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2015年9月30日 (水)

■0930■

赤い光弾ジリオン Blu-ray BOX 発売中
Photo
●インタビュー
後藤隆幸(キャラクターデザイン)
石川光久(制作プロデューサー)

●座談会
浜崎博嗣×沖浦啓之×黄瀬和哉(作画監督)

以上、取材・執筆を担当しました。
こうしたブックレットの仕事は、編プロさんのお手伝いなので、あまり、ブログで告知することはありません。高額商品なので、買う方も少数、ブックレットを読む方も少数です。
それだけに、記事内容をどの程度の“濃さ”にすればいいのか、いつも迷います。


たとえアニメ制作者に取材したインタビュー記事であっても、僕は「社会に向ける」ことが大原則だと思っています。アニメを見ない人が読めるぐらい、普遍性をもたせたいと考えています。
もちろん、記事の指向性(少数のマニアしか読まない等)によって、専門知識を多く入れたり、裏話をサービス的に盛り込むことはあります。

それでも、誰が読んでも、ある程度の意味はつかめる、何について語っているか分かる、たまたま読んだ人が、自分の仕事や立場と照らし合わせることができる――そういった一般性は、不可欠ではないかと思います。

「俺もマニアだし、読むのも、どうせマニアだろ」的にひらきなおり、内輪にむけた仕事をしていくと、ますますアニメを見る人は減り、文化としてやせ細っていくと思います。
まったく別の世界、別の趣味の人たちに読まれても、恥ずかしくない読み物にするよう、心がけています。


やはり、多くの悲劇は、「俺たちにだけ分かる言葉で、俺たちにだけ分かる話」をしすぎることに由来しているような気がする。
「イヤなら見るな」ではなく、「イヤかも知れないけど、これこれこういう文脈から生じた文化なんです」と説明する段階が、いずれにしても必要なはず。
単に「分からない」「イヤだ」という印象だけ持ちかえられると、オタク文化には、マイナスイメージだけが付与されていく。外部と内部の意思疎通の手段を用意しないと、オタク文化はひとたまりもなく潰されると思う。

図書館で予約していた『ルポ 中年童貞』を読みはじめたけど、オタク趣味にころがるキッカケが、周囲との「コミュニケーションの失敗」である例が、いくつも出てくる。
コミュニケーションとは、自分には未知の価値観を、自分の内部に取り入れること。「自分の知っているもの」を「自分とよく似た人」から聞くのは、コミュニケーションではない。

なので、思春期に「外部」とのコミュニケーションに挫折すると、幼少期に見知ったものばかり愛好するようになってしまう。
思春期以前に親しんだものは、決して裏切らないから。


ただ、そんな「老いた子ども」のような人たち、死ぬまで童貞でも独身でも構わない、という人たちを救っているのがオタク文化。外から見ると、まるで保育器のように見えるかも知れないけど、アニメやアイドルがないと、生きていけない人たちがいる。外から見て気持ち悪いから、「根絶させてもいい」ものではない。一部の人たちにとっては、命綱なので。

「オタク文化」という括り方も荒っぽいけど、どこかで社会と接点をもっていないと、あっさり消えてなくなりそうな頼りなさを感じている。

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2015年9月26日 (土)

■0926■

ホビー業界インサイド第3回:男性キャラ専門ブランド「オランジュ・ルージュ」の示すフィギュア・シーンの多様性
T640_688649男性キャラクター専門のフィギュア・ブランド「オランジュ・ルージュ」の担当者3名に、お話をうかがってきました。
この連載の第一回で、「男性キャラのフィギュアを買う女性ユーザー」の増加に気づかされ、それなら、本丸ともいうべき男性フィギュア専門ブランドに、取材してみたわけです。
すると今度は、「男性キャラのフィギュアを買うのは、なにも女性だけではない(男性ユーザーも男性フィギュアを買う)」現実が、浮かびあがってきました。

フィギュアは、(教養的な側面のあるプラモデルとは少し違って)「嗜好」の最優先される世界だと思います。だからこそ、僕は隣人がどのような嗜好をもっているのか、その多様性を知りたい。世界の広さを、感じたい。


明日日曜(27日)、スーパーフェスティバル69()に、ディーラー名「Hard Pop Cafe」で参加します。
今回は手違いがあり、まだ卓番すら教えられてないのですが、たぶんいつもの場所で中古プラモや中古オモチャを売っています。


とりあえず本日夜03時05分、『ガッチャマン クラウズ インサイト』最終回()。

この作品はもともと、実写映画の応援番組として企画された。伝説的ヒーロー番組のタイトルを冠しながら、「SNSが普及し、人々が誰でも主役になりえる時代、古典的ヒーローに活躍の場はあるのか」を、真摯に描いた。

ただ、その野心、実験精神が正当に評価されたとは言いがたい。やはり、『ガッチャマン』というタイトルとビジュアルのギャップで、Uターンしてしまう人たちも多かったように感じる。
それでも、「泣ける」ストーリーに逃げることなく、前作よりさらに思い切って、「人々」と「ヒーロー(当事者)」の関係を描きこもうとするスタッフを、心から尊敬する。

ホントにね、子どもみたいに文句ばかり言いながら、「それをやるのがお前らの仕事だろ」と他人に押しつける大人ばかりで、社会がよくなるわけないでしょ?
だけど、「大衆が愚かなのだ」と、切って捨てないところが、『ガッチャマン クラウズ インサイト』の優しさだし、大らかさなんだよね。

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2015年9月24日 (木)

■0924■

モデルグラフィックス 11月号 25日発売予定
Mg
●廣田恵介の「組んだ語ったSWキットレビュー症候群」
月末発売の1/12ボバ・フェットと、1/144スレーブⅠまでの、全キットを組んでレビューした記事です(あくまで、塗装しないパチ組み派の立場から)。
オマケ的に、「模型視点・ルーカス視点からスター・ウォーズを愛してみよう」というコラムも書きました。

●組まず語り症候群 第35夜
今回のサブタイトルは、「剣闘士の模型があるなら遣唐使のも欲しい」。編集氏の選んできたキットも面白く、文章もなかなかノッていると思います。


【懐かしアニメ回顧録第10回】初代「ルパン三世」の傑作エピソードは、「引き算」でできている!?
最後のほうに書いた、「アニメは足していくだけで引くことの難しい表現」、これは何人かの監督やアニメーターさんから聞いた話です。
テレビの『新世紀エヴァンゲリオン』には、いくつか止まったままのカットがありましたが、あれも「引く」表現だと思います。


レンタルで、『LUCY/ルーシー』。
349260_001見終わってから知ったのだが、脚本・監督ともに、リュック・ベッソン。製作総指揮か何かかと思っていたら……。かつて、レオス・カラックスやジャン=リュック・べネックスとともに、ネオ・ヌーベルヴァーグ三羽烏と呼ばれていた人が……。
ベッソンを好きだった人は、『サブウェイ』か『グラン・ブルー』でハートをつかまれ、『ニキータ』と『レオン』でメロメロになり、『フィフス・エレメント』で興ざめするパターンが多いのではないだろうか。
だが、ベッソンが『TAXi』の製作などで興行的成功を収めていくのは、その頃からだ。同時に、カラックスやべネックスは作品自体が減少していき、映画界の表舞台からは、ほぼ姿を消してしまう。

『LUCY/ルーシー』は、ブラック・ウィドウ役で気に入ったスカーレット・ヨハンソン目当てで見た。彼女が、ガン・アクションを披露するだけのアクション物かと思ったら、新種のドラッグで万能のエスパーと化してしまう。他人の知覚や記憶に入り込み、電子機器を遠隔操作し……と、(ヨハンソンが主演する予定の)『攻殻機動隊』のような……といっては『攻殻』に失礼なぐらい、ムチャクチャな展開となる。

ヨハンソンが全知全能になるほど、画面がCGで埋め尽くされていくのが面白い。「万能となった人間」を描こうとすると、おのずと「人間の視覚」の限界を提示せざるを得ない。
視覚の万能感を表現するには、現時点ではCGに頼るしかない。CGで表現できないとすれば、それはすなわち「人間の視覚」を超えたものなのだ。


冒頭近く、ヨハンソンが韓国人マフィアたちに拘束されるシーンと、野生動物が狩られる記録映像とをカットバックさせる演出は、彼女の身に迫った危機を重層的に感じさせてくれる。
しかし、そのようなモンタージュ効果は、百年も昔に発見されたものだ。つまり、この映画はヨハンソンが生身の人間であるときには、古色蒼然としたモンタージュを使い、彼女が万能化していくにしたがって、CGがモンタージュにとって代わっていく。
CGが多くなるにしたがって、ヨハンソンが「恐怖も欲望も消えていく」と語っているのが、とても象徴的だ。

「目に見えないものを感じさせる」映画の文学性と、見えるかぎりのものを描写しつくすCGとは、どこかで相反するのだろう。

(c) 2014 EUROPACORP-TF1 FILMS PRODUCTION - GRIVE PRODUCTIONS. All Rights Reserved.

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2015年9月23日 (水)

■0923■

“手描き感”を大事にした新TVシリーズ「ルパン三世」の魅力 友永和秀総監督インタビュー
T640_687904友永さんにインタビューするのは、『名作に学ぶアニメのつくり方』につづいて、二度目です。
日本の漫画・アニメ業界は、怪物レベルの“絵描き”の宝庫で、友永さんの仕事歴を見てもため息が出るのですが、いま「作画を中心にインタビューしよう」とすると、「作画マニア」と言われてしまいます。
テーマやストーリーについて書いてくれというオーダーはあるけど、作画や演出の魅力を語る機会は、どんどん少なくなっている。アニメにかぎらず、映画でも「泣ける」かどうかが評価軸になりすぎている。

創作物を支える「技術」の部分が忘れられていないか、たいへん気になる。
インタビューでも触れているように、今回の新作『ルパン』は、セル画時代を思い起こさせる動画のラインになっているわけだけど、そうすると、動画会社に技量が求められる。「味わい」とか「風味」といった要素すら、技術力に支えられているのだ。

たとえば、宮崎駿監督に関するネット記事で、「『崖の上のポニョ』の制作においてはCGを徹底的に排除した」という一文を見かけた。実際には、背景はマスクで動かしているし、モーフィングも使っている。「CGを徹底的に排除した」とは言い切れない。僕も作画監督の近藤勝也さんに取材して確かめたし、ロマンアルバムの撮影監督のインタビューにも載っている。なのに、「すべて手描き」という部分のみ、神話化してしまっている。
精神力、感情や根性のみで作品がつくられているかのような認識を、僕は怖ろしいと感じる。


アグネス・チャンさん殺害予告の報道につきまして
女子現代メディア文化研究会さんのブログ記事。“「児童性虐待記録物」としての「児童ポルノ」ならば、私どもは一切認めてはおりません。そしてくり返しますが、暴力により他者を服従させようとする行為は、私どもは断じて許すことはありません。”

アグネスさんの殺害予告のニュースについては、記者たちも「児童ポルノ」を、よく分からずに報道している気がする。
性虐待、性暴力によって撮影された画像を禁ずる法律だと思ったら、警察は市販のDVDや写真集を取り締まろうとしている。いまだに、漫画やゲームも規制対象だと思っている人すらいる。
「児童ポルノ認めないと……」と殺害予告した容疑者本人も、「児童ポルノ」の定義にかんして、なんらかの勘違いをしているようだ。

思いこみだけで話さず、まず資料にあたるべきだと思うのだが、関連するニュース。
児童ポルノ被害、過去最悪の383人 15年1~6月
「被害者のうち小学生以下は60人で、ほぼ半数が強制わいせつなどの被害を受けて裸の画像などを撮影されていた。自撮りによる被害は中高校生がほとんどで、交流サイトを通じて加害者と知り合うケースが目立った。」

なぜいつも、こうした実際に起きている性暴力へ目が向けられないのか、疑問に思う。
交流サイトが「児童ポルノ」の温床になっているのなら、なぜ交流サイトを取り締まろうという話にならないのだろうか?


日本人は感情にのみ頼りすぎで、資料や整合性を論拠にしない。
感情だけで、作品はつくれない。感情だけで、犯罪はなくせない。感情だけで、世の中は良くならない。
感情に流されるのは楽で、調べたり考えたりしなくてすむ。

何かを評価するときは、百点中何点とか、合格か不合格かとか、手っとり早くて分かりやすい数字に頼るのが日本人。自分の感情を優先する分、他人には冷たい。

もっと、ひとりで時間をかけて調べて、考えの違う人と話して、効力のある方法を探し、自分の中で物事を揉まなくてはいけない。

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2015年9月19日 (土)

■0919■

2007年の米映画『ノヴェム』を、レンタルで。
328709_01_01_02古いレコードを収集している大学生が、1973年、ロックバンド“ノヴェム”によって録音されたテープと、レコーディングの様子を撮影した16ミリ・フィルムを手に入れる。
世の中に出ることなく姿を消した、30年前の幻のバンド“ノヴェム”の行方を探るべく、学生はネットや口コミを使って、情報収集を始めるが……という体裁の、フェイク・ドキュメンタリー。
つまり、16ミリ・フィルムで撮られたレコーディング風景も、現代のパートも、すべてフェイクでしかない。“ノヴェム”なんてバンドは、この世に存在しない。

“ノヴェム”とは、ラテン語で「9」を意味し、奇数は「この物理世界には存在しない」という考え方がある(と、映画の中では説明される)。
そして、ベトムナ戦争直後を生きたメンバーたちは、「この世に平穏はない」という意味の曲をつくり、この世を去ってしまう。そこには現実に対する深い諦念があり、フェイクがフェイクを包含する映画の構造が、彼らの虚しい心情を浮かびあがらせる。

元気な若者がいっぱい出てくるのに、とても寂しい映画。


本放送中に、『ガッチャマン クラウズ インサイト』()について言及できる期間も、少なくなってきた(今夜が第11話、来週で最終回なので)。

現実で何か起きるたび、この作品が、ひとつひとつレスポンスしているかのような印象を受ける。
「お前たちはそうやって、延々と敵を探しつづけ、周囲に流されるまま攻撃して、ただ憂さを晴らしていく。貴様らサルを動かしているのは、正義なんかではない。異なる人間を見下し、自分はみんなと同じだと安心したい、そんな醜い劣等感にすぎない。」
キーパーソンのひとりである、理詰夢の吐くこんなセリフすら、ツイッターをやっている人なら心当たりがありすぎて、むしろ陳腐に聞こえるのではないだろうか。

僕たちは、情報が耳に入るやいなや、すぐにキーボードに吐き出す。
考えが雑だから、動物的に「○○はクソだろ」「○○だけは許せない」レベルに反射して、3日もたつと、もう忘れている。

原発事故も安保法案も、ブラックバイトもパクリ疑惑も、目にもとまらない速さで過ぎ去っていく。
立ち止まって議論する人、対策する人は、この獰猛な流れの中にはいない。


「アニメを見ている」なんてのは、オタクにとっては付随要素でしかない。

ツイッターで、「服装がチグハグな人は、自分を客観視できていない」という意味の発言があったけど、なるほどとヒザを打った。他人に与える印象を読みきれていない、コミュケーションが一方通行に偏っている……それがオタクだと思うので。

たとえば、秋葉原やコミケのような、食いつきやすいところに「オタク」がいると思っている人が多い。日本のいたるところで、服装や会話のすれ違いに悩んでいる中高校生。彼らが、結果として同人誌やアニメにはまっていくだけのこと。

小さなところに、足をとめて見つめてくれる人は、まことに少ない。

(C)2005 NOVEM,LLC

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2015年9月16日 (水)

■0916■

六本木で、『ファンタスティック・フォー』のマスコミ試写。
Sub05_largeジェシカ・アルバの出演したバージョンは、もう10年前なのか。あれは、かなり能天気な映画だったような気がするが、今回は『クロニクル』のジョシュ・トランク監督が、脚本まで書いている。
まず『クロニクル』的な、愛憎の入り混じった若者たちの人間関係がベースにあり、そこに原作の要素を配置していったような映画。なので、ムードは『クロニクル』のように切実で陰鬱で、そこはかとない哀愁を残して終わる。

最近のマーベル・ヒーロー映画の華やかさにゲンナリしている人には、ぴったりの静かなトーンの映画。クライマックスでは主役4人が力をあわせて戦うが、かなりあっさりしている。そのあっさり加減が胃にもたれず、僕は好感をもった。

『クロニクル』同様、『AKIRA』オマージュの濃密なシーンもある。一時間40分という上映時間も程よい。10月9日公開。


ふと、思った。オタクって、今では「キモいヤツ」程度に使われているけれど、なぜキモいかというと、周囲との同質化に失敗したまま、歳をとってしまったからだろうね。

思春期、第二次性徴を迎えると、周囲と同質化しようと試みる。
それまでは、髪が伸びたら床屋にいけばいいし、服は親が買ってきてくれた。ところが、まわりの男子は異性の目を気にして、おしゃれを始める。みだしなみを整えはじめる。幼少期のままの感覚でいると、目に見えて浮いてしまう。

僕が10代のころはユニクロなんてなかったから、駅前の服屋で、いちばん安いダサい服を買うしかなかった(そういうのは、おしゃれな人からは一発でバレてしまう)。
ボサボサの髪も何とかしたいんだけど、ムースだとかを買ってきても、どう使えばいいのか分からない。
結果、何が何だか、得たいの知れない外見になってしまい、周囲のひそかな失笑を買う。

その思春期のコンプレックスを、中年になってまで引きずっているのが、オタクなんじゃないだろうか。僕なんて、50歳を前にして、いまだにもがいている。


周囲との同質化に失敗しつつ、自分の才能や個性を発見するのも、やはり思春期のころだと思う。「俺は、まわりのチャラチャラしたヤツとは違う」という(やや苦しまぎれな)プライドも、そのころに生まれる。

自分を好きになりたいんだよね。アニメやプラモデルだけじゃなくて、料理やアウトドアな趣味ももちたい。今さらながら、思春期の失敗を克服したい。向上心を失いたくない。
思春期は、都合よく去ってくれるものではなく、その場に固着して、自分の苗床になってしまう。その苗床に種をまいて手入れするのも、荒れるままに放っておくのも、今の自分次第なんだ。

(C)2015 MARVEL & Subs. (C)2015 Twentieth Century Fox

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2015年9月14日 (月)

■0914■

EX大衆 10月号 明日発売
61xvcabaz8l_sx387_bo1204203200_●大河原邦男インタビュー! メカデザインの真髄 取材・執筆
カラー3ページで、『機動戦士ガンダム』『太陽の牙ダグラム』『機動戦士ガンダムF91』『勇者王ガオガイガー』、四作品の準備稿と大河原氏による解説、さらにラスト1ページに大河原流の仕事術インタビューを掲載しました。

シルバーウィーク前の「大河原邦男展」への集客の意味も大きいのですが、30~40代の読者の仕事に役立つことを念頭において、インタビューしました。


仏・独・墺合作映画『ルルドの泉で』をレンタル。
Sub3_large全身麻痺で、手足を動かすことのできない女性が、聖地ルルドを訪れる。彼女は信仰心が薄く、「他の人はどうでもいいから、自分の体だけ治らないか」と考えている。
そんな彼女が、奇蹟に恵まれ、立って歩けるようになる。同じように病を治したいと思って聖地に集まってきた人、彼らの面倒を見る人、周囲は羨望や、やっかみの目で、彼女を見はじめる。
牧師までもが、「たとえ体が治っても、信仰心が大事だ」「みんなのお手本となるような生き方をしなさい」などと説教する。

映画は、果たして彼女の身におきたことが、奇蹟なのか偶然なのか曖昧なシーンを見せて、ポンと終わる。キリスト教圏の映画であっても、「信仰心とは何か?」「そんなに信仰が重要か?」と疑問を投げかけるような映画をつくる。その自問自答の姿勢こそが、文化的成熟なのだろう。

……にしても、映画のことをちょっと調べようとすると、「評価してください」と☆が並んでいるのは、どうにかならないだろうか。自分の好み、あるいは泣けたか感動したかだけで、評価を迫ろうとする。
そんな動物的感覚で計れないところに、作品の価値があるように思うのだが、衝動的に点数をつけてしまう(決して満点をつけない、作品の価値に限界を設ける)のは、義務教育の弊害だよなあ……と、ため息が出る。


インターネットによって、僕らは結論を急がされている。
『ガッチャマン クラウズ インサイト』では、何度か「息をゆっくり、深く吐く」シーンが繰り返される。

人々に同調圧力を迫る“くうさま”は、「ひとつにならないと、困ったことになっちゃう」と言うが、どう困るのか聞くと、ピタリと口を閉ざす。
彼らは、何か隠しているのではない。彼ら自身にも、何がどう困るのか、よく分からないから黙るしかないのだ。それが怖ろしい。よく考えないから、彼らは常に焦っている。

ネットにあふれている苛立ちのほとんどは、「アイツだけずるいぞ」という妬みではないだろうか。生活保護もそう、女性の権利主張もそう、「俺より得しやがって」「お前らだけ好き勝手いいやがって」「俺らのレベルまで落ちてこい、そうすれば許してやる」。
結果、「苦しくても黙って耐える」ことをベースにした社会が望まれてしまう。「寝てない自慢」「忙しい自慢」、「私だけ得してるなんて、決してそんなことはありませんよ」アピールは、自堕落な同調圧力から生まれてくる。

強い意志をもったり、自己主張すると、「なんでアイツだけ……」とやっかまれる。
実社会で「なんで、あなただけ」と目を見て言えないから、ネットがゴミ捨て場になっている。

……だけど、ここに書いたことも、ザッと雑に想像しただけなので。
ゆっくり、深く息を吐くことを、まずは始めてみたい。

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2015年9月12日 (土)

■0912■

僕らは、僕らのことがしりたい

ぼくらの「国」には、「社会」がないこと
「社会」と「世間」はちがう世界で生きているということ

情と理
「悩む」のではなく「考える」ことが大切ということ

現代人は「速」すぎる 呼吸も浅く早い
ゆっくり深くが「僕ら」は苦手だ

『ガッチャマン クラウズ インサイト』の公式HPに、こんな文章が載っていることに気がついた()。この真摯さに、心打たれる。こんなことを思いながら、作品をつくってくれる人たちがいることに、感謝したい気持ちになる。
泣くような話ではないのに、『インサイト』を見ていると、たまに涙ぐんでしまう。前作『ガッチャマン クラウズ』ともに、再編集して2本の映画にすれば、もっと多くの人に見てもらえるのでは……と、たまに考える。

ネットで罵りあっている人たちが、どうすれば冷静に対話してくれるのか。
道にゴミを捨てて、ボランティアの子どもたちに拾わせているような大人たちが、どうすれば自分のゴミを、自分で片づけてくれるようになるのか。
何がいい社会で、どうすれば理想を実現できるのか。

政治の話をしちゃいけないのか。原発や差別のことを、スルーしながら会話しないといけないのか。世の中を変えたいと思うのは、間違いなのか。
この2年ほど悩みつづけた僕の肩を、ポンと叩いてくれるような作品。残り3話。


碧志摩メグ問題は、テレビで取り上げられたこともあって、少なくともツイッター内では収拾のつかない罵りあいに陥っている。
メグに結びつけて、その人の気に入らない文化や人物がいろいろ関連づけられて、「ぜんぶ許せない」「撲滅」だそうで。

「許せない」って、どういうことでしょうね? 告訴でもするんですか? 刺し殺すんですか?
ツイッターに「許せない」って、キーボードで打ち込んでるだけでしょ?
その「許せない」って気持ちを、どう実社会で具現化するのか、機能させるのか、まるで考えてない。ツイッターの中で循環しているだけなので、どんどん水が濁ってくる。

ネットに「クソが」「カスが」と書いている人間は、社会で他人と会ったとき、まず信用されないですよ。
だけど、僕が他人と会って交渉して、顔と顔をあわせられる議論の場をもうけても、「クソが」「カスが」レベルの匿名ツイートで、丸潰しにされちゃうんですよ。


碧志摩メグ問題は、異質なメディアや文化圏と実社会のかかわりについて、僕らがいかに未熟であるかを教えてくれる。
「○○反対派」「○○賛成派」以前に、遠くの他人に対する想像力が欠如していて、人権感覚が薄い。ネットの意見なんて、スマホの電源を切ったら存在しないも同然なんだけど、それをいいことに、際限なく言葉の暴力性を行使する。

たとえば、イラストレーター、アニメーター、漫画家たちが集まって、秋葉原で「武者絵展」をやったんですって()。中には、いわゆる萌えキャラもいますよ。
その入場料は、南相馬市に寄付しているそうです。この企画は、異なる文化同士を“キャラクター”で結んで、社会に役立てた、とても良い例だと思います。

実社会で行動すれば、行動してない人たちに、それこそ一挙手一投足、批判され、罵られます。それを気にしているよりは、人と会って、話して、先へコマを進めたほうが建設的と思います。会って雑談すだけで、思わぬ話に発展したりするので。

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2015年9月 9日 (水)

■0909■

レンタルで、マイケル・ダグラス主演の『ソリタリー・マン』。
Solitary_man_960歳に近づいたバツイチの男が、うっかり恋人の娘に手を出してしまい、再起のチャンスを失ってしまう。子どもも孫もいる彼が、そんな高齢で女遊びをはじめたのには理由があって、健康診断で、心臓の病気を疑われたからだ。
「医者から薬やアドバイスを受けながら死んでいくより、心臓が破裂する瞬間まで、好きなことをやりつづける」――まあ、そんな強がりを、彼は口にするんだれど。


これは痛々しいというか、教訓に満ちた、辛らつな映画だよ。
まず、彼はビジネスでの建て直しに全力をそそがなければならないのに、バーやレストランで、女を物色してばかりいる。女を逃げ場にしていることを見抜かれ、「昔の君は、午前3時まで事業計画書をかいていたのに」と、仕事仲間に縁を切られてしまう。
18歳の娘に本気になったり、自分の母校で、若い学生に恋愛のアドバイスをしたりする。これがまた、カッコわるくて仕方がない。本人は、まだ若いつもりなんだ。

その他、書ききれないぐらいの無数の失敗を積み重ねながら、救いの女神になりえただろう元妻や娘の信頼を、露悪的な態度ではねのけてしまう。
元妻に言われるんだよね。「他の人と同じように、変化を受け入れることね」って。元妻は、スーザン・サランドン。堕落していく父をなんとか救おうとがんばる娘は、ジェナ・フィッシャー。小悪魔的な魅力で、彼を奈落につきおとす恋人の娘は、イモージェン・プーツ。三世代の女優、それぞれ、複雑さのある役を自然体で演じている。

ウディ・アレンの映画は、モテ中年の余裕でつくられているけど、この映画は逆です。
だけど、「俺も、もう歳だな」と自覚している男性は、見ないよりは見たほうがいいと思います。


あと、公開から一年以上も経過して、今ごろ見ました。『思い出のマーニー』。
Marnie_c2a92014gndhddtkセンチメンタルで、ひっそりと静かで、傷つきやすくて、鬱屈していて、なかなか良いアニメだった。こんなフランス映画のような曖昧さのある物語を、2Dアニメ(というより商業的キャラクター・アニメと呼ぶべきか)で描いてしまえる国は、日本だけだよ。

思春期を、「元気に快活に生きろ」ってのは拷問であって、むしろ、自分の陰気さを肯定してくれる作品のほうが、助けになるんだよね。


大阪府警巡査部長が集団強姦容疑 元警察官も逮捕(
これもまた、懲戒免職かなにかで、「社会的制裁は受けている」とかで減刑されるんでしょ? あるいは示談が成立して、不起訴とか? いつも、そうでしょ。
警官は、性犯罪やりほうだいなのに、抗議の声が出てこない。やっぱりみんな、権力が怖いのかなと思います。

なので、抜本的に、どこへ何を訴えれば警官による性犯罪をなくせるのか、検討しています。
もう、それほどコストをかけられないので、効果もほどほどかも知れないけど、ツイッターで、のんきに「死刑にしろ」とかほざいてるよりは、マシなはずです。

立場を利用した成人男性が子どもや女性に暴力を振るう、そのような社会構造を容認すれば、「強い男性が、弱い男性を奴隷化する」ような事態を招きかねない。
というか、僕は学生時代、腕力の強い、声のでかい連中にいいように弄ばれて育ったので。看過できませんね。

(C)2009 SOLITARY MAN PRODUCTIONS, inc.
(C)2014 GNDHDDTK

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2015年9月 7日 (月)

■0907■

『ガッチャマン クラウズ インサイト』()と、現実に進行していることがオーバーラップしすぎて、怖いんですけど……『インサイト』は残り3話だけど、今から見ても、遅くはないです。
Img03人々を争わせる炎上ネタを投下して、自らは匿名でいつづけるベルク・カッツェが、「(人々の)大好物があるから、祭は始まるんすよ」と言っていたけど、物語でも現実でも、祭が始まってますよね。

物語では、同調圧力の実体化したモンスター“くうさま”が、みんなと同じ考えに染まらない者たちを、物理的に排除しはじめている。
ガッチャマンは“くうさま”を危険視するが、今度は人々の間に「ガッチャマン叩き」の空気が蔓延してしまい、ガッチャマンに変身する者たちと「関わりたくない」「関わってはいけない」同調圧力が高まってしまう。

オリンピックのシンボルマークについては、これといった興味もなかったのだが、『インサイト』を見ていて、何が起きているのか理解できたような気がする。
だって、佐野研二郎氏を少しでも擁護したら、「あいつも何かパクってるに違いない」と、狩られそうな空気でしょ?


で、例によって、佐野氏を「日本人じゃない」「在日韓国人だから」と、民族差別にこじける人たちもいる。もはや、現実のほうがフィクションに見える。
他人に対する想像力や、自分の教養の欠如を、「在日」「反日」という実態を欠いた概念で補強しているというか。表現規制問題になると、決まり文句のように出てくる「フェミ」も、ネット空間の中にだけ存在する「ボスキャラ」なのだと思う。

リアルに対峙すべき相手を避ける、論点をぼやかす、問題解決を先のばししたい無責任な人たちは、レッテル貼りによって、自分の責任を回避しようとする。
「キモオタ」や「アキバ」を、性犯罪の温床と決めつけたがる人たちも、ひょっとすると自分の町で起きているかも知れない性犯罪、声なき声に向き合ってないと思う。

だからね、直接に問題にあたって、ひとつひとつ解決していこうとしたら、「祭」に参加している余裕なんか、ないんすよ。騒いでるのは、問題解決に興味のない人たち。いつでも、そう。


「狡猾で卑劣」補導少女への強要未遂 元巡査長に執行猶予判決(
警察官や学校教師による児童への性犯罪は、ほとんど毎日のように報じられていますが……この事件では、補導した児童を「集団強姦などの被害に遭わせる」と脅した元警官に、なんと、執行猶予がついてしまった。
腹たたないのかな。何とかしようと思わないのかな。「キモオタ」や「アキバ」のせいにして、うやむやにしている場合かな。

あと、ひさびさに痛々しい動画を見てしまった。『性被害 5人の証言』(
「痴漢なんて、たいしたことないんだろ?」って鈍感な男性には、ぜひ見てほしい。9分ぐらいだから、すぐ見れるでしょう。
BONDプロジェクト代表の橘 ジュンさんが出演しているので、おそらく同団体の制作した動画だと思うんだけど、性被害って、こんなにも卑近というか、日本中どこでも起きうる。「先進国に遅れる」とか騒いでいる人は、こうした声なき声に、小さな生の叫びに、決して耳を傾けようとしないけど。


もうひとつ。
さっきリンクした動画のアップロードは、大変ありがたいことなんだけど、BONDプロジェクトの公式アカウントは、別にあるんです。だから、「問題意識のあるどなたかがアップロードした」ことしか分からない。BONDさんの許可をとったのかどうか、ちょっと気になってしまう。
【追記】アップロードしたのは、ジャーナリストの植田恵子さんのようです。

だから、個人でも団体でも、何か活動しようとしたら、赤の他人を信頼させる工夫をしたほうがいいです。それはようするに、「批判される、攻撃される」可能性を、赤の他人に与えるということでもあります。
匿名で活動している人は、名指しで批判されるリスクを低減しているわけで、信用価値がひとつ減ります。誰かに叩かれることをビビっている分、実社会で行使できる武器も、ひとつ減るのです。これは一年ほど、あれこれ試してきた私の実感です。

(C)タツノコプロ/ガッチャマンクラウズインサイト製作委員会

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2015年9月 5日 (土)

■0905■

レンタルで、『メタルヘッド』。知らない映画だったけど、ナタリー・ポートマンが製作に名を連ねていたので、借りてきた。
Sub2_large製作だけかと思ったら、近所のガキに「おばさん」と呼ばれてしまう、スーパーのレジ係の役で出演。意外と、得な役である。
主人公の少年は、母親を交通事故で亡くしてしまい、父親は心を病んで、家で寝てばかりいる。
そんな少年のもとへ、長髪のヘビメタ男が現れ、いじめられていた彼を、破天荒な行動力でリードしていく……というプロットなのだが、ほぼ同時に、少年はナタリー・ポートマン演じるレジ係とも知り合う。

で、少年としては、たとえ「おばさん」と呼ばれていようが、自分に優しくしてくれて、だけど自分と同じように孤独な、レジ係の女性に、強く惹かれていくわけです。長髪のヘビメタ男よりも。ここで、ちょっと映画の目論見は失敗してるんだけど、それは構わない。失敗してようが何だろうが、映画は面白いので。
痛烈なのは、少年がナタリー・ポートマンに幻滅するシーン。そのシーンで、この映画は終わり。残り30分ぐらいは、オマケ。自分の永遠に入れない王国の存在を、知ってしまうんだよね。その少年は。自分に、その王国の門は開かれていないんだって知ってしまう。

その理不尽を認めてしまったらね、「世界を地獄の業火で焼きしつくてくれようか」って気持ちにもなりますよ。巨大な怪獣になって、街を火の海にしたくなる。地球を粉々に打ち砕いても、まだ足りないほどの失意ですよ。
そういう気持ちを知らない男と、僕は話したくないです。救ってくれるはずの相手を失い、からっぽの天に向かって、くやし泣きをしたことさえない人間に、何の価値がありましょう。


昨日9月4日は『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』の情報解禁日で、楽しみにしていたんだけど、ようはオモチャの宣伝だった。映画の内容をここまで伏せたまま、「オモチャだけ買おう」ってのは、どこかボタンをかけ違えているでしょう。

1978年の日本公開時は、待たされている一年間のあいだに、雑誌や書籍でストーリーを細部までおぼえてしまって、それでも渋谷のイベント会場まで、オモチャを買いに行ったからね(当時は小学六年生)。あのころとは情報の質が違っているとは思うけど、どんな役割か分からないキャラクターのフィギュアに、お金は払えないと思うんだけど……。

あと、37年前の日本公開時を知っている僕ら世代に、気をつかいすぎ。
もっと、見たこともないクールなメカを、たくさん出していいんだよ。どんどん裏切ってほしい。「新しすぎて、ついていけない」と悲鳴をあげさせてほしい。
オッサンのノスタルジアに、下の世代を付き合わせてるとしたら、それは不健康だよ。(例外的にBB-8は、「R2-D2より可愛い!」という人が出てきている。オモチャの販売が前向きに作用しているのは、それぐらいでは……。)

1999年の『ファントム・メナス』公開時は、CG技術に未来があった。1978年は、モーションコントロール・カメラやマット・ペインティング。広大な沃野が、映画の向こうに広がっていた。
「未来を感じられる」。それが『スター・ウォーズ』を公開するための、絶対条件だと思うんだ。

(C)2010 Hesher Productions, LLC.

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2015年9月 3日 (木)

■0903■

アニメ業界ウォッチング第13回:ファンの熱気に支えられて制作スタート! 「この世界の片隅に」の歩んだ苦難の道のり 片渕須直監督インタビュー
T640_686065『マイマイ新子と千年の魔法』のメイキング本でインタビューさせていただいたのが2011年ですから、4年ぶりのインタビューとなります。
『この世界の片隅に』のアニメ化企画は、監督から聞いていたので、クラウドファンディングが始まる前に取材できないか、連絡をとっていた時期もありました(そのときは、クラウドファンディングの開始時期が未定だったため、取材できず)。

今回は、正式に制作スタートした後だったし、かといってスタジオは多忙すぎない、いいタイミングで取材できたと思います。(本当は、もっと絵づくりの細かなハウトゥを教えてもらったのですが、今回は『この世界の片隅に』を知らない方に読んでいただくのが目的だったので……取材テープは残してあります。)


「碧志摩メグ論争」において、「萌えキャラ」文化や「オタク」への差別的言説の流布と偏見の助長がないように求めます
碧志摩メグ問題にとどまらない、まっとうな主張だと思ったので、署名しました。
正直に言うと、碧志摩メグの第一印象は、あまり良いものではなかった。影のつけ方ひとつで、乳首まで意識させてしまう。萌えキャラを好きな人だけが見るなら、それで問題ないかも知れないが、オタク内の常識がどこでも通用すると思ったら、それは大きな間違い。

それで、二頭身のディフォルメ・キャラだけ使っては……と、企画会社と志摩市に提案してみた。
キャラクターとか作品が問題になるときは、たいていコミュニケーションが上手くいっていない……絵というのは、コミュニケーション・ツールなので。オタク趣味の「外部」の存在を、常に意識していなければ、誤読はつねに起きうる。
何がどうすれ違っているのかを知るためにも、「自分と異なる常識」を生きている人と、いつでも冷静に話す姿勢が、必要なのだと思う。

「何が何でも撤回するな」「一歩も引くな」「僕らの趣味を理解しろ」ではなく、オタク文化の中に、自浄作用が求められているんだと思う。フィギュアや深夜アニメを見ていても、必然性のないエロ描写を、たまに見かける。「イヤなら見るな」では、理解を遠ざけるだけだろう。


「コミュニケーションが上手くいってない」と書いたけど、オタクの人って、多かれ少なかれ、人間関係がうまくいってないから、二次元が好きなんじゃないかと思う。
僕は友だちをつくるのが苦手で、いまでも社交的とは言いがたい人生を送っている。ひとりで好きな仕事をしているのは楽だけど、そのツケとして、気がつかないうちに、孤独感が大きな空洞をつくってしまっている。

対人恐怖症は、世間には認識されていない病気なのかも知れない。
昔、『いかすバンド天国』という素人参加番組に、目立ちたいのか、「対人恐怖症」を名乗る人が出てきた。司会の三宅裕司に話しかけられて、ガチガチ震えながら、こわばった顔をつくって、「ああ、何の苦労もない人が、楽しそうに演技してる……」と白けたものだった。

対人恐怖症の怖いところは、汗が出たり赤面したりといった表層的なことだけでなく、ちょっとだけ優しくしてくれた人に期待しすぎたり、依存しすぎたりする点だろう。
逆をいうと、その人間関係のバランスの悪ささえ克服してしまえば、発汗や赤面は、たいした問題ではないのかも知れない。

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