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【懐かしアニメ回顧録第11回】新房演出の源流は、「コゼットの肖像」に息づいている!(■)
前回から、作劇や演出のことを、真面目に書くようにしました。なぜなら、カットワークや演出効果のことは、もはや書く場所がないからです。
アニメは、伝達の手つづきをあまり知らない子どもにも伝わるよう、線をへらして情報を簡略化した表現です。新房昭之監督は、そこに映画のように曖昧なタイミング、「間」を闖入させて、いわば表現の根幹に、ゆさぶりをかけたんだと思います。
つまり、途中でルールを変えてしまったわけです。
意外と、その唐突なルール変更は、けっこう多くのアニメーターや演出家が、頻繁に行なっていたのではないか? この連載では、そういう話をしていけたら……と思います。
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『ルポ 中年童貞』を図書館に返却、湯浅誠さんと茂木健一郎さんの『貧困についてとことん考えてみた』を、借りてきた。
湯浅さんは、内閣府参与時代、既存の制度ではまかないきれない、生活・就労支援として、「パーソナル・サポート・サービス」を実験的にはじめた。パーソナル・サポートが支えるのは、もはや路上生活者のような、目に見える貧困者だけではない。経済的・精神的に「困っている人」全般だ。
それまで、「困っている人」は、地域や会社、親族などが支えてきた。だが、いまは結婚もせずに孤立している人が増え、「学校を出たら就職→結婚→定年退職したら年金生活」という高度成長期の人生モデルが、崩壊してしまっている。
中年童貞も、昭和的な「お見合い→結婚」なり「恋愛→セックス」というモデルから脱落した結果なのだろう。セックスしてないから一人前ではない……というよりも、昭和的人生モデルの空疎化こそが、問題の本質なのだと思う。
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で、Twitterを完全に趣味のアカウントに切りかえてから、分かったことがある。
周囲からほめられずに育ち、「勝ち方」を知らない人が、チラホラいる。何かツイートすると、「それ、本当は間違ってますよ」と、見当違いの部分を指摘してくる。わざと、ひねった認識のしかたをして楽しんでいるのに、「正解」を言い当てようとする人がいる。
何とかして、最初の発言者を上回ろう、「勝とう」としてしまう。
つまり、「教室で、同い年の子どもたちに議論させる」「みんなで話して答えを出したのに、教師が最終決定権をもっている」……このような、理不尽な「負け」パターンをくり返して、無力感を叩きこまれて育てられれば、つまらない揚げ足をとってでも、一度は勝ちたいと思うよな……ということ。
たとえば、2ちゃんねるのスレッドで、最初に「1」とだけ書きこみ、「1とれたか?」「やった、1ゲットォ!」と喜んでしまう(10年前ぐらいは、そういう人がいた。今は分からない)のも、戦後教育の「負け」システムに対する、空しい復讐なんだろうな。
そういう社会は、やはり「破滅的」と呼ばざるをえない。そして、政治家は金持ちばかりなので、破滅的社会を救おうなどとは、露ほども考えていない。
子ども時代に埋め込まれた劣等感は、システムではどうにもならない。もっと、精神の奥底をケアすることが必要なんだろう。
まず自己肯定感を手に入れなければ、他人を気づかう余裕など、生まれるわけがないからだ。
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