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2015年5月31日 (日)

■0531■

ウォルト・ディズニー・スタジオ、ピクサー、ドリームワークスなどで働くアニメーターたちによる短編アニメ『Adam and Dog』()。2013年に、アカデミー短編アニメーション部門にノミネートされた作品。知らなかった。
Imagenadamanddog15分間、くいいるように見てしまった。背景を大きく見せて、豆粒のように小さな犬の動きを、チャームポイントにしている。表情が必要なところのみ、アップにしている。
このアニメには、アニメのシズル感というか、アニメならではのしたたるような欲望を感じる。白い紙やモニターに線や色を足していくわけだから、絵という表現は、根本的に貪欲なんだと思う。文学は枯れた表現が出来るけど、絵は、ひたすらに足していく。

文章は意図がなくても描けるけど、絵には意欲が必要。
(僕が絵をあきらめたのは、予備校の生徒たちが「はやく描きた~い!」と、イライラしている様子を見たから。僕には、そんな強い欲望がないと気づいて、絵の道具をすべて捨ててしまった。才能ではなく、意欲が足りなかったのだ。)

話がそれたけど、『百日紅』には、「どうしてもこれを描きたい、見せたい」欲望が希薄だと思った。「このキャラを気に入ってほしい」「映画をヒットさせたい」も欲望だと思うんだけど、それも薄い。
深夜の萌えアニメでもキッズ向けアニメでも、「このキャラで売りたい」欲望が弱いと、単なる手を抜いた絵になってしまう。CGと手描きがゴチャ混ぜでも、「売りたい」欲が濃密だと、むしろ効果的な絵になる。欲望が足りないと、「制作の段取り」だけが画面に取り残される。
何の思い入れもない、CGで作った噴水のエフェクトとか、日常系アニメでたまに見かけるでしょ。『百日紅』は、さすがにそこまで酷くはない。ただ、(監督ではなく)制作がケアすべきカットは多々あったと思う。あるいは、ケアした結果、ああなったのかも知れない。


『おおかみこどもの雨と雪』が地上波で放映されたとき、「やっぱりジブリはいいなあ~」という声がTwitterに溢れ、多くのアニメファンが「ジブリじゃありませんよ」と指摘していた。
だけど、「宮崎駿の後釜」だとか、「ジブリアニメの後継」というのは、そういう大衆の声によって出来ていくんだと思う。鈴木敏夫プロデューサーには、決められないんだよ。
作品の価値が民間に定着していくとき、制作スタジオを間違える程度の誤解には、寛容になるべき。そうでないと、「ジブリじゃないなら見ない」と、マイナスのレッテルで判断する人ばかりになって、価値が発見されなくなる。

ちょっとした言い間違いを「デマ」と糾弾するネット社会は、本当に怖い。


近所を歩いていたら、小学校時代の同級生の女子に会った(女子と言っても、僕と同い年だけど)。小学生の子どもを、プールに連れていくのだという。親子とも、元気そうだった。この歳で結婚していないこと、子どもがいないことは、ひそかなコンプレックスだ。
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5月は密度のある、いい取材に恵まれた。すべてのインタビューを原稿にまとめてしまったので、丸一日、暇になった。ひとりの係累もいない48歳が暇になると、家で安酒を飲むか、DVDを借りてくるか、プラモデルを作るぐらいしか選択肢がない。これは本当のこと。

バンダイの1/48スノースピーダーを素組みしてみたが、MPCの旧キットでは自由に開閉できた4枚のエアブレーキが、すべて固定となっている。開く場合には、開いた状態のパーツに差し替えないといけない。
その他、キャノピーを開閉させたければ、総クリア成型のパーツに細いシールを貼るか、塗装するしかない。ガンプラは意地でも可動させるバンダイが、『スター・ウォーズ』シリーズでは、可動を恐れすぎている。
「そんなの、改造すれば?」という自己責任論から、プラモデルも解放されないといけない。「なぜ、メーカーはそう判断したのだろう?」を考えたほうが、絶対に面白い。

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2015年5月30日 (土)

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取材→インタビュー起こしのスパイラルが一段落したので、この隙に『百日紅 Miss HOKUSAI』を見にいく。
321949_615主役のお栄を演じた杏って、初めて聞く女優だけれど、とてもいい声をしている。杏の声が、映画の意志、向かう方向を決めている。
で、女装子というか女装した男娼が出てきて、お栄と寝ようとするんだけど、「男優なのに、なんて淫らに、しかも艶っぽく演じるんだろう!」と感激していたら、なんと入野自由でした。
いわゆる、オネエ喋りではない。そういう、テレビアニメの記号的な話し方は、いっさい耳に入ってこない。俳優特有の、不慣れなズレた芝居でもない。お栄の母親役も「芸達者な女優さんだな」と聞きほれていたら、なんと美保純だったりする。

麻生久美子の花魁は出てくるし、すっかり大人向けのアニメになってしまった。前作の『はじまりのみち』の方が、むしろ子どもに分かるんじゃないかな。


作画陣には、そうそうたる顔ぶれが並んでいるけど、それだけで豪華な“作画アニメ”になるかと言ったら、それは違う。失礼だけど「あまりお金のかかってないアニメだな」と思っていたら、「90分」という縛りがあったそうで()、制作的には苦しかっただろうと思う。乱暴に言うと、テレビアニメ3話分の予算ということだから。

たとえば、お栄の走るシーンを背景動画で描いた、その演出意図は、画面からもしっかり伝わってくる。でもね、普通に歩きながら話している絵をFollowしているカットで、背景は3Dで動いているんです。残酷なもので、手間のかかった背景動画より、ちょっとした3Dのほうが贅沢に見えてしまう。最初のほうに出てくる3D背動が、肝心なシーンの演出意図をそいでしまっている。

「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」が、あるシーンのラストカットに止め絵で出てくるんだけど、そのシーンの冒頭では、水はデジタル処理で描かれている。美術で描いたものを撮影で動かしたのか、とにかく「今風」な質感なわけです。橋も3Dで作成されていた。
だから、セル画が浮世絵に転じたとき、シーンとしての一貫性、驚きが弱い。それは現場の混乱じゃないかって気がするし、僕らの目が3Dに敏感になりすぎているのかも知れない。


そもそも、アニメはセル画を「本物」だと思い込む、そういう契約によって成立している表現。だけど、『百日紅』の中には、筆で描いた絵がいっぱい出てくる。ある人物の似顔絵を筆で描くと、それはセル画の人物、「キャラ設定の似顔絵」なわけです。
つまり、葛飾北斎が、「2015年のアニメ絵」を描いていることになってしまう。ほかに、美人画も出てきて、面長で目と口の細い、誰でも見覚えのある浮世絵です。だけど、美人画のモデルになった花魁の顔は、板津匡覧さんのデザインしたアニメ絵なの。二種類の「人物の絵」が混在している。僕は、それをストレスに感じた。

だから、3D背景もそうだし、筆絵のタッチになる一部のシーンもそうだし、この作品が(実写でなく)セルアニメであることの意味を考えさせられた。フェティッシュな萌えアニメは、セル画でなければ成立しない。作品の志向性と表現が一体化しているわけです。むしろ、『百日紅』のような大人に向けた、いわば文学に近いような作品を「あえて」セル画で表現する必然性、訴求効果ってどのぐらいあるんだろう?
『カラフル』は、アニメ化される10年前に中原俊監督が、実写にしている。アニメ化の企画は、実写映画より前に始まっているんです。それでも、実写よりアニメのほうが、小中学生に訴求できたと思う。アニメにした意味はあったと思う。

押井守監督は『イノセンス』のあと、「アニメにはラムだとか泉野明だとか、女神のようなキャラクターが必要」と反省していたけど(女神とは言ってなかったかも知れないけど)、セルアニメという表現は、思春期とか第二次性徴期ぐらいの少女をポッと入れてやると、神が宿る。ジブリを見れば、よく分かる。大人を描くのには適していない。


もうひとつ。推測にすぎないが、一度は実写 (『はじまりのみち』)を撮り、アニメの現場から離れていた原恵一監督は、複雑多様化したアニメの現場に、やや振り回れさてしまったんじゃないかな……(まして、Production I.Gで撮るのは初めてでしょう?)。
「動画をセルに転写して色塗って、背景と一緒に撮影すればアニメじゃん」という世界ではなくなってしまったから。その現場の事情が伝わっていないから、例えば、「動画マンの給料が安いなら、ぜんぶCGキャラにしたら?」といった意見が出てくる(のコメント欄)。
鉛筆を使う人とマウスを使う人が、「同じ絵」を描いている状況は、やはりコントロールしづらいと思う。

僕はたぶん、アニメ作品そのものより、現場で作っている人たちが、どんな苦労と工夫をしたかを面白がっている。だけど、そういう感傷めいた趣味には発展性がない。評論するだけの知力はないけど、なんとか応援できないかとは思っている。

(C)2014-2015杉浦日向子・MS.HS/「百日紅」製作委員会

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2015年5月27日 (水)

■0527■

pixiv Febri 発売中
Photo
●Febri Art Style
本誌からのスピンオフ企画として、背景画で人気のK,Kanehiraさんにインタビュー、誌面構成しました。その代わり、Febri次号のArt Styleは別のライターさんが担当。
この仕事も、ギリシャ旅行直前にやった(一度は断ったはず)と思うんだけど……もう記憶してない。内容は、カッチリまとまっている。

仕事は、予想できないタイミングで入ってくる。本当は、昼過ぎからのインタビューを終えて、帰宅後に別のインタビュー起こしをしたかったんだけど、急な原稿の直しが二本も入ったので、書き直したり書き足したりで、疲れてしまった。
(ただ、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の記事のリードに「ヒャッハー!」と書いたら、編集者が本文にも「ヒャッハー!」と書き足してくれて、それは嬉しかった。もちろん、直しはナシ。大満足。)

目がさめてからの二時間は、インタビュー起こしに使いたいから、ブログは夜中に書く。
まず寝る時間を勘案しないと、絶対にスケジュールは組めない。「寝ないでやれば、いつか出来るだろう」という考えの人は、他人の時間を使い潰すことを何とも思ってない場合が多い。(そういう人とは、そっと距離を置く。)


僕の基準は、「レンタルで映画を見る余裕がなくなったら、仕事のペースが乱れてきている」。いつだって何かしら借りてきてあって、眠くなる前に見終えるぐらいでないと、十分に仕事の時間が確保されているとはいいがたい。ただ、三時間前後の映画を借りるときには、計画性が必要だけど。

Twitterで「客観的な裏づけのない自己解釈だけの情報を、あっさり信じてしまう」タイプの人が、ブログを書いているという。何を書いてるんだろう?と、見にいってみた。そこには、ベスト映画とワースト映画の順位が書いてあった。どれも、興行収入ベスト10に入った話題作ばかり。「なるほどな」と思った。
「こんな無名の映画、誰が見るの?」という作品は、目に入らない。情報の入り口が、狭いんですよ。マニアックな映画を狙って見ろ、と言っているんじゃない。「いい加減に見ろ」ってことなんです。「たまには、騙されてやるか」という余裕のない人は、かえって騙されやすい。「私は決して騙されない」と、タカをくくっているから。

マニアックなデータ整理は、黙っていても、年寄りたちがやるんですよ。
ただ、自分の血を新しくするには、自分の欠点を織り込んで、意志をもって習慣化するしかない。背筋を伸ばそうと意識しなければ、僕は猫背になってしまう人間なので。


だから、おそろしいですよ。「興収ベスト10の中からしか、見た映画のタイトルが出てこない」としたら、その人間の情報の集め方がバレてしまうでしょ。そんな程度の集め方しかしてないから、せっかく見た映画をベストとワーストに分けてしまえる。雑な見方してるなあ……と思ってしまう。

すべて、関係性なんですよ。付き合っている人間を見れば、その人の仕事観や人生観も分かるでしょ。ダメな人は、ダメな人同士でつるむ。向上心がないから。
「俺はダメではないんだけど、心が広いから、ダメなヤツとも付き合ってやってる」という人は、時間を無駄に使っている。憐れみで人と付き合う、なんてのは、割と酷いことなんです。お互いのためにならない。綺麗じゃないですね。

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2015年5月24日 (日)

■0524■

月刊モデルグラフィックス 7月号 25日発売予定
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●組まず語り症候群第31夜
今回のサブタイトルは、『椎名林檎のリンゴはリンゴ・スターのリンゴなんだってさ』で、椎名林檎のプラモデルを二種類、取り上げています。

僕らの知っている「完全再現」「精密スケールモデル」とは別の位相に属する、「プラモデルの体裁をとったグッズ」です。なので、そのアウェイな戸惑いを、読者と共有したいと思いました。

こういう「プラモデルという商品形態」ならではの面白さは、まだまだ味わいつくされていないと思うので、今後も、どんどん誌面でトライしていきますよ!


いま、児童ポルノ規制法に関する請願書を書いていて、それを公表したら、Twitterはお休みしようかと思っている。もう署名を集める予定もないし、あの場では計画性のあるアイデアは生まれない……と痛感したので。
みんな、誰かのツイートを引用するばかりで、独力で調べようとしないのよ。ぼんやりとした気分を記したり、うっぷん晴らしするには、ちょうどいい場所だと思うんだけど。

ニューヨーク在住の映画プロデューサーの方が、カンヌ国際映画祭でのジャパン・パビリオン()がひどい、というツイートをしていて。くまモンとかコップのフチ子とか、あとA-Labという会社の開発したアンドロイドのアスナか。まあ、確かに映画製作とは無関係だし、センスのないラインナップと思いますよ。
だけど、カンヌには多数の日本映画が出品されてるし、俳優たちもいっぱい行っているから、美少女アンドロイドだけではないわけですよ。ちょっと調べれば、分かること。

だけど、そのプロデューサーさんのツイートだけ見て、「くやしい!」「チクショウ!」と怒っている人がいるわけ。いやだから、コップのフチ子だけじゃないから、Twitterを離れて、ニュースを検索しろよと。何のためのインターネットだよ。
で、そういう人は「欧米で、先進国で、白人の国で恥をかかされた」ことのみに、過剰反応してるんじゃないの?と勘ぐってしまう。いやいや、溝口健二の作品もデジタル修正されて上映されたよ? それは誇りに思わないの? というか、溝口が海外でどれだけ賞とったか、知ってます?


『オール・ユー・ニード・イズ・キル』や『カイト/KITE』は、別に売り込んだわけでもないのに、ハリウッドの方から、積極的に映画化権を取得したでしょ。それだけ認められているのに、ラノベや18禁アニメなんて恥だって思ってない? 自分から調べようとしない、曖昧な気分の中でボンヤリと生きている人たちは。「18禁アニメ原作なんて、日本の恥だ!」って影響力のある誰かがツイートしたら、自分もそんな気持ちになっちゃうんじゃないの?
それが怖いのよ。日本流の虐殺は、ネットによる匿名の集団リンチだと僕は思っているから。

みんな、自分の目を信じてないんだよ。孤立するのが怖いから。愛してやれよ。あなたの出会った作品を。数字で採点するんじゃなくて、血の通った関係を結びなさいよ。「もっと強くなれ」と言いたい。愛するためには、タフでなければいけないから。
やっぱり、ネガティブな言説は、地獄への一本道だな。内容がどうであれ、無知と憎悪と怖れだけが蓄積されていく。

中国や韓国をおとしめなくても、日本文化には優れた部分がいっぱいあるよ。
みんなで知恵を出しあって、もっともっと豊かな文化にしていこうよ。


付け足しのようですが、アキバ総研の連載、『テクノポリス21C』について書きました()。

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2015年5月21日 (木)

■0521■

今日は、富野由悠季さんへのインタビューでした。媒体や何かは明らかにしないので、これぐらいは書いてもいいと思う。
で、富野さんが語られたテーマ、僕が若い編集者に相談されたテーマ、すべてがピタッと噛み合ってくる。それは、僕が勝手に「もはや年寄りの入り口に立ってしまっている」と卑屈になっていたからであって、同じ話を別の人が聞いたら、こうまで見晴らしよく、「すべてが同じ方向を向いてきたな」とは思えなかっただろう。


先週試写で見た、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』も、僕の持っているパズルのピースのひとつであって。点数なんかで評価するわけにはいかないんです。この歳で、この気分で見たことが、何より大事なので。

コンセプトは、ひとつしかない。あるいは、コンセプトが、そのままストーリーになっている。映画におけるストーリーの正体は、カットの断片なわけです。カットの断片を頭の中で再構築したとき、「ああ、コイツが、アイツに復讐する話なんだな」と、僕らは認識できる。映画の外部に確固たる「ストーリー」が存在しているのではなく、見終わったあとに「こういうストーリーだったはず」と、それぞれの脳が再統合しているに過ぎない。

「原作と違う」「過去シリーズと違う」という怒り方をする人は、まずそれが分かっていない。
法律の条文じゃないんだから、「セリフが同じでも違うストーリー」って、あり得るんですよ。「原作とは似ても似てつかない絵が続くんだけど、なぜか原作の読後感に似ている」、これもあり得る。それは「映像」「絵」から、ストーリーを抽象する(経験されたものの中のある特性に注目してこれを取り出し、ほかを捨てる)プロトコルが確立できているから。

自分の脳が映像を取捨選択していることに気づいてない人ほど、「ストーリーの結末」を気にする。「ネタバレ」「ネタバレ」と騒ぐ人は、自分の脳が映像を再構成していくエキサイティングな過程(それこそが、映画の醍醐味だろう!)を軽視している。


で、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』です。テーマパークの体感映像のような映画で、1430300431307cached 「悪い連中から逃げる」「逃げたけどどうにもならないから、反撃に転じる」、それだけです。立ち止まって話しているようなシーンは、トータルで15分ぐらい。あとは、何かしら戦っている。
旧作には道路があったけど、今回はありません。地面があれば、車は走れるので。だけど、あれだけメチャクチャな改造をした車を何十台も走らせるのは、大変だと思う。だったら、車を走らせることに金をかけようよ、という映画。そういうプロジェクト。
走っているだけではアレだから、敵味方の区別ぐらいはつけよう。あとはズーッと走ろう。とにかく戦おう。そういう映画。

これは、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』も同じだと思うんだけど、「どうせCGだろ?」と白けられるのがシャクなのか、車でも何でも、なるべく作ってます。物理的に撮れないものだけ、CGを使っている。十数年つづいたCG万能時代の終わりを告げる一本。
もうひとつ、ヒロインが主役。というより、強い女性を助けて、彼女を引き立てる男のほうがカッコいい。だけど、カーアクションのあとには美女軍団が出てくるので、お色気はちゃんとあるわけですよ。『フォースの覚醒』も、デイジー・リドリーが主役っぽいでしょ。女性を主役にしつつ、映画自体は荒々しいアクション満載。これが、ひとつの流れになると思う。

なのに、「女が主役で男が食われてる」といじけている人たちは、さっき言った、自分の脳が映像から「ストーリー」を再構築していることに気づいてない典型的な人たちです。


そして、「とにかくカーアクション」「とにかく走りつづける」「それ以外のことは、なるべくやらない」明快なコンセプト。70歳のジョージ・ミラーが、こんな元気な映画を撮った。ノスタルジアではなく、過去を断ち切るようなコンセプトで。
主役が男であれ女であれ、お爺さんといってもいい高齢の男がここまでやったんだから、文句を言いなさんなって話だ。

(C)2015 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED

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2015年5月18日 (月)

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今月は大御所にばかりインタビューしているので、気がやすまらない。映画を見る余裕もない。
若くても、スケールの大きな人は他者への寛容さ、許容力をもっている。不利な立場におかれたときの状況分析も、非常に的確で、自分の欠点を知っている(認めている)。

ただ、そういう人は業界にばかりいるとは限らない。スーパーですれ違っただけのお婆ちゃんが、とても優雅なお礼の仕方を知っていたりして、驚かされることがある。


仕事の合間合間にTwitterをのぞいているが、「ここでそんなに猛り狂うなら、そのエネルギーを現実社会で燃焼してくれないか?」と思わずにいられない。ネットに書くことで不満を解消していると、実社会に届く前に、怒りが減衰してしまう。結果、ストレスだらけの社会が温存される。

あと、必要以上に怒っている人は、自分からデータを集めようとしないね。どこかの誰かの断片的なツイートと、あとは自分の経験しか参照しない。あるいは、似たような価値観の人と狭いルールを決めて、お互いに「ひどいよね?」「ねー」とうなずき合っているだけ。それでは、閉塞するでしょう。ちっぽけなボヤき・嘆き・陰口であっても、人格の一断面なので、そこだけが膨れ上がるのが、僕は怖い。
だから、自分の足で物理的に歩き、電車で移動し、肉声で人とやりとりせざるを得ない機会をつくりだす。面倒だけれど、面倒に見合った価値があるかどうか、推し量ることが出来る。
この一年間、児童ポルノ規制法を中心にいろいろ動いて、ほぼすべてが徒労に終わっている。それでも、動いてみなければ、何がどう間違っているかさえ、つかめなかったと思う。
(図書館にしか置いてないような専門資料も必要になってくる。ネットの中の情報だけでは、まるで不十分だと痛感させられる。)

……にしても、Twitterでは実行動が、ことに軽視される。昨年、インタビューされたときに「行動しない人にとって、行動しましたアピールは、自分への攻撃と認識される」と聞いて、ショックを受けたものだけど。行動して社会に1ミリでも関与しないと、欲求不満になりそうだけどな。


『マッドマックス』新作に、「男性の権利擁護活動家」の怒りもマックス(
Des1070_jpeg_4k_pubv011078586x246おそらく、仕事の中で書ける機会はないと思うんだけど、年末の『スター・ウォーズ』も、プレスリリースでは、ヒロインのデイジー・リドリーが最も上にクレジットされている。これは、アクション映画の新しい潮流になりそうな気がしている。
……やっぱり、あまり詳しくは書けないけど、アクション映画でヒロインがどれだけ活躍しようと、僕はまったく腹が立たない。

『ファントム・メナス』は、共和国黄金期の、芳醇な文化の香りが匂うところは、とても良かった。過酷な砂漠や雪原ではなく、水と緑に恵まれた静かな宮殿、という光景が『スター・ウォーズ』の世界観を拡充してくれた。ナブーの宇宙船も優雅でクラシカルで、方向性は間違っていなかったと思う。
だけど、観客が求めていたのは、お金がなくてトラブル続出だった頃の『スター・ウォーズ』のワイルドさだったんだよね。舞台裏を知れば知るほど、エキサイティングだし、貧乏で退廃的。旧三部作は。ただ、潤沢な資金と人材に恵まれ、傲慢ですらある新三部作を、なぜか憎む気にはなれない。きっと、社会から隔絶されたスカイウォーカーランチで、引きこもりのような環境でつくっているのが、うらやましいんだろう。それなら、もっと大人っぽい、渋いシリーズにしてほしかったけどね。

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2015年5月15日 (金)

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「試写会があったこと、タイトルやレビューはネットに書かないこと」と誓約書をかわしたので、抽象的なことしか書けないけど……。

細かいこと考えずに、やりたいことだけを堂々と最後までやり通せばいいんだぞと、大きな腕で背中を押された気分。もうひとつ、歳とったからと言って、誰にも遠慮する必要なんかない。いいものが出来れば、年齢は関係ない。僕は40半ばで、もう隠居したような気分だった。
ここ何年も、後ろ向きな、絶対に怪我をしないような企画ばかり出してきた。しかし、以前やったことをトレースしても、かつかつ生活費が稼げる程度。気持ちが新しくならない。
そして、何かやるからには、シンプルなものがいい。シンプルでなければ、人に伝わらない。

で、その映画を見た直後、いつもメールをくれる知り合いが「どんな映画だったの?」と聞くので、「すごい映画だったよ。ところで、デートしよう」と誘ってみた。フラれたらフラれたで、死ぬわけではないので、やりたいことやってみよう! まあ、それぐらいの元気は出る映画。
――デートに誘う価値のある人間だと、僕は彼女を認められた。なぜ、今日までそのことに気がつかなかったんだろう? 閉塞してたんだ、心が。

緑のまぶしい5月。
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『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』に登場した初期型ガンタンクのプラモを組み立てたら、けっこう面白い商品だったんだけど……ガンプラの新企画は、「MSD」()だそうで。
なぜ、大河原邦男さんのオリジナル画稿を立体で再現とか、根源的トライを避けて、「ガンプラに都合よくデザインされたガンプラ」ばかり作りたがるんだろう?

こういうこと言うと、「てめえ、文句あるなら模型誌にMSDのこと書くなよ」レベルの、幼稚な村八分が待ってるんです。自分の身のまわり数人とか、数社とか、サークル内が気持ちよく回ってくれれば、外の世界で何万人が餓死しようと構わないって発想なんですよ。
そのみみっちい人間観が、あなた方を、そのくだらない場所に係留しつづけているわけだけど。その場にしがみつきつづけるために、「男に生まれたこと」「日本人に生まれたこと」なんかを、他者を犠牲にしてまで力づくで肯定し、ますます水を濁らせていく。汚水を好む人間は、目が死んでいる。めったに笑わない。口を開けば、そいつのくだらなさが分かってしまう。

そこそこ歳とって、うまい酒もまずい酒も飲んで、数少ない国を回ってみて良かったのは、人間のくだらなさを見分けられるようになったことです。
美しいのは、他人のことを思いやれる人。「身内さえよければいい」って人間は、話す内容も話し方も、綺麗じゃない。すぐ分かる。


最近は天気がいいので、ジブリ美術館へいたる風の散歩道を、よく歩く。
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ふいに、喫茶店の軒先に、こんな花を見つける。まるで、布のような質感。
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ひさびさに山本有三記念館に入ってみたら、花がいっぱい咲いていた。
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花もいいけど、絵の具で塗ったような新緑が、本当にきれい。
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吉祥寺駅ちかくの喫茶店。台風一過の青空だった。

「どうせ、金でももらってるんだろ?」と、物事の薄っぺらさを勘ぐって、あきらめたがる人間が増えた。いい歳をして、「他人への親切」を、媚びへつらったり持ち上げることだと勘違いしていたり。その人の裏側にある、焦りが透けて見えてしまう。
だけど、心から感動した人間の力というのは、はかり知れないものなので。そう気落ちすることもないと思う。

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2015年5月11日 (月)

■0511■

いつも、一緒に映画を見にいく友人から、「『寄生獣』は、それほど悪くないよ」と言われていたので、レンタルしてきた(地上波で放送されたそうだけど……)。
News_header_kiseiju2原作モノ映画を見るとき、人は鑑賞者ではなく、なにか特権を付与された裁定者のように振る舞いがちだ。僕も原作は夢中で読んだクチだけど、映画は原作の重要な要素をコンパクトにまとめ、省略が適切だと思った。特に、最初のほうに出てくる寄生犬は、モチーフのひとつとなった『遊星からの物体X』とカブるので、避けて正解。新一を母子家庭にしたことで、物語の視界がクリアになった。

逆に、原作で気になっていた“余白”を、中華料理屋や夜の市場などの舞台設定で埋めてくれたのも良かった。原作では、町中に誰にも見られない空き地や広場が出てくるのが、どうにも不自然だったので。
引くのも足すのも効率がいい。新一と島田が言い争った直後、ミギーの人差し指が斜め上をピッと指すと、そこに田宮良子が立っているとか、演出も洗練されている。

あと、PG-12指定で、人体損壊描写に容赦をしなかった点。ここで遠慮したら、寄生生物の怖さがまったく出なかっただろう(地上波テレビでは、かなりカットされていたんじゃないかな)。


ただ、新一が母の死とミギーとの同一化を通じて、鉄のようなクールな男に変貌していく様は、まったく伝わってこなかった。せめて、生物的に強くなったことは明確に見せてほしかった。新一は、もっといろいろ辛い目にあって、それで生き物としての強さを獲得したはず。
子犬の死骸は、やはり木の根元に埋めてほしかったとか、いろいろある。だけど、「俺の知ってる原作と違う」と文句を言うのは、「俺はこれ以上、学ぶことをしません」と宣言しちゃってるようなものなので。

橋本愛は出番が少ないのに、「新一の家に行く」といっても不思議ではない距離感を出していて、なかなか良い。
ただ、日テレ=東宝ラインならではのキャスティング、という匂いがしないでもない。「この予算の映画なら、そりゃこういうキャスティングに落ち着くでしょうよ」「この方が、各方面にとって都合がいいんでしょうよ」と、覚めてしまうところはある。


「どのアニメも同じように見える」と書いた直後、『ニンジャスレイヤー フロムアニメイション』を見て、夜中に声を出して笑ってしまった。
News_xlarge_ninja002原作は、たまにTwitterで読んではいたんだけど、あの変な日本語のとおり、予定調和を破壊したアニメになっている。壊した結果、たまたまアニメの形態になったというか、壊れたまま客に出すところが豪胆というか。よく分からない居酒屋に入って、普通のメニューを頼んだつもりが、「これ失敗してない……?」という料理が出てくること、たまにあるでしょ。「ひょっとして、この店では、こういう料理が普通なの?」と聞くに聞けない、あの気まずい感じに近い。


美少女キャラが出てきたら、こぢんまりとまとまらないか?と危惧したんだけど、むしろ「美少女だけ丁寧に描いて、あとは投げっぱなし」の80年代OVAのテイストが加わって、より破壊味が増した。
「いま、変なセリフが聞こえたんだけど、なんかミスしてない?」という、ヒヤヒヤする感じ。だけど、だんだん「ここでカッコよく決めるなよ? ここで決めたら、よくある普通のアニメになってしまうぞ!」と破壊願望がわいてきて、見事に引きの絵でスライドだけで、いちばん外した絵を持ってきてくれる。「決めるなとは言ったが、ここまで外すなよ!」というレベルの。

ようは、「意志の疎通の不自由さ」が世界を広げてくれる。「確実に伝わること」「理解できること」だけが、エンタメではない。「これ、ひょっとしてカッコいいんじゃない? 単に、俺に理解できないだけで……」という焦燥感がないと、向上心も生まれない。語りきれない、語りえないことの値打ちを、『ニンジャスレイヤー』は教えてくれる。

(C)映画「寄生獣」製作委員会
(C)Ninj@ Entertainment/Ninj@ Conspiracy

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2015年5月 9日 (土)

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フランス映画『ずっとあなたを愛してる』。邦題はありふれているが、端倪すべからざるスケール感。
335117view002我が子を手にかけたとして、15年間も刑務所に服役していた女性が、妹の家に住むことになる。妹は、夫とふたりの子どもと暮らしているが、彼女の夫は、殺人歴のある義理の姉を快く思っていない。
だが、子どもたちや一部の大人たちは、聡明で行動的な彼女の一面に魅せられ、惹きつけられていく。

さまざまな人物が、この姉妹の前に現われては消えていく。それぞれ、愚かな人物にいたるまで、ちゃんと血が通っている。欠点はあるけど、生き生きしている。あるいは善良な人間が、ちょっとしたズルさを見せたりする。
そうした観察眼がいきとどいているため、最後に明かされる姉の殺人の真相が、じわりと真実味をおびてくる。


妹は、ちょっとした手がかりから、姉が過去にどんな罪を犯したのか、電話で知る。妹が電話の受話器を耳に押し当てているアップに、彼女の子どもが絵本を読んでいる声が重なる。「この世が闇に覆われると、犬とオオカミの区別さえつかなくなってしまう」――。

ともかくも、主演のクリスティン・スコット・トーマス、妹役のエルザ・ジルベルスタインが、それぞれ年相応の美しさを見せ、劇中でもモテまくるのが気持ちよかった。二人の周囲にいる男たちが、ストレートに「美人だ、しかも理知的だ」と好意を伝えるのも、いっそ潔い。
また、妹の養子たちはベトナム人、友人にアラブ人がいるなど、民族色豊かなのも良かった。どの人物も、忘れがたい魅力を持っている。

周囲の人間たちが、服役していた姉を忘れ去っている中、ボケて入院している母親だけが、ひとめで「私のジュリエット! いつ学校から戻ったの?」と、一瞬だけ我が子のことを思い出すシーンには、ハッとさせられた。


かつて一緒に本をつくっていた編集者から、新しい企画に誘われる。
自ら限界を設定し、自ら閉塞していることに気がつかされた。がんじがらめのルールの中で、「しかたがない」とあきらめすぎていた。

あるいは、自ら「この程度のものなんだ」と、自分の仕事をおとしめ、楽をしすぎている。たいがい、仕事をそつなく上手に、つつがなく回すため、あちこちに防波堤を築いた結果、「眺めがよくない」と不満を言っているだけなのだ。
で、不満を言うほど、世の中の空気は悪くなっていくわけで、それでは仕事を達成した意味がない。どんな仕事も、世の中を豊かに、快適にするためにあるはず。

そして、防波堤を築かずに、眺めのいい場所でのんびりしている人間を見つけては、「あいつはズルをしている」と後ろ指をさす。


誰かのアイデアを聞いたり、作品を見たりしたとき、欠点から先に口をついて出るようでは、かなり深刻だと思う。マイナスから探しはじめる人間の世界は、灰色の雲に覆われている。

アニメを見ていて感じるが、「こういう声で話さなければならない」と声優たちが自らを縛り、結果としてどのアニメも似たように見える。似たような劇に聞こえる。その程度の劇で表現しきれてしまう、「関係者みんなが安心する」脚本なのだろう。
僕らの社会は、「こんなことを言ったら、自分だけ孤立してしまうのではないか」と恐れすぎ、自粛・萎縮という悪癖が、創作の世界にも侵入してきていると感じる。

明日は、母の日。

(C)Thierry Valletoux / UGC

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2015年5月 6日 (水)

■0506■

ルーマニア映画『4ヵ月、3週と2日』。レンタルで。
329520_01_01_02音楽はなく、1987年の共産政権下のルーマニアに暮らす女子大学生の一日を、じっくりと冷徹に撮っていく。ホテルの一室を借り、妊娠してしまったルームメイトを、ひそかに堕胎させようと計画する主人公(チャウシェスク政権下、人工中絶は禁止されていた)。
だが、危険な状態にあるルームメイトをホテルに残したまま、主人公はボーイフレンドの母親の誕生パーティに出かけなくてはならない。もしかしたら、ルームメイトは堕胎がうまく行かずに、深刻な事態に陥っているかも知れない……。
それなのに、パーティの大人たちは彼女に「タバコを吸うな」と説教したり、どうでもいい自慢話をえんえんと続ける。カメラはフィックス(固定)で、途方にくれる主人公の表情を空しく撮りつづける。

そして、ボーイフレンドは無力で無気力で、少しも彼女の役に立ってはくれない。「一緒に暮らそう」など、目の前の現実から遊離したことばかり語っている。主人公のほうが、たった一日で二年も三年も先を行ってしまった。男たちは、歴史の外に置かれている。


日本公開当時は「ヒロイン映画」「女性映画」と宣伝されたが、むしろ男性こそが見るべきだろう。そもそも妊娠させたのは男だろうに、その張本人がまったく画面に現われないのだから。なぜ女たちだけが、こんなにも奔走し、こんなにも助け合わなくてはならないのか。

そして、この映画のつくられた2007年ごろのルーマニアが平和になったのかというと、2012年8月には、日本の女子大生が強姦・殺害されている。
この映画で「堕胎後、胎児は野犬の掘り返すところには埋めるな」というセリフが出てくるが、実際の旅行記を見ても、野犬がいっぱいいるらしい。強盗やスリの体験談も、いくつか見た。「白人の国で、キリスト教圏でそんな凶悪犯罪が起きるはずがない」などという思い込みは、甘ったるく罪深いメルヘンでしかない。

監督のクリスチャン・ムンギウは、実際にチャウシェスク政権下を生きた人物である。日本公開時のインタビュー()を読むと、ちょっと興味深いことを語っている。
「これは上手く説明できませんが、歴史的背景を説明することは、映画としてやるべきことではないのです。」
「映画そのものが人々に熟考させる自由を与えて、特に答えを出すべきものではないのです。」


連休最後の吉祥寺駅前。尻ポケットから財布を出したまま、ぼんやりとスマホ歩きしている男たちがいる。だが、彼らが片っぱしからスリにあっているという話は、聞いたことがない。
これでは、平和ボケても仕方がない。「ベビーカーが邪魔」だとか、「子どもの声がうるさい」といった、みみっちい不寛容も、平和ボケから生じてきたのだろう。治安のよさが、別のスケール、別の次元で抑圧を生んでしまっている。

自国の平和を、過大評価すべきではない。同時に、「欧米は何でも進んでいる」といった粗雑な幻想も捨てるべきだ。やはり、子どもや女性が安心して住める国が、いちばん良いと思った。

(C)Mobra fulms 2007

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2015年5月 5日 (火)

■0505■

アキバ総研:アニメ業界ウォッチング第8回:月収4万円の動画マン生活から、故郷でアニメを教えるまでの波乱の人生! 「うしおととら」にも参加の演出家・吉田大輔インタビュー!
T640_675742吉田さんとは数年前から知り合いでしたが、今回の記事は「ひとりの人間の力で、どこまで出来るか」という文脈になっていると思います。
アニメーターの月収の低さがニュースで伝えられ、「アニメーターは趣味なのだから、働いているとは言えない(社会が救う必要はない)」といった意見まで聞かれます。

一方で、結婚ばかりか家まで建て、子どもを大学に通わせているアニメ業界の人もいます。年収一千万の原画マンもいると聞きます。新入社員でも、ちゃんと暮らしていけるぐらいの額を支払う会社もあります。
ただ、つねに「最も弱い層」にフォーカスをあわせて考えていくべきでしょう。それは「業界の自己責任」ではないと思うのですよ。


昨日5月4日は『スター・ウォーズ』の日なので、NHKで一時間の特番。
その夜、友だちと話したのだけど、『エピソード1/ファントム・メナス』の公開された1999年の熱気を、むしろ懐かしいと感じる。あの興奮は、映画の出来が悪かったからといって曇りのかかるようなものじゃない。CG満載の豪華絢爛なトレーラーを見たときのドキドキ感は、いまでも覚えている。
ナタリー・ポートマンやユアン・マレクガーら、ヨーロッパで頭角をあらわしてきた生きのいい若手俳優らをキャスティングし、「これから」を感じさせてくれた。

五年前に『ジュラシック・パーク』が公開され、僕らの親しんだアナログ特撮の時代は、ひとつの時代を終えようとしていた。同時に『スポーン』を着火点とするオモチャ・ブームが巻き起こり、マーチャン・ダイジングが盛んだった時代でもある。
ジョージ・ルーカスは、「われわれが成功すれば、同業者は、この映画の作り方を踏襲していく」と、業界全体の活性化を視野に入れていた(実際、『エピソード1』の後、あらゆる映画に前日譚がつくられた)。その反面、映画がヒットせず、一本で終わってしまう可能性を、彼は覚悟していた。その「いちかばちか」の緊張感もいい。

だが、話題性は十分すぎるほどだったため、『エピソード2』の公開時にマーチャン・ダイジングの取材をしたら、『エピソード1』の頃は商品点数があまりに多すぎ、少し怖いぐらいだった……という話を聞いた。
そのような過熱気味のキャラクター市場が、「1999年の空気」を印象づけたのは、間違いない。過去のコンテンツを最新技術で蘇らせる流行は、ピークに達していた。


それに対して、J.J.エイブラムスによる今年の新作は、あまりにも旧三部作を意識しすぎている気がする。同窓会のような、オールド・ファンにだけ向けられた保守的な作品になりはしないか……と危惧している。
こと、新たにキャスティングされた若手俳優より、再結集した旧作キャストに注目が集まってしまっているのが気になる。もちろん、「まずは手堅く、コアな旧作ファンをつかんでおこう」という戦略は理解できる。これから夏をへて、少しずつ新世代にアピールしていくのだろう。

僕はそういった、実際に映画が公開されるまでの期待感を高めていくことも、映画の役割、楽しみのひとつだと思っている。映画の出来がどうあれ、「楽しみに待つ」ことの価値が失われるわけではない。

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2015年5月 2日 (土)

■0502■

昨夜は、ニコニコ生放送で「児童買春・児童ポルノ法」への疑問を語らせてもらいました。タイムシフト視聴で、7日まで見られるはずです(
Bandicam_20150502_003528718兵庫県から上京してくださった河野晃弁護士は、配信にそなえて児童ポルノ法について勉強しなおしてくださり、何が問題なのか、かなり分かりやすい内容になったのではないかと思う。

河野弁護士の意見を要約すると、「法の趣旨は立派だが、内容が趣旨にマッチしていない。児童買春や盗撮など、犯罪行為で撮られた写真と過去に合法的に出版されたヌード写真集を、同じ“児童ポルノ”でくくるのは、無理がある。取り締まる警察だって、困るはず」。
つまり、「少女のヌード写真なんてワイセツだから、取り締まってほしい」のであれば、なにか別の法律でやらないと、「児童の権利を擁護する」法の趣旨に合わない。「取り締まってほしい」という人たちは、条文すら、よく読んでなかったりする。この法律では、児童買春禁止の部分を生かし、「性犯罪によって撮られた被害者の写真のみを罰する」ことに徹するべきです。

そうでないと、ヌード写真集を摘発している警察そのものが、一方では女子小学生を脅迫して裸の写真を撮らせ、それなのに【児童ポルノ】に抵触しない、起訴もされない()という理不尽な事態が繰り返されると思います。
番組の後半で訴えたように、「犯罪過程で撮られた写真でも、性的な刺激がなければ罪にとわれない」最悪の結果を招いているのが、児童ポルノ法なのです。


【懐かしアニメ回顧録第5回】映画第1作「うる星やつら オンリー・ユー」!! 思春期にトラウマを残した悪夢の試写イベントとは!?(
ようやく、僕のコラムらしくなってきたような気がします。名作を名作と呼ぶのは他の人にまかせて、僕は「自分の恥」を主軸に、オタク文化を語っていきたいです。

僕の「ダメさ」にマッチし、「ダメさ」を救ってくれたのは、オタク文化、わけてもアニメーションだけだったからです。
このコラムに関連していうと、テレビ版第一話の胸チラ・シーンはとてもエロっぽく感じているけど、やっぱり、自分の部屋でこっそり楽しむべきものだと思う。「恥」が必要なんですよ。アニメを楽しむには。「恥しらず」では、イカンのです。


帰国後、一本目の映画は『あなたになら言える秘密のこと』。スペイン映画。
(機内上映で見たのは『フューリー』『インターステラー』『アナと雪の女王』など、映画館で見たものばかり。)
9746『あなたになら言える秘密のこと』は、ラブストーリーのコーナーにあったけど、そんなに甘い内容ではない。恋愛要素は、語られる「秘密」の重さに吹き飛ぶ。
誰ともまじわらずに淡々と生きてきた工員の女性は、実はクロアチア人で、内戦時にすさまじい体験をしていた。「クロアチア人の女性が冷たいのは、戦争のときに性暴力にあっているから」と、ツアーガイドの方が話していたが、実際そうなのだろう。

この映画がつくられたころ、僕は愛知万博でクロアチアという国の存在を知った。
パビリオンの映像は美しかったが、プレゼントを配っていた女性たちは、けっして笑顔ではなかった。二度旅行しても分からなかったことを、映画に教えられることもある。やはり、たくさんの国の映画を見なくては。

(C)2005 El Deseo y Mediapro. Distribuida en España por Warner Sogefilms. Todos los derechos reservados.

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