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今日は、富野由悠季さんへのインタビューでした。媒体や何かは明らかにしないので、これぐらいは書いてもいいと思う。
で、富野さんが語られたテーマ、僕が若い編集者に相談されたテーマ、すべてがピタッと噛み合ってくる。それは、僕が勝手に「もはや年寄りの入り口に立ってしまっている」と卑屈になっていたからであって、同じ話を別の人が聞いたら、こうまで見晴らしよく、「すべてが同じ方向を向いてきたな」とは思えなかっただろう。
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先週試写で見た、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』も、僕の持っているパズルのピースのひとつであって。点数なんかで評価するわけにはいかないんです。この歳で、この気分で見たことが、何より大事なので。
コンセプトは、ひとつしかない。あるいは、コンセプトが、そのままストーリーになっている。映画におけるストーリーの正体は、カットの断片なわけです。カットの断片を頭の中で再構築したとき、「ああ、コイツが、アイツに復讐する話なんだな」と、僕らは認識できる。映画の外部に確固たる「ストーリー」が存在しているのではなく、見終わったあとに「こういうストーリーだったはず」と、それぞれの脳が再統合しているに過ぎない。
「原作と違う」「過去シリーズと違う」という怒り方をする人は、まずそれが分かっていない。
法律の条文じゃないんだから、「セリフが同じでも違うストーリー」って、あり得るんですよ。「原作とは似ても似てつかない絵が続くんだけど、なぜか原作の読後感に似ている」、これもあり得る。それは「映像」「絵」から、ストーリーを抽象する(経験されたものの中のある特性に注目してこれを取り出し、ほかを捨てる)プロトコルが確立できているから。
自分の脳が映像を取捨選択していることに気づいてない人ほど、「ストーリーの結末」を気にする。「ネタバレ」「ネタバレ」と騒ぐ人は、自分の脳が映像を再構成していくエキサイティングな過程(それこそが、映画の醍醐味だろう!)を軽視している。
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で、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』です。テーマパークの体感映像のような映画で、
「悪い連中から逃げる」「逃げたけどどうにもならないから、反撃に転じる」、それだけです。立ち止まって話しているようなシーンは、トータルで15分ぐらい。あとは、何かしら戦っている。
旧作には道路があったけど、今回はありません。地面があれば、車は走れるので。だけど、あれだけメチャクチャな改造をした車を何十台も走らせるのは、大変だと思う。だったら、車を走らせることに金をかけようよ、という映画。そういうプロジェクト。
走っているだけではアレだから、敵味方の区別ぐらいはつけよう。あとはズーッと走ろう。とにかく戦おう。そういう映画。
これは、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』も同じだと思うんだけど、「どうせCGだろ?」と白けられるのがシャクなのか、車でも何でも、なるべく作ってます。物理的に撮れないものだけ、CGを使っている。十数年つづいたCG万能時代の終わりを告げる一本。
もうひとつ、ヒロインが主役。というより、強い女性を助けて、彼女を引き立てる男のほうがカッコいい。だけど、カーアクションのあとには美女軍団が出てくるので、お色気はちゃんとあるわけですよ。『フォースの覚醒』も、デイジー・リドリーが主役っぽいでしょ。女性を主役にしつつ、映画自体は荒々しいアクション満載。これが、ひとつの流れになると思う。
なのに、「女が主役で男が食われてる」といじけている人たちは、さっき言った、自分の脳が映像から「ストーリー」を再構築していることに気づいてない典型的な人たちです。
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そして、「とにかくカーアクション」「とにかく走りつづける」「それ以外のことは、なるべくやらない」明快なコンセプト。70歳のジョージ・ミラーが、こんな元気な映画を撮った。ノスタルジアではなく、過去を断ち切るようなコンセプトで。
主役が男であれ女であれ、お爺さんといってもいい高齢の男がここまでやったんだから、文句を言いなさんなって話だ。
(C)2015 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED
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