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ある人から強烈に推薦されたので、レンタルで『トゥモローランド』。この映画には、引き込まれた。途中から、どのようにカメラワークが機能しているか意識しようと努めたが、実に適切だった。PANにもズームにも、すべて目的があった。明らかに合成でないと撮れないショットには、合成である意味があった。説明しない部分には、説明しないなりの理由があった。デザインは「問題解決能力」が問われるというが、すべてのデザイン、ひとつひとつのアイデアに必然性があった。
そのうえで、「絵に描いたような未来」を、「絵」として描いている……いや、「絵」に見えないと困るから、そのように未来を描いているのだ。
映画に「始まり」と「終わり」があるからには、つねに「次はこうなるのではないか」という、観客の予想がつきまとう。その予想のひとつひとつが、小さなトゥモロー(明日)だった。
「この映画そのものが比喩だし、フィクションであることに意義がある」と宣言するかのような、「力強い空虚さ」のような作品だった。
頭の悪い僕が言うのも気が引けるが、意志を表明するには、やはり理屈が必要なのだと痛感させられた。
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そして、ディズニー映画であることからも、劇中にパロディが登場することからも、『スター・ウォーズ』最新作との比較は避けられなかった。
『トゥモローランド』もまた、若い女性と初老の男の冒険物語だ。そして、クライマックスに犠牲者が出る。だが、『トゥモローランド』は登場人物の意志が明確で、誰もが事態を前向きに好転させるために行動する。『フォースの覚醒』は、あらゆる問題を次回作に先送りしすぎて、誰が何を達成したいのか、さっぱり分からない。貫徹目標がない。そのくせ、悩んだり閉じこもったり殺したりすることで、内向的な何か……「心」を描いた気になっている。
映画は時間と運命をともにしているので、描いたそばから消えていく。
映画は、それを目撃した人間の記憶の集積でしかない。それをわきまえた映画は、美しい。観客の甘い記憶に、ずっぽりと頼りきった映画は、見苦しい。後ろ向きだ。
『フォースの覚醒』は、やっぱり、根底に「あきらめ」があるんだ。今までの『スター・ウォーズ』は超えられないし、フォースやジェダイに代わるアイデアも、ライトセーバーに代わる武器も考えられない。というより、考える理由がない。だったら、せめて固定ファンを怒らせないように気をつけよう、気を使おう……そんな臆病さが、映画全体をどんよりと暗く、重くしている。
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『「もののけ姫」はこうして生まれた』を見ると分かるんだけど、去るものに対して、どれだけ謙虚でいられるかが、品位を決める。映画は一秒24フレームしかない。一秒を100フレームにも200フレームにも引き伸ばさないと描けないとしたら、それはもう、つくるべき映画ではない。企画の時点で、なにかミスしているんだろう。
映画に限らない。制約のない仕事は、どんどん雑になっていく。焦点がボケていく。
シナリオの教則本に書かれていたことだが、セリフを書くときのコツ。「真実は、強く短く。ウソは冗長に」。
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コメント
あなたは本当になんでもけなすのが得意ですね
あなたが書いた文章はどれを読んでも気分が悪くなります。
投稿: timtim | 2016年2月21日 (日) 10時32分