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企画展『マンガと戦争展 6つの視点と3人の原画から+α』、行ってきた(■)。壁一面に貼られた、こうの史代さんの原画へ、まっしぐら。アクリル板に挟まれてはいるけど、目の前数センチまで近づいて、じっくり見られます。
「原画を持ってきて並べれば、かならず有意義な展示会になるのか」と言うと、「印刷物で代替できる部分が大きいんじゃないの?」「写真を撮って並べても同じじゃないの?」と、僕は覚めているというか、きわめて鈍感なところがあります。
だけど、こうの史代さんの原画の場合、数センチ前で見て、「こっちが本物であって、印刷された本は、普及のための手段にすぎないのではないか」とさえ思えてきました。
『この世界の片隅に』は、ラスト9ページ分の、モノクロから見開きカラーへ変わるパートが、展示されています。文字が、手書きから写植に変わるパートでもあるので、こうのさん直筆の指示も見られます。
小学校の図工で、はじめて画用紙に鉛筆で線を引いたとき、水彩絵の具で色を塗ったときの感触が、手に蘇ります。失礼な話かも知れないけど、その原体験があるから、目の前の原画を、身近に感じられるんだと思います。
すると、一本一本の線について、「どうして、こういう引き方をしたのか」「こっちとこっちでは指の描き方が違うけど、なぜなのか」と気になってくる……その瞬間が、面白いんです。
色にしても、青く沈んだ部分に、オレンジ色で、スッと輪郭線を入れたりしている。原画を前にしていると「なぜオレンジ色を入れたのか」分かる気がする。だけど、単行本を開いて見直しても、同じオレンジ色が、漠然とした雰囲気の中に溶け込んでしまっている。
「意図を言葉で解釈しないと、落ち着かない」。その不安な気持ちから、原画の前にいる間だけは、解放されるのです。
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『この世界の片隅に』の上に、『夕凪の街』の表紙用カラー原画と、『桜の国』のモノクロ原画が展示してあります。こちらの方が達者というか、「ここにわざと余白をつくって、こっちを描きこんで密度を出している」など、トータルな意図が分かる。「上手いな」と思わせる。
ところが、『この世界の片隅に』は、培ってきた技術や手癖に流れず、ベタで塗りつぶさずに線を重ねて暗くするとか、あえて効率の悪い描き方をしている。そのテクニック上の選択と物語とを、安易に結びつけたくはないです。「作家さんが何を考えているのか」は、途方もなくスケールが大きいので。
(ただ、『この世界の片隅に』のほうに“執念”を感じたのは、確かです。)
僕も展覧会をやりたいと思っているので、原画を収めたアクリル板を、どうやって吊るしているのか、会場の細部も見てきました。
解説文のパネルのサイズや枚数。企画の意図を大きく記すだけでなく、モノクロでいいから、企画内容のレジュメを持ち帰れるよう、設置しておいたほうが親切だとか……。
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あと、常設展示だと思うんだけど、米沢嘉博さんがコミケを始めるときに記した、直筆のメモには、かじりつくように見入ってしまった。
気負いもなく、サラリと「簡単なことです」と書かれていた。そのフットワークの軽さ、楽観を、うらやましく感じる。
御茶ノ水駅から米沢嘉博記念図書館までの経路に、僕が通っていた美大受験のための予備校がある。僕は、絵の道具を、その予備校に捨ててきてしまった。
絵に「挫折」したなんてカッコいいものではなく、絵に対する「情熱のなさ」に気づいて、その場を立ち去ったにすぎなかった。
ウソを自らウソと認め、すべて脱ぎ去ったあとにも、武器は残ると思う。
表現規制に反対する署名などを集めていたころ、「自分には実行力がない」と意気消沈している人に、何人か出会った。実行力のない人間など、僕はいないと思う。「メールを一通出す」ぐらいなら、誰にでもできるはず。その貴重な、マッチ一本分の情熱を「ネットで愚痴る」という形で毎日、無駄に燃やし尽くしてしまっているにすぎない。
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