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2015年10月29日 (木)

■1029■

まるて@『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド』、友だちからもらった優待券で見てきた(『バクマン』も選べたけど、こっちにした)。
Image01bアジア人にしかつくれない、特撮映画。前編は未見だが、そっちに恋愛要素や主人公の動機づけ、ドラマのアップダウンは詰め込んであるのだろう。90分間、ひたすら巨人同士が格闘しあう怪獣映画で、その巨人の首に人間がしがみついていたり、巨人同士でもサイズに違いがあったり、視覚的に面白かった。
ヨロイをまとったような巨人の造形が、まるで、スクリーミング・マッドジョージの実写版『ガイバー』(『THE GUYVER』、『GUYVER DARK HERO』)なんだよね。だから徹頭徹尾、日本人のセンスなんだと思う。

問題があるとすれば、敵が「巨人の恐怖心を利用している政府の役人たちこそ、本当の悪」と核心をついてくれたのに、主人公が「役人たちを倒すと、ほかに犠牲者が出るのでイヤ」と、またしても“思い”で反論して、敵もその“思い”に加担してしまったこと。

こうした“思い”によって、論理的思考がねじ伏せられるのは、邦画の悪癖です。
アニメでは、『機動戦士ガンダムUC』が特徴的。フル・フロンタルが、誰もが損をしない合理的な「サイド共栄圏」を提唱しているのに、主人公のバナージ少年は、「あなたの言葉には他人事みたいな冷たさを感じる」という生理的嫌悪感だけで、否定してしまう。
結果、問題解決を先送りしただけの「可能性」に心酔して、エンドマーク。娯楽映画は、結論を留保したままで終わらなければならない、若者にバトンを渡すのが美しい……と思いこんでいる。「目の前の悪は倒せたが、本当の戦いはこれからだ」と若者に押しつけるのだから、本当にタチが悪い。


そして、この映画が公開されたことの意味は、むしろスクリーンの外にある。
僕は、その年の東宝映画で最低興行収入だった『ガンヘッド』を、三度も見にいった人間なので、『進撃の巨人』の興行成績が悪化しているから、「スタッフは全員クビがとぶ」()などと聞いても、片腹いたい。だったら、『ガンヘッド』の原田眞人監督は、なぜ『日本のいちばん長い日』を監督できてるんだ?

つまり、評論家も、彼らに評価の判断をゆだねる怠惰な観客も、「自分を楽しませてくれなかった」という動物的反射だけで、作品を切り捨てている。
自分の好悪、快・不快だけで生きてるから、じっくりと「検証する」姿勢がない。
『ガッチャマン』のときも、そうだった。自分の目で映画を見てないから、「だって、ガッチャマン同士の恋愛劇なんでしょ?」と、どこかの誰かの書いた文章を、自分の感想だと思い込んで、その思い込みを「冷静で批判的な態度」と、誇らしくさえ思っている。
そのような乱雑な作品の叩き方にも、いまの日本の「破滅性」を感じてしまう。


「明日、来日中の国連の児童ポルノ・児童買春に関する特別報告者とおあいする予定。この秋葉原の街は未だに、児童ポルノと児童買春にあふれています。警察はなぜあからさまな児童ポルノを野放しにしているのか疑問。国連から厳しい報告書を出してもらうよう、明日はしっかりプレゼンするつもりです♪」(
特定非営利活動法人ヒューマンライツ・ナウ事務局長の伊藤和子さんのツイート。
もし、「秋葉原の街は未だに、児童ポルノと児童買春にあふれてい」るのなら、一体なぜ警察署に通報しないのだろう? いまこの瞬間も被害者が出つづけているのだとしたら、なぜ「♪」を文末につけられるのだろう?
自ら、「被害は甚大だ」と吹聴しておいて、やけに生き生きと楽しそうに見えるのは、気のせいだろうか。こうした無責任な態度にも、僕はまた、日本の「破滅性」を見てしまう。

伊藤さんは、「子どもが人権について語る映像スピーチコンテスト」を開催するため、資金を募っている()。
自らの充足感のため、児童を利用しているように見えるのは、果たして気のせいだろうか。
僕の寄付した団体は、「東京だけでは被害実態がわからない」と、地方都市まで出かけて、性虐待にあっている子たちの話を聞いていた。彼女たちは、「コンテストのために30万円必要だ」なんて、口がさけても言わない。だから、信用して、寄付する気になったんだ。

(C)2015 映画「進撃の巨人」製作委員会 (C)諫山創/講談社

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2015年10月28日 (水)

■1028■

レンタルで、『ランド・オブ・プレンティ』。ヴィム・ヴェンダース監督の2004年作品。
322993_0039.11テロから、3年をへたロサンゼルス。ベトナム帰還兵のポールは、誰にも頼まれることなく、監視カメラ付きの車で、市内をパトロールし、不審なアラブ人の動きを記録している。
そんなポールの姪であるラナが、叔父をたよって、イスラエルから帰国する。

だが、ポールの興味は「アラブ人のテロを未然に防ぎ、米国を守る自主パトロール」にしかなく、ラナには冷たい。
ラナは、さまざまな人種の集まる教会に寝起きし、周囲とうまく付き合っていく……が、治安の悪いその地区で発砲事件があったことから、ポールはラナと一緒に、犯人さがしをはじめる。

35ミリフィルムの、ざらついた質感が、むしろ新鮮だ。誰もがヴェンダースの映画を追いかけていた、80年代後半の香りが、濃厚に残留している。
だがあの頃より、テーマは生々しくなった。9.11以降、米国内に大量にいたであろう偏狭な愛国主義者、ホームレス、急速に広がる貧困……ヴェンダースの米国民にそそがれる視線は、厳しい。
(自警団きどりで、ペッパースプレーやトランシーバーをラナに持たせるポール、そのごっこ遊びに、年下のラナが付き合ってやっている様子は、痛々しかった。)


ラナの人徳のおかげで、ポールは、自分の追っていたアラブ人たちが、テロリストでも犯罪者でもないことを知る。

茫然自失としたポールは、ラナとドライブに出かける……ラスベガス、ホワイトハウス、砂漠の向こうにポツンと立つ大工場の、目に染みるような、さみしい灯り……。それでも、まともに故郷を見たことのないラナは、嬉々として、アメリカの風景を見つめている。この映画の、ラスト10分間は、ヴェンダースお特異のロード・ムービー。時間と距離の制約をキャンセルした、自由な時間が流れる。

ヴェンダースは、欠点だらけのアメリカの人々を疑いの目で見つめつつ、最後には解放する。そのおおらかな手つきには、長く生きてきた者ならではの、底知れぬ慈しみを感じる。


Twitterで、気になること。
誰かが「栄養ドリンクで体調を壊した」というツイートをすれば、「栄養ドリンクには、このような副作用があり」「そんな常識的なことも知らなかったのですか」と、ここぞとばかりに「正解」を言いたがる人がいる。

今年春、焼肉店で食中毒がおきたときも、同じだった。
最初に、「肉用のトングと、野菜用のトングを区別せずに使った客がいるのでは?」という推理が出ると、あたかも以前から知っていたかのように、「こりゃ、トングが原因だね」と、後だしでも受け売りでも、とにかく正解を口にしたがる。

この社会には万古不易の真理があり、自分はそちら側に属しているのだ……という慢心を感じる。
戦後教育が、つねに「絶対的な答え」を用意し、「完璧に正解を言い当てられたら百点、99点以下は不完全」という強迫観念を植えつけてきたのだから、しかたのないこととは思う。


漫画の児童ポルノ禁止を要請されたということですが
「人の性癖はさまざまですから、何に性的興奮を覚えるのかもさまざまです。しかも、道徳的・宗教的あるいは教育的な問題は別として、個人が抱くその性的イメージがたとえ背徳的・犯罪的なものであっても、それが個人の内面的世界にとどまる限り、どのような性的イメージを抱こうとも、法的問題としては自由であり、国家は個人に対して好ましくない性的イメージをもつことを禁止することなどできません。」

上の文章は、刑法学者で弁護士の、園田寿さんの書かれたものです。
僕が、【実在児童への性暴力写真に関する請願書】)を書くとき、まっさきに相談した方です。「性暴力の記録」である写真が、「一般人が興奮しないから」「ワイセツではないから」という理由で、野放しになっているのはおかしいと、ずっと言ってこられた方です。
そのような矛盾をかかえたまま、児童ポルノ法の規制範囲を拡大しようというなら、まるでナンセンスな話です。痴漢被害すら減らすことのできない、いまの日本人には、荷が重すぎます。

もとになった、国連特別報告者のマオド・ド・ブーア=ブキッキオさんの発言については、媒体によって、かなりのブレがあります。琉球新報()の記事から、引用します。
「子どもが被害に遭いかねない事態を受け入れる社会の寛容性、行為を犯した本人を処罰しないということが被害を増やしている」……この発言については、完全に同意します。

(実際の会見映像を見たので、追記を書き直します。ブキッキオさんは、「性虐待記録物」と「ポルノコンテンツ」という言葉を、しっかり分けて使っています。漫画をさす場合は「児童を題材にしたポルノコンテンツ」と呼び分けているように、聞こえます。)

(C)2004 Reverse Angle International GmbH and Independent Digital Entertainment Inc.

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2015年10月26日 (月)

■1026■

モデルグラフィックス 12月号 発売中
2015102313313810658
●廣田恵介の組まず語り症候群 第36夜
今回は連載3周年でもあるし、見開き2ページ、いただきました。
ダンボールいっぱいに脈絡のないキットの詰まった箱を、ヤフオクで落としたのですが、そのうちいくつかのキットが、役に立ってくれました。

この連載は、ちょっとしたトラブルが発生したとき、当時の副編集長が、「いっそ、廣田さんの連載をはじめてしまおう」と、前向きに事態の解決をはかったことから、始まりました。
立ち止まらず振りかえらず、「新しい課題に熱中する」ことで、発展的に問題解決する攻めの姿勢には、おおいに感心させられました。


レンタルで、『リロ&ステッチ』。クリス・サンダースの監督デビュー作なので、興味がわいた。
Mainクリス・サンダースといえば、セクシーな水着のお姉さんのイラストばかり、山ほど描いている人だ。そのイメージで見ると、なるほど、リロのお姉さんは、かなりグラマラスに描かれている。

しかし何よりも、魚類を思わせるエイリアンたちのデザインが良かった。宇宙船も、クジラやエイを思わせる秀逸なデザイン。光線銃から光ではなく、液体が飛び出す世界観と、よくマッチしている。
どこまで、クリス・サンダースがコントロールしたのか分からないが、ダンスやサーフィンのアニメーションや、ギャグのセンスも、垢抜けている。ドラマの解決のさせかたも洒脱で、ディズニーらしくない。つまり、様式化されていないのだ。

クリス・サンダースのように、あきらかなフェティシズムをもった作家(とにかく、ビキニ姿の美女ばかり、大量に描いている)が、世界に通用する作品をつくった、その幅の広さがすごい……というより、僕は自分の認識と、作品の成果とのズレを楽しんでいる。
(自分の視野の狭さすら、それを自覚すれば、むしろ楽しみに転化すると思う。)


……にしても、アニメ監督やデザイナーを「○○御大」だの「○○神」と呼ぶ人は、リスペクトの手抜きをしているというか、「自分は、その人のどこが凄いと思っているか」考えるのをサボっているのではないか。

「女子力」や「目ぢから」のように、スキルや魅力を、雑然と「あるか/ないか」だけで捉える傾向が、最近は強い。力を「工夫や研鑽によって獲得するもの」ではなく、「先天的に与えられるもの」と、受動的に考えているのではないだろうか。
(能力も運命も、あらかじめ決定づけられていた『ハリー・ポッター』が日本で出版されたのは、1999年のこと。)


昨晩は、KDDIを名乗る人が、「工事が終わったので、確認してほしい」と訪ねてきた。
よくよく話を聞くと、僕がケーブルテレビの回線に一本化しているネットや固定電話を、KDDIの回線に切りかえてくれないか……という営業であった。

もらった名刺を見ると、KDDIのロゴが刷られてはいるが、特約店から来たことがわかった。その特約店をネットで調べてみると、アルバイトや派遣社員の求人サイトにばかり、いきあたる。昨夜の営業マンも、派遣社員なのかも知れない。
それにしても、営業なら「工事の確認」などと言わず、「お得な話を持ってきた」と、はっきり言ってもらったほうが通りがいいのだが。

(C)desney

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2015年10月24日 (土)

■1024■

アニメ業界ウォッチング第14回:「まぐろの日」などで話題の店舗「アニメイトAKIBAカルチャーズZONE」で生じている、新しいコミュニケーションとは?
T640_690959平日、閉店時間にちかいアニメイトAKIBAカルチャーズZONEにうかがい、店長さんと広報の方に、お話を聞いてきました。
以前から、アニメファンとじかに接するアニメショップには、取材したいと思っていました。アニメファンが人とのコミュニケーションを嫌っているかというと、そんなことはないと思います。他人と、うまく接していきたいのではないでしょうか。
アニメイトAKIBAカルチャーズZONEさんの施策は、その潜在的欲求にマッチしていると思います。これといった用もなく、秋葉原へ足が向いてしまう人の気持ちが、すこし分かったような取材でした。


女子中高生に固執する成人男性たち(
「最近、とあるイラストがツイッターのTLに流れてきた。
それは、街で見かけた女子中学生を美少女ゲーム風のイラストに起こしたもの。制服の小さいマークや、服の袖などのデザインの細部に渡り、胸や尻の大きさ、髪の毛の匂い、素朴な表情や動作、スカートが風で揺れて見えたふともも、などが注釈付きで細かく書かれている。イラストは1万件近くファボられている。」

以前、「こんなにオッパイの大きな女の子を見かけた」というイラストを、ツイッターで見たことがある。見かけた場所や、服装のディテールまで丁寧に描かれ、見る人が見たら、本人特定できてしまう。
部屋で、ひとりで楽しむためなら、イラストにしてもいい。だけど、それをネットで公表するのって、どうなんだよ?とは、以前から思っていた。
「写真じゃなくて絵だからOK」「法律にふれないからOK」……だからって、人権意識が問われないわけではない。むしろ、絵だからこそ強調されてしまうもの、無意識ににじみ出てしまうものがある。つまるところ、表現規制について論駁していて、最後に試されるのは、発言者の人権意識だと思う。

痴漢や性犯罪についてツイートしていたころ、表現規制に反対している人から「痴漢よりも痴漢冤罪のほうが怖い」「エロ漫画を禁じたら、レイプが続出する」といった雑なリプライをもらって、心の底からガッカリした。
彼らからは、「自分も社会も、変化する必要はない」「現状維持」といった覚めた諦観しか、感じなかった。実際に性犯罪にあった被害者に、あまりにも関心がなさすぎる。
(今回は、イラストそのものより、A氏が女子中高生を観察するために他県へ遠征したり、車のクラクションを鳴らしたり……といった逸脱行動をとがめる声が多い。そうした怒りの声が、オタク層から出てきているのは歓迎すべきこと。)


『十戒』と同じく、モーゼの『出エジプト記』を描いた『エクソダス 神と王』。レンタル。
Exodus_battleこの作品は、主要人物の多くを白人が演じているため、人権団体から、かなりの批判をうけたという。作品を発表すれば、人を傷つけうる。批判にさらされる覚悟をもった人間が、作家になれるのだと思う。

僕はセシル・B・デミルの『十戒』を、テレビで見た世代。当時の、無理やりなアナログSFXに圧倒された記憶が、強く残っている。『エクソダス 神と王』も、累々たる動物の死骸、チャリオットを使ったスタントなど、デジタルに頼れない部分に惹かれた。
『ポンヌフの恋人』で、ドニ・ラヴァンが火吹きの芸を見せたが、炎のように物理的に“強い”被写体は、映画にエネルギーを与える。CGはシミュレーションなので、使えば使うほど、映画の強度が落ちていくような気がする。

(C) 2014 Twentieth Century Fox Film Corporation All Rights Reserved.

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2015年10月19日 (月)

■1019■

【懐かしアニメ回顧録第11回】新房演出の源流は、「コゼットの肖像」に息づいている!
前回から、作劇や演出のことを、真面目に書くようにしました。なぜなら、カットワークや演出効果のことは、もはや書く場所がないからです。
アニメは、伝達の手つづきをあまり知らない子どもにも伝わるよう、線をへらして情報を簡略化した表現です。新房昭之監督は、そこに映画のように曖昧なタイミング、「間」を闖入させて、いわば表現の根幹に、ゆさぶりをかけたんだと思います。

つまり、途中でルールを変えてしまったわけです。
意外と、その唐突なルール変更は、けっこう多くのアニメーターや演出家が、頻繁に行なっていたのではないか? この連載では、そういう話をしていけたら……と思います。


『ルポ 中年童貞』を図書館に返却、湯浅誠さんと茂木健一郎さんの『貧困についてとことん考えてみた』を、借りてきた。

湯浅さんは、内閣府参与時代、既存の制度ではまかないきれない、生活・就労支援として、「パーソナル・サポート・サービス」を実験的にはじめた。パーソナル・サポートが支えるのは、もはや路上生活者のような、目に見える貧困者だけではない。経済的・精神的に「困っている人」全般だ。
それまで、「困っている人」は、地域や会社、親族などが支えてきた。だが、いまは結婚もせずに孤立している人が増え、「学校を出たら就職→結婚→定年退職したら年金生活」という高度成長期の人生モデルが、崩壊してしまっている。

中年童貞も、昭和的な「お見合い→結婚」なり「恋愛→セックス」というモデルから脱落した結果なのだろう。セックスしてないから一人前ではない……というよりも、昭和的人生モデルの空疎化こそが、問題の本質なのだと思う。


で、Twitterを完全に趣味のアカウントに切りかえてから、分かったことがある。
周囲からほめられずに育ち、「勝ち方」を知らない人が、チラホラいる。何かツイートすると、「それ、本当は間違ってますよ」と、見当違いの部分を指摘してくる。わざと、ひねった認識のしかたをして楽しんでいるのに、「正解」を言い当てようとする人がいる。
何とかして、最初の発言者を上回ろう、「勝とう」としてしまう。

つまり、「教室で、同い年の子どもたちに議論させる」「みんなで話して答えを出したのに、教師が最終決定権をもっている」……このような、理不尽な「負け」パターンをくり返して、無力感を叩きこまれて育てられれば、つまらない揚げ足をとってでも、一度は勝ちたいと思うよな……ということ。

たとえば、2ちゃんねるのスレッドで、最初に「1」とだけ書きこみ、「1とれたか?」「やった、1ゲットォ!」と喜んでしまう(10年前ぐらいは、そういう人がいた。今は分からない)のも、戦後教育の「負け」システムに対する、空しい復讐なんだろうな。
そういう社会は、やはり「破滅的」と呼ばざるをえない。そして、政治家は金持ちばかりなので、破滅的社会を救おうなどとは、露ほども考えていない。

子ども時代に埋め込まれた劣等感は、システムではどうにもならない。もっと、精神の奥底をケアすることが必要なんだろう。
まず自己肯定感を手に入れなければ、他人を気づかう余裕など、生まれるわけがないからだ。

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2015年10月14日 (水)

■1014■

EX大衆 11月号 15日発売

61aylgmybl_sx387_bo1204203200_●新シリーズ! 『サンダーバード ARE GO』パーフェクト・ガイド
カラー3ページに、メカ解説と『サンダーバード』過去作にまつわるマーチャンダイジング展開、『ゼロテスター』などの派生作品について、ぎっしりとコラムを書きました。

僕は、幼稚園のころ、サンダーバードのプラモデルや食玩に囲まれて育った世代です。『ゼロテスター』もリアルタイムで視聴し、玩具も買ってもらいました。年齢的に、アドバンテージがあります。
だけど、おぼろげな記憶では書けないので、海外のニュース記事にあたって、幅広く話題をとりあげました。
版権元からは十分な情報が得られない(しかもテキスト執筆時には、使用画像すら届いていない)ので、実際の映像からひろった事実で、メカ解説を構成しました。


強姦罪「5年以上」、男性も被害者に 刑法改正案を諮問(
性犯罪厳罰化の改正案。注目したいのは、「親などによる性暴力を罰する規定も新設」という部分。

「地位を利用した性暴力」は、現状では「規定なし」だが、法相による詰問では「親など影響力を利用し、18歳未満に行なう場合に罰則あり」となっている。
改正されれば、家庭内の親・兄弟・親族による性虐待を、法的に罰する道が開ける。運用は難しいと思うが、示威効果だけでも期待できないか……。

そもそもの理想は、「最初から性犯罪など起きない社会」。それを念頭に、あくまで被害者を救済するため、法改正を進めるべきと思う。


レンタルで、 『アメリカン・スナイパー』。公開時、さんざん周囲から「見ろ」と薦められておいて、今ごろ見た。
Snipe_01“伝説”とあだ名されたイラク戦争の名狙撃手、クリス・カイルの生涯。
映画は、クリスを英雄らしく描くいっぽう、女や子供まで撃たねばならない戦争の実態を、つまびらかにする。
この映画は、イラク戦争を肯定していると批判されたが、果たして手足を失い、PTSDに苦しむ、若い退役軍人たちの姿をまで、肯定しているだろうか。
クリスが精神的に病んでいったのは、イラク人のせいなのだろうか? 彼が、イラク人を160人も殺したせいではないだろうか?

アメリカ大陸の原住民たちを虐殺し、日本に原爆を二発も投下し、罪のない女子どもを生き地獄に叩き落したアメリカ、それを「正しいことだった」と言い訳せずにおれない人々。
彼らは、批判にあたいする歴史をつくりつづけている。だから、アメリカの文化には、自省的な部分がある(批判を許すことで、バランスをとっている)。


この映画で、本当におそろしいのは、平和な家庭にもどってきたはずのクリスが、子どもと遊んでいる愛犬を「敵」と判定し、反射的に殺そうとするシーンだ。
クリスが、妻をからかうために、オモチャの拳銃で脅すシーンにも、ひやひやさせられる。

そこに敵国人がいなくても、暴力は起きうる。僕らは日常的に、殺意を心に待機させている。戦場でなくとも、殺意は発動しうる。
「戦争は絶対にいけない」と言うとき、僕らは、世界のあちこちで起きている戦争には、目をつむっている。「欧米では」と白人文化を称揚するとき、彼らが軍隊をもち、犯罪や人種差別をしうる存在であることを、無視してしまっている。

相手の愚かさを指摘するとき、僕らは自分の愚かさを忘れている。映画は、自宅のベッドで寝転んで見ることができる。ほんの少しは、冷静にものを考えられるはずだ。

(C) 2014 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC

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2015年10月 9日 (金)

■1009■

Febri Vol.31 10日発売
Cover
●『ガッチャマン クラウズ インサイト』全話解説、中村健治監督インタビュー
合間に入っているキナコさんのキャラクター原案ページ以外、第二特集をすべて書いたことになります。

確か、全話解説を書いている途中で、中村監督にインタビューしました。「インサイト」という言葉の解釈、「空気」やメディアについて、じっくり落ち着いて聞くことができました。
つい調子にのって、監督の人生観にまで踏み込んでしまいました。中村監督は、クールで理知的なタイプかと思ったら、とても包容力のある温厚な方でした。

全話解説は、なんというか「アニメの中」だけのことにならないよう、「実社会との接点を探る」つもりで書きましたので、『インサイト』に心を惹かれた方は、ぜひ読んでみてください。

●渋キャラオヤジ列伝 第十三回
今回は、『バケモノの子』の熊徹です。うろ覚えで書かないように、映画の日にメモ帳をもって、第二回目を見にいきました。
中島らもさんの対談で読んだ、ライオンの雄の話を引用してみました。


『ルポ 中年童貞』を読了した。
巻末近く、AV監督の二村ヒトシ氏へのインタビューがある。その質問の中に、こんな一節が出てくる。「攻撃性が弱者から弱者に向かっていく傾向があります。破滅的です」。
破滅的。それが、いまの日本社会を、端的に言いあらわしているように思った。

誰もが、誰かが失敗することを待っている。嘲笑して優位に立てるチャンスを、うかがってる。たとえば、タレントが死んだら、「俺の知り合いも、同じ病気で何人か亡くなった」だの「自分も同じ病気になったらどうしよう?」だの、自分のレベルの引き下ろして、自己愛の道具にして、徹底的にダシにして、すぐ飽きる。学ばない。
何ら、建設的ではない。何も本気で解決しようとしていない。何が起きても、正面から向き合わない。どこか手近なところに仮の「犯人」をこしらえて、目をそらす。破滅的な社会。

僕が中学生だった80年代から、えんえんとそうだった。教師たちは、事実確認せずに僕たちを叱り、殴り、何の解決にもならないのに、長時間の正座などをさせて「みんなで何らか辛い思いをした」気分だけを共有させ、卒業式には、みんなウソ泣きをして別れた。
毒親に出会わなくても、毒教師たちのおかげで、大人への不信感と自身の無力感だけは、たっぷりと植えつけられる。


「萌えキャラ」は、やはり性犯罪を助長するという説 香山リカ氏の東京新聞コラムが大物議(
香山リカさんのコラムによると、「『加害者は、萌えキャラを見ているうちに、少女を性の対象だと考えるようになったのではないか』とドキリとする」。この人は、性犯罪のことを調べてなさすぎる。知らない、調べないから、目につきやすい叩きやすい「犯人」をつくる。
そのぶん、直面すべき性犯罪の実態からは、遠ざかってしまう。

児童ポルノ規制も、まったく同じ。知り合いから性虐待された人が、後年、どんな思いをしているか知らない。本に書かれているのに、調べない。大人と子供、男と女といった社会のパワーバランスを利用して、性加害が行なわれている。絶対的な力関係を利用するから、教師や警官の性犯罪が目立つ。
誰もが、そこに目をつむっている。いつもいつも、この社会のいちばん暗いところで行なわれている吐き気のするような実態が、見過ごされる。

ただ、僕はキャラクター文化がセクシャルな方向へ安易に流れすぎではないかと、懸念もしている。だが、過剰なキャラクター表現と実際の性犯罪をごっちゃに論じても、問題点が遠のくだけ。
問題解決に本気でない大人たちが、いつでも足をひっぱる。


中年童貞に話を戻すと、たとえ童貞のままであっても、「他人がどうであれ、俺の人生はこうなのだ」と開き直るぐらいでいいと思う。歳をとればとるほど、趣味や仕事での充実感が増していくと思うんだが。

単なる性格の悪さを、童貞であることに求めないほうがいい。

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2015年10月 6日 (火)

■1006■

第189回通常国会が、先月27日に終わりました。
山田太郎議員に紹介議員になっていただいた【実在児童への性暴力写真に関する請願書】)がどうなったのか、議員事務所に問い合わせてみました。

結果は、「保留→審査未了という形で終了」だそうで、請願のほとんどは、このように議論すらされず、放置されてしまうようです。
山田議員がHPでおっしゃっていたように、「こういったことに賛同できる議員を他に10名集め、法律を変えるためのきちんとした改正案を出す」()ことを、少しずつ始めるしかなさそうです。

昨年6月の児童ポルノ規制法改正時、「日本は最も規制がゆるい」と声高に訴えていた団体に、この請願のことを伝えました。
また、JKビジネスを問題視して、積極的に行動してらっしゃる団体にも、伝えました。そのどちらからも、何の反応もありませんでした。


「少女「着エロ」販売業者が逮捕ーー水着姿なのに「児童ポルノ」になるのはナゼか?」(
極小の水着を着用した児童のDVDを「児童ポルノ」と定義し、その販売目的所持を禁止するなら、まずDVDを撮ったカメラマン、メイクや衣装などのスタッフ、撮影許可を出した親、すべてが「児童ポルノ製造罪」に問われなければ、僕は筋が通らないと思う。

そうした市販のDVDや写真集と、出会い系アプリでの自画撮りや、公共の場での盗撮(すなわち犯罪行為を経て撮影された性加害記録物)とを、同じ法律で規制することには、無茶を感じる。
そして、DVDであれ自画撮りであれ、「性器が強調されているか」「性的に興奮するか」を基準とすべきではない。「本人が望まない形で撮影された、公開された」すなわち「人権を侵害された」ことを基準にしなければ、「児童の権利擁護」という児ポ法の立法趣旨にそぐわない。

ところが、こともあろうに「精液をかけられた顔写真」は、児童ポルノと認定されない。「児童の権利を侵害している」とは、見なされない。「一般人が興奮しないから、OK」にされてしまった。

もう一年以上、同じ話を繰り返しているような気がするので、僕は請願書を足がかりに、次の行動を開始しようと思います。


「パクツイ」というのがあるけど、その画像バージョンのようなものも多い。
他人の撮った面白い画像を、いかにも自分が撮影したかのように偽ってツイートする。そればかりか、10年も前の催しに出品れさた変わった寿司の写真を、「友人が送ってきた」「イタリア人の知り合いが驚いていた」など、小さなウソを添えて、ツイートする。

グーグルには画像検索機能があるので、ものの数秒で、画像の出どころまで行き当たる。
そんな簡単な検索すらせず、何も疑わず、何万人という人々がリツイートしてしまう。怖いと感じる。
リンクを貼っても、その先を見て、確かめる人すら少ない。ちょっと戻って調べよう、という人が少ない。情報を遮断し、思い込みだけで激昂したり、優越感にひたったりしている。

『ルポ 中年童貞』の後半に、「社会全体を羊水のように感じている大人がいるのではないか」という話が出てくる。
スマホ歩きしている人は、周囲の人がぶつからないように避けてくれていることを知らない。うっかりぶつかると、「どこを見てるんだ」という顔で、にらまれる。
通勤電車に、整列乗車させられる人々。不満を言わない人々。高校ぐらいのころから、異様に感じていた。どこかがおかしいのに、誰も確かめようとしない国。

こんな国で死にたくない。

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2015年10月 4日 (日)

■1004■

レンタルで、『パラノイドパーク』。アメリカ・フランス合作。
329683_01_01_02恋人よりも、スケボーに夢中の高校生。スケボー好きの集まる“パラノイドパーク”に入り浸っている彼は、ある夜、偶然から人を殺してしまう。
だが、いかにもサスペンスフルな映画ではない。映画がとらえるのは、街角でスケボーをする少年たち……を、スロー撮影した即興的な断片。主人公の、思いにふける顔のアップ……目と鼻のあたりに焦点があっていて、髪のあたりはボケている。
主人公が、シャワーを浴びている。彼の髪を玉のような湯水が、いくつも滑りおりていく。玉は、やがて髪の先でいく筋もの線となる。その、官能的な変容。
それらアンニュイで繊細な映像を、鳥の鳴き声などのまじった環境音楽が、淡く彩る。

ストーリーは、直線的には語られない。スケボー好きの彼が、事件にあった。その事象をとりかこむディテールだけを、繊細につかみ上げ、気まぐれに編んでいく。
それらのカットに、すぐに言葉に変換できるような「意味」はない。カットは、ストーリーの隷属物ではないからだ。

(世界中のすみずみにまで供給されるハリウッド大作は例外として)映像とは本来、たったひとつの意味だけを持つのではなく、多面的な解釈を許容する。
僕が表現規制に危惧を感ずるのは、その多面性を圧殺しかねないからだ。


『ルポ 中年童貞』、3分の2まで読んだ。
一般社団法人ホワイトハンズ代表の「性的な自立は、社会的な自立とも繋がっている」という話が、せつない。かつては、共同体が結婚ばかりか、恋愛やセックスの面倒まで見ていた。戦後すぐのころまで、見合い結婚が大多数を占めていた。その後、異性に関することはすべてが自己責任になってしまい、モテないことは致命的欠点となってしまった。

1980年代は、恋愛こそが至上価値であるかのような風潮が、蔓延していた。「POPEYE」や「ホットドッグ・プレス」は、恋愛テクニックやデート術を、盛んに吹聴していた。
1987年、僕は20歳になり、成人式を終えた中学の友人から「みんなで飲もう」と電話がかかってきた。吉祥寺の居酒屋に男たちだけが集まると、すぐにセックスの話がはじまった。

「ヤラハタ(セックスをやらないで成人すること)になっちまった……」と、中学時代はかなりモテたはずの友人が、さみしそうに呟いた。東大に合格するための受験勉強が、彼からあらゆるチャンスを奪ったようだった。
かと思うと、のちに世界的に有名な女性ミュージシャンと結婚することになる友人は、自分の経験したセックスのディテールを、自慢げに語っていた。

20歳でセックスを経験しているか、していないかがコミュニケーション・スキルを推し量る尺度となっていた。残酷なことに、(恋愛を経た)セックス経験の欠落は、そのまま社会への不適応を意味した。
したがって、「風俗でさっさと経験しろ」なんてアドバイスは、少しの解決にもならないのだ。


今は一児の父となった友人が学生時代、「彼女がいれば、周囲に自慢できる」と、ミもフタもないことを言っていた。実際、彼はハンサムで音楽が趣味で、よく女性にモテた。
恋人がいなくても、彼は十分に魅力的な人物なのだが、おそらくそれは勝手な思い込みなのだろう。セックスを含む恋愛(の失敗や欠落)は、毒素のように沈殿していき、心の底に根をはってしまう。

その“毒素”が、ときとしてヘンリー・ダーガーのように才能として開花することもある。が、それは本人の幸せとは無関係なのだろう。

(C) 2007mk2

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