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2015年12月30日 (水)

■1230■

レンタルで、『海街diary』。邦画は、とんと見なくなった。先月見た『紙の月』以来、ほぼ二ヶ月ぶり。
M0000000762_largeカンヌ国際映画祭の常連となった、是枝裕和監督作。そして、原作は文化庁メディア芸術祭などで賞をとった漫画。フジテレビや東宝が出資しているので、有名俳優しか出てこない。にも関わらず、邦画で支配的な“でかいテレビ”には、なっていない。
綾瀬はるかや長澤まさみが出てきて、「またか」と思わせられるんだけど、誰もが「知った顔でしょうけど、いまから短い間だけ、いいお芝居をご覧にいれます」「こんな平和で優しい世界は絵空事だと思いますが、その絵空事を演じさせていただきます」とでも言いたげなんだよな。それは、「俳優の演技がよかった」のとは、ちょっと意味が違う。

堤真一やリリー・フランキーが小さな役で出てきて、「やはり有名俳優しか出ないのか」とため息が出る一方、「僕らが出ている以上、これは明らかなウソのお話なんだけど、いいウソでしょ?」「いいウソと思えなかったら、僕らの責任です」と言われているような、不思議な気分にさせられる。
主演の女優陣で、「え、あの人が?」と意外性があったのは、夏帆。社会人ではあるんだけど、性格にもファッションにも幼さを残し、最年少の広瀬すずと仲良くなってしまう。独特の存在感がある。


あと良かったのは、風吹ジュン。病気になって定食屋を閉めるとき、Character_10_large 広瀬すずのことを「宝物」って呼ぶんだけど、それは大げさに言うと「人類にとっての宝物」って意味なんだ。別に「あんたは美人で性格がいい」とか「一緒にいると気分がいい」とか、そんな小さな意味ではない。自分の生まれる前とか、死後とか、大きな流れのなかで、「宝物」と言っている。歳をとると、それが分かるんだ。
だから僕は、歳とった女優がどういう芝居を見せるかのほうに、今は興味がある。

あと、邦画ならではの醍醐味って、やっぱりあるんだよ。それは花火のシーン。花火そのものではなく、花火の日の夕方。スピーカーから見物客への注意事項が流れる、長くてせわしない夏の夕方。これは、日本映画ならではの魅力だと思った。
年末年始は、意識して日本映画も見てみよう。


来年1月10日のスーパーフェスティバル()に出品する中古のプラモデルなどを、宅急便業者に引き渡した。その後、原稿のチェックが来たので(30日になっても編集部は休んでない)、それを戻して、年内の仕事は終了。

スーフェスでは、友人のべっちん氏を巻き込んで、同人誌[Fig 50's](フィグ・New_fig50s_vol2__copy1 フィフティーズ)の二冊目を売る。今回は、表紙も本文レイアウトも、プロのデザイナーであるべっちん氏におまかせした。印刷は、やはりスーフェス仲間のギムレット氏が、年明けに業者に頼んでやってくれる。

一年前は、実はとても大変な時期だったのだが、二人に事情を説明して「スーフェスだけは出る」と決めて、出店したのだった。数年のうちに、このイベントに出ることが精神的な支えになってきた。仕事のことだけ考えて生きていたら、とっくに倒れていたような気がする。


母の祭壇にそなえる花を、あらたに買ってきた。代金を一円玉で払うと、花屋のおばちゃんが、「あら、ありがとう」と言った。足元を見ると、「一円玉が不足しています」と、走り書きの貼り紙がしてあった。花屋を出ると、「年越しそば」と書かれた小さな看板が、マンションの裏の蕎麦屋まで、点々とつづいている。

買い物袋をさげて歩いているうち、来月でパスポートが切れてしまうことを思い出した。10年前に初めて取得したときは、まだ結婚していた。妻にバレるとうるさいので、ひとりで横浜まで取りに行ったのだった。
最初のスタンプがザグレブ、ロシアのビザ、ふたたびザグレブ、アテネ、ヘルシンキ、アブダビ……どこかに、ストックホルムもあるはず。はからずも、「海外へ行きなさい」という、母の言葉を実践している。


(C)2015 吉田秋生・小学館/フジテレビジョン 小学館 東宝 ギャガ

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2015年12月28日 (月)

■1228■

レンタルで、『アメリカン・ハッスル』。
Sub3_large1970年代後半に起きた汚職事件をベースにした、見事な映画だった。詐欺師を主人公にした映画は数多いが、先に結果だけを見せておいて、ほんの少しだけ時間を遡って後説したり、ストレスなく進む。映像で見せるか、人物に語らせるか、説明の配分・判断もうまい。

語り口も冴えているが、人物に魅力がある。ハゲをカツラで隠し、すっかり中年ぶとりしてしまった主人公を、クリチャン・ベールが暑苦しく、それでいて愛嬌たっぷりに演じている。焦ったり、怒鳴ったり、悔いたり、どうにも憎めない。
彼を利用するFBI捜査官、騙される市長、彼らの妻たち、誰もが弱みをむき出しにしているところが良いんだろうな。「弱みを見せる」とき、その人が何を大事に生きているか赤裸々になるので……よく出来た脚本や俳優の演技だけでなく、粘りつくように人物に密着したカメラワークも、効果的だった。

70年代のファッションが、また良いんだよね。「よし、もっと映画を見よう!」という気持ちにさせられた。


そういえばTSUTAYAでは、何十本と並べられた『スター・ウォーズ』シリーズが、数本を残して、すべて借りられていた。ほんのちょっと前まで、『スター・ウォーズ』は忘れられた映画だったのに。地上波放送された『ファントム・メナス』を録画で見たが、いい具合にカットされ、テンポがよくなっていた。

僕は、『ファントム・メナス』にあふれる多幸感が好きだ。奴隷のアナキン少年には、クワイ=ガンという保護者が現れるし、辺境のナブーには文化と緑があふれている。銀河の中心には、ジェダイ騎士たちの本拠地でもある大都会コルサントがあって、どこへ行っても、何の不安もない。クワイ=ガンが倒れても、オビ=ワンが守ってくれる。
Cxm7bzuqaatszgあれはやっぱり、孤独でなくなったルーカスの心象風景なんじゃないだろうか。……と、想像でものを言い過ぎるのはこわいので、970ページの大著「スター・ウォーズはいかにして宇宙を征服したのか」を買ってきて、昨日から読んでいる。

するとやはり、ルーカスの故郷モデストは辺境ではなく、ルーカスと父親の仲が悪かったわけではないこと等が、はっきり分かってくる。評論家たちの勝手な思いこみを、地道な取材によって、慎重に打ちくだいていく。いい本だ。


『フォースの覚醒』については、ネット上の賛否両論をいろいろと読んでみた。
作中人物の加齢を茶化すのは問題ないんだけど、俳優や監督の名前を出して、病名まで書いて笑うのは悪趣味。品性下劣だね。

ちょっと話はそれるけど、僕の父親は殺人犯として服役中だ。
公判のとき、父親側の証人は、こう言ったんだ。「彼は、うつ病に苦しんでいた。坑うつ薬の副作用で、気が動転して殺してしまっただけではないのか」。
僕はとっさに、「証人は、うつ病について調べたのかどうか、聞いてください」と検察官に耳打ちした。案の定、証人は何も調べていなかった。ここでハッキリさせねば、「うつ病の人は、他人を殺しかねない」という、とんでもない誤認が広がってしまう。

○○監督は、もう歳だから、□□病で……なんて書いたら、冗談とは受け取らない人も、中にはいるわけ。ツイッターの罵りあいで、「心療内科にでも行かれてはいかがですか?」を連発している人がいたけど、20年以上も心療内科に通院している僕は、いい気分じゃなかったな。

口の悪さで優越感に立ちたがる人は、「私はコンプレックスにまみれています」と告白しているようなもの。

(C)2013CTMG

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2015年12月27日 (日)

■1227■

ウェブ配信で、『機動戦士ガンダム サンダーボルト』第一話。松尾衡監督が、脚本と絵コンテも担当し、原作の魅力をあますところなく拾い上げ、丁寧に配置している。
特典映像では、太田垣康男さんの仕事現場を、かなりじっくりと見ることができる。

で、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』の件もあって、ガンダムやザクのデザインには思うと2015111915224219429_2ころがあった。太田垣さんが、特典映像で「ザクをこえるデザインは、いまだに出ていない」と話していたけど、むしろ求められてこなかった、必要なかったんだ。ザクの印象をキープしたまま、アレンジを繰り返して、30年以上も商売できてしまったのだから。

僕は、Xウィング・ファイターのマイナーチェンジではなく、Xウィングに代わる“ナントカウィング”をデザインすべきだと思っていたのだが、それは『ジェダイの復讐』にAウィングやBウィングを出したのと、発想の程度が変わらないわけだな。
テレビ放送から10年後の『ポケットの中の戦争』で、初めてザクやドムがリファインされたように、視覚的なアップグレードが目的なんだ。おそらく、『ローグ・ワン』に登場するXウィングは、また別の解釈がなされているんだろうな。むしろ、初代ゴジラに対するギャレゴジのように、作品に応じたアレンジをすべきなんだ。

僕は、ゴジラに対してすら、「いつまでもゴジラばかりでなく、ゴジラを超える新しい怪獣を考えろよ」と思ってしまう性質なのだが、その新しさは、ゴジラに求めるべきではない。長く商売していくには、「何も変えてないように見せかけながら、いかに時代に応じて変えるか」が大事なんだろう。


僕は『オネアミスの翼 王立宇宙軍』(公開時は主題と副題が逆だったのです)に、狂喜した人間なんだけど……それは、作品が面白いというより、企画の志の高さに心打たれたんだ。だけど、新しさや気高さでは商売にはならいことを、この作品は教えてくれた。
新しさだけを常に求める人間って、破滅的なんだよ。いつも完全燃焼したがるというか、気が早くて飽きっぽい。僕が「早死にするぞ」って周囲に言ってるのは、そういう意味だから。

『フォースの覚醒』を見てから、一週間以上が経過して、Xウィングやストーム・トルーパーをリファインして続投させはじめた理由が、ちょっと納得できた。
ただ、僕はセンチメンタルな人間だけど、「ハン・ソロが出てきただけで嬉しい」って気持ちはゼロ以下。「新しい俳優に、老け役をやらせれば?」って、本気で思ってしまう。「懐かしアニメ回顧録」って連載を提案されたときも、「“懐かしい”は価値ではない」と反対した。世界は明日に向かって驀進しているのに、僕だけが過去を振りかえっている……という状態は好き。我ながら、厄介だ。

今は、「ハン・ソロが出てきただけで泣ける」って人たちに支えられて、ヒットしてるんだと思う。だけど、それは戦術レベルの話だからね。ハリソン・フォードに払った30億8,950万円ものギャラを、いかにして回収するかって話には、興味がある。


「自分で調べない人」の共通点 気が長い、人の気持ちに鈍感
そういう人は不確かな情報を信じこみ、新しい情報を入れて微調整しようとしないので、一方通行の思いこみだけが強くなっていく。その思い込みを他人に話して同意をうながすので、デマの発信源になってしまう。

あいまいに覚えたことほど、人間は強く信じてしまうそうで……。
だから、「児童ポルノ」の呼称だけでも「性虐待記録物」に変えようというキャンペーンは、自分で調べないタイプの人たちには浸透しなかった。だって、条文や判例のリンクを貼っても、彼らはリンクすら踏まないもの。

世界に対する謙虚さに欠けている人は、たいてい自分で調べないし、公平さなど求めないし、それゆえに苦しんでいるように見える。

(C)創通・サンライズ

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2015年12月25日 (金)

■1225■

モデルグラフィックス 2月号 25日発売
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●ジオンの人々はグフを使って何をしたかったのか?
グフ特集なので、「グフのバリエーションを総括してほしい」との依頼を受け、構成・執筆しました。劇中での活躍と、主なバリエーションを集めただけなので、何も新しい情報はないのですが、「どうしても新しい敵ロボを出さざるをえなかった」「Gファイターへのエクスキューズとしてド・ダイに乗らざるを得なかった」グフの苦悩と悲哀、転じて生じたチャームポイントを感じていただければ……。
(ガチな兵器としての解釈や、デザイン考は他の方が書かれています。)

●組まず語り症候群第38夜
今回は、ニチモの1/20ファミリー人形セットです。この連載も4年目に入り、次々号から新企画が連動する予定です。


レンタルで、『ウォンテッド』。
17_largeグラフィックノベルが原作とはいえ、「ここまで無茶苦茶がゆるされるのか?」と、呆気にとられる荒唐無稽なアクション映画。やはり、新たにつくるためには、破壊せねばならない。

物語は、例によって、ありきたりだ。退屈なサラリーマン生活をおくる主人公が、実は1千年の歴史をもつ暗殺集団の血筋をひいていることが分かる。美女の暗殺者に連れられた彼は、『侍ジャイアンツ』もかくや、というギャグすれすれの特訓を受ける。特に、走行中の列車の上での特訓シーンでは、声を出して笑ってしまった。

CGを多用し、空中で弾丸と弾丸がぶつかる(敵と味方の射撃の腕が互角という演出)が繰り返され、その態度は大胆不敵というよりルーズなだけなんだけど……でも、『侍ジャイアンツ』の魔球に「出来るわけないだろ」とツッコミを入れるのも、野暮でしょ?
後半は裏切りにつぐ裏切りで、主人公は組織相手に、ひとりで立ち向かうのだが、その切り札となるのは、ピーナッツバターで釣った無数のネズミを使う生体爆弾なのだ。シリアスなムードの中で、「これってギャグじゃないの?」と疑わしいアイデアを割り込ませてくる。その無作法さが、美学に転じていく。


ちょっと関心せられたのは、紡績工場を隠れみのにした暗殺集団に指令を出すのが、機織り機である……というアイデア。糸が上にズレているパターンを「1」、下にズレているパターンを「0」と法則化し、暗号を解いていく。これ、『ディファレンス・エンジン』じゃん! ようするに、ジャカード織り機やバベッジの階差機関に通じる、スチーム・パンクの発想でしょう?

……といって、この映画のコミック的無作法さの格が上がるとか、そういう話ではない。
映画って、僕らが思っているより、ずっと奇妙で難解な表現形式で、その割には、あまりに荒っぽく扱われてきたよなあ……と、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』の賛否両論を見ていても、思うのですよ。


さて、昨夜のクリスマス・イヴ、ちょっとした宴会があった。
僕と同年齢で、海外で仕事してこられたデザイナーさんが『フォースの覚醒』を見たという。その彼は、このように語る。
Georgelucasstarwars2「キャラクターものの続編や焼き直しが半世紀も続いてきた日本文化に、やっとアメリカも追いついてきたのかも知れないよ? だって、僕らは『ガンダムUC』で富野ガンダムの続編を他人がつくるところを見ているし、まったく時空的なつながりのない『Gガンダム』や『SEED』も、宇宙世紀を知らない層が、ちゃんと受け入れてきたじゃん? 『スター・ウォーズ』も、ようやくそういう次元に突入したんだよ」。

「ほう」と、僕は身を乗り出す。
「今度、『ゴジラ』の新作やるでしょ? アメリカから見に来るって知り合いがいるぐらいだよ。だけど、『ゴジラ』なんてガキ向けの低予算映画って思われていた時期だってあったじゃん? 平成『仮面ライダー』や『ウルトラマン』だって、“こんなのライダーじゃない!”って叩かれながら、新規にファンを獲得してきたでしょ。それは日本独特のキャラクター文化だったけど、アメリカにも伝播したんじゃないかな。ライトセーバーを持った主人公と黒い敵さえいれば、まったく別世界の話でも『スター・ウォーズ』と呼ばれる時代が、そのうち来るだろうね」。


そのように語る彼は、アニメの『クローン・ウォーズ』が大好きで、ソフトをすべて揃えているほどだという。
そう、僕らは、「ライトセーバーを持った主人公」と「黒い敵」さえいれば『スター・ウォーズ』と呼ばれる別作品を、とっくに目にしている。『ファントム・メナス』は、たまたまアナキンとかオビ=ワンとかヨーダとかいうキャラクターが出てくるだけで、『新たなる希望』シリーズとは別の映画なのだ(と、気づかされた)。制作された条件も背景も違う、手法も違う。なのに、同じ評価軸が通用するわけがない。

『フォースの覚醒』は、原作者不在でつくられた、個人作品ではない初の『スター・ウォーズ』だ。この平行世界では、帝国軍と反乱軍が、名前を変えながら戦っている。XウィングもTIEファイターも、まだ最新鋭機だ。来年公開の『ローグ・ワン』は、まあOVAのようなものだろう。すでに、歴史は舵を切っている。『スター・ウォーズ』は、僕が死んだあとも、形を変えてつくられつづけるだろう……その変化を最初に受け入れたのは、他ならぬジョージ・ルーカスなのだ。

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2015年12月23日 (水)

■1223■

ホビー業界インサイド第6回:プラモデルという商材の面白さにこだわる! マックスファクトリーの提案するPLAMAXの魅力とは?
T640_696034最初から決めていたとおり、連載半年目の第6回は「プラモデル」を取材対象にしました。
「プラモデルという商品が好きだから、プラモデル・メーカーしか取材しない」のではなく、食玩やデジタル造形教室など、立体物を作る・集める“ゆるい”趣味の一環としてプラモデルを扱いたかったし、今後も、そうしていくと思います。


あちこちから、『スター・ウォーズ』の評判が聞こえてくるなか、『エピソード1/ファントム・メナス』を見た。見たまま寝てしまうだろうと思ったら、最後まで見れてしまった。
ルーカスは『ファントム・メナス』が失敗することを覚悟して、これ一本で完結する物語にした。また、過去三作を見ていなくとも、敵味方の分かる構成になっている。

EP1~3を僕が憎めないのは、ルーカスが自分の作品を好きすぎる、愛情過多な部分がStar_wars_episode_ii_attack_of_the_ 伝わってくるからだろうな。『エピソード2/クローンの攻撃』のコメンタリ―を見直すと、地表を埋め尽くすドロイド軍との戦闘シーンで「これこそが、最初の『スター・ウォーズ』のイメージだった。予算も技術もなかったから、デス・スターやスノー・ウォーカーで我慢するしかなかった」と、感慨深そうに語っている。

一方で、スタッフは「子供たちが見るのだから、暴力描写はほどほどにするよう、ルーカスに注意された」と苦笑している。
「ここは30年代の『フラッシュ・ゴードン』、ここはハリーハウゼンの特撮映画を参考にした」「このシーンには、映画の歴史が詰まってるんだよ」と、趣味性豊かなところもいい。幸せそうなんだよな、EP1~3のスタッフって。


先日、友だちに『RWBY』の説明をしていて、気がついた。

僕らはよく、「ストーリーがいい」「テーマがいい」って言うけど、それはオマケなんだよね。映画ってメカニックだから、適切な絵が、適切な位置に、適切な長さで入っていることが骨格であって、口当たりをよくする砂糖やミルクとして、登場人物がいる。たまに、人物が無味無臭のフリカケと化していて、骨格だけ見せる映画もある。『メメント』なんかは、登場人物の好悪を問題にせず、メカニズムだけで見せるタイプの映画だろう。ロベール・ブレッソンの『スリ』や『抵抗』を見れば、彼が映画に入り込んだ演劇性をいかに嫌っているか、よく分かる。

ストーリーの起伏が面白いとしても、それを気持ちよく見せているのはカットワークだし、俳優が魅力的な芝居をしても、彼らとて編集には逆らえない(そこが、舞台に上がっているかぎり、体ひとつで勝負できる演劇とは、明確に違うところだ)。
ところが、演出がガタガタであっても、俳優ひとりが作品を救うことがある。そういう矛盾や倒立が面白いんだ。

で、まあ「この映画は面白い、気に入りました」と。その最後に、僕らは「テーマがいい」と言News_xlarge_rwby_volume1_20151114_0 ったりする。『RWBY』であれば、「未熟な友情の物語なんだ」と、僕は説明したりする。けれど、それは、僕の思い込みなの。
「未熟な友情」なんて言葉が、口をついて出てしまうのは、僕が人間関係を気にしているからだろうな。作品は、その人が何者であるかを明らかにしてしまう。作品を見て、語る言葉をもてないとしたら、その人の中身が空虚なのかも知れないな。


「常々、映画のあらすじや物語などを理解する事が映画の面白さである、という批評や評論に違和感を抱き続けてきた。
だったら照明なんて必要ないし、カメラはずっと固定カメラでよい。」

「この本はいかに人が画面を見ず、物語を読んでいるのかを突き付けてくる。」

「あと日本の映画批評家はこれぐらい語れよ、と思ってしまう。物語をペラペラ語るだけが仕事と思ってるやつがいかに多い事か。」

アマゾンのレビューを読んで、塩田明彦著の『映画術』を、図書館に予約した。上記は、そのレビューから抜粋(

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2015年12月21日 (月)

■1221■

アニメ業界ウォッチング第16回:東映、ジブリ、タツノコプロ……社員監督になるまでの、挫折と再起の日々 中村健治監督インタビュー
T220_695714中村監督とは、『ガッチャマン クラウズ インサイト』のインタビュー以来の、まだ短いお付き合いです。僕のほうから「前回とはテーマを変えて、お話を聞かせてください」と、直接お願いしました。
おそろしいことに、このコーナーは、ほとんど僕の人脈か、ぶっつけで取材を申し込むことによって成立しています。皆さまの厚意と包容力で、成り立っているのです。

【懐かしアニメ回顧録第13回】松崎しげるのハスキーボイスにむせび泣く! 冷たく美しい「スペースアドベンチャー コブラ」の抽象性
こちらも、連載一年をこえたので、より、内容に踏み込んだコラムにしました。


今朝は、映画関連の方たちと打ち合わせ。
どうしても、『スター・ウォーズ』は見ましたか?という話になってしまうんだけど……あの映画を、「少なくとも、私は感激した」というならまだしも、「旧三部作を映画館で見た世代なら、泣かないわけがない!」という言い方を、ネットで見かけた。
けっこう、映画評論家が、そういう脅迫的な言い方をしている。同質性を、強いてくるのよ。おかげで、またしても僕は、『スター・ウォーズ』ファンの中で、異端者に追いやられつつあるよ(笑)。

来年公開のスピンオフ『ローグ・ワン』では、おそらくセリフで「Xウィング」なんて言わずに、「T-65」って言ってくれると期待している。旧型機を使うなら使うで、何らかの理由づけをしてくれるんじゃないかな?

昨日、友だちとファミレスで話していて、気がついたんだ。
第一作の『スター・ウォーズ』では、冒頭シーンで、C-3POの色違いバリエーションが出てくる、そこにビックリした。映画としては退屈だったけど、主役級のメカにバリエーションがある……ということは、製造メーカーがあるんだよ。R2ユニットなんて、デス・スターの中にすら、何種類かいたでしょ? そうした、無数のディテールの訴える「え? この世界は、本当にあるんだよ? 知らないの?」という素っ気ない作りこみに魅了されたことは、間違いない。


だけど、それは僕の内部で起きた熱狂に過ぎないので、どれくらい価値のあることなのか、分からない。
だから、雑誌に「廣田さんの思うように書いていいよ」と言われたら、「スノー・スピーダーのことをT-47としか呼ばないところが頭おかしいし、カッコいいんだよ!」と、訴えはするよ。だけど、「見た人間なら、分かるはず」なんて、同質性の強制はしない。それは、信仰を強いるようなものだから、とても危険な姿勢だと思う。人の心に、命令はできない。


でも、「たとえ心の中でも、このような感情をもつな!」と命令できると思っている人は、割といるんですよね……そういう人は、言葉の端々に、過剰な圧力を乗っけてくる。
自分個人に力がなかったら、会社の名前を利用して、グーパンチしてくるような。「お前みたいなフリーランスの貧乏モノカキ、いつでも潰せるんだぞ!」って力んでるのが、いくら隠しても、態度に出ちゃってる。

だけど、本当の「力」って、本当に怖いのって、明らかに僕が悪いのに、ジーッと黙ってられることだよね。「こんな言い方したら、キレるんじゃないかな?」と思っていたら、案の定、ブチキレました……なんて分かりやすい相手より、何も言わずに、こっちをやましい気持ちにさせる人のほうが、よっぽど怖い。
この仕事していると、いろんな人と出会うけど、勇気のある人は、数えるほどしかいない。

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2015年12月19日 (土)

■1218■

小学校以来の友人と二人で、『スター・ウォーズ フォースの覚醒』を鑑賞。
Sw_tfa_otherphoto_04_large鑑賞後、過去6作のよかった点を思い出しながら、ふたりで酒を飲んだのが楽しかった。一度、『スター・ウォーズ』熱をリセットする程度の意味はあった。そもそも、映画を好きになる、熱中するって、どんな体験だっけかなあ……と、考え直してしまった。
実は、1978年の『スター・ウォーズ』は、「まさか」と思うほど、つまらなかった。だけど、グッズを集めたり、友だちを誘って何度も見にいく行為が楽しかった。ようするに、映画自体は燃料でしかなくて、自分の生活が、にぎやかになることに主軸があったんだ。交響楽に詳しい友人が『スター・ウォーズ』のサントラのどこがいいのか、どう演奏がいいのか聞かせてくれるのも、楽しかった。

一作目は、ゲリー・ジェンキンズの「ルーカス帝国の興亡―『スター・ウォーズ』知られざる真実」を読んでから、とたんに中身がギュッと詰まって見えた。ほとんど理解者のいない中、孤独な戦いを挑んだジョージ・ルーカスに、強い思い入れができた。彼に映画監督としての才能があるとかないとか、そんなくだらない話ではない。彼が何に苦しみ、何を得て、何を失ったのか、その冷徹な事実の列挙に、魂を揺さぶられた。


「映画に魅せられる」という体験は、テレビで見た『ダウンタウン物語』がキッカケで、『スター・ウォーズ』よりも強烈だった。生まれて初めて、自分のおこづかいで、映画のサントラ盤を買った。そのころはまだ、あちこちの名画座で、古い映画を普通に上映していたので、『ダウンタウン物語』を何度か見に行った。ところが、意外につまらない。
テレビで、家の応接間でかぶりつくように見た体験には、かなわない。あちこちカットされていようが、日本語吹き替えされていようが、あの生き生きとした最初の体験だけは、決して曇らないのだ。

映画を見ている二時間が、ちょっとだけ自分の生活を変える。つまり、映画を見てない、記憶にとどめたり、期待している時間こそが大切なんだろう。
映画に価値を与えるのは、個人の体験だけだと思う。自分の体験のそとに、評価軸など存在しない。そして、ジェンキンズの「ルーカス帝国の興亡」を読んで、自分が「つまらない」と感じた映画にも、ちゃんと存在理由や、存在価値があると教えられた。

だから、『フォースの覚醒』にも、ちゃんと存在価値はあるんだと思う。J.J.エイブラムスが、本当はどうしたかったのか、彼の仕事には興味がある。今後、映画の裏側を探っていくのは、面白い体験かも知れない。何年かしたら、映画自体も、楽しく見られるときが来るのかも知れない。


今日、録画してあった『ターミネーター2』を、まどろみながら見た。ジェームズ・キャメロンは、この映画の脚本を、たった3日で書いたという。
それにしても、この30年ほどの間に、映画の見方は激変した。『スター・ウォーズ』公開当時、家で本編を見ようと思ったら、短時間に編集された8ミリ・フィルムを買うしかなかった。高校二年のころ、『ジェダイの復讐』のビデオを買った、家で何度も見た、とクラスメイトに聞いた。それから何年かすると、レンタル・ビデオ屋が日本中にできた。世界の裏側の、聞いたことのない映画さえ、いつでも好きなときに見ることができるようになった。

高校のころまでは、ロードショーの終わった映画を見るためには、「ぴあ」で名画座のプログラムを調べるしかなかった。その当時とは、「映画館で見る」イベント性も、変化した。
僕らの映画に対する感覚、生理も、確実に変わってきたはず。歳をとればとるほど、若いころに見た映画に、別の価値・意味を発見できるようになる。自分のかたくなな思い込みにも、気づかされるチャンスも増える。

それにしても、「ぴあ」の映画紹介の一言コメントは、どれも面白かった。ほめるでもけなすでもなく、サラリと映画への興味を喚起したり、監督の個性を皮肉ったり、本当に豊かだった。

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2015年12月17日 (木)

■1217■

レンタルで、『ル・アーヴルの靴みがき』。アキ・カウリスマキ監督作は、『マッチ工場の少女』をミニシアターで見て以来だから、なんと25年ぶり。
341933_01_02_02この映画はフィンランド語をフランス語に直訳し、そのまま俳優にしゃべらせている。すると、「そなた、どうなされたのですか?」といった、格式ばった言い回しになってしまうのだという。だが、カウリスマキ監督は、あえてそのまま映画を撮った。
なので(フランス語が分からずとも)、今日的なヨーロッパ移民問題を扱っていながら、どこか大昔の映画のようにも感じるし、舞台劇のようにも見える。

ストーリーだけ取り出すと、移民の黒人少年を貧しい大人たちが助けるヒューマンな物語なのだが、語り口が異質すぎて、別のことを言いたがっているように感じる。その齟齬感、距離感は『マッチ工場の少女』のそっけなさより、強くなっている。
だが、この異様な雰囲気の中でしか伝わらない切実さが、確かに感じとれる。


高校生が痴漢の犯人を断定し画像を拡散 ネットで問題視される
日本の人権意識の低さを、象徴する事件だと思う。日本には、盗撮を禁ずる法律はない。法律がなくとも、「撮られたくない写真を撮ったり、それをネットを使って広めたら、撮られた人に申し訳ない」と感ずる心がない。そうした思いやりを育てる教育が、日本では行われてこなかった。「犯人を探せ」「告げ口しろ」、僕らは、教師たちにそう教わってきた。

僕は痴漢をなくす方法をアンケートで募り、その結果を署名活動にしたり、街頭に立って訴えたりもした。だけど、二度とやらない。それは「痴漢に人権なし」の風潮を感じたから。
僕だって、示談で痴漢事件をうやむやする警官などには、はらわたが煮えくり返る。だけど、彼らにも人権があると認めなければ、被害女性の人権も、また認められないはず。その公平さの中で、正々堂々と勝たねばならないのに、痴漢を根絶したい人たちの中は、「加害者に人権なし」の態度をつらぬく人が多かった。それでは、僕らの社会は、何も変わらない。何も進歩しない。

実在児童の性暴力写真に関する請願()はプリントして、馳浩議員(文部科学大臣)と、福島みずほ議員にお送りした。どちらからも、返事はない。無視されている。
児童ポルノ法もまた、「児童の人権擁護」という立法趣旨が忘れ去られているので、仕方がないと思う。(この件に関する勘違い発言は、いやというほど聞いてきた。)


ツイッターで、なかなか良い発言にめぐりあえた。
以下、必要箇所のみ引用し、リンクは貼りません(発言者に食ってかかる人が出そうなので)。

“なぜオタクがかった人は、わざわざ乱暴な物言いを選ぶんでしょうか?校正紙なら「文字が小さくて読めない」と書けばいいのに「ゴミのようだから修正」と表す意図が判らない。”

これ、とてもよく分かる。表現規制反対のツイートでも、いきなり相手をBBAと書いたり、苗字を呼びすてたり……そんな幼稚な人たちの仲間だと思われたくないでしょう? 見ず知らずの相手を「おまえ」「てめえ」「こいつ」と呼ぶ粗暴さは、確かにオタクの特徴だと思う。
ベテランのアニメ監督さんに間違いを指摘されたとき、監督は「勘違いなさっています」と、丁寧な言い方をしてくださった。だけど、版権窓口の担当者は「そんな設定ありません」とか「はあ? 意味がわかりません」とか「ちゃんと調べました?」とか、トゲのある裏返しな言い方で赤を入れてくる。言葉づかいひとつで、人間の度量がありありと露呈してしまう。

アニメや萌え絵好きだから、責められているわけではないと思う。性格が悪い、態度が粗暴な者が目立つから、すぐさま「犯罪者予備軍」などと、槍玉にあげられるんではないだろうか?
萌え絵ポスターの味方に立ちたくても、すでにツイッターで口汚い罵りあいが始まっている。一言でいうと、社会性が欠如している。一方で、「オタクに人権なし」とばかりに、理不尽な攻撃を加える人たちもいる。こんな破滅的な状況に、誰が近づきたいと思うだろう? 相手を敬称で呼ぶ、最低限の敬意をはらうだけで、ずいぶん雰囲気は変わっていただろうに……。
(c)Sputnik Oy / photographer: Marja-Leena Hukkanen

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2015年12月16日 (水)

■1216■

平日夜の秋葉原、単行本のための取材。インタビュー後に、ようやく現地に着いた編集者と、閉店間近の中華料理屋で、打ち合わせをする。

彼はアニメファンでもオタクでもないのだが、『RWBY』の話を、つい熱く語ってしまった。
1144330_1200『RWBY』のブルーレイは、買ってから毎晩、見ている。気に入ったやりとりがあると、巻き戻して見返してしまう。

日笠陽子演じるワイツは、大企業の令嬢なので、語尾はですます調だ。その高飛車な態度は形式的なのだが、ワイツは「自分はまだ、完璧ではない」「自分は、とっつきにくい性格」と、未熟さを自覚している。その深い部分にまで、日笠陽子は手を届かせる。その演技は、キャラクターの内面を身近に感じさせるための工夫だし、表現なんだ。


少なくとも、発汗恐怖症がぶり返している今の僕は、対人関係をテーマにした『RWBY』に救われている。同じ苦しみに耐えている人に、見てもらいたいと願っている。

しかし、人気が出れば出るほど、アニメ・ファンは「新参者お断り」の風潮を強くしていく。
「テレビシリーズを見ていない」「元ネタを見ていない」「聖地巡礼していない」と、減点方式でファン失格の烙印を押す。「たまたま見る機会があったけど、面白かったよ」という通りすがりを、歓迎しない。
新参者が入りづらいから、固定ファンをリピートさせるための、濃い工夫が必要になる。

作り手が間口を広くしても、性格の悪い古参のファンが、ずらりと間口を埋めてしまう。
僕にも覚えがあるから、過去に熱中して、今でも好きなアニメのタイトルは、なるべく出さないようにしている……そのアニメに、うるさいファンが粘着していると思われたくない。
どんなに昔の作品でも、まったく未見の、新しい人に触れてほしい。そう願っている。


町山智浩 スターウォーズ6部作に隠されたジョージ・ルーカスの人生を語る
後半の、ルーカスが再婚して以降の話は、まったく知らなかった。町山さん、誰を蔑むでも傷つけるでもなく、本当にきれいに語って、ルーカスを祝福している。

チケットがとれたので、小学校時代からの友だちと金曜日に見てくるけど、ついにルーカスの個人作品ではない、大衆化された『スター・ウォーズ』が誕生するんだ……と、やや複雑な心境。
1999年夏の『ファントム・メナス』公開時の、オモチャ・ブームと渾然となった、熱気の満ちた空気が懐かしい。あの頃は、映画が縁で知り合った友だちと、よく渋谷を歩いていた。あちこちにトイ・ショップがあって、毎日のようにハシゴして、何を見ても楽しかった。

今回は、過去の作品のことなんて忘れてしまって、知っているキャラクターたちの出てくる新作娯楽映画を楽しむような、気楽な態度が正解なんだろうな。

(C) Rooster Teeth Productions, LLC

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2015年12月15日 (火)

■1215■

初めて、人前で汗が出たのは、高校二年のときだった。
隣席の女子が、教科書を忘れたというので、机をくっつけて見せていたら、滝のような汗が出てきて、止まらなくなってしまった。その女子のことは気にとめていなかった(他のクラスに好きな女子がいた)のだが、発汗恐怖は、自分で「気にしていない」とき、突然にやってくる。

この二ヶ月ほどの間に、床屋で発汗するようになってしまった。精神安定剤を、いつもの倍ぐらい飲んでも、ほとんど効果はない。
海外旅行へ行く飛行機の中では、まったく知らない外国人の女性と隣り合わせたりするが、一度も汗をかいたことはない。安定剤を飲んでもいるが、成田空港で、何杯かビールを飲んでいくせいかも知れない。あるいは、気分が開放的になっているせいかも知れない。

その一方で、森田療法の本に載っていた「喫茶店で、ひとりで座っているだけで、間の悪さに耐えられなくなる」人の気持ちが、いまの僕には分かる。
そういう理不尽な苦しみに耐えている人に、このブログが届けばいい……と思いながら、書いている。親友にも、対人恐怖の苦しみだけは、分かってもらえないから。


2014年、署名活動を開始したころは、対人恐怖症だと言っても、新しく知り合った人たちに笑いとばされた。「そんな社交的なのに、どこが?」と言われた。
署名活動だけでなく、国会議員に手紙を書いたり、能動的に動いてみた。だが、ひとつ残らず、目標を果たせなかった。そのことが、僕から自信を奪っていったのだろう……と、仮定している。

だが、対人恐怖・発汗恐怖は、ひとりでいるときに襲ってくるので、外交的な自分とは、それほど関係がないような気がしている。
医者は「25歳をすぎると、自分に対するあきらめと妥協が生まれて、症状はおさまる」と言った。だが、僕は30歳になっても40歳になっても、服を買うときに、滝のような汗をかいた。映画館で汗が出て、途中で、飛び出してきたこともあった。

妻には「薬代がもったいないから、我慢しろ」と、何度も言われた。その無知・無理解ぶりだけで、離婚する理由としては、十分だった。


原因は、もっと深いところにあるのだろう。
幼いころから、父親に突発的に怒鳴られたこと。内向的で、学校で、なかなか友だちが出来なかったこと。絵を描いたり、アニメを見ていることを、周囲からバカにされたこと。ほんの数人の女性にしか、男として見てもらえなかったこと。

だから僕は、社会から逃避するように、海外へ行く。海外へ行くお金をためるつもりが、キャバクラで数万円を使ってしまう(ああいう場所なら、男性として敬意をはらうフリをしてもらえるから)。そして、酔いがさめてから、猛省する。
このブログに、結論はない。ただ、同じように赤面したり、発汗したり苦しんでいる人がいたら、「あなただけじゃない」「あなたのせいじゃない」「自分を責めるな」と言いたい。

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2015年12月13日 (日)

■1213■

取材で、雨上がりの東京スカイツリータウンへ行った。
Dsc_2486_1
年末の楽しみだと思っていたクラス会も、ふと気がつくと、過去の出来事になっている。何もかもが手遅れのような、しかしそれが当たり前のような、不思議な気持ちにさせられる。


レンタルで、アレハンドロ・ホドロフスキーの『リアリティのダンス』。
Btmvph0cuaa7_pk昨年夏、『ホドロフスキーのDUNE』を見て、それまでの認識をあらためた。ホドロフスキーが映画に対して不真面目であったことなど一度もないし、屈折した欲望を映画に叩きつけたこともない。
『リアリティのダンス』で、ホドロフスキーは自分の少年時代を描き、映画を通じて父親と和解し、母親の「オペラ歌手になりたい」願望をかなえている。父親役を演じているのは、息子のプロンティスだ。

ホドロフスキーにしては、あまりに温厚なこの映画は、カンヌ国際映画祭・監督週間で上映された。「面白いか/面白くないか」「百点満点で何点か」などといった貧しい減点法ではなく、作家や作品の存在自体を尊重し、広めよう・残そうとする人々がいる。70年代から、くりかえし『エル・トポ』を上映しつづけた配給会社も、ホドロフスキーの価値を広めてくれた。

ホドロフスキーが私的なことを描けば描くほど、周囲の人たちがバックアップしていく。拍手で迎える。それが、作家に対する礼儀だと思う。数字で冷たい評価をしている者には、分かるまい。


吉祥寺ヨドバシカメラで、『RWBY』の初回限定版BDを購入。
1115_the_stray_09780やはり、粋なセリフまわしと声優たちの多面的な演技に、心を奪われる。藩めぐみ演じるペニーの登場する最終エピソードは、何度もくりかえして見た。
英語でも見てみたが、やはり、藩めぐみが、アンドロイドで言動の不自然なペニーに、独特のユーモアを加えている。

ペニーは、ルビーの「おともだち」という言葉に反応するが、これは物語冒頭、ルビーが友だちが出来るかどうか悩んでいたシーンと呼応する。どのエピソードも「仲間」や「友だち」を描いている。それは、彼女たちが何とかして手に入れたいと願っているもの、まだ手に入れることができないでいるものだ。彼女たちは、抱き合ってベタベタするようなことは、めったにない。それぞれの差異を認め、意見が対立することを怖れない。さみしさと包容力が、互いに拮抗している。

今年2月に急逝した、『RWBY』の生みの親、モンティ・オウムが「15歳のルビーに感情移入した子が十年後、25歳になったルビーにも共感できるように」と、特典インタビューで語っている。
流れゆく時にあらがわない、厳しさとたくましさが、この作品の根底に流れている。

(C) “LE SOLEIL FILMS” CHILE・“CAMERA ONE” FRANCE 2013
(c)Rooster Teeth Productions, LLC

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2015年12月 7日 (月)

■1207■

Febri Vol.32  10日発売予定
51hy3vbmetl_sx350_bo1204203200_●Febri Art Style 『おそ松さん』 美術監督/田村せいきインタビュー
以前からずっと、ギャグアニメの背景を取材したいと思っていたので、今回は『おそ松さん』です。美監は、田村せいきさんで、とても面白い言語センスをもった方なので、ほぼそのまま、掲載させていただきました。

そもそも、「ギャグアニメの背景」がテクニカルだと気づかされたのは、初代『てーきゅう』で、板垣伸監督にインタビューしたとき。「ああいう省略された背景は最近、少ないでしょう?」とおっしゃっていたのが、キッカケです。


本日は、予定されていた取材が流れたので、手元にある試写状の中から、リドリー・スコット監督の『オデッセイ』を選び、六本木まで足を運んだ。
Cal19an5上映25分ほど前につくと、建物の前に行列ができている。列の後ろから、宣伝会社の人がひとりひとりに名刺を渡しながら、「満席で、ご入場できません」と頭をさげている。
『ファンタスティック・フォー』のときは、同じ会場でも、余裕あったんだけど、満席ならば仕方がない。

そのとき、名刺交換しながら、ちょっと妙なことを聞かれた。
「ウェブ媒体に書かれている方ですか?」
「いえ、ウェブでは、アニメばかりです」
「では、紙媒体ですか?」
「紙でも、アニメばかりです。そもそも、実写映画の記事なんて、ほとんど書いたことがありません」
「では、この試写状は、どこから……? ウチとは、どういったご縁で?」
そりゃあ、あなた方の会社が、どこかで僕の住所を知って、送ってきたんじゃないですか(笑)。ブログに好意的感想は書いているので、今後も、送ってきてほしいんですけど。


実写映画の記事といえば、10年前の『スター・ウォーズ/シスの復讐』のときは、紙媒体にレビューからインタビューから年表から、いやというほど書いた。最近は、『パシフィック・リム』のレビュー、『カイト/KITE』で梅津泰臣さんにインタビューしたのと、EX大衆でマーベル映画について特集したときぐらい。

マーベル映画特集のときは、編集者の負担を軽減するため、僕が画像素材を用意した。20世紀フォックスとディズニーに何度か電話して、すべての素材を揃えることができた。先方は、「(C)を忘れずに入れてください」「完成した雑誌を、二部ほど送ってください」だけで、後は何のオーダーもない。原稿チェックなんて、そもそもしない。

前のブログで、「深夜アニメ発の映画だけ、別枠扱いになってないか」と書いたけど、アニメの場合、必ず原稿チェックが入る。会社にもよるが、「ここからここまでカット」「こういう言い方はナシで」と赤を入れられ、あげく、担当者が無断で原稿を書き直して、知らないうちに「文:廣田恵介」として、雑誌に載ってしまったことすらあった。
その検閲体制を改めないかぎり、アニメ映画が、一般の映画と同じまな板で論じてもらえることはないと思っている。
(念のために言っておくと、最近は原稿をチェックすることはするが、まったく直されない場合が増えてきた。)


『オデッセイ』の試写が見られなかったので、青山ブックセンターで、『エンピツ戦記‐誰も知らなかったスタジオジブリ』を、ようやく手に入れて、帰途についた。
「ようやく」というのは、とにかく本屋で見つからない。売ってないのではなく、見つからない。アニメ本のコーナーにもない、サブカル本のコーナーにもない、エッセイの棚にもルポの棚にもない。スマホでAmazonの画面を見せて、「この本を探しています」と店員さんに言うと、パソコンで検索して、すぐ持ってきてくれた。

三鷹市内の図書館には、検索用の端末が数台あって、本がないなら「ない」と分かる。ないなら、他の図書館から取り寄せることさえできる。
本屋に、検索用の端末を置けばいいと思うんだけど、僕は見かけたことがない。本当は在庫があるのに、「見つからないな、売ってないのか」と帰ってしまう客が、どれくらいいるだろうか。

どの本屋にも、『スター・ウォーズ』関連の本だけは、あふれるほど置いてあった。
そういえば、今回の『スター・ウォーズ』は、ルーカス・フィルムが記事をチェックしている。「全文英訳しろ」という体制は評判が悪く、最近は改善されつつあると聞く。
画像を使っていない独自研究本なら、河原一久さんの『スター・ウォーズ論』。これ一冊で十分すぎるほど。映画史ばかりか、神話や哲学まで動員して、俗説を覆していく手つきは鮮やか。もちろん、マーケティング的な分析もあり、『スター・ウォーズ』が単なる映画というよりは、「映画を切り口にした文化」なのだと分かる。

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2015年12月 6日 (日)

■1206■

仕事で『ガールズ&パンツァー』の取材をすることになり、OVA『これが本当のアンツィオ戦です!』をレンタルしてきた。かなり楽しめたので、その気分のまま劇場版を見に行こうかと思っていたら、編集者が白箱を送ってくれた。
Gup_movie_b_14_web_large少年野球をモチーフにした『がんばれ!ベアーズ』は、えんえんと続く日曜日の試合を描いた美しい映画で、最後の試合にむけて、思わぬ助っ人があらわれたり、問題が発生したりしてクライマックスを盛り上げる、部活映画の教本ともいえる内容。
劇場版『ガルパン』の構造は『ベアーズ』調で、冒頭の戦いが終わった後、どうしても試合に勝たねばならない難問が設定され、そこから這い登っていくチームの結束を描いている。構成は、シンプルだ。

クライマックスは、一時間もつづく手の込んだ戦車戦で、テーマパークを舞台にして西部劇風にしたり、『シャイニング』のような迷宮庭園の中を走ったり、果ては観覧車を使って『1941』のパロディまでやっている。豆戦車がジェットコースターのレール上でチェイスしたり、まったく飽きさせない(「さすがにそれは無理では……」と思わせるシチュエーションを、履帯のたるみから音響にいたるまで、精緻に描写するセンスがいい)。

ふと、いまパロディの元ネタを探ろうとして『1941』をレンタル店に探しに行っても、置いていないのではないか……という懸念が、頭をよぎる。僕は気がつかなかったが、『戦略大作戦』のパロディまであるらしい。『戦略大作戦』は、さらに置いてない可能性が高い。
セリフの中で『ケイン号の叛乱』とも言っていた。古い映画ほど、鑑賞できる機会は減っていく。しかし、レンタル店で見れようが見れまいが、「かつて、そのような映画があった」「少なくとも、制作サイドは知っている」ことを明示しないと、教養は育たない。


『ガールズ&パンツァー 劇場版』は、編集のテンポがいい。
たとえば、ポルシェ・ティーガーを山道で走らせるシーンがある。砲塔のうえから頭を出したキャラが、セリフをいうところでカットが切れるのだが、切れる直前、頭に当たりそうな木の枝をヒョイとよける。それだけで、テンポが生まれる。(もうちょっと細かく言うと、キャラのアップをカメラがフォローしていて、木の枝は画面外からインする。)

その少し前、自動車部が「最後のドリフトを決めよう」と車を走らせるシーン。画面奥で、車がドリフト走行しはじめたアクションの始まりで、カットを切っている。アクションを最後まで派手に見せるより、始まったあたりで切るほうが、次のカットが生きる。

映画を見ていて「飽きない」「気持ちいい」とは、つまり編集が上手いということ。観客の生理を、もっともコントロールできる工程が編集かも知れない。
画面内の情報を、短く効率的に見せるという意味では、レイアウトも優れている。後半戦の敵となる大学生チームの斥候が、停車した戦車の上にシーツをしいて、双眼鏡をのぞいている。望遠ぎみの落ち着いた構図で、戦車とシーツにはブラシで質感が描きこんである。絵に重みを加えている。すると、敵の斥候が威圧的に見える。「敵は強い」と感じさせる。そのような絵を、しかるべき流れの中に、効果的に配置することこそ「作劇」なのだと思う。


少なくとも、ふたつの大きな戦車戦だけで、十分に見る価値のある映画。しかし、たまたま目にする機会は少ないだろうと思う。
子ども向けでないアニメ映画が誕生しはじめたころ、たとえば総集編の『ガンダム』三部作でも、ちゃんと映画評論家がとりあげていた。おすぎの出ている映画レビューのラジオ番組で、酷評されたりもした。無視されるよりは、一般向けの番組で酷評されるほうが、認知度は上がる。

ところが、いまはアニメ映画でも、深夜アニメ発のものは別枠扱いだ。
80~90年代、スクリーンで上映された邦画がすべて同じまな板に乗せられ、逐一、批評されていた時代があった。皮肉にも、それは邦画の本数が少なく、質的にも貧しい時代のことだった。今は質が向上したのか、観客や業界が互いに敷居を設けているのか、それは分からない。

(C)GIRLS und PANZER Film Projekt

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2015年12月 4日 (金)

■1204■

前回のブログで、最後にふれた『響け!ユーフォニアム』が「西洋人の目には児童ポルノと映ってしまう」と指摘された件。
そう指摘したユーザー自身が、「盗撮行為をしている」とのツイートを見かけたので検索してみたところ、確かに、制服姿の女子小学生の写真が何枚かアップロードされていました。撮影場所も明記されていたので、何箇所かにURL付きで通報しておきました。

ただし、盗撮画像が削除される可能性は、低いと思います。
「昨年の児童ポルノ法の改正で、盗撮も禁止されたじゃないか」と思われるかも知れませんが、児童ポルノ法では、制服姿の児童の盗撮は、禁止できません。同法の第2条第3項に定義された姿態を「盗撮」した場合に限られるからです()。

盗撮行為は、東京都迷惑防止条例の第5条1項2号()に、抵触するかも知れません。しかし、こちらにも「人の通常衣服で隠されている下着又は身体」を盗撮した場合……という条件がつきます。

僕個人は、本人の意志と無関係に撮影され、無関係にアップロードされた写真は取り締まるべきと考えます。「性欲を興奮させ又は刺激する」かどうかは、まったく関係ありません。


いささかショックだったのか、アニメを「児童ポルノに見える」と指摘した本人が、下校中の児童を盗撮していた事実を「笑い話」と捉える人が、何人かいたこと。
また、Togetterでまとめてしまうと、その分、児童が「見られたくない」と思っているかも知れない写真が人目に触れてしまいます。笑ったり、まとめたりする人たちは、配慮に欠けていたと、僕は思います。勝手に撮られて、勝手にアップされている児童の立場を考えてほしいのです。

少し前に、公共の場で見かけた女子高生をイラストにした人が、批判されました。
イラストは、情報の取捨選択が描き手にゆだねられているので、意図が伝わりやすい。見る人にとって分かりやすくシェイプされているからこそ、叩きやすくもあるのです。共通認識のうえでの「見解の相違」でしかないから、議論が平行線をたどるのは、当たり前のことです。

僕が警戒するのは、「こういう画像で興奮する連中は、気持ち悪い」「こういうイラストで自慰行為をするのは、気持ち悪い」など、個人の内心に攻撃の刃が向かってしまうこと。
部屋でひとりでいるとき、何に興奮しようが、何を見ながら自慰しようが、他人の知ったことではない。完全に、個人の自由です。


にも関わらず、萌えイラストが槍玉にあげられがちなのは、やはりネットの普及によって、「会うはずでなかった人たちが、会うようになった」「見るはずでなかった人たちが、見るようになった」ことに尽きると思います。
それは引き返せない道なので、「もし“見るはずでなかった人たち”に見られた場合」に備えて、エクスキューズを用意しておく必要はあると思います。

あるアニメ作品で、つねにビキニを着用しているキャラクターがいたのですが、町おこしで主要キャラクターたちのイラストを駅前に掲示するさい、彼女だけは外されました。プロデューサーに聞くと「町に来た人に、作品を誤解されると困るから」とのことでした。結果、何の騒ぎにもならなかったので、懸命な判断だったと思います。

そうした配慮は、「風紀を守るため」ではありません。「個人の内心の自由を守るため」です(性的なイラストを見たくない、という人たちの内心も含む)。
付け加えるなら、盗撮行為を禁ずるべきなのは、「風紀のため」ではありません。「個人の名誉と権利を守るため」です。

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2015年12月 2日 (水)

■1202■

『RWBY』公式サイト 応援コメントが到着!()
先月20日の記事だけど、ワーナー・ブラザースさんからの依頼を受け、喜んで書かせてもらいました。以下、引用します。

「文筆業 廣田恵介さん
キャラクターたちの可愛らしさ、表情の豊かさに、魂をつかまれた。3DCGのキャラ造形としては、やや稚拙だと思う。だけど、ぎこちないCGの輪郭線の中に、めいっぱい優しいタッチで表情が描きこまれている。
何とかして可愛く見せようとがんばっている。そのスタッフの愛情に、心打たれた。」

『RWBY』は、ひさびさに自主的に応援したくなるアニメでした。日本語版音響演出の打越領一さんにもインタビューできたし、短期間に、やれることはやれたのではないかと思います。


レンタルで、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』。
Main_large かつて、ヒーロー映画『バードマン』の主演として有名だった主人公が、レイモンド・カーヴァーの小説を戯曲にして、ブロードウェイで上演しようとする。その上演初日までの数日間を、ほぼワンカットの長回しで描いている。
ヒッチコックの『ロープ』を見た人なら分かると思うが、実際には何カットかに分けて撮り、編集でつないでいる。舞台劇のように緊張感を持続させるテクニック。
『バードマン』のカメラワークが驚異的なのは、たえずカメラが動き回り、俳優に密着し、ついにはニューヨークのビル街を飛び回る空撮まで行い、そのまま部屋の中までシームレスに戻ってくるところ。正直いって、この試みはデジタル技術に甘えているし、発想も子供じみている。だが、その裏に周到かつ膨大な撮影計画が立てられていたことを想像すると、「よく破綻させずに完成させたな……」と、感心せざるを得ない。ほぼワンカット、リアルタイムで進行しているかのように見せかけながら、120分に編集したのだから、すごい。

自分が楽しかった、楽しめなかったかは関係なく、技術的困難にいどんだ映画は、それなりに認めないとダメ。自分の快・不快にしか興味のない、幼稚な人間に退行したくなければ。


あるツイッター・ユーザーの方が、『響け!ユーフォニアム』を表紙にすえた「アニメスタイル」誌を槍玉に、「西洋人の目には児童ポルノと映ってしまう」と言っている()。

条文すら読んでない人には、「何を言ってもムダ」とは思います。こういう混乱が起きるから、「ポルノ」ではなく「性虐待記録物」と呼ぶべき……という署名キャンペーンをやったはず。「それなりに成果はあった」という声もいただいたけれど、まったく届いていないと感じる。
署名キャンペーン時、アニメ会社のプロデューサーや、アニメ誌の編集者に意見を聞いてみたが、「そういう政治的なことには関わりたくない」と返されてしまった。漫画業界に比べて、アニメ業界は(よく言えば)スルーがうまい。

いま徹底すべきは、「児童ポルノ」という言葉が「児童をモチーフにしたわいせつな表現物」「わいせつな写真」程度にしか機能していない実態を、しっかりと受け止めること。
その一方で、児童が大人に脅されて撮った写真、児童が児童を撮った写真さえも「児童ポルノ」として扱われている、実社会での運用を、(ニュースや判例を調べて)具体的に把握すること。

面倒だけど、問題点を再確認しておかないと、言葉の泥沼に足をとられて、誰もが無駄な遠回りをさせられると思う。いま、この発言者を攻撃しても、誰のためにもならない。

(C)2014 Twentieth Century Fox. All Rights Reserved.

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