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2015年8月29日 (土)

■0829■

取材の帰り、中野駅前で、メイド服姿でチラシを配っている女性がいた。その若い女性は、白髪のお婆さんに話しかけられ、駅前で、楽しそうに談笑していた。

その翌日、ツイッターで見たのが、これ。
“変態は世界中どこにでもいるんで、童顔の女の子にメイド服を着せたがるキモヲタを根絶するのもまあ不可能だとは思う。だけどああいうのを見て何の抵抗もなく「可愛い」と言える20歳以上の人は、ちょっと真剣にアブナイよ。なんか多種多様な性倒錯が基本設定になってきてないか日本。”
発言者は、“NYで企業や法廷や政府関係の通訳をしながら、会社員、学生、俳優、医師などさまざまな方に英語を教えています”という、Yuko Ohnakaさん()。

ツイッターは、書き込むときのリスクが少ないので、筆がすべったんでしょうね。
「多種多様な性倒錯」を禁ずる資格など、ニューヨークに住んでようが日本に住んでいようが、誰にもありはしません。性倒錯だろうとノーマルだろうと、相手が子どもだから、女だから、「自分より弱い相手だから」という理由で、人権を軽視し、侮蔑的な発言をしたり、迷惑行為をおよばす者たちをこそ、根絶すべきではないでしょうか。

そのような、他者へ危害を加えないレベル――すなわち、ひとりひとりが、頭の中で誰のどんな姿を嗜好しようが、興奮しようが、他人が口出しすることではありません。
『ベルサイユの薔薇』から引用するなら、「人の心に命令はできない」のです。

自らの心に生じた嫌悪感や差別意識ぐらい、自分自身で統御してください。汚い言葉で、他人に投げつけるのを、おやめなさい。
それでも我慢ならないときは、ツイッターごときに神頼みしてないで、社会的責任をしっかり背負い、合法的手段に訴えてはいかがでしょうか。私は今まで、そうして来ました。


ブログ『二次元規制の備忘録』さんから、山田太郎議員の生放送の文字おこし()。
この放送は私も見ましたが、国連の「女子差別撤廃委員会の最終見解」が、上記ブログに引用されています。
「委員会は,女性や女児に対する性暴力を常態化させ促進させるような,女性に対する強姦や性暴力を内容とするテレビゲームや漫画の販売を禁止することを締約国に強く要請する。建設的な対話の中での代表団による口頭の請け合いで示されたように,締約国が児童ポルノ法の改正にこの問題を取り入れることを勧告する。」
(情報ソースは、上記ブログ内にリンクしてあります)

ただし、これは6年前の勧告で、来年、次の審査があるとのことです。
審査そのものは、別に構わないのです。女性や児童(男児も被害にあってます)への性被害を、一件でも減らせるものであれば。
LINEなど、ネットを介した性犯罪、児童買春は多数おきています。路上や交通機関の中で、女性や児童に危害を加える者も、あとを絶ちません。なのに、抜本的な解決策を見出せずにいます。

そして、もしもゲームや漫画が、「性暴力を常態化させ促進」させているのが事実であれば、もちろん規制すべきです。
「気持ち悪いから」「不快だから」「諸外国に対して恥ずかしいから」ではなく、家庭や学校や職場、あらゆる場所で起きている性暴力を防ぐ効果が、確実にのぞめるのなら。


私の住む三鷹市で、駅伝大会が開かれます。不思議なことに、男女混成チームは「一般男子の部」に入れられてしまいます。女子のみのチームは「一般女子の部」。なぜか、男子と一緒に走る女子は、「一般男子の部」に、吸収されてしまうのです。
些細なことのようですが、女性が男性の添え物あつかいされる日常的習慣こそが、性暴力の根底にある気がしてなりません。漫画やゲームや、アキバ文化のように、派手で分かりやすいところに、本当に原因が転がっているのでしょうか?

池谷孝司さんの『スクールセクハラ なぜ教師のわいせつ犯罪は繰り返されるのか』を読んでみてください。性暴力は、なんでもないように見える日常や社会構造の中に、当たり前のように織り込まれてしまっているんですよ。
国連の審査があるなら、日本ならではの因習や閉鎖性を、よく知っていただきたいと思います。

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2015年8月27日 (木)

■0827■

遠くから静観するつもりだった、三重県志摩市の公認萌えキャラ、「碧志摩メグ」問題。

市公認の萌えキャラに志摩の海女軍団が怒りの抗議!「女性の性的な部分を強調したとしか…児童ポルノ法にも抵触しかねない」?

株式会社集英社が運営する週刊誌『週刊プレイボーイ』の公式ニュースサイト「週プレNEWS」より。「男性の好奇心を刺激する幅広いジャンルの記事を毎日配信」ですからね。
AV女優がどうした、という記事もあるし、水着グラビアのギャラリーもあります。それを気にする、気にしないは、人によりけりだろうけど、僕は野次馬目線の面白がりの記事だと思いました。

ただ、シャレにならない部分があって、ひとつは、地元で署名を集めた志摩市在住の主婦、宇坪伊佐子さんの「児童ポルノ法にも抵触しかねず」という一言。
あいかわらず、汚いもの、見苦しいものを「児童ポルノ」という便利な言葉に詰め込んで、フタをした気になっている。「児童ポルノ」という言葉を、お手軽な俗語として使う人たちは法文なんて調べないし、定義なんて考えない。自分の気がすむってだけで、児童の権利擁護など、いささかも顧みない。つまり、社会性が低いんです。

ただ、批判された側の株式会社マウスビーチの浜口喜博さんの一言にも、心底がっかりした。「秋葉原に行けば、もっと過激な萌えキャラがいっぱいあるでしょ?」
「児童ポルノ」と同じく、「秋葉原」もまた、汚らわしいもの、見たくないものの最終処分場として、安易に使われるようになってしまった。秋葉原って、どこの店の何を指しているんでしょうか。何であれ、「もっと酷いものが別の場所にあるはずだから、俺には手加減しろ」という幼稚な理屈で、無関係な秋葉原に泥を塗ったことには、変わりがない。最低最悪の言い訳だと思います。

単なる意地の張り合いで、「ここは妥協するから、ここは何とか通してくれ」という対話が、どうして成り立たないのか、本当にため息が出るんですが……。


まず、株式会社マウスビーチのキャラクター開発部門(Maribon事業部)には、「批判を受けているリアル等身のキャラではなく、二頭身のキャラをメインに使っては?」と提案したのですが、たぶん無視されてますね。

マウスビーチの浜口喜博さんは、美少女キャラを使った「痛バイク」乗りとしても、知られているようです()。志摩市の町中とレース場は違うので、そのぶん、気を使ってほしかったんですけどね……。
話を聞いてもらえそうもないので、今度は志摩市の観光戦略室に、「秋葉原をダシに使って正当化しようとしても、敵が増えるだけですよ」という意味のメールを送りました。

僕は、恋愛シミュレーションゲームに救われた身(“体育の時間と『トゥルーラブストーリー2』”)だし、だけど、それを女性から「キモい」と目の前で言われたこともあったし、萌えキャラの取り扱いの難しさは、身に染みて分かってるつもりです。
僕を救ってくれたキャラクター文化を根絶やしにされたくないから、『コップのカドでグリ美ちゃん』のときは、販売場所への配慮をお願いしたのです(さもなくば、ガシャポン・フィギュアの過剰規制につながりかねないと危惧しました)。
今回も同じで、オタクの嗜好や文脈を一般人に押しつけるのではなく、批判を受け入れつつ交わすぐらいのことはしましょう、対話をオープンにして、落としどころを見つけましょう……ってだけの話なんですよ。


そういう点からいうと、今回は、どの当事者にも肩入れしづらいです。
例えば、名前も身分も明かさない人たちが、どうやってリスクを背負い、どうやって責任をとれますか?
皆さん、自分のモノサシを疑わなすぎ。

ただ、当事者たちが無責任に放言しているがゆえに、今回の騒ぎには、さまざまなフックが付きました。たとえば、児童ポルノ規制法への無知・無理解があります。秋葉原への先入観と偏見があります。
これは、対話のチャンスかも知れない……とも思うのです。試されている気がします。

岡野玲子さんの漫画『陰陽師』から、好きなセリフを引用します。
「悪鬼悪霊鬼神に向かう時には 敵であっても味方であってもいかんのだ」「神も含め 悪鬼悪霊に対する時 この身は常にニュートラルにしておかねばならん」「可でもなく不可でもなければ たとえ周囲でどのような事象が起ころうとも 我が身は風のように自由でいられる」

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2015年8月26日 (水)

■0826■

先週、オンナ目線のニュースサイト「ウートピ」さん()の取材を受けました。
内容は性犯罪、性表現に関することで、来月中には、何らかの形で記事になると思います。僕は、こうやって「さあ、廣田さん、どうぞ! 存分に話してください!」と、お膳立てされると、いくらでも人前で喋れるのです。

ふだんの仕事は「取材される」のではなく、「取材する」側ですが、必ず出版社から依頼があったり、自分の興味から人と会うので、ほぼ普通に会話できます。
しかし、僕は23歳のとき「対人恐怖症」と診断され、いまでも毎月、精神安定剤を処方されています。

具体的な症状としては、床屋や服屋、マッサージ屋などで、滝のような汗が出てきます。
精神安定剤を服用してから出かけるのですが、だいたい半分ぐらいの確率で、汗まみれになってしまい、お店の人に不審がられます。
(念のため言っておくと、ハゲでも床屋に行きますよ。)


高校二年のとき、隣の席の女子に「教科書忘れちゃったから、一緒に見てもいい?」と机をくっつけられて緊張してしまい、それ以来、電車の中で女性が隣に座ると、もう地獄です。たまらずに席を立って、最寄り駅のホームで、滂沱たる汗が止まるまで待ちます。

そのことを医者に話すと、「隣に、同世代の男性が座っても、汗が出るでしょう?」と言い当てられました。ようするに、男性としてのコンプレクスが根源にあるらしいのです。
「25歳~30歳になると、適度にあきらめがつき、症状が落ち着いてくる」と言われますが、僕はいまだにダメです。

変な話ですが、20代のころは、よく恋愛していて、相手の女性と性行為をして数日間は、症状が治まるのです。たぶん、セックスすることで「男としてのコンプレックス」が、一時的に解消されるんでしょうね……漫画家のつげ義春さんも、童貞を失った直後、対人恐怖から解放された気がして、うれし泣きしながら、河原を自転車で走り回ったといいます。

(いまは「男としての自信」はどうでもよく、「人間としての自信」のほうが大事だと思っていますが……。)


結婚した相手は、「生活費の無駄をはぶく」点では非常に優秀でしたが、僕の症状を理解せず、「薬代(月に3,000円ほど)がもったいないので、我慢するように」と言われ、今度は家庭の中で、精神安定剤を飲むハメになりました。
いちばん苦しいことを「我慢しろ」と強いてくる人と、一緒に暮らせるわけがありません。

離婚して10年、ずっと独身で生きてきて、ときたま、対人恐怖に苦しめられてます。
服を買うのは好きなのですが、店員さんのほうがオシャレなので、話しているうちにコンプレックスが生じてしまう。ようするに、醜形恐怖症なんだと思います。

50年も生きてきたので、いまさら顔の美醜は、どうにもなりません。あきらめがついているから、トークショーとか生放送が平気になったはずなのに、なぜいまだに苦しいのか……。
たぶん、僕の人生は、なにか大きなピースが欠けたままなのでしょう。
「苦労した人間は、その分、いいシワが顔に刻まれる」そうです。その言葉だけを信じて、生きています。

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2015年8月24日 (月)

■0824■

モデルグラフィックス 10月号 明日発売
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●組まず語り症候群 第34夜
今回は、ペガサスホビー『ターミネーター2』の1/32エンドスケルトンについて、語っています。

キットのイマイチな点をあげながら、「でも、そこが愛らしいよね」と言い換えるのは、毎度のことながら、至難の技。
最近は、いちど原稿を書いてから、「やっぱりナシで!」と、自主的に書き直してばかりです。


「不快感覚える」海女萌えキャラ、反対署名提出
“海女をモチーフにした三重県志摩市公認の萌もえキャラ「碧志摩メグ」を巡り、「女性を蔑視するデザインだ」として、市の公認撤回などを求める署名活動を展開していた市民らが13日、309人分の署名を大口秀和市長と井上裕允市議会議長宛てに提出した。”

このキャラクターを開発した株式会社マウスビーチさんに、キャラクター文化の末端にいる者として、ささやかな意見を、メールにて提案させていただきました。
あまりにささやかなので、特に返信はないと思います。

『コップのカドでグリ美ちゃん』のときもそうでしたが、ネットというかツイッターでは「全否定」か「全肯定」の過激な意見が多めなので、「可でもなければ不可でもない」中庸な立場も必要と思いました。
「ここに関しては妥協するので、代わりに、ここは少し按排してくれ」という折衷案が、ツイッターでは出づらい。毎回毎回、相手の人格無視の、不毛な叩きあいに終わってしまう。

相手を罵るような、嘲るようなオタクの人の露悪的な言葉づかいは、単に味方を減らすだけだから、本当に注意したほうが良いと思います。「今のところは、黙っておこう」という選択肢だって、あるはずです。
そのオタクの人たちを、あっさり「ブタ」などと呼んでしまう一般人も、怖ろしいですけどね……「クズ」だの「クソ」だの平然と口になさるし、「オタクは、こういう絵を見て(性的に)興奮してんだろ?」という煽りは、立派なセクハラではないかと思います。


レンタルで、『ダラス・バイヤーズクラブ』。まさかの実話。
Dbc_02422_largeHIVに感染し、余命30日と告げられた男が、認可のおりていない薬を大量に輸入し、結果として治療薬を独占する大手製薬会社へ立ち向かっていく。
ドラッグとアルコール、ギャンブルと女に溺れながらも、HIV感染者のために世界中を飛び回る、やぶれかぶれな主人公の生き方に胸が熱くなる。
「死なないでいるのに精一杯で、生きている心地がしない」――よほどの体験をしなければ、こんなセリフは出てこない。
ザックリと荒々しいカットワーク、テキサスの乾ききった風景も、素晴らしい。

(C)2013 Dallas Buyers Club, LLC. All Right

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2015年8月20日 (木)

■0820■

ホビー業界インサイド第2回:個人作品からプラモデルへ~メカトロウィーゴの起こした小さな奇跡 プロモデラー、小林和史インタビュー
T640_685147アキバ総研さんの連載、第2回となります。
1/35プラキットとして人気を得た「メカトロウィーゴ」を、その発祥までさかのぼる形で、原作者である小林和史さんに、取材させていただきました。

おそらく、小林さんが「儲ける」目的ではなく、「ウィーゴは俺のもの」と主張するでもなく、「みんなでシェアする」スタンスに立ちつづけていることが、ウィーゴの受け入れられた理由ではないかと思います。
また、僕は「1/35のプラキット」という部分に注目して手にとったわけですが、まったく別のチャンネルから「ウィーゴ」に触れた方、たとえばドール趣味の女性がいらっしゃる。そのユルさにも、学ぶべきところがあると思います。

たとえば、初音ミクの公式プロフィールって、みんな知らないと思うんです。それでも「ミクをモチーフにしたフィギュアで、自分の好みの物なら、お金を出してもいい」とは思えるわけです。ダンボーとかくまモンとか、ミッキーマウスですら、「詳しく知らないけど、かわいい」という、ユルユルな消費のされた方をしていると思います。

だから今回、ウィーゴが小林さんの手を離れすぎないうちに、インタビューしておきたかったのです。


さて、問題の記事について。
「日本のメイドカフェ、実態は単なる買春産業。女子児童が強姦されても警察は捜査しない」・・・エミー賞受賞の米国記者や英デイリーメールなど、26の海外メディアが日本を集中砲火
かなりバイアスのかかった、意地悪な記事だとは思います。海外の報道に関しても、仁藤夢乃さんの話したことが、誇張・曲解された部分もあるようです。

まず私は、地元の見解をうかがいたいと思い、秋葉原地域の魅力向上と問題解決のための組織・秋葉原タウンマネジメント株式会社さんに、上の記事をどう思うか、メールと電話でうかがいました。
許可を得られましたので、メールの一部を転載させていただきます。

「秋葉原駅周辺地区では、商店街、町会、区役所、警察等が連携して安全安心のまちづくりを進めています。
当社としては、ご指摘の仁藤 氏なる方を存じ上げませんし、仁藤 氏が述べている法に抵触するような事実は確認しておりません。
そのような事実があれば、警察等においてしかるべき対応がなされるものと考えております。」

電話で補足していただいたのですが、行政機関や各商店会の協力する「秋葉原協定」()なる自主ルールが地元にあり、防犯パトロールも行なっています。
まずは、このような地域の取り組みを無視して、牽強付会に話を進めてはいけないと思います。


秋葉原タウンマネジメントの担当者は、ややご年配で、温厚な方でした。
「廣田さんは、秋葉原にお住まいなのですか?」と聞かれたので、アニメやフィギュアの記事を書いているので、秋葉原文化とは無縁ではないことを、ご説明しました。

正直、私自身は、取材でもないかぎり、秋葉原へ行くことはありません。
しかし、秋葉原が、まるでゴミ箱のように「汚いものはぜんぶアキバにある」ように蔑まれるのは、たいへん不愉快です。コンビニのエロ雑誌も、自分の不快な表現も、十把一絡げに「児童ポルノ」と呼ばれるように、自分からは決して調べようとしない、単に自分の快・不快にしか興味のない怠惰な人たちのタンツボにされるのは、倫理的に我慢ならない、ということです。


しかし、仁藤さんを批判するときに、あまりに下品な言葉づかいをする人たちも、いい加減にモラルを身につけてほしい、とも思うのです。仁藤さんの著書を読めば、彼女の行動理念や怒りの理由も、よく分かるはずです。学ぶべきところが、大いにあります。
(相手が気に入らないからといって、ルックスや出自にまで主観でケチをつけるのは、「秋葉原は児童買春の街」とレッテルを貼る行為と、何ら変わりません。)

動物的に発言するまえに、落ち着いて調べる、聞いてみるべきだと思うのですよ。
もし仮に、秋葉原で児童が違法な労働につかされているなら、警察に連絡すべきです。それぐらいなら、僕らにも出来るはずです。

思い込みではなく、「事実」に注視して、行動しましょう。

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2015年8月16日 (日)

■0816■

終戦の日、レンタルで『原爆の子』。TSUTAYAでは、オッサン向けの「時代劇」コーナーの片隅、「戦争映画」コーナーにひっそりと置かれていた。
Mv23310l1952年、終戦から7年後の作品。やけにおとなしい、怒りも悲しみも淡白におさえた作品だな……と思ったのだが、当時は、初めて原爆被害をストレートに扱った作品として、日本政府はナーバスになっていたという。連合国による占領の終わった年に公開された映画なので、それもやむを得なかったのかも知れない。

だが二年後、第五福竜丸の被爆により、国民の怒りがピークに達したとき、当時の日本映画業界は総力を結集して、憤激の超大作『ゴジラ』を公開する。
黒澤明が、予算をガンガンにオーバーしながら娯楽作品を連発、ヨーロッパからアメリカ、ソビエト連邦で賞をとりまくっていたのも、この時期。そのバイタリティには、いまだに震えるような感服と誇りをおぼえる。

「私たちは、怒っているぞ」「あんな目にあっても、元気に生きているぞ」と、言葉にする前に、スパン!と映画にしてしまう。エンタメにして、ビジネスにしてしまう。「どうだ、俺らの作品は面白いだろ、文句あっか?」という勢いで、潔い。建設的だと思う。

『原爆の子』のラストは、平和な未来を感じさせる温厚なものだが、その静かなムードの中、ふいに上空で、飛行機のエンジン音が聞こえる。大人たちはハッとして、不安げに頭上を凝視する。このシーンの緊張感は、すごかった。
あのリアクションこそ、空襲を生きのびた人たちの実感なのだろう。


終戦記念日、総理大臣の談話が発表されたけど、僕は「意外と、いいじゃん」と感心した。
だけど、ネットの人々はギラギラと、「どうせサヨクどもは、粗探しするんだろ?」と、はじめからケンカ腰。わざわざ検索してまで、「敵」をつくりたがるのは、どういう感情なんだろうな……と、ため息が出る。

インターネットってのが、そもそも、現実に為すことの「代わり」になりがちなんだよね。
mixiで、擬似的なハーレムをつくるのも、ニコ生で顔出しするのも、すべて何かの「代わり」なんだろう。彼らは、実生活では解決できない、満たされない何かを抱えている……誰もが苦しいのだから、それを責めはしない。

代替品を使ってでも気休めしないと、精神的に壊れてしまう局面が、人生にはある。
だが、ネットで社会を変えることはできない(Twitterに「政府の対応をのぞみます」と書いたところで、誰が読むんだよ)。
また、人と会って話すことだけは、何にも代替できない。「他人」。他人とのレアな関係だけが、僕らの心のあり方を、決定づける。


依存の対象になるのは、アルコールやスマホだけとは限らない。
他人との関係が、依存先となる場合もある。恋愛はもちろん、強すぎる友情も。あるいは、他人の役に立つかに見える社会活動さえも。

「日本のメイドカフェ、実態は単なる買春産業。女子児童が強姦されても警察は捜査しない」・・・エミー賞受賞の米国記者や英デイリーメールなど、26の海外メディアが日本を集中砲火

僕は、秋葉原という街には思い入れが乏しいのだが、記事によると、「秋葉原のJKビジネスやメイドカフェは児童買春の隠れ蓑」……もし事実としたら、警察や地元商店会が黙っていないはずでしょう。
よって、千代田区にあるタウンマネジメント会社に、見解を問い合わせ中です。

(C)近代映画協会

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2015年8月13日 (木)

■0813■

吉祥寺プラザで、友だちと『ジュラシック・ワールド』。
Jw_photo9_large1993年、『ジュラシック・パーク』を試写会で見た友人が、「骨と筋肉の動きが連動している。あれは、ストップ・モーションには無理だ」と、呆然とした口調でつぶやいていた。その彼も、22年後、CGによる生物表現が陳腐化するとは、まさか予想していなかっただろう。
この夏は、なにしろ『マッドマックス』の試写から始まったので、CGの役割について考えさせられる。

『ジュラシック・ワールド』には奇妙なシーンがあって、大規模化したパーク内に、恐竜のホログラフ(青色の立体映像)が設置されている。これは、劇中でも「コンピュータ・グラフィックス」のはず。しかも、「パーク内で飼育している恐竜を撮影した立体映像」という設定ではないだろうか? さもなくば、パークのスタッフがモデリングした「映画の中のCG」なのだろう。
ともかく、ホログラフの恐竜は、「ウソの恐竜」「そこにはいない恐竜」なわけだ。そこへ「本物の恐竜」が乗り込んできて、ホログラフの恐竜を、本物と勘違いする。
だけど、僕ら映画を見ている観客からすれば、どちらもCGなわけです。バレてるわけです。「なるほど、恐竜は野生生物だから、精巧なホログラフにだまされたのか!」と、納得はできない。どっちもCGやんけ、と白けてしまう。

恐竜のように、「過去には存在したが、今は滅びてしまった生き物」を「本当にいる」と認識しつづけることは、とても困難。唯一、数匹のラプターが夜のジャングルを疾走するシーンがあり、そこには「どうせCGだろ」という白けた気持ちを打ち消すほどの、爽快感があった。
「どうせCGだろ」と分かっている恐竜を、生身の俳優たちが恐れている、その関係性にリアリティがない。恐竜単体なら、CGだろうが実物大モデルだろうが、表現としての映像に注視できるわけです。


『ジュラシック・パーク』のころから思っていたことだけど、「映画というエンタメ」の中に、「テーマパークというエンタメ」が含まれている入れ子構造が、「恐竜の実在感」を削いでいると思う。パーク内の「見世物」としての恐竜、「人に見せるための恐竜」という設定が、虚無感を加速するのです。たまたま、その場に居合わせたという「目撃感」がない。

『トロール・ハンター』という、擬似ドキュメンタリー形式のB級ホラー映画があって。
トロールって、北欧の妖精でしょ。「さすがに、トロールは実在しないだろ」って笑いながら見ていると、何十メートルもある毛むくじゃらの巨人が、平原にポツンと立ってるの。演出もへったくれも、いきなり立っている。それを手持ちカメラで撮っている。その朴訥さが怖くて。
ちょっと常識がゆらぐ、いい素材だなーと思って。トロールって。CG丸出しなんだけど、僕らと地続きの世界、なんでもない森の奥に、絵本やゲームに出てくる妖精が実在した……って言われたら、「とりあえず、見てやろう」「つくり物だとしたら、どれだけチャチか確かめてやろう」という意欲は、起きるわけです。

「恐竜を見せるテーマパーク」だったら、「本物の恐竜がいて当たり前」でしょう。観客の「この恐竜を、本物だと信じたい」という意欲が薄れて、受身になってしまう。
だけど、僕の隣に座っていた小学生は、「おおー」と声を出して驚いていたので、それでいいんだ。「映画を見てビックリしたい」積極性は、小学生のほうが圧倒的に強い。


前回、恋愛とは「この人の役に立ちたい」感情だと書いた。
『風の谷のナウシカ』で、クシャナにスパイであることを見破られたクロトワが、「ひとつ、俺を使ってみませんか?」と、自分を売り込む。ちょっと、恋愛に近いと思った。
互いの活路を見出す、協力して人生を豊かにしあうのが、きっと恋愛の効能なんだろう。

「私は、あなたの役に立つと思うよ」と胸をはれるまでに、それなりのコストを払う覚悟はあるのか、ビタ一文つかいたくないのか。そこで、人間性が分かれる。
十代後半、「相手から頼られるまでに、一年待つ」なんてことが出来たのは、体力があったからだろうな。いまは努力しないと、どんどん体力が落ちていくお年頃だから。

(C)Universal Pictures and Amblin Entertainment

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2015年8月11日 (火)

■0811■

大河原邦男Walker 明日発売
News_12_01s大河原邦男×石田賢司 対談
勇者シリーズに影響を受け、変形ロボット実現のため「Project J-deite」を起こした石田賢司さんと、大河原邦男さんの対談を取材しました。

ロボットを含むキャラクター文化は、社会に居場所をつくろうと、いまだにもがいているように見えます。
大河原邦男展が、もし1980年代に開催されていたら、保守的な大人たちから批判されたと思うんです。1981年の「アサヒグラフ」誌で、はじめて、大学生ぐらいのコアな『ガンダム』ファンたちが、社会の目に触れました。あの「アサヒグラフ」は、アニメの地位を過小評価している社会へのカウンターだったと思います。煮えたぎるようなルサンチマンが、奥底にあったんですね。

昨夜、ガンダム・バーというところへ案内されたんですけど、「こんな場所ができて、いい時代になったなあ」とは、申し訳ないけれど、思えなかったです。「ゾーニングされただけであって、浸透しているわけではない」からです。
僕にはあと一回、一般向け雑誌で大河原展に触れるチャンスがあります。アニメを見ない層に、どうやって届かせようか、考えているところです。

同じ上野の森美術館で、「蒼樹うめ展」が開催されるんですよね()。これ、痛快ですね。


『魔法少女まどか☆マギカ』を、ふだんアニメを見ない人たちまで見ていた(ライトユーザーを獲得した)ことを考えると、蒼樹うめさんの絵は、むしろフックとして機能してるんだと思う。「これ、萌えアニメでしょ。僕は、こういうのは見ないです」と、最初に抵抗感があるぐらいが、ちょうどいい。

『ガッチャマン クラウズ インサイト』は、いまの社会を生きている人なら、誰でもピンとくる(ゾッとさせられる)作品だと思う。
ゲルサドラは独裁者になってしまったけど、それらは「みんな」が「空気」に流された結果であって、「怖ろしいことになった」という演出は、一切なされていない。これは、日本のあちこちで、すでに起きていることだから。社会の流れの断面として、はじめとか累がいるだけであって、やはり大衆、群集が主人公なのだ。

「みんなの心をひとつに」という空虚なスローガンは、カッツェの前作でのセリフ「お前ら人間が持っている醜い心」と密接に繋がっているし、累の言っていた「本来人間が持つ内発的な喜び」とは、対をなすように思える。
――こういう批評性の高い作品には、ライトユーザーって存在し得ないのかな。『ガッチャマン』というタイトルを聞いて、Uターンしてしまう人がいるのかも知れない。


最近、ネットで「なぜ日本が戦争が起こしたのか、基礎知識を総まとめ」みたいな記事があって、日米開戦へいたる経緯って、僕が結婚した過程に似ているわ。
退路を断ち切られて、「結婚、やむなし」って感じで結婚したから。だから、あとは苦しいばかりで、早期に終わらせるしかなかった。

「この人の役に立ちたい」って気持ちが、恋愛なのかも知れない。「相手の役に立つためなら、かなり損してもいい」「ヘタすると、自分の命さえ重要ではない」と思えたら、それが愛情なんだろう。離婚して10年たった今、そう思える。
「この人を独占したい」ってだけなら、恋愛のツメの垢にも満たない。そういう動物的な欲望は、あっさりヘシ折れる。独占欲をヘシ折られて、相手を逆恨みするようだから、成長しない。そういう幼稚なフィールドで、40年間もすごしてしまった。
残酷なようだけど、ずっと後になってから、「愛してもらえてたんだな」って実感させられる。勉強させられるんだよね。

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2015年8月 9日 (日)

■0809■

大河原邦男展 図録
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各人コメントのうち、富野由悠季さん、安彦良和さん、天野喜孝さんの取材と執筆、小田雅弘さんの執筆を担当しました。
富野さんのコメントには、『Gのレコンギスタ』のメカニック演出の話、この展覧会に対するサブテーマが含まれています。自分たちの世代だけが共有している同質性に甘えていては、明日は見えてこない、と読むことができます。
では、どうすれば明日が見えるのか……それは、各々が、自分の現場で具体的に考えていくしかないんです。


先週後半は、連日取材がつづき、最終日は静岡県まで足をのばした。
8月6日広島原爆の日、たまたま原爆の出てくるアニメ映画の取材に行って、スタジオ近くの杉並区役所に寄ってみたら、原爆の絵を何点か展示していた。絵を見ていると、ひとりのお年寄りが「どうぞ」とチラシを手渡してくださった。そこには、原爆に関する基礎的なデータが書かれており、恥ずかしながら、東京にも何人かの被爆者の方が暮らしているのだと、初めて知った。あと、原爆を伝える会なども、東京にある。

帰宅してから、NHKスペシャル『きのこ雲の下で 何が起きていたのか』を見た。
Thum_01 爆心地から2キロ離れた橋で、爆発から間もない時間に、二枚の写真が撮られた。その現場にいた人たちの証言をもとに、写真を立体的に解析し、CGで動画にしている。皮の剥がれた火傷の跡も専門家が分析し、色をつけている。
それらの動画に、かすかなうめき声や風の音なども混ぜて、まるで目の前で起きているかのような、むごたらしい映像ができあがった。悪趣味なようだけど、絵では伝わらない凄惨さが、まざまざと感じられる。世界中の人々に見てほしい映像(特に、アメリカの人たち)。


僕は、二度旅行したクロアチアを人に説明するとき、「戦後20年しかたっていない国」という言葉を使う。
かくいう自分も、終戦から22年後に生まれた。当時は、経済成長がつづいており、家に『鉄腕アトム』の絵のついた子ども用のタンスがあったのを、よく覚えている。
吉祥寺のオモチャ屋で、バルタン星人のソフトビニール人形を買ってもらったのは、4歳のころ。身のまわりには、娯楽があふれていた。

だけど、それから40年以上、たったんだよね。戦後70年のうち、50年は僕も知っているはずで。だけど、「戦後70年」を、つい自分の生きてきた時間と切り離して考えてしまう。
豊かであることは、ぜんぜん悪いことではないです。中学の社会科の教師に、「君たちの家の食卓には、山海の珍味が並び……」と、不自由のない生活に反省をうながすようなことを言われたけど、豊かでも貧しくても、人の心は堕落するだろう。「豊かさは敵ではない、味方だ」と、今ならはっきり反論できる。

ただ、心が堕落しないために、過去に起きたことを知っておく必要があるんじゃない?
酸いも甘いも噛みわけないと、幸せって分からないんだよ。ひとりでも幸せを感じられるけど、ひとりだけ幸せでもしょうがないなって分かってくる。その根底には、「豊かな時代に生まれた」、物質的に恵まれた幼少期があるんだ。

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2015年8月 6日 (木)

■0806■

Febri Vol.30 10日発売
61xcbtczell_sx349_bo1204203200_●Febri Art Style
『ガッチャマン クラウズ インサイト』の美術監督、倉橋隆さんへのミニ・インタビューと、美術ボードで構成しました。作品の中身については、別のインタビューが掲載されるようです。

●渋キャラオヤジ列伝 第十二回
ときどき、思い出したように掲載されるオッサン・キャラを通じて語る、人生エッセイ。今回は『Gのレコンギスタ』より、ドニエル・トス艦長です。
『Gのレコンギスタ キャラクターデザインワークス』も評判いいし、「コラボしましょう」と編集部に提案し、告知コーナーもつくりました。もちろん、『Gレコ』の熱をさましたくないから、やるんです。


昨夜、日付が変わった時間、被爆者にインタビューして、それをラジオ番組にしている広島の高校生たちのドキュメンタリーが放送された。放送部に入ると、必ず被爆者にインタビューすることになる。
高校生のひとりは、取材をするうち、自分と同い年の子たちが、原爆で惨い死に方をしたことを知った。だけど、「私の17年間の人生経験で、“語りついでくれ”なんて言われても、どうすればいいのか分からない」と落ち込んでしまう。……それが17歳の、素直なリアクションだと思う。

その番組では、同じ高校の生徒の「原爆なんて、グロい写真見せられるし、見たくない聞きたくない」「もう知ってるから、これ以上は知る必要はない」など本音の声も、紹介していた。それも偽りのない意見だと思うし、大部分の日本人も、同じように思っているだろう。
(僕自身、小学校のころに『八月がくるたびに』を読んで、そこから知識も何も深まっていない。)


で、この高校生たちは広島に住んでいて、放送部の「義務」「決まり」「慣習」として原爆の話を集めているので、誰からも責められないだろう。
先日、東京で高校生たち主催の団体が、安保法案に反対するデモを行なった。ネットでの反応を見ると、「大人に騙されている」「野党に利用されている」から、「こいつら日本人じゃない」「金もらってやってる」「勉強しろ」「部活でもやってろ」……ぜんぶ、いい歳こいた大人が、顔も名前も立場も隠し、キーボード打ってるだけ。

僕だって、学生デモの妙なブランド志向を嫌悪するし、彼らは調べたり交渉したりする前に、叫んでしまっているな……と、批判的な気持ちのほうが強い。デモって、叫ぶだけで、何か為した気になっちゃうんだよね。叫ぶことが目的になってしまう。
だけど、若かろうが年寄りだろうが、自分の肉体を使って訴えることは、とりあえず肯定する。部屋に隠れて、キーボード打ってるよりは、顔を出して、声を出すほうが説得力があります。たとえ反韓デモであっても、参加している彼らは責められるリスクをしょっているわけで。


日本人の建前の奥には「自ら主張するな」「不満をいうな」「我慢しろ」という、主体性放棄の奴隷根性が横たわっているんだと思う。
痴漢被害に対する、「痴漢そのものより免罪のほうが深刻」論も、「痴漢ぐらい我慢しろ」「不満を口にするな」など、他人に忍耐を強いる、歪んだ連帯意識から発しているんだろう。性犯罪にあった人が「私さえ黙っていれば……」と泣き寝入りしてしまうのも、同根じゃないだろうか。

だから、世の中の風通しをよくするために、肉声でばんばん言えるようにすべきです。
僕は、今後もいろんな立場の人たちと対話していきたいので、僕と主張の異なる人にも、肉声で訴える権利を持っていてほしい。
安易に、法規制すべきではないと思います。

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2015年8月 3日 (月)

■0803■

アニメ業界ウォッチング第12回:「萌え」「美少女」……海外から見た日本アニメ文化の醍醐味と“ヤバさ”とは? 日本アニメ研究家、レナト・リベラ・ルスカ、インタビュー
T640_683820日本アニメが大好きで、そのために日本語を勉強して、日本に住んでいる明治大学のレナト講師に登場してもらいました。

後半の「ロリコン」文化のくだりは、意見が分かれると思います。
誰が敵とか味方とか、簡単に分けられる問題ではないでしょう。頭だけで考えて持論を強化しても、対立しか生まれないだろうし……。


『切られた猥褻 映倫カット史』を読むと、終戦直後、「布団に枕がふたつ並んでいる」シーン(人間は映っていない)ですら、「性行為を連想させる」と、禁止されていた時代があったことが分かります(その規制をかいくぐったのが、溝口健二の『雨月物語』でした)。
むしろ、設立されたばかりの映画倫理委員会を悩ませたのは、乳房も性器もあらわに映った欧米の映画だったのです。その一方、国内ではストリップ劇場が全盛でした。

例えば、そういう時代だけを切りとってみても、「欧米の映画が過激すぎるんだ」「いや、生身の女性の裸を見せる日本が遅れているんだ」とか、二項対立では評価できないと思います(そもそも、ストリップの発祥地はフランスやアメリカです)。

いかなる物事も複雑なのに、ネットという便利なツールで、少しでも意見の違う人たちを「信者」「アンチ」「ネトウヨ」「ブサヨ」「賛成派」「反対派」と真っ二つに分け、お互いに「洗脳されている」「騙されている」と罵りあっている……。


『ガッチャマン クラウズ インサイト』第5話。まだ、第5話なんだ。ずーっと続けてほしいぐらい、実社会とリンクしている。
カッツェの「コイツは攻撃してもいいヤツだってサインを見つけると、みんなしてボコにしたがる」「“お前ら、全力で行くど”って、部屋の中でキーボード叩いてるだけ」という指摘は、今更ながらに痛烈。
そして僕は、つばさというキャラクターに近い考えで行動してきたので、いろいろと考えさせられる。

つばさは天真爛漫な十代だから……いや、十代だからこそ、失望したときの痛手は大きい。
というか、アラフィフでも、期待が裏切られたらヘコむよ。だから、保育器のような絶対安全圏に逃げこんで、好き嫌いだけを口にして、無条件に満たされていたい……という甘ったれた気持ちは、分からなくもない。
ただ、悲しいかな、裏切られるリスクを負わねば、人生の歓喜に触れることはできないのですよ。

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2015年8月 1日 (土)

■0801■

【懐かしアニメ回顧録第9回】30年前の“いちばんいい時代”を描いた「メガゾーン23」は、単なる懐古趣味とは言い切れない!?
30周年の今年、ようやくブルーレイ発売とのことで、ちょこっと書いてみました。石黒昇監督との数年間の思い出を語るには、ちょっとスペースが足りなかったですね……。

30年前の僕といえば、予備校に通いながら、模型会社のウェーブさんの仕事を手伝っていました。ウェーブさんは『メガゾーン』のガレージキットを発売していたので、ビデオも保有していて、「僕にも貸してください」と借りてきたのが、初見です(アートミックも近所だった)。
ただ、コラムにも書いたように、あの祭のような日々から十年以上たった30歳すぎの方が、あの“泥だらけの朝”を肌で感じられたのです。

1985年に、バブルという言葉は「あったはず」と指摘されていますが、バブル景気の発端は1985年のプラザ合意とされています。Wikipediaによると、「バブル景気」という言葉は1987年に生まれ、1990年の流行語大賞に選ばれています()。
そもそも、バブル景気は「1986~1991年」を指すそうです。だけど、「バブル景気に浮かれていた」と書いたほうが、劇中のイメージにマッチしますよね。


今日は映画の日なので、『ターミネーター:新起動/ジェニシス』に行ってきました。地元映画館が大好きなので、吉祥寺オデヲンで。
350949_002「最新のセンスで、あの名作を再構築する」リブートでもなければ、続編でもない、不思議な立ち位置の映画。T-800型ターミネーターに狙われるサラ・コナーを守るため、彼女の息子ジョンが、カイル・リースを過去に送るまでは第一作と同じ。
ところが、予告編であきらかにされている通り、1984年には年老いたT-800がすでにタイムトリップしてきており、さらにT-1000までもが送り込まれてきている。では、『ターミネーター2』と同じ時間軸なのかというと、ジョン・コナーは、まだ生まれていない。
サラ・コナーは最初に送られてきたT-800に鍛えられ、護身術を身につけているので、カイル・リースの来た意味がなくなっている。つまり、最初の二作のプロットを、あえて「失敗」させながら、新しい葛藤を生じさせていく。その過程は先読みが不可能で、なかなかエキサイティングだ。リブートとか続編とかいうより、二次創作に近いのかも。


後半は「スカイネットを破壊して、世界崩壊を回避する」おなじみのプロットに戻ってしまうのだけど、「新三部作だ」「やっぱりテレビ・シリーズだ」と迷走しつづけた『ターミネーター』シリーズの落としどころとしては、いい線いってると思う。
他のキャストを一新しつつ、68歳になったシュワルツェネッガーだけを続投させるファン・サービスにも、ぎりぎり納得できる設定がついていたし……。

老いたシュワルツェネッガーが、「お前は、この自由に流れる時間軸から取り残された、残骸にすぎない」と言われるシーンがあるんだけど、このセリフは痛烈だった。
僕らのオタク心だけが、30年間、歳をとらずに温存されていることをズバリと言い当てられたような気分。


帰りに駅ビルをうろついていたら、棚から小さなチラシが自然に落下して、あたりにバラまかれてしまった。離れたところにいた若い女の人が駆け寄って、チラシを集めはじめた。
すぐ近くで若い男がスマホをやっていたのだけど、手を貸さない。最近、こういう場面によく出会う。小学生が電車内に棄てたゴミを、オジサンが拾っていったこともあった。

自分の出したものでなくとも、すすんでゴミを回収できる癖はつけておきたい。子どもたちは、そういう大人を見て育つわけだから。

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