フィギュア業界は自衛のスタンスが甘すぎるから、なおさらありがたいです。
【追記】二次元規制問題の備忘録さんが、上記リンク先の動画を、文字起こししてくださっています。⇒

僕が愛宕署に送った公開質問状は、もし返答が来たら、このブログで公開いたします。


『スター・ウォーズ』次回作(エピソード8)で、クロアチアのドゥブロヴニクが、ロケ地に使われているそうで……(
僕は2013年春に訪問したけど、街そのものを「テーマパークなのか?」と思ってしまうほど、人工的な場所です。大通りには、みやげ物がぎっしりと並び、日本語の通じるレストランさえあります。

簡単なセットを立ててはいるし、マットペインティングで加工はするだろうけど、アイルランドの観光会社が、映画のフィルムを使ってスケリッグ・マイケル(世界遺産)を宣伝しはじめた件といい、今後の『スター・ウォーズ』は、世界各所の観光地との協同路線で行くんだろうな……。
この程度のセットなら、スタジオに作ったほうが予算が浮きそうなもんだけど、もうそういうレベルの話ではなくなってるんだと思う。

クロアチアは、プリトヴィッツェ湖群国立公園を見そびれているので、三度目の探訪をしたいと思っています。だけど、ドゥブロヴニクは一日ぐるりと散策したので、もう十分です。繰り返しになるけど、街そのものがテーマパークのように小奇麗だからです。

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2016年2月22日 (月)

■0222■

企画展『マンガと戦争展 6つの視点と3人の原画から+α』、行ってきた()。
Cae8csox_2壁一面に貼られた、こうの史代さんの原画へ、まっしぐら。アクリル板に挟まれてはいるけど、目の前数センチまで近づいて、じっくり見られます。
「原画を持ってきて並べれば、かならず有意義な展示会になるのか」と言うと、「印刷物で代替できる部分が大きいんじゃないの?」「写真を撮って並べても同じじゃないの?」と、僕は覚めているというか、きわめて鈍感なところがあります。
だけど、こうの史代さんの原画の場合、数センチ前で見て、「こっちが本物であって、印刷された本は、普及のための手段にすぎないのではないか」とさえ思えてきました。

『この世界の片隅に』は、ラスト9ページ分の、モノクロから見開きカラーへ変わるパートが、展示されています。文字が、手書きから写植に変わるパートでもあるので、こうのさん直筆の指示も見られます。
小学校の図工で、はじめて画用紙に鉛筆で線を引いたとき、水彩絵の具で色を塗ったときの感触が、手に蘇ります。失礼な話かも知れないけど、その原体験があるから、目の前の原画を、身近に感じられるんだと思います。

すると、一本一本の線について、「どうして、こういう引き方をしたのか」「こっちとこっちでは指の描き方が違うけど、なぜなのか」と気になってくる……その瞬間が、面白いんです。
色にしても、青く沈んだ部分に、オレンジ色で、スッと輪郭線を入れたりしている。原画を前にしていると「なぜオレンジ色を入れたのか」分かる気がする。だけど、単行本を開いて見直しても、同じオレンジ色が、漠然とした雰囲気の中に溶け込んでしまっている。

「意図を言葉で解釈しないと、落ち着かない」。その不安な気持ちから、原画の前にいる間だけは、解放されるのです。


『この世界の片隅に』の上に、『夕凪の街』の表紙用カラー原画と、『桜の国』のモノクロ原画が展示してあります。こちらの方が達者というか、「ここにわざと余白をつくって、こっちを描きこんで密度を出している」など、トータルな意図が分かる。「上手いな」と思わせる。
ところが、『この世界の片隅に』は、培ってきた技術や手癖に流れず、ベタで塗りつぶさずに線を重ねて暗くするとか、あえて効率の悪い描き方をしている。そのテクニック上の選択と物語とを、安易に結びつけたくはないです。「作家さんが何を考えているのか」は、途方もなくスケールが大きいので。
(ただ、『この世界の片隅に』のほうに“執念”を感じたのは、確かです。)

僕も展覧会をやりたいと思っているので、原画を収めたアクリル板を、どうやって吊るしているのか、会場の細部も見てきました。
解説文のパネルのサイズや枚数。企画の意図を大きく記すだけでなく、モノクロでいいから、企画内容のレジュメを持ち帰れるよう、設置しておいたほうが親切だとか……。


あと、常設展示だと思うんだけど、米沢嘉博さんがコミケを始めるときに記した、直筆のメモには、かじりつくように見入ってしまった。
気負いもなく、サラリと「簡単なことです」と書かれていた。そのフットワークの軽さ、楽観を、うらやましく感じる。

御茶ノ水駅から米沢嘉博記念図書館までの経路に、僕が通っていた美大受験のための予備校がある。僕は、絵の道具を、その予備校に捨ててきてしまった。
絵に「挫折」したなんてカッコいいものではなく、絵に対する「情熱のなさ」に気づいて、その場を立ち去ったにすぎなかった。

ウソを自らウソと認め、すべて脱ぎ去ったあとにも、武器は残ると思う。
表現規制に反対する署名などを集めていたころ、「自分には実行力がない」と意気消沈している人に、何人か出会った。実行力のない人間など、僕はいないと思う。「メールを一通出す」ぐらいなら、誰にでもできるはず。その貴重な、マッチ一本分の情熱を「ネットで愚痴る」という形で毎日、無駄に燃やし尽くしてしまっているにすぎない。

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2016年2月20日 (土)

■0220■

ある人から強烈に推薦されたので、レンタルで『トゥモローランド』。
Tomorrowland_sub4_largeこの映画には、引き込まれた。途中から、どのようにカメラワークが機能しているか意識しようと努めたが、実に適切だった。PANにもズームにも、すべて目的があった。明らかに合成でないと撮れないショットには、合成である意味があった。説明しない部分には、説明しないなりの理由があった。デザインは「問題解決能力」が問われるというが、すべてのデザイン、ひとつひとつのアイデアに必然性があった。
そのうえで、「絵に描いたような未来」を、「絵」として描いている……いや、「絵」に見えないと困るから、そのように未来を描いているのだ。
映画に「始まり」と「終わり」があるからには、つねに「次はこうなるのではないか」という、観客の予想がつきまとう。その予想のひとつひとつが、小さなトゥモロー(明日)だった。

「この映画そのものが比喩だし、フィクションであることに意義がある」と宣言するかのような、「力強い空虚さ」のような作品だった。
頭の悪い僕が言うのも気が引けるが、意志を表明するには、やはり理屈が必要なのだと痛感させられた。


そして、ディズニー映画であることからも、劇中にパロディが登場することからも、『スター・ウォーズ』最新作との比較は避けられなかった。
『トゥモローランド』もまた、若い女性と初老の男の冒険物語だ。そして、クライマックスに犠牲者が出る。だが、『トゥモローランド』は登場人物の意志が明確で、誰もが事態を前向きに好転させるために行動する。『フォースの覚醒』は、あらゆる問題を次回作に先送りしすぎて、誰が何を達成したいのか、さっぱり分からない。貫徹目標がない。そのくせ、悩んだり閉じこもったり殺したりすることで、内向的な何か……「心」を描いた気になっている。

映画は時間と運命をともにしているので、描いたそばから消えていく。
映画は、それを目撃した人間の記憶の集積でしかない。それをわきまえた映画は、美しい。観客の甘い記憶に、ずっぽりと頼りきった映画は、見苦しい。後ろ向きだ。
『フォースの覚醒』は、やっぱり、根底に「あきらめ」があるんだ。今までの『スター・ウォーズ』は超えられないし、フォースやジェダイに代わるアイデアも、ライトセーバーに代わる武器も考えられない。というより、考える理由がない。だったら、せめて固定ファンを怒らせないように気をつけよう、気を使おう……そんな臆病さが、映画全体をどんよりと暗く、重くしている。


『「もののけ姫」はこうして生まれた』を見ると分かるんだけど、去るものに対して、どれだけ謙虚でいられるかが、品位を決める。映画は一秒24フレームしかない。一秒を100フレームにも200フレームにも引き伸ばさないと描けないとしたら、それはもう、つくるべき映画ではない。企画の時点で、なにかミスしているんだろう。

映画に限らない。制約のない仕事は、どんどん雑になっていく。焦点がボケていく。
シナリオの教則本に書かれていたことだが、セリフを書くときのコツ。「真実は、強く短く。ウソは冗長に」。

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2016年2月18日 (木)

■0218■

Febri Vol.33 発売中
Cover●Febri Art Style
『ブブキ・ブランキ』の美術監督・美術設定の金子雄司さんに、インタビューし、美術ボードを選んで構成しました。
この連載は、いつも「どのアニメの背景がいいですかね?」という編集さんとの会話から始まります。僕が候補にあげた作品が、さまざまな理由でNGになる中、編集さんから提案されたのが『ブブキ・ブランキ』でした。
金子さんには『キルラキル』でインタビューしているし、僕は返事を留保しました。番組の第一話を見て、『ブブキ・ブランキ』でいきましょう、と決めたのです。

アニメ業界へのインタビューは、制作サイドが「今期はコレを売りたいから、よろしく」と提案してくる場合が、大半だと思います。
それではパブリシティにすぎず、制作サイドの意向にそわねばなりませんから、最近は自分から取材交渉するようにしているのです(Febriの場合は、もちろん出版社がリスクを背負っているので、僕の好き勝手にはできませんし、パブリシティを上手く使って面白い記事にするのも、ライターの腕です)。


児童ポルノ規制法違反のニュースで、押収品としてフィギュアが使われた件()。
NHKに取材場所が愛宕警察署であることを確認しましたので、本日18日、公開質問状を同署に送らせていただきました(内容証明郵便にて)。
質問内容は、大まかに言うと「児童ポルノ規制法は、フィギュアを取り締まる法律ですか?」「フィギュアが規制対象になっているかのような誤解を与えていませんか?」です。

Twitterを見ていると、「児ポ法とフィギュアは、関係ない」という常識が、広く浸透しているかに見えます。
しかし、NHKニュースを見た一般の方たちは、「フィギュアも禁止対象」「フィギュアを持っている人は疑わしい」と認識したのではないでしょうか。愛宕署は、フィギュアを作ったり、集めたりする趣味を冒涜していないでしょうか。
「冒涜」は誇張表現にしても、少なくとも児童ポルノ規制法のマイナスイメージを強調するため、「フィギュアがダシに使われた」ことは明らかだと思います。
フィギュア愛好家として、この件に関しては、はっきりと立場表明しておきたいと僕は思います。公開質問状の回答シメキリは、来月18日としました。この日までに回答がなくとも、次のアクションを起こします(回答がないならないで、愛宕署の無知で不誠実なイメージが増すだけですので)。

「Twitterで意見を言う人は多かったが、実名で抗議した人間は皆無だった」という情けない事実だけは、残したくないのです。
だって、みんな、フィギュア好きでしょ? あんな禁制品みたいな汚い扱われ方をされて、腹が立たないんですか?


本当に偶然なのですが、このニュースを知ったとき、僕はフィギュアを使ったイベントを企画しはじめていました。
それはまさに、「フィギュア趣味を社会に認めさせること」が目的だったので、過剰に反応しているのかも知れません。

僕は毎日、海外のオモチャや彫刻の画像を、Twitterに(引用元を明記したうえで)アップロードしています。国内では「わいせつ物」と見なされるであろう淫靡な彫刻も、海の向こうでは立派なギャラリーに展示され、ちゃんと値段がついています。
僕には、すばらしい立体把握能力と再構成能力をもつ日本のフィギュア・モデラーと、海外の彫刻家(スカルプター)の差異が分かりません。垣根を取り払って、オープンな表現の場をつくりたいのです。

そのためには、「出版社やDVDメーカーが権利を握っている」キャラクター・グッズ業界とは、いったん、距離を置く必要があります。
「フィギュアって、アニメの人形でしょ?」程度の非マニア層に、個人制作のフィギュアの美しさを知ってほしい、間近で見てほしい。いつも決まった場所で、いつも同じ人が見ている閉塞状況を、打破したいのです。

一年後ぐらいに開催すりゃいいよね……と、のんびりとタカをくくっていたのですが、急がないと場所を確保できないことが分かってきました。大急ぎで資金を集めても、開催は一年後になってしまいます。もう迷っていられません。
おそらく、このイベントが40代最後の仕事になるでしょう(儲からないでしょうけど……)。

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2016年2月17日 (水)

■0217■

児童ポルノ所持の疑い 会社員を書類送検
やっぱり、フィギュアってこういう扱いなのか……と肩を落としました(リンク先の映像を見てください)。
昨夜、押収品としてフィギュアを並べたのは、警視庁生活安全課サイバー犯罪対策課なのか、愛宕警察署なのか、NHKにメールで問い合わせました。今朝、「ご指摘のニュース映像は愛宕警察署で取材したものです。人形を並べた意図については、愛宕警察署にお尋ねください」と、答えが返ってきました。
Twitterで反応を検索してみたら、さすがにほとんどの人は「え? フィギュアは児童ポルノに含まれないだろ?」と、怪訝な様子です。しかし、中には「ついにフィギュアも児童ポルノに含まれたのか」と受けとめている人もいました。テレビの前の人たちは、ニュースで使われた“性欲を満たすために集めていた” “性的好奇心を満たす目的で所持” “漫画やアニメ、CGについては、「表現の自由が脅かされる」といった懸念を踏まえて、対象になっていない”といった言葉と、何の説明もなく映し出されたフィギュアの映像とを混同して記憶するでしょう。

僕も、知識がなかったら、「いやらしいフィギュアは、取り締まりの対象になるんだな」と理解したでしょう。


もし、押収品の中に漫画の単行本やアニメのDVDが含まれていたら、もっと大きな反発が起こり、あちこちでアクションが起きたと思います。
なぜ、押収品がフィギュアだと笑って見すごされるのか、よく考えてもらいたいのです。作っている側も買っている側も、「漫画やアニメから派生したグッズの一種」としか思ってないからではないでしょうか。
二次創作物、いや創作物でも作品でもなく「商品」としか認識されていないため、「表現の自由」で守ってもらえない……僕は、そのように感じています。

商業フィギュアの世界には、客観的な研究も評論もありません。せいぜい、メーカーの仕事をまとめた本が出ている程度で、あとは「新製品紹介」「新製品の舞台裏をインタビュー」、ほとんどが、写真何枚かを使った簡単なレビュー(パブリシティ)です。
その一方、小規模なフィギュア造形教室が都内にいくつかあります。僕も見学したり、取材したりしました。女性の講習者も多いです。ただ、文化としてのフィギュアは、あまりに守りが脆弱です。だから、先日のワンダーフェスティバルの看板フィギュアについても、外部からの視線を意識してほしかったのです。

「フィギュアを文化として認めさせたい」という言葉は、30年ぐらい前から、たびたび耳にしてきました。しかし、GMOメディアが、個人のフィギュア・ブログの削除を勧告したとき()、僕は「メーカーもフィギュア雑誌も、彼らを守らない」と直感しました。
だから、大急ぎで署名を集めて、国会議員の山田太郎さんと共闘しました。フィギュアは文化として育っていない、フィギュアをお金にしている当事者たちが、まっさきに無視する――その惨状を分かってもらいたかったのです。


僕の父親は殺人容疑で逮捕されましたから、警察が何でもかんでも押収することは知っています。パソコンの中身も見られます、どんな写真を撮っていたかも、法廷で暴かれます。
今回の場合、押収品の中に漫画本ぐらいは含まれていたのではないかと思います。ただ、「漫画を並べると世間から攻撃される」ぐらいの認識は、警察にもあったのではないでしょうか。だから、フィギュアで代用したのではないでしょうか。あるいは、「漫画やアニメを規制しようとすると業界団体がうるさいから、代替物としてフィギュアを規制しよう」という流れに変わってきたのかも知れません。
(繰り返しになりますが、フィギュアなら反発する人が少なく、業界も沈黙すると証明されているからです。)

児童ポルノ規制法の目的は、「児童の権利を擁護すること」です。
なのに、「性欲を興奮させ又は刺激するもの」という基準、すなわち「性的に興奮したらNG」という男性目線の基準のせいで、しょっちゅう創作物と混同されてしまうのです。混同されるたび、「児童の権利」は遠のいていきます。
同法の第一条に明記された「児童に対する性的搾取及び性的虐待が児童の権利を著しく侵害することの重大性」は、今どこをさまよっているのでしょうか。

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2016年2月14日 (日)

■0214■

【懐かしアニメ回顧録第16回】プレスコ方式によって生じる音楽性 パターンにとらわれない「紅」の演技の振れ幅
アニメの声優さんの演技は「音楽的」に様式化されている。だが、その様式を「音楽」によって崩す……ということが、『紅』のミュージカル・シーンでは試みられていたと思います。


レンタルで、『猿の惑星:新世紀』。『猿の惑星』プリクエルの二番目。だが、前作を見ていなくても十分に理解可能な内容になっており、娯楽映画の良心を感じた。
201409180010000view何しろ、前作『猿の惑星:創世記』から続いて登場する人間のキャストは、ひとりもいない。冒頭10分間は、森の中につくられた猿たちの村落しか出てこない。彼らは狩猟をおぼえ、手話と簡単な英語で会話をかわす。まずは、人間に知性を与えられた猿たちの質素な生活が美しい。

では、人類はどうなってしまったのか。猿の媒介する病原菌で、半分が死滅し、自主的につくった隔離ゾーンにグループをつくって暮らしている。サンフランシスコの町は、雑草に覆われている。その退廃的なビジュアルも、また甘美だ。この映画は、新たな文明を築きつつある猿たちと、絶滅に瀕した人類の黄昏、ほんの短い共栄の時代を描こうとする。

くりかえすが、人間サイドのキャストは一新されている。猿のリーダー、シーザーと信頼関係を結び、戦争を避けようと努力する男と彼の家族が登場するにはするが、映画の3分の2ほどは猿たちのドラマなのだ。前作『猿の惑星:創世記』とは、まったくコンセプトが違う。連作にもかかわらず、単独の映画として完結する。
そこにまず、感心させられた。このような映画ジャンルをどう呼べばいいのか分からないが、「三部作すべてを見ないと、分からない」不親切さとは対極にある。
最新の『スター・ウォーズ』もそうだが、「さあ、今回はここまで。続きを知りたければ、また金を落としてくれ」という作り方には、誠意をかんじない。この一本しか見られない、たまたまこの一本を手にしてくれた一見の観客を十分に満足させようという心意気が、いまのハリウッド映画には欠けている。「三部作なのだから、第一作はぶつ切りでいい」という粗暴さは、観客と映画との出会いの機会をせばめる。はじめての客に「次回もよろしく」とポイントカードを押しつけるようなもので、作品選択の自由、偶然の出会いを奪う。
さらに言うなら、観客側も「前作を見ていない自分が悪いのだ」と、寛容さを失っていく。


『猿の惑星:新世紀』は、シーザーに反抗して銃を手にするコバという猿に、スポットを当てる。
コバが人間たちに見つかり、その場をとりつくろうシーンが素晴らしかった。本当は言葉を話せるぐらい利口なのに、まるで動物園にいる猿のように、人間たちが油断するようにバカのフリをするのだ。
人間と猿との、悲しいほどの距離、すれ違いを、CGでつくられた猿の演技だけで見せきる。一言もセリフがないのに、コバがどれだけ屈辱的な思いをしているか、どれほど人間たちを侮蔑しているか、手にとるように伝わってくる。

このシーンが美しいのは、ゼロからつくられた要素がひとつもなく、すべて我々の経験のみで成立しているからだ。僕らは、猿といえば動物園の檻にとじこめられた、滑稽な生き物を想起する。その僕たちの傲慢さ、浅はかさを利用したシーンだ。
Dawnapes3_2このテーマ、このコンセプト、映画という媒体でしか為しえない、一度かぎりの表現だ。コバはシーザーとの闘争に敗れるが、ストーリーの結末など、文字でも伝わる。「人間がモーションキャプチャで演じるCGの猿」、その屈折した構造すら逆手にとった、知性あふれるシーンだった。


『スター・ウォーズはいかにして宇宙を征服したのか』の、第一作シナリオ執筆のパートを読み返している。
まだ「ホイルス銀河史」がメインタイトルで、「第一部。これはオフューチの偉大なジェダイ=ベンドゥ、メイス・ウィンディの物語。語り手はC・J・ソープ。パダワンとして、銀河に名を轟かせるジェダイの修行をしている」などと書かれていた頃の、煮え立ったシチューのような状態だったころから、ジョージ・ルーカスは、その銀河や惑星がどんな政治体制なのか、思いをめぐらせていた。

当時は、まだベトナム戦争が続いていたので、北ベトナムをモデルにした惑星も出てくる。シナリオの資料として、同時に、人類学の巨編『金枝篇』も参考にしていた。
だから、『スター・ウォーズ』は高級なのだ……と言いたいわけではなく、公開中の最新作で政治体制がまったく考えられていないのに、それを気にする人が少なすぎて、さみしい思いをしている。
友人向けの試写会の段階で、第一作目のオープニング・ロールには「帝国は、次の戦いに敗れれば、一〇〇〇以上の太陽系が反乱同盟軍に寝返り、銀河の支配が永遠に転覆させられることを恐れていた」と書かれていた。レイア姫は、元老院議員だったから反乱軍を有利に導けたのに、最新作では意味不明の「将軍」という肩書きしか、与えられていない。
こんな無神経な映画を擁護するため、「スター・ウォーズは昔からご都合主義の娯楽映画にすぎなかった」「娯楽映画に理屈など求めてはいけない」などと言い出す人がいるのだから、ルーカスもナメられたものだ。
そもそも、優れた娯楽映画には「楽しい」と感じさせる理屈が、しっかりと機能している。だが、テクニカルな話はことごとく忌避されるので、映画文化は堕落しつつあるのかも知れない。

(C)2014 Twentieth Century Fox

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2016年2月13日 (土)

■0213■

アニメ業界ウォッチング第18回:「オープニング・アニメの鬼才」としての苦心とよろこびとは? 梅津泰臣監督インタビュー!
T640_699345『メガゾーン23 PARTⅡ』以来、僕の中で揺るぎなくカッコいい絵描きである、梅津泰臣さんにインタビューしました。
例によって、誰も仲介してくれないので、以前にいただいた名刺に記載されていたメアドから、直にお願いしました。返事は即日いただけたし、日程も場所もスムースに決まりました。こういう方は、仕事もテキパキとこなしてらっしゃるに違いない(だからいっぱい、仕事が来るのでしょう)。
そしてインタビューの後、もう真っ暗で寒いのに、スタジオの外まで僕らを送ってくださった梅津さん、そういうところがカッコいいです。


さて、先日のワンダーフェスティバルで、パンフの表紙が「性的すぎる」と話題になっていたらしい。(海洋堂 @kaiyodo_PR「ワンダーフェスティバル」パンフ表紙における公式キャラの性的表現について #wf2016w 
あらためて表紙を見ると「そう言われて見ればエッチかもな?」という程度なのだが、パンフ本文に記載されているキャラクター指示、フィギュア造形指示などを読むと、確かに、いろいろな意味でひどい。「ひどい」というのは、フィギュアとか二次元キャラとか造形物への考えが雑すぎるという意味。

本人たちは新しいことを始めたつもりらしいので、それはそれで構わない。
ただ、せめて「碧志摩メグ」や『のうりん』のポスターが、なぜ自治体を動かすほど問題視されたのか、意識はしてほしかった。「自粛しろ」という意味ではない。もし、誰かから抗議を受けた場合、言い訳ぐらいは用意してありますよね?程度の意味。

「フィギュアは児童ポルノではない」 ブログ削除騒動めぐって抗議署名をGMOメディアに提出(
せいぜいビキニを着ているレベルの個人制作のフィギュア・ブログが、問答無用で削除されてから、まだ二年も経過していない。
このとき、著名なフィギュア作家さんが「別世界の話」とツイートしていたのを、僕は決して忘れない。同じことがまた起きたとき、僕たちは、もっと上手に、話を折り合わせないといけない。「フィギュアを、社会に認めさせたい」なら、「認めたくない」人たちを、いちばん尊重しないといけない。厄介だけど、必要なこと。


「コップのカドでグリ美ちゃん」が大事にならなかったのは、いちはやく販売自粛に踏み切った当事者たちのおかげだと思う。僕も、コンビニやゲーセンには自粛するよう、メールした。近場の量販店のガチャ売り場も、歩いて調べた。
別に、ああいうフィギュアが存在してもいい。もっと過激なフィギュアだって、存在していい。むしろ、根絶やしにしないためには、僕らの方から先手を打って譲歩するぐらい、ずる賢くならないと守れない。

何に興奮しようが、愛好しようが、心の中にまで入り込んできてほしくない。部屋の中で何をしているかまで、他人にチェックされたくない。そんな社会は、まっぴらごめんだ。だから、せめて公共の場で、監視の目をくいとめるのです。こちらから聞く耳を見せて、相手にも聞く耳を持ってもらうんです。
相応のリスクを引き受けないと、得られるものも、それなりです。「いっさいリスクは背負わないけど、自分の言うとおりにしろ」、そういう人がいちばん迷惑だと思います。

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2016年2月 8日 (月)

■0208■

昨日は、ワンダーフェスティバルへ行ってきた。
手ごろなお値段の金属製完成品、イワシ金属化さんのアカイシガニモドキを買った。
Dsc_2533このイベントも、来るたびに混沌としてきて、開始当初の「メーカーの販売しないキットを勝手に作って、気に入った人だけに買ってもらう」危うさは、もはや過去の風景だね……という話を、たまたま帰り道で出会った、知り合いのライターさんと話した。
「売れるアイテムを作って儲ける」には、ガレージキットは手間がかかりすぎる。なので、作品発表の場としての色合いが強いように思う。キャラクター物ではない、木彫りや陶器の作品を販売している人もいる。
一方で、中小メーカーにとっては、新製品アピールの場であり、連動するアニメのキャンペーンの場であり……(僕も、過去にアニメ連動イベントの司会をやったものだ。)

レジンキットには、プロのモデラーとしては瀕死の状態だった90年代後半、文字どおり死ぬほど苦しめられた(山ほど完成品を作らされた)ので、正直、愛着はない。
だが、個人が「模型」という観点から立体物を自作することには、まだまだ計り知れない価値が秘められている。フィギュア造形=「美少女キャラ萌えの一手段」「性嗜好の発露」などと、簡単に切り捨ててほしくない。
「よく出来たオモチャ」「高価なオマケ」以外の価値を、どうすれば垣根の外へ届けられるか、考えている。


“映画という表現ジャンルの形式性そのものが、音楽という表現ジャンルの形式性そのものに、強烈に憧れているというか……あるいは映画のなかの物事が、まるで音楽を演奏するかのように演じられているというか……。”
“だから演技なら演技で、その演技というものがある瞬間、現実の単なる形態模写であることを超えて、あるかたち(「形式」)」を持ったとき、それが現実の反映だから力があるんじゃなくて、もはや現実を超えて、ひとつのかたちがかたち自身の表現としての強さによって、あるリアリティを持ってしまう……人の心を動かすことができてしまうときにね、ああ、これは音楽だって……。”
塩田明彦著『映画術』より。

本の中では、『男はつらいよ』シリーズのセリフまわしなどを参照して語られているのだが、僕には、アニメの話に聞こえた。
アニメ独特のセリフまわし、発声のしかたは「形態模写」ではない。実写映画よりも「劇」としての側面が大きいとは、そういう意味だ。演劇に近い表現なので、「リアルである=現実に近い」かどうかは、アニメでは本来、問題にされないはずだ。

“問題にされないはず”だからこそ、現実の「形態模写」に近い演技が入り込んだとき、独特のムードが出る。形式が破壊されたとき、独創性が生まれる。僕は、その独創性を期待している人間だ。
もっと正確に言うなら、形式と独創の狭間を、アニメに期待している人間だ。


『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』第18話で、『ガンダム』の約束事として、仮面の男が主人公たちの前に現れ、謎めいた言動をとる。ところが、主人公は「なんで、チョコの人がいんの?」と、あっさりと正体を見破ってしまう。
この瞬間、「強敵は、仮面で正体を隠す」という『ガンダム』の演劇めいた形式が破壊され、僕らは、不意に「よくある、日常の光景」に出くわす。こういう瞬間を、僕は常に待っているような気がする。
(塩田明彦さんの言う「形式がリアリティを獲得する」、それを上回った現象が起きているように、僕には見える。)

この場合、声優の演技がリアルだというのではなく、「仮面をかぶった男が強敵」という形式が一定の強度を持っているからこそ、「なんで、チョコの人がいんの?」という形式から外れたセリフが、独創的に聞こえるわけだ。


僕が『RWBY』に熱中している理由も、ちょっと似ている。
「4色のキーカラー、4種類のキャラクター」という陳腐化した形式を維持しつつ、あちこちで人物同士の関係を掘り下げ、次々と視点を変化させることで、(形式に忠実に演技しているはずの)声優たちの声音に、ぎょっとするような生々しさが加わる……形式をつきつめた結果、かつてないスタイルを獲得してしまった、そんな風に聞こえる。僕は『RWBY』という作品を“聞いている”。それこそ、音楽にたとえたいのだが、音楽の知識がないので、やきもきしてしまう。

セルアニメの作られ方そのものが形式的で、かつ音楽的なのだと思う。(初めてスタジオを見学させてもらったとき、「セルアニメは、そもそもデジタル的な作り方なので、デジタルに移行しやすい」と説明を受けた。90年代後半のことである。)
パターン化されているからこそ、ブレイクする隙間が生じる。単なる形式の連続だったら、僕はとっくに飽きていただろう。

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2016年2月 6日 (土)

■0206■

明日まで神田で開催されているミニ展覧会「RWBY OFFICIAL JAPANESE FAN MEETING」()、金曜日に行ってきた。
Dsc_2518_1平日昼すぎ、路地裏のギャラリー内には男女ふくめて、6~7人ぐらいのお客さん。デザイナーっぽい、お洒落な服装の男性もいる。
ファンブックに収録されている、日本のプロ作家たちのイラストレーションが半分以上を占めるが、本で見るよりずっと良かった。

ただ、何よりも引き込まれたのは、ファンブックには未掲載のアニメ制作用のラフスケッチ、背景画などの資料を壁2面に貼ったスペース。アイデア段階のメモ書きなども読みとれる。『RWBY』のファン像が、僕にはいまひとつ掴めないのだが、こうした資料集は望まれていないのだろうか……。


こんなにも『RWBY』が魅力的なのは、一見したところ――いや、僕のように“毎晩欠かさずブルーレイを再生している”者から見ても、「未完成」だからだろう。
CGモデリングは、ローポリ丸出しだ。入念に描きこまれたテクスチャにも、やや粗が目立つ。人形劇にたとえるなら、肝心の人形の出来がいまひとつなのだ。
しかし、だからこそアクションと芝居を工夫し、キャラクターの造形の悪さをカバーしようと奮闘している。そこが愛らしい。

主役4人の少女を4色に分けるのも、日本の女児向けアニメで使い古されたフォーマットで、新鮮なアイデアとは言えない。性格の描きわけも、赤=お茶目で誠実、白=冷たく上品、黒=ミステリアス、黄色=パワフルで社交的……と、ありふれている。
その分、なぜ冷淡なのか、なぜ周囲に秘密を持っているのか、シナリオを丁寧に彫りこんでいる。結果、キャラクターたちは類型化をまぬがれ、作品はドラマを獲得した。
いわば、欠点だらけの企画を、真正面から生真面目に具現化する、その誠実さに、僕は心打たれる。惚れこんでいる。

もし、まだ『RWBY』を見ていないなら、レンタル店にもあるので、手にとってみてほしい。
日本語版独特の魅力もあるのだが、それは別の機会に触れたい。


CNN「年間6400人以上の子どもが性犯罪被害」は本当か?
この話題も、すでに三周ほどした感がある。上記記事の結びの言葉、「日本は海外からの情報や発言に弱いが、闇雲に信じるのではなくきちんと内容を確認するよう心掛けたい」。
なぜ、こんなにも海外は統計を意図的に使い分け、日本を性犯罪大国にしたがるのか? そして、なぜ日本は海外(というか欧米)の顔色をうかがって、びくびくしているのか?

戦争に負けた国は、こういう目にあわされるんだと、僕は思ってます。小~中学生の間、僕が教師から最も多く聞かされた言葉は「反省」です。
中学校の思い出として、まっさきに脳裏に浮かぶのは、教室中の机をかたずけてスペースを作り、クラス全員が正座させられている光景です。「お前たちも辛いだろうが、先生も辛い」という、担任教師の言葉です。
どんな効果があるのか考えず、みんなで「反省」し、ひとりの例外もなく「辛い」思いをする……そのいびつな戦後教育が、社会人の「寝てない」「調子わるい」「忙しい」自慢に結実したんだと思います。

「その話が性犯罪と、どう関係あるんだ?」と疑問をもたれるでしょうけど、性犯罪が表面化しづらい裏には「辛いけど我慢すべき」という暗黙の強制が、作用しているように思います。
「誰ひとり、楽をしてはいけない」「辛いときに辛いと言ってはいけない」社会で、いったい何がどう改善されると言うのでしょう? 「被害者もツライだろうけど、私たちもツライ」というマゾヒスティックな連帯感が、誰を救うというのでしょう?


図書館で借りてきた塩田明彦の『映画術』を読んでいる。
国内外の映画のワンシーンずつを実際に検証しながら、「何がどう面白いのか」具体的に腑分けしていく。
「映画館で泣けたから、優れた映画」「退屈したから、価値のない映画」など感情的な評価のまかり通る日本では、ひょっとすると、シーン単位の分析など邪道あつかいされかねないのが、恐ろしいところ。

楽しいことにも悲しいことにも、裏側に駆動しているメカニズムがある。泣くとすれば、そのメカニズムを自力で解明できない――理不尽に行き当たったときだろう。理不尽にぶつかるまでは、理由を調べ、考えなくてはならないのだ。

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2016年2月 3日 (水)

■0203■

TOHOシネマズ新宿にて、『傷物語 Ⅰ鉄血編』。いちばん狭いスクリーンだが、満席だった。
このアニメの現場に参加した方によると、もともとは3時間の映画を一挙に上映する企画だったという。それと、背景美術がテレビ・シリーズとはまったく違う……前情報は、その程度だった。
Main_large1970年代後半から、テレビアニメが総集編という形で「実写映画」のフォーマットを獲得し、それ以降、「映画的」というフレーズは、アニメを修飾する誉め言葉として使われてきた。
だが、尾石達也監督の『傷物語』は、「映画的」という決まり文句をはねのけ、「動く絵」という見世物から再出発している。キャラクターの線は、ラフ原画のように乱れるし(あれを動画としてクリンナップするのは、むしろ猛烈な手間になる)、背景の3分の1ほどは3DCGで描画されている。テレビシリーズで特徴的だった望遠レンズで撮ったような詰まった絵ではなくなり、空間は広々としている。そして、実写素材をも取り込んだ質感は、既視感を呼び起す。

その既視感は、これまで見てきた「劇映画」とは、まったく関係がない。むしろ、Tumblrで遭遇するような、前後の脈絡のない、断片的な実景写真と強く結びついている。
だから、『傷物語』は「映画的」ではない。単に「絵」、時間をもった「絵」=映像としてのみ、かろうじて形を保っている。


しかし、ここで使われている「絵」は、テレビアニメの「セル画」とも、どこか様子が違う。
Sub4_large僕は、キャラクターの色調がとても気に入ったのだが……おそらく、[pixiv]で不意に見かけるような「キャラ絵」なのだ。「動く」ために簡略化された、汎用性のある絵には見えない。ふいにネットで「ツボを押さえた、いいキャラ絵」を見かけた印象に似ていて、それはやはり「映画」を見たあとの感覚とは、ほど遠い。
「優れた作画」「枚数のかかった動画」以前に、それは「時間を含有したキャラ絵」なのだ。

少し前のブログに、アニメは映画よりも「芝居」の側面が強いと書いた。それは、ラジオドラマのように音声で物語っているからだ。セリフさえ明確なら、口が動いていなくても絵が間に合わなくても、「劇」として成立してしまうのがアニメだ。
ところが、『傷物語』終盤に登場するキャラクターたちは、明らかに日本語を話しているのに、一言も聞きとれないような効果が施されている。『傷物語』には、輪郭がない。「ここからここまで描きます」と、範囲を決めていない。不定形だ。

たまたま映画館で上映されているから「映画」と呼ばれ、線画が動くから「アニメ」と称されているにすぎない。
これは、刺激的な体験だった。僕が見たのは「アニメ映画」ではなかった。昭和40年代、まだ都心に残っていた紙芝居屋を思い出したが、もちろんそんな懐古的なエンタメでもない。
三部作を最後まで見れば、何らかの結論や満足感が得られるとは思えない。できれば、三本別々につくって、一本ごとにコンセプトを変えてほしかった。あるいは、3時間、一気に見たかった。(念のため言っておくと、第Ⅰ部は「さて、これから」という、実にきれいなタイミングで幕を閉じる。)


帰りの電車の中で、塩田明彦の『映画術』のつづきを読もうとしたが、頭に入らない。
黒澤明の『醜聞(スキャンダル)』を昨夜、レンタルで見たのだが、それについて書く気も失せた。

僕は、『化物語』放送前、西尾維新さんと尾石達也さんにインタビューしたが、もちろんそんなところに手がかりはない。
『傷物語』は、あのころとは別次元に遷移した。たぶん、尾石達也さんの頭の中で「何かが起きた」のだ。そうとしか思えない。
ともあれ、めったに味わえない緊張と開放に出くわすことが出来た。物語が途中で終わっていることなど、もちろんどうでもいい。

僕の中に新たな「尺度」ができたこと、それが嬉しい。

(C)西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト

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