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2016年1月27日 (水)

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ガルパンFebri 発売中
2e80ac5f08bcaa44e6c040fbd1b14e6e2「俺のガルパン愛を聞け! 」コーナーの田村尚也さん、浪江俊明さん、高久裕輝さんのインタビュー。
それと、マックスファクトリーの「figma Vehicles IV号戦車D型 本戦仕様」のレコメンドを書きました。まあ、お手伝いのさらに手伝いです。

 


黒澤明の演出を研究した動画“Akira Kurosawa - Composing Movement”を見てから、どうしても再見したい映画があった。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』である。昨日、準新作レンタルが200円の日だったので、借りてきた。昨年初夏のマスコミ試写以来である(その試写会では誓約書を書かされ、「試写会があった」事実すら口外してはならなかった)。
Jpphotosub1rev2mmfr_large試写直後の感想は、「ちょっと待てよ、年末公開の『スター・ウォーズ』って、この映画に勝たないといけないの? そりゃ無理な気がするぞ……」であった。
そんな感慨もあってか、頭の中で『フォースの覚醒』の登場人物を『怒りのデス・ロード』のキャラクターに置き換えて見ていた。砂漠の惑星から逃げのびたい少女、レイ。彼女に手をかす、謎の不良老人ハン・ソロ、悪の軍団を裏切って仲間になるフィン……次々と不具合に見舞われつつも、3人を乗せて飛びつづける老朽船ミレニアム・ファルコン号、次々と襲いかかる様々な形をした悪のスターファイター、ソロの旧友のお婆ちゃんパイロットたちが加勢し、最後にファルコンとソロが、レイとフィンを逃がすため、犠牲となって……なぜ、そういうシンプルで大胆な映画にできなかったんだ!?
(もちろん、ソロはレイに名乗らない。レイも「ボロ船の操縦の上手いジイさん」としか認識しない。観客にだけ「あれはハン・ソロだ」と分かる趣向でね。作り直そうや!)


それはさておき、『怒りのデス・ロード』の研究・解析は、さまざまな人がやった後だと思う。
二度目を見ながら思ったのは、映画という表現は「四角く切りとられたフレーム」しか使えないこと。カットの前には別のカットがあり、カットの次には別のカットがある、その制約が武器にもなるし弱点にもなる。そして、映画はいちど始まったら、時間と運命をともにしなければならない。1コマたりとも、無駄にはできないのだ。

たとえば、砂嵐の中に突っ込んだニュークスが、マックスを車に乗せたまま、自爆しようとする。カメラは運転するニュークスのバストショットから、彼の左腕の動きを追い、ティルト・ダウンする。ニュークスの左手は、ガソリン・タンクのキャップを開ける。床にドバッとガソリンが広がる。そこで、このカットは終わり。この動きのあるカットで、ニュークスが妙なことを始めたと分かる。次のカットは、驚いているマックスの正面アップ。フィックス。
いうなれば、ニュークスがガソリンを床に流すカットは「起→転」、マックスの驚きのカットは前カットの「承」。と同時に、マックスが危機を感じて次の行動を起こす「起」のカットも兼ねている。「起→転」と「起→転」がつながった場合、画面は十全に時間を使いこなし、我々は「息もつけない」体験をする。

映画をつまらないと感じるとき、たいてい我々は「起→結」のみで完結したカットの、単調なつらなりを見せられている。(たとえば、人物の会話シーンで、単なるフィックスの切り返しを見せられている。)
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』がアッという間に終わってしまうのは、「起→転」のカットで、大半が構成されているからだ。


『怒りのデス・ロード』で最も秀逸なシーン(カットの連なり)は、マックスがフュリオサたちに砦へ帰るよう、提案するところだ。バイクを走らせるマックスのバスト。マックスのバイクがフュリオサたちのバイクを追い抜かしていくロング。停車するマックスのバイク、奥にフュリオサたちのバイク(フルショット)。三つのカットが、起・承・転を構成している(転のカットで、マックスはバイクの向きを変えている)。

その後、フュリオサ側からの切り返し、地図のアップなどが入るが、マックスの提案に、皆がリアクションするカットが見事だ。フュリオサがバストサイズで中心にいて、奥に他のメンバーがいる。メンバーたちは「頭がおかしい」と口々に反発し、バイクを降り、手前に歩いてくる。だが、フュリオサだけは動かない。彼女だけが、マックスの提案を真に受けているからだ。
このカットが繰り返されるたび、メンバーたちはマックスの提案に乗り気になっていく(同時に、フュリオサのように動きが少なくなっていく……すなわち、意志が統一されていく)。
最後に、フュリオサは真後ろを振り返る。反対側にカメラをすえた“ドンデン”と呼ばれるカットだ。フュリオサの視線の先にはニュークスがいて、彼は「希望はあるぜ」と、マックスの提案に太鼓判を押す。そのためのドンデンだ。マックスとニュークスが、フュリオサたちを挟んで位置していたことが、シーンの終わり近くに分かる。なんという、美しい構成だろう。

 

映画には、時間と空間しか道具がない。しかし、カットワークというチャンスが与えられているのだ。(そして、我々が映画を「面白い」と感じるとき、カットは時間と空間をくまなく使いこなしているのである。)

 

(C)2015 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED

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