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2016年1月31日 (日)

■0131■

アニメ業界ウォッチング第17回:5周年をむかえた「立川×アニメ」、聖地巡礼にとどまらない次の一手は? 立川観光協会・岩崎太郎インタビュー!
T640_698397『とある~』シリーズ、『ガッチャマンクラウズ』シリーズなどで、聖地巡礼の地としてファンを受け入れている立川市へ、取材に行ってきました。
アニメイトさんへの取材と同様、作品とファンをつなぐクッションのような役割をしている人たちに興味があるんですけど、読者は、もっと作品の内側に入りこんだ記事を読みたいのかも知れません。それだと先鋭化して、横へ広がっていかないのではないか……という危惧は、常にあるんですけど。次回は、アニメ監督さんへの取材です。


「ガルパン、キャラの見分けがつかない」問題 映画監督・金子修介さんのツイートにさまざまな反応(
たまに見かける、残念なネットの光景。とにかく、同質性を求めたがる。個人攻撃によって仲間を得よう、自分は多数派だと思いたがる。

僕がこの件を知ったときには、金子さんを擁護する声が多数あがっていたけど、中には「金子修介って誰?」と、よく分からないまま叩いている人もいた。自分から調べよう、歩みよろうって姿勢が、根づいてない。金子さんを、なぜか「サヨク」と呼んでいる人もいたし……。
表現規制反対のムーブメントでも、ちょっとでも反対意見が出てきたら、「誰こいつ?」から始まって、「また○○の一派か」と手近なカテゴリーに分別して、手っとり早く嘲笑しはじめる。自分から譲歩しようとか、相手と同じ地平に立って対等に話そうとかは考えないんだよね。
結果、「気持ち悪い連中にからまれた」「オタクたちにバッシングされた」という口実を、相手に与えてしまう。

オタクであることって、自分の怠惰さとか、性根の悪さを克服する戦いなんじゃないかと思っていたけど……防衛本能から生じる過剰な攻撃性が、人を「オタク」という人格パターンに落とし込んでしまうのかも知れない。アニメが好きとか、趣味・嗜好は二の次であって、まずは人格なんだろうな。
(人格は先天的に決まっているものではなく、努力次第で改善できるはず。それをあきらめたら、底なし沼にはまる。)


昨夜は、20年ぶりに再会した学生時代の知り合いと、渋谷で飲んだ。
20代の僕は、つねに焦っていて、他人への気配りに欠け、彼に対しても横暴にふるまっていた。今は利害関係もないし、彼には家族があるし、適度な距離感ができていたように思う。

最後に、新作『スター・ウォーズ』と、ディズニーが半永久的にシリーズを継続していく話になった。『スター・ウォーズ』について、彼と話すのは初めてかも知れない。
彼が言うには、「一度、『スター・ウォーズ』というコンテンツを終わらせて、リニューアルするには、今回のような作り方しかなかったのではないか」。作品として斬新なものにしたら、すぐ息切れしてしまう。それは、僕も同意見。
その反面、細部は荒っぽく、おかしなシーンの連続だった……というのも、同意見。
世間で評価の低いエピソード1~3は、24フレームのデジタル撮影を全編初導入した。今回の新シリーズは、すべてフィルム撮影に戻しているそうだ。『フォースの覚醒』はIMAXに対応するため、部分的に70mmフィルムを使っている。
ハードも重要だけど、ソフト面は、今後も簡略化されていくのだろう。今では、山のように作られたスピンオフ小説や続編コミックさえ、愛らしく思えてくる。映像作品がとぎれ、フィギュアや紙媒体、あとはせいぜいゲームで命脈を保っていたころの、『スター・ウォーズ』“冬の時代”。当時はバカにしていたけど、今後、ディズニーが量産する無数のエピソード群よりは、原典に近い場所にあるはず。

僕は、1978年に出版された『スター・ウォーズ』のノベライズを本棚から引っ張りだし、枕元に置いた。プロローグには「ホイルス星系誌」と書かれている。それは、1973年にジョージ・ルーカスが考えた『スター・ウォーズ』の仮タイトルなのだ。そんなディテールのひとつひとつが、僕の胸をしめつける。

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2016年1月27日 (水)

■0127■

ガルパンFebri 発売中
2e80ac5f08bcaa44e6c040fbd1b14e6e2「俺のガルパン愛を聞け! 」コーナーの田村尚也さん、浪江俊明さん、高久裕輝さんのインタビュー。
それと、マックスファクトリーの「figma Vehicles IV号戦車D型 本戦仕様」のレコメンドを書きました。まあ、お手伝いのさらに手伝いです。

 


黒澤明の演出を研究した動画“Akira Kurosawa - Composing Movement”を見てから、どうしても再見したい映画があった。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』である。昨日、準新作レンタルが200円の日だったので、借りてきた。昨年初夏のマスコミ試写以来である(その試写会では誓約書を書かされ、「試写会があった」事実すら口外してはならなかった)。
Jpphotosub1rev2mmfr_large試写直後の感想は、「ちょっと待てよ、年末公開の『スター・ウォーズ』って、この映画に勝たないといけないの? そりゃ無理な気がするぞ……」であった。
そんな感慨もあってか、頭の中で『フォースの覚醒』の登場人物を『怒りのデス・ロード』のキャラクターに置き換えて見ていた。砂漠の惑星から逃げのびたい少女、レイ。彼女に手をかす、謎の不良老人ハン・ソロ、悪の軍団を裏切って仲間になるフィン……次々と不具合に見舞われつつも、3人を乗せて飛びつづける老朽船ミレニアム・ファルコン号、次々と襲いかかる様々な形をした悪のスターファイター、ソロの旧友のお婆ちゃんパイロットたちが加勢し、最後にファルコンとソロが、レイとフィンを逃がすため、犠牲となって……なぜ、そういうシンプルで大胆な映画にできなかったんだ!?
(もちろん、ソロはレイに名乗らない。レイも「ボロ船の操縦の上手いジイさん」としか認識しない。観客にだけ「あれはハン・ソロだ」と分かる趣向でね。作り直そうや!)


それはさておき、『怒りのデス・ロード』の研究・解析は、さまざまな人がやった後だと思う。
二度目を見ながら思ったのは、映画という表現は「四角く切りとられたフレーム」しか使えないこと。カットの前には別のカットがあり、カットの次には別のカットがある、その制約が武器にもなるし弱点にもなる。そして、映画はいちど始まったら、時間と運命をともにしなければならない。1コマたりとも、無駄にはできないのだ。

たとえば、砂嵐の中に突っ込んだニュークスが、マックスを車に乗せたまま、自爆しようとする。カメラは運転するニュークスのバストショットから、彼の左腕の動きを追い、ティルト・ダウンする。ニュークスの左手は、ガソリン・タンクのキャップを開ける。床にドバッとガソリンが広がる。そこで、このカットは終わり。この動きのあるカットで、ニュークスが妙なことを始めたと分かる。次のカットは、驚いているマックスの正面アップ。フィックス。
いうなれば、ニュークスがガソリンを床に流すカットは「起→転」、マックスの驚きのカットは前カットの「承」。と同時に、マックスが危機を感じて次の行動を起こす「起」のカットも兼ねている。「起→転」と「起→転」がつながった場合、画面は十全に時間を使いこなし、我々は「息もつけない」体験をする。

映画をつまらないと感じるとき、たいてい我々は「起→結」のみで完結したカットの、単調なつらなりを見せられている。(たとえば、人物の会話シーンで、単なるフィックスの切り返しを見せられている。)
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』がアッという間に終わってしまうのは、「起→転」のカットで、大半が構成されているからだ。


『怒りのデス・ロード』で最も秀逸なシーン(カットの連なり)は、マックスがフュリオサたちに砦へ帰るよう、提案するところだ。バイクを走らせるマックスのバスト。マックスのバイクがフュリオサたちのバイクを追い抜かしていくロング。停車するマックスのバイク、奥にフュリオサたちのバイク(フルショット)。三つのカットが、起・承・転を構成している(転のカットで、マックスはバイクの向きを変えている)。

その後、フュリオサ側からの切り返し、地図のアップなどが入るが、マックスの提案に、皆がリアクションするカットが見事だ。フュリオサがバストサイズで中心にいて、奥に他のメンバーがいる。メンバーたちは「頭がおかしい」と口々に反発し、バイクを降り、手前に歩いてくる。だが、フュリオサだけは動かない。彼女だけが、マックスの提案を真に受けているからだ。
このカットが繰り返されるたび、メンバーたちはマックスの提案に乗り気になっていく(同時に、フュリオサのように動きが少なくなっていく……すなわち、意志が統一されていく)。
最後に、フュリオサは真後ろを振り返る。反対側にカメラをすえた“ドンデン”と呼ばれるカットだ。フュリオサの視線の先にはニュークスがいて、彼は「希望はあるぜ」と、マックスの提案に太鼓判を押す。そのためのドンデンだ。マックスとニュークスが、フュリオサたちを挟んで位置していたことが、シーンの終わり近くに分かる。なんという、美しい構成だろう。

 

映画には、時間と空間しか道具がない。しかし、カットワークというチャンスが与えられているのだ。(そして、我々が映画を「面白い」と感じるとき、カットは時間と空間をくまなく使いこなしているのである。)

 

(C)2015 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED

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2016年1月26日 (火)

■0126■

月刊モデルグラフィックス 3月号 発売中
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組まず語り症候群 第39夜
今月は、『バットマン』と『サイボーグ009』のプラモデルを取り上げて、ヒーローの模型について語っています。
『バットマン』は担当氏、『009』は、僕がたまたま入手したものですので、なかなか珍品だと思います。

それで、このグダグダな連載も、次回からコーナーがひとつ増えます。そのコーナーがメインになって、「組まず語り」がオマケ化する懸念もありますが、まあ、そうなってもいいのかな……程度の気持ちでいます。お楽しみに!


レンタルで、『ヘンゼル&グレーテル』。日本では劇場公開されず、DVDのみの発売。一部に、熱狂的ファンがいるらしい。
71wyszofwl_sl1000_魔女を焼き殺したのち、成長したヘンゼルとグレーテルの兄妹が、魔女専門の賞金稼ぎとなって活躍する、アクション映画。
子ども向けではないので、さまざまな武器で魔女を倒すシーンはブラック・ジョーク的に残虐に描かれている。ヘンゼルが、子ども時代に食べさせられた魔女のお菓子のせいで糖尿病になっていたり、細々とした設定は面白い。

おそらく、映画は「アイデア」を具現化するのに最も適したツールなのだろう。
全6部作の『スター・ウォーズ』は、作家の頭の中に渦巻いていたアイデアのマグマに、「映画」という形式的・具体的な制限を与えた。「映画」が存在しなければ、『スター・ウォーズ』というアイデアのブイヤベースは、他人の目に見える形にはならなかったに違いない。

前回は、黒澤明の演出の機能性について触れたが、映画という不可解なメディアの役割は、なにも「作品」として鑑賞されることだけではない。
あえて「芸術」という言葉を用いるなら、「娯楽」と「芸術」が不可分な時代があった。いや、今だって「娯楽」と「芸術」は不可分なのだ。その証拠は、誰かが探して、誰かが書きとめていかねばならない。


日本語吹き替え版『RWBY』を見たとき、あまりの出来のよさに、音響演出の打越領一さんにインタビューを申し込んだ()。
昨日は『ブブキ・ブランキ』の取材だったんだけど、それはやはり「絵」の取材であって、ポスターカラーで描かれた絵が、いかにして空間を獲得していくか……そういう話であった。

僕は、日本のテレビアニメは、漠然と「映画よりも人形劇に近い」と思っていた。
Bbkbrnk『RWBY』も『ブブキ・ブランキ』も、声優たちが視聴者に対してではなく、作中人物に向かって語りかけている。「そんなの当たり前だろ」と反論されそうだが、果たしてそうだうか(おそらくは、恋愛シミュレーションなどのゲーム文化が、「ユーザーに語りかける」役職を声優に与えたのだろう)。
実写映画では、俳優が聞き取れないぐらいボソボソ話しても、ニュアンスは伝わる。ニュアンスさえ伝わればいいのだ。
アニメが映画よりも「劇」なのは、一字一句、すべて聞かせる必要があるからだ。すべからく、声優はハキハキと喋らなくてはならない。だが、視聴者に好感度を与える必要まではない。憎まれ役には、いやらしい卑屈な話し方をしてほしい。それでも、僕らはちゃんと魅力を感じる。『RWBY』でも『ブブキ・ブランキ』でも、視聴者に向かって媚びたような話し方をするキャラクターはいない。

「お芝居」としての声優の技は、ほとんど語られてこなかった。声優さんご本人にインタビューしても、よほどのベテランでないかぎり、技術的な話はしてもらえない。
なにか、いい手はないかなあ……と考えはじめている。

(C)2013 Paramount Pictures Corporation and Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All Rights Reserved. TM, (C) & Copyright (C) 2013 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.
(C)Quadrangle / BBKBRNK Partners

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2016年1月23日 (土)

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ホビー業界インサイド第7回:説明図どおりに作るだけで、プラモは楽しい! プロモデラー、松本州平インタビュー!
T640_697606中学時代に「ホビージャパン」誌で愛読させていただいた、伝説のモデラーさんに取材できました。
僕は、一生分のボキャブラリーは、中学~高校に読んでいたテキストによって、その素地ができあがると思っています。なので、当時のホビージャパン~モデルグラフィックスの記事で使われていた言い回しは、死ぬまで抜けないでしょう。
この記事で、「~でしたねえ」という語尾を多くしたのは、当時のホビージャパンを意識しました。

でも「懐かしいから」ではなく、現在のプラモデル・ブームに加速をかけたいから、キャラクター性の強い松本先生に、ご登場願ったんです。


黒澤明作品をきちんと見直そうと思い、レンタルで『わが青春に悔なし』。1946年、GHQの占領下で公開された映画だ。主演は、原節子。
20120903115604123時代背景もストーリー展開も、不勉強ゆえ、よく分からなかった。だが、前回紹介した動画“Akira Kurosawa - Composing Movement”のおかげで、十分に演出を楽しむことができた。
複数の人物が、椅子に座って話し合っているようなシーンでは、背景にコーヒーを淹れてまわる人物を入れて、動きをもたせる(その人物のリアクションによって、会話内容の深刻さが分かる。効率的だ)。
あるいは、原節子が座って思いつめている。そこへラジオ放送が流れると、原の周囲に座っていた者たちが一斉に立ち上がり、ラジオに聞き入る……が、原は座ったままだ。原のかたくなな気持ちが、“動かさない”演出で伝わってくる。

冒頭近く、川沿いの道を原節子と藤田進が、画面奥へ、楽しげに走っていく――手前には、川が流れている、カットの終わりちかく、他の学生たちの足が大きくフレーム・インして、上手から下手へ、川を渡っていく。原と藤田は下手から上手に走っているので、ちょうど逆方向の動きだ。フレームサイズも、ロングとアップ。対照的だ。それだけで、画面にリズムが生まれる。
さらに言うなら、原と藤田だけが特別な二人で、あとの学生たちは「その他大勢」である……と、この冒頭ちかくのワンカットで説明できている。機能的だ。セリフに頼ることなく、映画の全体像を示している。

果たして、役者の動く方向やサイズは、瑣末なことなのだろうか? 「細かいことはいい、ストーリーが大事だ」「映画に魂がこもっているか、愛情があるか」といった抽象的な話に、僕たちは話をそらしたがる。魂も愛情も、技術を使わねば伝えることができないというのに。


今月は、あと一件、取材がある。春には、単行本が出るという。その本の取材も、どんどん入れていかないと、執筆時間がとれない。
なので、毎年3~4月に行っている海外旅行は、秋になりそう。秋なら、単行本の印税も入っているし、ちょうどいいだろう……もし、本当に出版されるなら、の話だが。

(C)1946 Toho Co.,Ltd.

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2016年1月19日 (火)

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火曜日は、準新作が200円レンタルなので、TSUTAYAで『キングスマン』。スパイが主人公ではあるけど、『キック・アス』同様、ヒーロー物のパロディといった趣き。
Sub6_large_2冒頭にマーク・ハミルが登場する。愛嬌のある丸々とした老教授の役で、とても可愛らしかった。隠遁した元ジェダイ騎士を無理やり演じるより、こっちの方が断然、ハマリ役。
配役も含めて、思いどおりに撮れないところから、映画の個性が滲み出してくるような気がする。そういう意味では、『キングスマン』はフレーム単位まで監督がコントロールしすぎる。良くも悪くも、コントロールの行き届いた映画ほど、監督の限界が露呈しやすい。

だからこそ、黒澤明の映画演出を徹底研究した動画“Akira Kurosawa - Composing Movement”を見ると、その計算力に舌を巻く。必見。

「視覚的刺激こそが観客の心を動かす。そのために映画はある」……われわれの情動は、映画を駆動させるメカニズムによって生じる。この動画を見れば、分かるはずだ。


スキーバス転落事故で起きたソーシャルメディアの顔写真「引用」報道への批判
「公表された著作物は報道、批評、研究などの目的であれば出所を明らかにするなどのルールを守っていれば問題になりません。」
「誰もが見えるところに何らかのコンテンツを公開するということは、報道、批評、研究に引用されても仕方がないということです。なお引用は許可を得る必要がありません。」
……これらは常識の範囲なのだが、自覚している人は、そう多くないような気がする。

上記記事の本質は、次の一文につきる。
「今回のスキーバス事故でも、容姿についてタイトルに出したまとめサイトもあり、拡散されています。顔を見てみたいという読者の欲望から、目をそらしては議論は進みません。」
「事故死した被害者の顔ぐらい、見る権利あるよね」とか思ってません? では、あなたが死んだあと、あなたの容姿について、あれこれ言ってもOKですか? それはイヤだとか言うんだろうね? そんな自分を卑怯とも姑息とも思わないんでしょ? それぐらい、日本人の権利意識は低いと思う。権利・尊厳について、議論してより良いものに高めていこうって意志も、まるで感じない。この社会には、向上心が欠落している。 

僕の提出した【実在児童への性暴力写真に関する請願書】()が、要所要所で無視されているのも、無理からぬ話に思えてくる。 「犯罪にあった児童の権利擁護」という観点から“児童ポルノ”法をとらえる人が、絶望的に少ないからだ。


上記記事と並んで、「お受験ポルノにご用心」というコラムがあった()。
著者はフードポルノを「広告、インフォマーシャル、調理実演、その他の視覚メディアでの、調理や食事における魅惑的で豪勢な視覚表現」と、解釈している。

さらに著者は、コラムをこう結んでいる。
「性的なポルノやフードポルノ、キャリアポルノが現実とちがうことを自覚するのと同じ程度には、お受験ポルノが現実とはちがうことも自覚しておくべきかと思う。」……著者は無自覚なようだが、 「ポルノ」という言葉は、容易に「現実とちがうこと」に結びついてしまう。「児童ポルノ」と呼んでいるかぎり、犯罪過程で撮られた画像は「現実とはちがう」「視覚表現」へと、曲解される。曲解されるたび、性犯罪にあって無理やり写真をとられた児童の尊厳は、何度も何度も忘却される。
他でもない、性犯罪撲滅をうたう人たちが、真っ先に忘れる。無視をする。調べない、考えない。この社会は、いくらでも無知に、無慈悲になれるのだ。

(C)2015 Twentieth Century Fox Film Corporation

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2016年1月18日 (月)

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秋元康プロデュース……と聞くと、まっさきにアニメ『ICE』を想起してしまうのだが、その『ICE』と同年公開の原田眞人監督作『伝染歌』を、レンタルしてきた。
146984_1原田監督は、『おニャン子・ザ・ムービー 危機イッパツ!』でも秋元氏とコラボしていたよなあ……と、冒頭のアイドル映画パートを見ていて、思い出した。女子高生を主役にした原田作品といえば、『バウンス ko GALS』なんかもあったよね。あのギャング映画風のハードボイルドな味わいも、ちょっと入っている。
『伝染歌』は、直線的に理解することを妨げる要素で、いっぱいだ。アイドル映画のシークェンス、ホラー映画のシークェンス、自殺社会について饒舌な社会派映画のシークェンス、すべてバラバラに撮影し、思いつくままに前後を入れ替えてつないだかのような、水平に広がった映画。


絶妙に面白いのは、松田龍平の演じる雑誌記者が、自殺願望をよびさます“伝染歌”に呪われてしまった女子高生たちを、自分の実家にかくまうパート。松田の実家は、山奥にある豪奢な旅館で、彼は大広間にお札を張って、悪霊の侵入をふせごうとする。女子高生たちを“エンマさま”と呼ばれる霊能力者に会わせて、彼女たちの自殺を防ぐため、寝ずの番をする。
驚くべきことに、このパートでは“伝染歌”の設定は、ほとんど忘却されている。そのかわり、松田は“餓鬼”を恐れはじめる。(餓鬼は「最下等の幽霊」らしい。もはや、歌い手の呪いがこめられた“伝染歌”とは、何の関連もないのである。)
そして、CGで描かれた数匹の“餓鬼”が現れるのだが、彼らは普通のオバチャンである“エンマさま”に、カップ麺の汁をかけられて退散する。“餓鬼”たちの質感はCG丸出しだが、“エンマさま”に会うまでのプロセスは、セリフのひとつひとつが念入りで、奇妙なリアリティがある。それと同時に、松田龍平の真剣すぎる演技が、笑いを誘う(彼だけは、空中分解した支離滅裂な映画に出演している自覚は、あったと思うんだよな……)。


回想シーンで、大島優子演じる少女の家に、ヤクザたちが乗り込んでくる。ヤクザの一人が、少女の父親の書いた原稿をわしづかみにして、怒鳴る。「俺の大好きな大好きな、スティーブン・キング先生のパクりじゃねえか、この野郎!」……一応、シリアスなシーンのはずなんだけど、「ヤクザがスティーブン・キングのファンだった」という無意味なギャグが挿入される。
原田監督は同年、『魍魎の匣』も撮っているので、『伝染歌』はどうでも良かったんだろうな……。だけど、『伝染歌』のほうが面白いんだよ。「企画」というホワイトボードに、整然と「脚本」が書かれたのに、原田監督がゴシゴシと素手で消しちゃったような破壊力がある。

監督(作家)が軽視すればするほど、作品は自律性を獲得していく。「企画」としての側面以上に、すったもんだの撮影やポスプロの挙句の「結果」が無様なほどに露呈し、世の中での役割を終えた僕のような人間が、そこに「価値」を見出す。誰かがゼンマイを巻いたら、止まってしまう前に、誰かが巻きなおさなければならない。さもなくば、文化は消滅する。
それに、いくら監督が投げていたとしても、原田作品に特有のドキュメンタリックなカメラワークと、セリフを言う直前でバツンとカットを切ってしまう大胆な編集は健在で、もしかすると、「脚本」という完成品を切り刻むために「演出」が存在するのではないか、映像作品と脚本とは、そもそも拮抗する関係にあるのではないか……そんな疑念が、頭をもたげてくる。

ネットで、『伝染歌』のあらすじを丁寧に書いたすえ、細かくツッコミを入れているサイトさんがあった(ポンコツ映画愛護協会)。少しだけ引用させていただくと、“何がどう分からないのか具体的に書きたいのだが、「何がどう分からないのか」が分からないぐらい、終盤の展開は支離滅裂でデタラメ なのだ。”
この映画を語ることは、まさしく、言語を絶する。言語を絶するために、映画は撮られつづけるのかも知れない。

(C)「伝染歌」フィルムパートナーズ

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2016年1月16日 (土)

■0116■

レンタルで、『クレイジー・ドライブ』。「アクション」「コメディ」とジャンル分けされていたが、どちらともつかない、不思議な映画。
Stretch_62967_25545パトリック・ウィルソン演じる、ストレッチという男が、黒いリムジンに乗って、時間までに金を届けようと必死になっている。だが、さまざまな客から、つぎつぎと奇妙な依頼をうけ、どんどん時間がなくなっていく……その一晩を描いた、シンプルな映画だ。

ストレッチの前任者は、カールという優秀な男だった。カールは、なぜか拳銃自殺してしまったのだが、ストレッチがネガティブな思考に陥ると、別人格のように彼の背後にあらわれ、「酒はどうだ?」「コカインもいいぞ」と陰気にささやき、挙句は自殺を薦めさえする。
一方で、ストレッチはピンク色の車をたびたび見かけ、それを吉兆だと思い込んでいる。ピンクの車のナンバープレートには、「運命」という文字が書かれている(ように、ストレッチには見える)。
どこか神経症的で、知的なムードに彩られた映画。「お前という人間は自立支援型か、それとも環境配慮型か?」といったセリフが、一種のギャグとして使われる。その意図や暗喩は、分からない。むしろ、「分からない」からこそ、ギャグとして機能しているのだ。


大学生のころ、夜中にリュック・ベッソンの『サブウェイ』を見た。途中から見たので、物語などは分からない。女優の美しさ、突拍子もないセリフ、ひとつひとつのシチュエーションが面白く、翌日、興奮して、友だちに話した。「その映画のタイトルは、『サブウェイ』だろうな」と指摘され、レンタル・ビデオ店で借りて、最初から見直した。

すると、意外と面白くない。「どんな物語なのか」順番を追っていくと、とたんにシーンの意味や意図が気になりはじめる。あれだけ弾けていた、ファッションやセリフや音楽が、急に色あせて見えた。
――どうも、僕の頭は、首尾一貫したものを求めていない。「途中から始まり、途中で終わる」、あるいは「長い物語の、ほんの一部だけを目撃する」。自分には、とても全容を把握できない……そんな状態が、僕は好きだ。世界と自分とは、そういう関係でありたい。「すべては知らないけど、その良さは分かっている」。そんな状態が、好ましい。
僕の、そんな嗜癖に、たまたま映画という形式が答えてくれているに過ぎない。

大学の講義で習ったのは、「脚本が出来上がったら、ラストシーンを削除する」。すると、ハッピーエンドともバッドエンドともつかない、余韻のある終わり方になるという。たまに、見た映画のラストシーンを「なかったこと」にして、そのちょっと前で終わるよう、頭の中で編集してみる。すると、ジワリと味わいが増す。


“ネットで身元隠して他人を叩いてる人は、実は「個」のつもりじゃないのかもしれない。「みんなの代表」ぐらいの気持ちなのかもしれない。”(

なるほど。確かに、匿名で個人叩きする人は、「みんなが思っていることを、俺が代表して言ってやったぞ!」「俺だけでなく、みんなで怒ろうぜ!」と呼びかけているかに見える。賛意を求めたがる。
自分の悪意や憎悪を、多数派の意見にすり替えたがるのは、ネットに限らないような気がする。「出る杭は打たれる」教育をされてきたから、誰もが多数派に属したがる。見せかけの連帯感によって、日本社会は秩序を維持している。

本当に自分にとって必要なことを為すためには、孤独に耐える勇気が必要。孤独になるのは、心から信頼できる協力者を得るのに、必須のプロセスだ。「孤独」って、ひとりで自分に都合のいい思いに耽ることではなくて、人に会っては失望し、信じたそばから裏切られる、切磋琢磨のプロセスだからね。悲しいかな、信念を貫くには、タフであらねばならんのだ。


Art of the Filmの“The Sound of the Star Wars Saga”。音楽もセリフもなく、効果音のみで構成された『スター・ウォーズ』の世界。

エピソード1~3をおろそかにしない編集に、好感がもてる。

(C) 2014 Universal Pictures. All Rights Reserved.

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2016年1月12日 (火)

■0112■

レンタルで、『幻の光』。是枝裕和監督の、20年前の長編デビュー作。
Maborosi_2江角マキコ、浅野忠信、内藤剛志……と、名の知られた俳優を使ってはいる。だが、彼らが出演しているとは、すぐには分からない。なぜなら、ほとんどが風景を主体にしたロングショットで、俳優の顔のわかるバストショットは、数えるほどしかないからだ。

ラストカットのひとつ前、窓から小さな港が見える。その港にへばりつくように、寂しい集落がある。そのカットの中では、何ひとつ動くものはない。完全なフィックス。内藤剛志演じる家の主が、子どもたちと遊ぶ声が、かすかに聞こえるだけだ。
そのショットには、時間のみが流れている。かすかに重たい映画全体を、その微動だにしないフィックスの絵が、どっしりと支えているように見える。

僕は、押井守監督の「映画をつきつめていくと、アクションだけが残る」という言葉が好きだ。それは「アクション映画というジャンルが残る」といった問題ではなく、「動き」だけが映画の本質である……という意味に、僕は解釈している。ある実験映像作家の「映画は、2コマあれば成立する」という言葉も、同じフィールドに属している。1コマなら写真だが、2コマならば、(たとえまったく同じ絵でも)そこからが先が映画なのだ。
そして、『幻の光』を見ていると、それらの言葉が、より錯綜して聞こえる。この映画に散見される、ピタリと静止したショットは、果たして沈滞しているのだろうか? 僕がそのショットを十秒見ていたとしたら、十秒間のあいだに「何も起きなかった」と断言できるだろうか?
そのような疑問から、実は「見る」行為が始まるような気がする。


『幻の光』で、もうひとつ。
浅野忠信が自転車を盗んできて、その自転車を江角マキコと二人で、公園で塗装しなおす。江角は「あ、おまわりさんや」と、フレームの外を見ながら言う。浅野が笑うので、それが冗談であると分かる。このとき、カットを切り替えて「おまわりさんがいない」ことを説明することも出来たはずだ。浅野がハッと視線を上げた直後、無人の公園を映せば、その2カットで「おまわりさんはいない」と、僕らは理解できる。
ところが、『幻の光』は、僕らの読解力に頼ろうとしない。おかまいなしに、江角が浅野をからかった、二人の親しさにだけカメラを向けつづける。しかし、「もしかすると、本当に、おまわりさんが通りかかったのではないか」「そのまま、おまわりさんは通りすぎてしまっただけなのではないか」という可能性は、映画に残りつづける。


映画では、誰かがフレームの外を見ながら「怪獣だ!」と叫べば、そこに怪獣がいることになる。そのような約束事を用いて、「怪獣のいる世界」を作り上げる。
この映画の前半で、浅野忠信は姿を消す。数少ないやりとりから推測すると、線路上で自殺したらしいと分かる。彼の遺体は、映画には出てこない。死ぬ瞬間の映像も出てこない。にも関わらず、僕らは「浅野の演じていた男は、死んでしまったのだ」と理解する。つまり、「彼は死んだことにしよう」と、映画と新たな約束をかわして、その先を見つづけることになる。「浅野は死んだらしいが、実は生きているのではないか」と疑問を残すようなら、そこから先を見ても、何も頭に入ってこないだろう。
江角マキコは、若い未亡人となり、赤ちゃんを連れたまま、やはり妻と死に別れた内藤剛志と再婚する。……と、簡単に書けてしまうのだが、それはセリフの断片からの推測にすぎない気がしてくる。僕らはよく「ストーリーがいい」「物語が感動的だ」と言いたがる。だが、「ストーリー」は、「映画の約束事」にしたがって、映像や音声の断片から、僕ら自身が構築したものにすぎない。たとえば、「内藤剛志が妻と死別していた」ことは、映画のラスト近く、江角が「なぜ、奥さんを死なせたの?」というセリフを発することで、初めて分かる。もし、そのセリフがカットされてしまったら、内藤の役柄は、よく分からないままだっただろう。
映画の「ストーリー」は、そこまで脆弱で曖昧。なぜなら、僕たちの読解力に頼っているからだ。にもかかわらず、映画の企画はプロットや脚本なくして始まらない。その矛盾を解き明かしていく行為こそが、映画づくりなのかも知れない(『もののけ姫』のメイキングで、宮崎駿監督が、映画の「ストーリー」を考えるのに「抽象的な図形」を使っていた姿を思い出す。)

George Lucas back to the Star Wars movies
ジョージ・ルーカスを、『スター・ウォーズ エピソード9』の監督にしよう!という趣旨の署名キャンペーンが、ブラジルから始まった。
署名したけど、今回の三部作以降も『スター・ウォーズ』シリーズは続くだろう。ルーカスフィルム買収したのは、ビジネスを半永久的に続けることが目的だったのだから。
ただ、人生の半分以上を『スター・ウォーズ』に捧げたルーカスへのラブレターにはなるんじゃない? だから、署名したんだ。

(C)TV MAN UNION,inc.

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2016年1月11日 (月)

■0111■

【懐かしアニメ回顧録第14回】90年代末の混迷期を堪能せよ! デジタル化されていくアニメ界で“真実”を追い求めた「ガサラキ」!
この連載タイトルの“懐かし”は、外してしまいたいんだけど、“10年以上前の過去作を再評価する”程度の意味に受けとってください。
いつも言っているように、「泣いた」「感動した」のは、映像を駆動させるメカニックのおかげです。どのようなメカニズムが感情に作用しているのか、構造を腑分けして解析せねば、僕たちはますます怠惰になっていく。思考を放棄した結果、「理屈じゃない」「良いものは良いんだ」と、逃げ口上を並べるようになってしまうのです。


昨日は、スーパーフェスティバル70に参加しました。コピー同人誌[Fig50's]は、用意した部数の三分のCywcbmiuwaenwys二ほど売れてくれました。「50歳すぎてるけど、フィギュアを作りはじめた」「50代になる前から、現在も、ずっと趣味で作っている」という方たちと、新鮮な話をすることが出来ました。
僕のフィギュアを見て、「もし売るとしたら、いくらにしますか?」と聞いてきた人がいました。「労働力を考えると、30~50万ぐらい?」「そんなに安いんですか?」「だったら、100万円で」「いや、100万でも安すぎる!」と、彼は言いました。それは、僕のフィギュアに価値があると言いたいのではなく、「作る」行為を、どう金銭的価値に置き換えるか?という問答でした。

僕のフィギュアが受けることより、幅広い世代の人たちが、多様性のある作品をつくり、「フィギュア」の定義や価値が、豊かに広がってくれればいいと思っています。
十年前、富野由悠季さんに、フィギュアをテーマに取材しました(こちらに、当時のインタビューを書きこしていただいています。⇒)。あのとき、富野さんに言われたことに、そろそろ答えを出すべき時なのでしょう。


帰宅してから、録画してあったNHKドキュメンタリー『庵野さんと僕らの向こう見ずな挑戦 日本アニメ(ーター)見本市』。昨年11月の番組。
News_xlarge_nihonanimater_2015110230歳前後の、若いアニメーターやアニメ監督たちの姿と、昨日のスーパーフェスティバルで再会したデザイナー氏と共闘した20数年前の自分の姿が、ちょっとだけダブって見えた。彼が映画用のスケッチを描いて見せてくれたり、僕が映像企画のロゴやデザインを彼に頼むことが多々あった。名前は出さないが、フィギュア作家として成功した方もブースに見えられて、やはり、僕がアニメ企画を手伝っていた20代後半ごろの話題が出てきた。

僕からすれば、アイデアも情熱も中途半端なくせに、「クリエイターになりたい」「なるべきだ」ともがいていた砂漠のような記憶なので、思い出として美化することはできない。
やがて僕は、自分から企画を出すのではなく、「○○社に企画を持って行きたい」という人たちをアニメ会社に紹介するようになった。彼らの夢に手を貸すほうが、カラカラに枯渇した自分の心の底を掘りかえすより、よほど充実感があった。

クリエイターたちに取材して、彼らの努力や知恵を読者に伝える仕事は、いわばクッションのように僕の無駄なあがきを受けとめ、空虚な情熱を、きれいに消し去ってくれた。
この十数年の間、最前線で絵を描いている人たちへのリスペクトが、僕の仕事を支えつづけた。彼らの澄み渡った、青い真空のような向上心。嘘をつくことはできない、と思った。

番組の中で、川上量生さんが庵野秀明監督のことを「殉教者の目をしている」と語ったが、まさしく。魂を削っている人たちに、嘘はつけない。


アイルランドの観光マーケティング会社“Tourism Ireland”が、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』のロケ現場を広報しはじめた()。
聖地巡礼ビジネスのために、異世界感のないロケーションばかりになったのだろうか?

過去のシリーズでは、どの惑星も異なる世界観をもっていて、命にあふれていた。だからこそ、「惑星を丸ごと吹き飛ばす破壊兵器」が悪の象徴として描かれたはず。今回の新作では、なんと味方側が敵基地となった惑星を粉々に粉砕してしまう……。
もちろん、そうした無神経さとアイルランドの美しさは、まったく関係がない。この映画をめぐって何が起きたのか、これから何が起きるのか。その興味は作品への感情とは、まるで別のものだ。

“知的な人は異なる意見を尊重するが、そうでない人は異なる意見を「自分への攻撃」とみなす”(

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2016年1月 8日 (金)

■0108■

明後日、10日(日)は、スーパーフェスティバル70()に出店します。
New_fig50s_vol2__copy1_2ブース番号はD-20、ディーラー名はHard Pop cafeです。中古のプラモデルや玩具のほか、フィギュア同人誌[Fig 50's](フィグ・フィフティーズ)の第2号を販売します。

また、コミケで販売されたクラッシャージョウ&ダーティーペア合同誌「スペースポート」も、委託販売します。


約970ページの『スター・ウォーズはいかにして宇宙を征服したのか』を読了した。
51ltm7h1m0l_sx350_bo1204203200__2啓文堂のレシートを見ると、僕がこの本を買ったのは昨年12月27日12時01分だ。二週間もかけずに読み終えてしまったことと同時に、18日の初日に『フォースの覚醒』を見てもなお、『スター・ウォーズ』への興味を失っていない自分に、驚きを感じる。

『スター・ウォーズはいかにして~』は、二年間をかけて関係者や熱烈なファンに取材した大著だが、エピローグは『フォースの覚醒』の最初のティザーが公開された昨年10月に追記されている。そこには、僕と同世代の著者の、未来への無邪気な期待を読みとることが出来る。一方で、ジョージ・ルーカスがキャスリーン・ケネディを後継者に選んだ過程、ルーカス・フィルムのディズニーへの売却がどのような手順で行われたのか、綿密に記されている。
そこには、40年前には、ひとりの若者の頭の中にしかなかった時代錯誤な連続活劇への偏愛、メカニックやスピードへの限りない憧れが、気まぐれなファンによって勝手に解釈され、あるときは飽きられ、ついには実務的な取引材料、会計上の資産へと堕していく残酷な過程がつづられている。
(ルーカス・フィルムの買収額は、ピクサーの74億ドルに遠く及ばない、40億5千万ドルだった。)



アメリカ国内だけでなく、カナダ、スペインやベルギーなどの欧州圏から多数のレビューの寄せられるIMDbにおいて、『フォースの覚醒』は厳しい評価を下されている()。
わざわざ探さなくても、痛烈なレビュー・タイトルが並ぶ。

「あくび」(Yawn)
「不要」(Unnecessary)
「大きな失望」(A huge disappointment.)
「本物のゴミ…」(a real trash...)
「無駄な焼き直し」(A wasted rehash)
「退屈で、意外性がない」(Boring and Predictable)
「批判能力のない大衆向けの、無知で独創性のないアクションSF」(Mindless, unoriginal action sci-fi for the uncritical masses)
「映画館用ではなく、テレビ用のディズニー・ショー」(A Disney Show for TV, Not Movie Theaters)

映画の題名をもじったレビュー・タイトルも多い。
「フォースの覚醒は、僕を眠らせる」(The Force Awakens put me to sleep.)
「フォースの笑劇」(The Farce Aweakens)
「フォースの覚醒、ただし二日酔いで」(The Force Awakens but with a hangover.)
「スター・ウォーズ/失われし希望」(Star Wars: A Lost Hope)
「スター・ウォーズ/新たなる失望」(Star Wars: A New Disappointment)

IMDbに並ぶ辛らつな批判とは裏腹に、ディズニーは具体的な数字を伏せたり、インフレ調整を無視したりしつつも、『フォースの覚醒』が「北米史上最高の興行収入を記録」()と発表した。ところが、インフレ調整すると、「『サウンド・オブ・ミュージック』『E.T.』『タイタニック』のようなクラシック作品に後れをとって21番目」。これでは、話にならない。
ルーカスからバトンを渡されたキャスリーン・ケネディは、1980年代後半~90年代にかけての“『スター・ウォーズ』冬の時代”を支えた膨大なスピンオフ小説やコミック群を、バッサリと切り捨ててしまった。そこまで残酷な荒療治をやったんなら、誰もが陰謀論を唱えたくなるような数字を叩きだしてみせろ、と言いたい。


『スター・ウォーズはいかにして宇宙を征服したのか』は、ルーカスが心酔した神話学者、ジョーゼフ・キャンベルとの美しい出会いと交友について触れている。

ちょうど、『ジェダイの復讐』が公開された1983年5月、シンポジウムでキャンベルを紹介されたルーカスは、すっかり彼と懇意になった。ルーカスはキャンベルを自宅に招いたとき、スカイウォーカー・ランチで『スター・ウォーズ』を見てはどうかと誘った。ルーカスは丁寧にも、「一作だけでも、三作すべてでも上映できます」と提案したが、80歳のキャンベルは、一日で三作をいっぺんに見ることを希望した。
「私は本物の芸術は、パブロ・ピカソやジェームズ・ジョイス、トーマス・マンで終わったと思っていた。だが、そうじゃないことがわかったよ」と、キャンベルは『ジェダイの復讐』のエンドクレジットのあとで、そう言葉を発したという。

21世紀のビジネスマンたちには、そんな夢のようなひとときは、決して訪れないだろう。
悲しいかな、我々は明日に向かって進まねばならないのだ。

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2016年1月 5日 (火)

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レンタルで、『ペイルライダー』。公開当時の1985年、「西部劇の復活」と、華々しく映画雑誌に書かれていたことを思い出す。同年には、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『ネバーエンディング・ストーリー』が公開され、「洋画といえば、娯楽大作」というムードがあふれていた。
18956934jpgr_640_600b_1_d6d6d6f_jpg設定・展開とも単純明快で、『許されざる者』のような曖昧さはない。が、クリント・イーストウッド演じる牧師の背中には、聖痕のような複数の傷跡がある。これが何を示すのかは、はっきりとは明かされない。牧師は、過去に因縁があるらしい保安官を撃つとき、自分の傷跡と、そっくり同じ位置を狙う。とても思わせぶりな演出だが、やはり誰の口からも、傷跡の意味は語られない。
よくよく思い出すと、牧師が舞台となる渓谷を訪れたとき、彼に救われる少女は、ヨハネの黙示録の「青白い馬に乗った、死の騎士」の箇所を読んでいた。しかし、ちょっとネットで調べだけでは、「死の騎士」と聖痕の関連は分からない。

分からずとも、その宗教的な暗示が、映画に深遠さを与えていることは間違いない。イーストウッドの爽快なガンファイトを楽しみながらも、すべては読みきれない。そこがいい。「勉強すれば、いつかは分かるだろう」と感じさせる。答えは、映画の外側に置かれている――もっと言うなら、将来の自分に委ねられている。それこそが、表現の内包する豊かさだと思う。


半年以上嫌がらせメールを送ってきた相手と直接会ってきた
非常に示唆にとんだ記事。匿名で嫌がらせメールを送ってきた本人と、その彼を探り当てて、彼をだましてまで顔を合わせ、こうして記事にする著者の企画力。この記事自体に、本物と偽者の差が、残酷なまでに現れている。

嫌がらせメールを送りつづけた彼は、メールを送った瞬間だけは、救われていたんだと思う。やがて、自分自身が努力して、粘着している相手と同レベルに立つしかないことに、気がついたんじゃないだろうか。
あるイラストレーターの方が、「自分では絵を描かない人にかぎって、“才能”という言葉を使いたがる」と、そんな意味の発言をしてらした。才能、つまり「天与の能力」、ようするに「運がいいだけ」レベルに、相手を引きずりおろそうとする。しかし、クリエーターとして名の通った人たちは、例外なく努力している。向上心がある。

向上心を失った人間は、猛烈な勢いで堕落する。本人の心中では、堕落するまでの間に、葛藤があったのだろう。しかし、一ヶ月もすれば、その葛藤すら消えうせてしまう。
たとえ才能がなくとも、努力が十分でなくとも――向上心のレールからは、降りてはいけない。「昨日よりマシな自分になろう」、その一滴で十分なのだ。


そういえば、僕にインタビューを申し込んできたライターの方がいた。ところが、取材から二ヶ月が経過しても、まったく記事にならない。連絡も来ない。
さらに二ヶ月待ち、このままインタビューが記事にならないなら、取材時の音声データをこちらに送ってもらい、相手の手元に残ったデータを破棄してもらうよう、お願いした。ところが、「この音声データをどこにも公開しないと約束するなら、送る」と、交換条件を出された。

彼女たちは、痴漢や性犯罪をテーマに、記事を組んでいる。
その本人たちが、こうまで恫喝めいた態度をとるとは……データを公開してほしくないのは、インタビューを申しこまれた僕の方だよ。この一件以来、ネット媒体で性犯罪を語るメディアへの信頼感は、ほとんど消えうせた。彼女たちは、性犯罪を黙殺するのと同程度の無神経さを、圧力として行使する。それを実感させられたからだ。


無神経といえば、もうひとつ。彼女がインタビュー収録に用いた機器。それは、単なるスマホだったんだ。プロだったら、(どんな安物であろうとも)ICレコーダーを使うものと思っていたが、それは僕の思いこみだったようだ。
スマホを出された瞬間、「この人、本気じゃないんだな」と、興がさめたことは間違いない。

人と打ち合わせするときは、ポーズだけでもいいから、メモをとったほうがいい。メモ帳を出さない人間の発言は、間違いなく軽んじられる。
「メモなんかとらなくても、俺は記憶力がいい」なんて自己評価は、相手には伝わらない。

僕は離婚の話し合いのとき、相手の両親の話をメモにとった。うっかり脅迫じみた発言をしてしまった直後、相手の親は「今の言葉は、メモするな!」と大慌てした。
だが、僕はメモなんて捨てても良かった。なぜなら、胸ポケットの中では、ICレコーダーが回っていたからだ。もし裁判を起こされれば、さぞかし有力な証拠になっただろう。メモ帳のような便利な道具は、姑息と誠実の両面に使える。

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2016年1月 3日 (日)

■0103■

「奴隷業者」に売られたスター・ウォーズ ルーカス監督の嘆きに業界騒然

Exf16010300000001p1「私が作ったSWは宇宙船も惑星も(前作とは)全く違うものになるよう懸命に努力した」 ……ジョージ・ルーカスの一言に、涙が出てしまった。

ルポルタージュ『スター・ウォーズはいかにして宇宙を征服したのか』を、全970ページ中、430ページまで読んだ。ルーカスが苦悶しながら書いた、シナリオの第一稿~第四稿にいたるまでの流れを、部分的にセリフを抜粋しながら、詳細に追っている(『隠し砦の三悪人』を参考にした……という俗説を、資料を用いて否定しているのが良い)。
著者のクリス・テイラーが言うとおり、「急に大金と時間を手にした映画マニアによる、壮大な実験の結果」が『スター・ウォーズ』なのだと思う。参考にしたコミックや小説、映画のジャンルがあまりに多岐にわたっているため、脚本の第一稿は映画5本分ぐらいのアイデアが、ごちゃまぜに詰めこまれている。そして、70年代の若者が考えたとは思えないほど、クラシカルなムードにあふれている……完全に、趣味の世界なのだ。

『フォースの覚醒』のレビューを見ると、「しょせんは娯楽映画なのだから、この程度でいいんだ」と言っている人がいる。「娯楽映画」と言われると、僕はちょっと首をかしげてしまう(「実験映画」と呼ばれると、ピンとくる)。
『スター・ウォーズはいかにして宇宙を征服したのか』によると、さんざんな苦労と妥協を強いられた第一作の撮影直後、ルーカスは「もう一度、五年という時間と八〇〇万ドルの予算をもらえるのなら、僕たちはもっと壮大な何かをつくってみせる」とインタビューに答えている。ともかく、表現したい欲望だけは煮えたぎっていた。『スター・ウォーズ』の動力源は、燃えさかるような表現欲なのだ。だから僕は、「あれもこれも」と、実現可能ならば何でもかんでも無造作に詰めこんだエピソード1~3が好きだ。表現欲に突き動かされて、道なき道を爆走するルーカスを愛する。

その一方で、今回の新作映画が『スター・ウォーズ』を延命させるため、多くの犠牲を払っていることも理解はしているつもり。すぐに犯人さがしや責任者さがしを始めるのは、僕たちの悪い癖だ。


年末年始にレンタルで見た映画は、英映画『ワンチャンス』、『グッドモーニング、ベトナム』など。レンタル店になかった『ワルキューレ』は、CSで見ることができた。
Operacaovalquiria_4敗色が濃くなったドイツで実際に起きた、ヒトラー暗殺計画をトム・クルーズ主演で描いた作品。『X-メン』シリーズを撮ってきたブライアン・シンガー監督の経歴をふりかえると、史劇というよりはサスペンス映画としてのスリル感を強く感じる。基本トーンは寒色系で、コントラストを効かせた映像。被写界深度は浅く、クローズアップ撮影が息づまるような緊迫感を生む。

作戦中、重要な電話がかかってくる。それを主人公が受けとるストレートな絵は見せず、無造作に机に置かれた受話器が、重みで左右に揺れているカットを入れる。神経質で暗喩的な演出が、全編に散りばめられていて、息をつくひまもない。
ただ、トム・クルーズの容貌はヒロイックなイメージをまといすぎている。キャスティングは、ややマイナスに働いたように思う。


『RWBY』のブルーレイを、毎夜のように見ていたが、吹き替え版が制作されるまで待てずにVolume-2の配信を見はじめた。アメリカからの公式配信ながら、第2話までは、ちゃんと日本語字幕が入っている。
Rwby_volume_2_dvd第4話で、ハリウッド映画によく出てくるような、逆関節のロボットが大暴れする。このロボットの密度や質感、これまで出てきたメカやキャラクターたちと、まるでマッチしていない。だが、その統一感のなさ、むき出しの荒々しさこそ、『RWBY』のスタイルなのだ。

嬉しいのは、それまでバラバラに動いていた主役4人が、ロボットを倒すために力を合わせるクライマックス。4人が連携プレーを見せるのは、Volume-1でもワンシーンしかない。高まっていく危機感のなか、主役たちが頼もしい戦いぶりを見せる、この安堵感。『ジャイアントロボ 地球の静止する日』の第2話で、全エネルギー停止現象の中、ロボだけが悠然と動き出すシーンに匹敵する。
それにしても、『RWBY』のアクション・シーンは、原作・監督の故モンティ・オウム氏に全面的に任されていたようで、こんなに才能のある人を失った痛手は、いかほどのものだったのだろう……と、新参ファンの僕は、今ごろ呆然としている。
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2016年1月 1日 (金)

■0101■

大晦日の夜に、レンタルで借りた『わが母の記』を見る。高嶋政宏さんにインタビューしたとき、『ガンヘッド』の原田眞人監督作ということで、話題にのぼった作品。
Main1_new_large原田監督が脚本も書いているので、まず、セリフのセンスがいい。「あいつは、僕を捨てたんだよ」といじける役所広司。娘の宮崎あおいが「お父さんは、本当に捨てられるのが好きね」と嫌味を返すと、「ああ、大好きだよ」と苦笑する。
登場人物が、互いに批判しあったり分析しあったりする。だけど、理屈っぽくなるのではなく、会話にユーモアが加わっていく。

それと、カッティングがいい。樹木希林の演じる老いた母親の暮らす伊豆の山奥に、車が走る。それを見た手伝いの娘が、急いで家に戻るため、石の階段を駆けのぼる。そのとき、くしゃみをするんだよね。くしゃみをする瞬間、カットを割っている。そうすると、急いでいる感じが出る。
くしゃみをする必然性なんて皆無なんだけど、おそらくカットを割るために、あえて芝居を入れている。

もうひとつ、ラスト近く。母が病院に運ばれたと聞いた役所広司が、かばんに荷物をつめて、出かける支度をする。その姿を、数メートルだけ離した二台のカメラで、同じサイズで撮っている。同じサイズで撮った絵をつないだら、カクッとなって、スムースにつながらない。
だけど、わざとカクッと不自然になるよう、つながらないように編集している。すると、緊迫した、異様なムードが出る。これから嫌なことが起きるわけだから、わざとテンポを崩しているのだ。編集は、原田監督の息子・原田遊人である。


原田監督は、ビデオオリジナルの『タフ』シリーズで、あきらかに変貌した。『ガンヘッド』を見た誰かが、原田監督に依頼したのだろう。今さらながら、それが誰だったのか知りたくなった。

『わが母の記』で、もうひとつ。役所広司と、三女の宮崎あおいの視点がメインで、映画は1959年から1973年までを舞台にしている。初登場時の宮崎は中学生なのだが、子役を使わず、宮崎自身が演じている。ひとりで、14年間の変化を演じている。
三人の娘と妻、さらに秘書まで女性なのだから、その華やかな家庭の雰囲気を心地よく、頼もしく感じた。


はからずも、母の命日の前夜に、母との思い出をモチーフにした映画を見た。
母方の祖父の家は、立派な木造家屋で、中学時代、一年ほど住まわせてもらったこともある。小さな窓から近所の瓦屋根が見えて、その写真のように切りとられた静謐な景色を、今でもよく覚えている。

正月には、親戚みんなが集まって、福引をやったりした。景品は、子ども向けと大人向けとに分けられていて、いずれもビックリするほど高額な品ばかり揃えられていた。
祖父は写真と水彩画が趣味で、僕が日芸に合格したとき、Canon New F-1に望遠レンズをつけて贈ってくれた。祖母も優しい人で、僕が遊びに行くと喜んでくれた。ただ、家庭というものにプラスのイメージを持てたのは、そのころが最後だったように思う。

母が亡くなった翌年だったか、母の妹さんから「子どもたちがお正月に遊びに来るけど、あなたも来ない?」と誘われた。従兄弟たちが結婚して子どももいるというのに、僕だけが離婚しているので、決まりが悪く、辞退した。母の弟さんとは、いまでも、たまに連絡をとりあう。


年末は、どこも人でごった返していた。気になったのは、スーパーやコンビニで、男性が順番を守れないこと。特に、フォーク並びを無視する高齢男性が多い。並んでいても、イライラしている。

ああいう余裕のない男たちを見ると、いやでも父親を思い出してしまう。
何か事件が起きると、ついでに誰かの悪口を言う。「ああいう人は」と普通に言えばすむところ、「ああいう田舎者は」「ああいう生意気な若造は」と、何か一言、嫌味をつけ加えるんだよな。対立や波乱を好むというか、敵を増やしたがる。
「マスコミ」と書けば通じるのに、必ず「マスゴミ」と書いてしまう人、要注意だと思う。思考の幅がせばまり、余裕がなくなっていくよ。

(C)2012「わが母の記」製作委員会

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