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吉祥寺プラザで、友だちと『ジュラシック・ワールド』。1993年、『ジュラシック・パーク』を試写会で見た友人が、「骨と筋肉の動きが連動している。あれは、ストップ・モーションには無理だ」と、呆然とした口調でつぶやいていた。その彼も、22年後、CGによる生物表現が陳腐化するとは、まさか予想していなかっただろう。
この夏は、なにしろ『マッドマックス』の試写から始まったので、CGの役割について考えさせられる。
『ジュラシック・ワールド』には奇妙なシーンがあって、大規模化したパーク内に、恐竜のホログラフ(青色の立体映像)が設置されている。これは、劇中でも「コンピュータ・グラフィックス」のはず。しかも、「パーク内で飼育している恐竜を撮影した立体映像」という設定ではないだろうか? さもなくば、パークのスタッフがモデリングした「映画の中のCG」なのだろう。
ともかく、ホログラフの恐竜は、「ウソの恐竜」「そこにはいない恐竜」なわけだ。そこへ「本物の恐竜」が乗り込んできて、ホログラフの恐竜を、本物と勘違いする。
だけど、僕ら映画を見ている観客からすれば、どちらもCGなわけです。バレてるわけです。「なるほど、恐竜は野生生物だから、精巧なホログラフにだまされたのか!」と、納得はできない。どっちもCGやんけ、と白けてしまう。
恐竜のように、「過去には存在したが、今は滅びてしまった生き物」を「本当にいる」と認識しつづけることは、とても困難。唯一、数匹のラプターが夜のジャングルを疾走するシーンがあり、そこには「どうせCGだろ」という白けた気持ちを打ち消すほどの、爽快感があった。
「どうせCGだろ」と分かっている恐竜を、生身の俳優たちが恐れている、その関係性にリアリティがない。恐竜単体なら、CGだろうが実物大モデルだろうが、表現としての映像に注視できるわけです。
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『ジュラシック・パーク』のころから思っていたことだけど、「映画というエンタメ」の中に、「テーマパークというエンタメ」が含まれている入れ子構造が、「恐竜の実在感」を削いでいると思う。パーク内の「見世物」としての恐竜、「人に見せるための恐竜」という設定が、虚無感を加速するのです。たまたま、その場に居合わせたという「目撃感」がない。
『トロール・ハンター』という、擬似ドキュメンタリー形式のB級ホラー映画があって。
トロールって、北欧の妖精でしょ。「さすがに、トロールは実在しないだろ」って笑いながら見ていると、何十メートルもある毛むくじゃらの巨人が、平原にポツンと立ってるの。演出もへったくれも、いきなり立っている。それを手持ちカメラで撮っている。その朴訥さが怖くて。
ちょっと常識がゆらぐ、いい素材だなーと思って。トロールって。CG丸出しなんだけど、僕らと地続きの世界、なんでもない森の奥に、絵本やゲームに出てくる妖精が実在した……って言われたら、「とりあえず、見てやろう」「つくり物だとしたら、どれだけチャチか確かめてやろう」という意欲は、起きるわけです。
「恐竜を見せるテーマパーク」だったら、「本物の恐竜がいて当たり前」でしょう。観客の「この恐竜を、本物だと信じたい」という意欲が薄れて、受身になってしまう。
だけど、僕の隣に座っていた小学生は、「おおー」と声を出して驚いていたので、それでいいんだ。「映画を見てビックリしたい」積極性は、小学生のほうが圧倒的に強い。
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前回、恋愛とは「この人の役に立ちたい」感情だと書いた。
『風の谷のナウシカ』で、クシャナにスパイであることを見破られたクロトワが、「ひとつ、俺を使ってみませんか?」と、自分を売り込む。ちょっと、恋愛に近いと思った。
互いの活路を見出す、協力して人生を豊かにしあうのが、きっと恋愛の効能なんだろう。
「私は、あなたの役に立つと思うよ」と胸をはれるまでに、それなりのコストを払う覚悟はあるのか、ビタ一文つかいたくないのか。そこで、人間性が分かれる。
十代後半、「相手から頼られるまでに、一年待つ」なんてことが出来たのは、体力があったからだろうな。いまは努力しないと、どんどん体力が落ちていくお年頃だから。
(C)Universal Pictures and Amblin Entertainment
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