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ウォルト・ディズニー・スタジオ、ピクサー、ドリームワークスなどで働くアニメーターたちによる短編アニメ『Adam and Dog』(■)。2013年に、アカデミー短編アニメーション部門にノミネートされた作品。知らなかった。15分間、くいいるように見てしまった。背景を大きく見せて、豆粒のように小さな犬の動きを、チャームポイントにしている。表情が必要なところのみ、アップにしている。
このアニメには、アニメのシズル感というか、アニメならではのしたたるような欲望を感じる。白い紙やモニターに線や色を足していくわけだから、絵という表現は、根本的に貪欲なんだと思う。文学は枯れた表現が出来るけど、絵は、ひたすらに足していく。
文章は意図がなくても描けるけど、絵には意欲が必要。
(僕が絵をあきらめたのは、予備校の生徒たちが「はやく描きた~い!」と、イライラしている様子を見たから。僕には、そんな強い欲望がないと気づいて、絵の道具をすべて捨ててしまった。才能ではなく、意欲が足りなかったのだ。)
話がそれたけど、『百日紅』には、「どうしてもこれを描きたい、見せたい」欲望が希薄だと思った。「このキャラを気に入ってほしい」「映画をヒットさせたい」も欲望だと思うんだけど、それも薄い。
深夜の萌えアニメでもキッズ向けアニメでも、「このキャラで売りたい」欲望が弱いと、単なる手を抜いた絵になってしまう。CGと手描きがゴチャ混ぜでも、「売りたい」欲が濃密だと、むしろ効果的な絵になる。欲望が足りないと、「制作の段取り」だけが画面に取り残される。
何の思い入れもない、CGで作った噴水のエフェクトとか、日常系アニメでたまに見かけるでしょ。『百日紅』は、さすがにそこまで酷くはない。ただ、(監督ではなく)制作がケアすべきカットは多々あったと思う。あるいは、ケアした結果、ああなったのかも知れない。
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『おおかみこどもの雨と雪』が地上波で放映されたとき、「やっぱりジブリはいいなあ~」という声がTwitterに溢れ、多くのアニメファンが「ジブリじゃありませんよ」と指摘していた。
だけど、「宮崎駿の後釜」だとか、「ジブリアニメの後継」というのは、そういう大衆の声によって出来ていくんだと思う。鈴木敏夫プロデューサーには、決められないんだよ。
作品の価値が民間に定着していくとき、制作スタジオを間違える程度の誤解には、寛容になるべき。そうでないと、「ジブリじゃないなら見ない」と、マイナスのレッテルで判断する人ばかりになって、価値が発見されなくなる。
ちょっとした言い間違いを「デマ」と糾弾するネット社会は、本当に怖い。
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近所を歩いていたら、小学校時代の同級生の女子に会った(女子と言っても、僕と同い年だけど)。小学生の子どもを、プールに連れていくのだという。親子とも、元気そうだった。この歳で結婚していないこと、子どもがいないことは、ひそかなコンプレックスだ。
5月は密度のある、いい取材に恵まれた。すべてのインタビューを原稿にまとめてしまったので、丸一日、暇になった。ひとりの係累もいない48歳が暇になると、家で安酒を飲むか、DVDを借りてくるか、プラモデルを作るぐらいしか選択肢がない。これは本当のこと。
バンダイの1/48スノースピーダーを素組みしてみたが、MPCの旧キットでは自由に開閉できた4枚のエアブレーキが、すべて固定となっている。開く場合には、開いた状態のパーツに差し替えないといけない。
その他、キャノピーを開閉させたければ、総クリア成型のパーツに細いシールを貼るか、塗装するしかない。ガンプラは意地でも可動させるバンダイが、『スター・ウォーズ』シリーズでは、可動を恐れすぎている。
「そんなの、改造すれば?」という自己責任論から、プラモデルも解放されないといけない。「なぜ、メーカーはそう判断したのだろう?」を考えたほうが、絶対に面白い。■
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