■1129■
ホビー業界インサイド第5回:デジタル技術が揺るがすフィギュア造形の“常識” “ZBrush”原型師、深川克人インタビュー(■)前回は、一般人の中に熱狂的ファンがいて、スケールモデルやアニメ・フィギュアとは別方向に深くて濃い、「ぷちサンプル」を取材しました。今回は、連載開始時より狙っていた、デジタル造形に切り込んでみました。
次回で、この連載は6回目で、半年たちますから、もう一度、出発点というか原点に近いところへ戻ります。ゼンマイのネジを巻いて、弾みをつけるようなものです。興味のある会社や個人の方に、どんどん取材をお願いしています。
■
J.J.エイブラムスの手腕を確認するため、『M:i:III』をレンタルで。こんなにアクションが上手くて、どんでん返しを三回ぐらい起こせる人に『スター・ウォーズ』を撮らせていいものかどうか、考えてしまう。ともかく、観客の心理の裏の裏まで手が届く、頭のいい人だ。
僕は、『スター・ウォーズ』は、映画としては孤高というか、無神経なフィルムであってほしいと願っている。第一作目(『新たなる希望』、このサブタイトルもダサい)は、ジョージ・ルーカスの前衛的なセンス、他人をかえりみない哲学が前面に出すぎて、娯楽性には乏しい。
『スター・ウォーズ』は、映画の出来が「いい」「悪い」は関係なくて、世界観を記述するツールとして、たまたま映画の形態を選択した芸術なのだと思う。だから、ルーカスがひとりよがりに暴走して、周囲が勝手に残念がる……という構造が、もっとも美しい。観客の顔色なんて、気にしてはいけないのだ。
(それでも、『ファントム・メナス』のメイキングを見ると、ルーカスは観客に理解できるかどうか、かなり気にしてはいる。だが、結果としては首をひねるような描写のオンパレードで、その勘違いっぷりが面白いわけだ。)
なので、エイブラムスという才人が、ルーカスの癖や『スター・ウォーズ』の約束事を噛んで含めて、何もかも計算づくで“それっぽい、いまどきの娯楽映画”を撮ってしまうことに、怖れを感じる。
世間や時代に対して、胸を開かないというか、常に閉じていることが『スター・ウォーズ』の条件。少なくとも、僕は「分かるヤツだけ、追っかけてきてくれ」という、ルーカスの引きこもり性に魅了されている。孤立していてほしい。荒野に、屹立していてほしい。「出来のいい映画」なんて概念、ゾッとする。
■
たぶん、その「孤高の存在でいてほしい」願望は、自分の育ち方に起因しているのだろう。僕は、いつでも「誰も分かってくれない」と嘆き、ひとりでトボトボ歩いて帰るのが、好きな子供だったから。
昨夜も、クラス会の席で、勝手に怒って帰ってきてしまった。「お前らだけで、勝手に盛り上がってればいいじゃん!」という態度をとったのが、まずかった。
しかし、社交性のない僕をからかうようなヤツが、偉そうに酒宴の真ん中に座っては、黙って席を立つより、しかたがなかった。
その夜は、中国へ団体旅行して、僕ひとりだけ空港にたどりつけない夢を見た。
北京の街で、スーツケースをなくして道に迷い、飛行機に乗れないのではないかと、一人あわてて走り回る、出口のない夢だった。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)