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2015年10月 4日 (日)

■1004■

レンタルで、『パラノイドパーク』。アメリカ・フランス合作。
329683_01_01_02恋人よりも、スケボーに夢中の高校生。スケボー好きの集まる“パラノイドパーク”に入り浸っている彼は、ある夜、偶然から人を殺してしまう。
だが、いかにもサスペンスフルな映画ではない。映画がとらえるのは、街角でスケボーをする少年たち……を、スロー撮影した即興的な断片。主人公の、思いにふける顔のアップ……目と鼻のあたりに焦点があっていて、髪のあたりはボケている。
主人公が、シャワーを浴びている。彼の髪を玉のような湯水が、いくつも滑りおりていく。玉は、やがて髪の先でいく筋もの線となる。その、官能的な変容。
それらアンニュイで繊細な映像を、鳥の鳴き声などのまじった環境音楽が、淡く彩る。

ストーリーは、直線的には語られない。スケボー好きの彼が、事件にあった。その事象をとりかこむディテールだけを、繊細につかみ上げ、気まぐれに編んでいく。
それらのカットに、すぐに言葉に変換できるような「意味」はない。カットは、ストーリーの隷属物ではないからだ。

(世界中のすみずみにまで供給されるハリウッド大作は例外として)映像とは本来、たったひとつの意味だけを持つのではなく、多面的な解釈を許容する。
僕が表現規制に危惧を感ずるのは、その多面性を圧殺しかねないからだ。


『ルポ 中年童貞』、3分の2まで読んだ。
一般社団法人ホワイトハンズ代表の「性的な自立は、社会的な自立とも繋がっている」という話が、せつない。かつては、共同体が結婚ばかりか、恋愛やセックスの面倒まで見ていた。戦後すぐのころまで、見合い結婚が大多数を占めていた。その後、異性に関することはすべてが自己責任になってしまい、モテないことは致命的欠点となってしまった。

1980年代は、恋愛こそが至上価値であるかのような風潮が、蔓延していた。「POPEYE」や「ホットドッグ・プレス」は、恋愛テクニックやデート術を、盛んに吹聴していた。
1987年、僕は20歳になり、成人式を終えた中学の友人から「みんなで飲もう」と電話がかかってきた。吉祥寺の居酒屋に男たちだけが集まると、すぐにセックスの話がはじまった。

「ヤラハタ(セックスをやらないで成人すること)になっちまった……」と、中学時代はかなりモテたはずの友人が、さみしそうに呟いた。東大に合格するための受験勉強が、彼からあらゆるチャンスを奪ったようだった。
かと思うと、のちに世界的に有名な女性ミュージシャンと結婚することになる友人は、自分の経験したセックスのディテールを、自慢げに語っていた。

20歳でセックスを経験しているか、していないかがコミュニケーション・スキルを推し量る尺度となっていた。残酷なことに、(恋愛を経た)セックス経験の欠落は、そのまま社会への不適応を意味した。
したがって、「風俗でさっさと経験しろ」なんてアドバイスは、少しの解決にもならないのだ。


今は一児の父となった友人が学生時代、「彼女がいれば、周囲に自慢できる」と、ミもフタもないことを言っていた。実際、彼はハンサムで音楽が趣味で、よく女性にモテた。
恋人がいなくても、彼は十分に魅力的な人物なのだが、おそらくそれは勝手な思い込みなのだろう。セックスを含む恋愛(の失敗や欠落)は、毒素のように沈殿していき、心の底に根をはってしまう。

その“毒素”が、ときとしてヘンリー・ダーガーのように才能として開花することもある。が、それは本人の幸せとは無関係なのだろう。

(C) 2007mk2

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