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2016年1月18日 (月)

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秋元康プロデュース……と聞くと、まっさきにアニメ『ICE』を想起してしまうのだが、その『ICE』と同年公開の原田眞人監督作『伝染歌』を、レンタルしてきた。
146984_1原田監督は、『おニャン子・ザ・ムービー 危機イッパツ!』でも秋元氏とコラボしていたよなあ……と、冒頭のアイドル映画パートを見ていて、思い出した。女子高生を主役にした原田作品といえば、『バウンス ko GALS』なんかもあったよね。あのギャング映画風のハードボイルドな味わいも、ちょっと入っている。
『伝染歌』は、直線的に理解することを妨げる要素で、いっぱいだ。アイドル映画のシークェンス、ホラー映画のシークェンス、自殺社会について饒舌な社会派映画のシークェンス、すべてバラバラに撮影し、思いつくままに前後を入れ替えてつないだかのような、水平に広がった映画。


絶妙に面白いのは、松田龍平の演じる雑誌記者が、自殺願望をよびさます“伝染歌”に呪われてしまった女子高生たちを、自分の実家にかくまうパート。松田の実家は、山奥にある豪奢な旅館で、彼は大広間にお札を張って、悪霊の侵入をふせごうとする。女子高生たちを“エンマさま”と呼ばれる霊能力者に会わせて、彼女たちの自殺を防ぐため、寝ずの番をする。
驚くべきことに、このパートでは“伝染歌”の設定は、ほとんど忘却されている。そのかわり、松田は“餓鬼”を恐れはじめる。(餓鬼は「最下等の幽霊」らしい。もはや、歌い手の呪いがこめられた“伝染歌”とは、何の関連もないのである。)
そして、CGで描かれた数匹の“餓鬼”が現れるのだが、彼らは普通のオバチャンである“エンマさま”に、カップ麺の汁をかけられて退散する。“餓鬼”たちの質感はCG丸出しだが、“エンマさま”に会うまでのプロセスは、セリフのひとつひとつが念入りで、奇妙なリアリティがある。それと同時に、松田龍平の真剣すぎる演技が、笑いを誘う(彼だけは、空中分解した支離滅裂な映画に出演している自覚は、あったと思うんだよな……)。


回想シーンで、大島優子演じる少女の家に、ヤクザたちが乗り込んでくる。ヤクザの一人が、少女の父親の書いた原稿をわしづかみにして、怒鳴る。「俺の大好きな大好きな、スティーブン・キング先生のパクりじゃねえか、この野郎!」……一応、シリアスなシーンのはずなんだけど、「ヤクザがスティーブン・キングのファンだった」という無意味なギャグが挿入される。
原田監督は同年、『魍魎の匣』も撮っているので、『伝染歌』はどうでも良かったんだろうな……。だけど、『伝染歌』のほうが面白いんだよ。「企画」というホワイトボードに、整然と「脚本」が書かれたのに、原田監督がゴシゴシと素手で消しちゃったような破壊力がある。

監督(作家)が軽視すればするほど、作品は自律性を獲得していく。「企画」としての側面以上に、すったもんだの撮影やポスプロの挙句の「結果」が無様なほどに露呈し、世の中での役割を終えた僕のような人間が、そこに「価値」を見出す。誰かがゼンマイを巻いたら、止まってしまう前に、誰かが巻きなおさなければならない。さもなくば、文化は消滅する。
それに、いくら監督が投げていたとしても、原田作品に特有のドキュメンタリックなカメラワークと、セリフを言う直前でバツンとカットを切ってしまう大胆な編集は健在で、もしかすると、「脚本」という完成品を切り刻むために「演出」が存在するのではないか、映像作品と脚本とは、そもそも拮抗する関係にあるのではないか……そんな疑念が、頭をもたげてくる。

ネットで、『伝染歌』のあらすじを丁寧に書いたすえ、細かくツッコミを入れているサイトさんがあった(ポンコツ映画愛護協会)。少しだけ引用させていただくと、“何がどう分からないのか具体的に書きたいのだが、「何がどう分からないのか」が分からないぐらい、終盤の展開は支離滅裂でデタラメ なのだ。”
この映画を語ることは、まさしく、言語を絶する。言語を絶するために、映画は撮られつづけるのかも知れない。

(C)「伝染歌」フィルムパートナーズ

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